ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」22.永遠のヒーロー
『ベース・コントロールよりストームライダーIIへ、周波数一三三・四二で応答せよ』
「了解。ストームライダーIIよりベース・コントロールへ、通信状況は問題なし」
『ストームライダーIより、キャプテン・デイビスへ。貴官の指示を待ちます』
「了解。キャプテン・スコット、ストームライダーIの状況を報告してくれ」
『ストームライダーIより最高指揮官へ、安全点検は最終段階に入っています。十分後に発進可能の状態となる予定です』
「指揮官の合図があるまで、そのまま待機を継続せよ」
『了解、キャプテン・デイビス』
美しい線状のブルーネオンが、観測デッキの薄闇を走り抜ける。深海を思わせるその神秘的な微光とは別の方角から、赤外線がゆっくりとパイロットの顔を縦断し、虹彩による生体照合を完了させる。途端、軽い起動音を響かせて、ストームライダーのコントロール・パネルがディスプレイに映し出された。顔の下から照射されてくるバックライトは、薄暗い中に沈みかけていた瞳を、潤むように光らせる。白いグローブに包まれたパイロットのしなやかな指が、素早くディスプレイをタップし、レーダースクリーンを左上に固定させた。
鯨の腹に飲み込まれたのかと思うほどに深い暗黒の中で、幾つかの紫色の夜光灯、それにパイプの合間を縫って点滅するセーフティライトの他は、すべてがひっそりとした静寂に包まれていた。時々、方向すら分からない遠くの方から、身震いのするような風の慟哭が聞こえてくる。
静かだ。格納庫の外では、猛威を振るう風がすべてを呑み込もうとしているのに、この機内だけは、不気味なほどの沈黙に侵されている。コックピットの計器に塗られた、ラジウム塗料の放つ光を浴びて、デイビスは静かに瞑目した。心は、塵ひとつ立たぬほどに粛然としている。環境制御システムの微かな気圧調整、点滅するライトに合わせた稼働音以外は、何も耳に入らない。
『ストームライダーII。システムチェックを行なってください』
「了解、ベース」
朗々と響き渡る、燻されたように低い声。その声を合図として、ホログラムに映し出されるリストに目を注ぎながら、デイビスはビフォア・スタート・チェックの各項目の確認を進めていった。パイロット・スーツの襟に包まれた喉仏が、張りのある声音に震えてゆく。
「油圧——チェック。観測デッキ用セーフティライト——チェック。それから——」
その時、ふっ、と耳許から笑いが忍ばれた気がして、デイビスは顔をあげた。
「ベース?」
『いえ。あなたがセーフティライトの正式名称を言うのを、初めて聞きましたから』
そういえば俺は、緑のチカチカって呼んでいたっけな。その方が、初めて搭乗するゲストも覚えやすいだろうと思って。不意に呼び起こしたその思い出は、懐かしく胸に迫るかのようで、ふ、とデイビスも薄く微笑んだ。
本来はこの後、プレフライトクルーの口から、ゲストの安全点検と搭乗注意のスピールが挟まれるはずだった。しかし今回、ストームライダーに搭乗するのは一人だけ。幾ら待てども、背面上部に位置する観測デッキへ、クルーが声を響かせる気配はない。
デッキに階段状に整然とセッティングされた、金属製の百を超える椅子。まるで映画館とも称せそうな佇まいだが、雰囲気はそれよりもよほど閑散としていて、腹に染みるような淋しさが漂う。そのすべてのシートベルトは引き出されぬまま、背もたれの裏面にあるシートベルトサインは確認されず、機械的に立ち並んだ警告色が、見る者もなく灯り続けている。
自動扉を閉じる音もなく、地上に残るプレフライトクルーと手を振り合って、フライトに胸をときめかす人々の姿もない。もしも観客がいたならば。この薄闇も、静寂も、緊迫感すらも、異様な一体感へと駆り立てる効果として働いたであろう。しかし同行者がいない今回は、パイロットの孤独を深淵の如く沈めるものにしかなり得ない。
彼の顔に、不安の色はない。しかし、まるで世界中でひとりぼっちになってしまったかのように。薄闇の中、パイロット席に座って精神統一し、ひたすらに発進命令を待つ姿は、悲壮なまでに心細かった。
ここで謝罪するのは、エゴだ。彼をあの座席に座らせたのは、この私だ。
そう感じ、必死に彼への呼びかけを堪えようとするベースに向かって——
「ベース、いいよ。気を張らなくて」
デイビスは、無線の彼方から言うと、微かに高揚した若さを混じらせる声質で、その先を続けた。
「これは俺の選んだ道だ。誰でもなく、俺が選んだ。あんたじゃない、俺が納得して、憧れたんだ。どうしてもストームライダー乗りになりたかった。これが、求めていた道なんだ。
誰でも、戦わなきゃいけない時がきて、その結果を受け入れなければならない時がやってくる。俺には、今なんだよ。他の時期では、購えない。俺が空へ飛び立ちたいのは、今なんだ」
闇の中に蕭然と音を放つ、電子音。
深い青のライトに頬を撫でられながら、音吐朗々、と言うべきか、張りを帯びて言葉は発せられる。
「今まで、あんたに色々反抗して、悪かった。
それから——
もう、そんな風に背負わなくて良い。俺は、自分のやりたいことをやるだけだ」
言いながら、ぼんやりと——自分の胸元に輝く、鷹のピン・ブローチを見つめる。フローティングシティの夕暮れで、彼女に向かって、夢を語った。あれから色々な場所をめぐって、色々な人たちに出会って——ようやく、あの時口にした夢に、辿り着くことができた。
「……ありがとな。みんな」
そう呟くのが、精一杯だった。今は考えないようにしないと、色々なものが溢れ出てくる。
目の前を、灼き払う。
ここで立ち止まることはできないから。
念じ続けるのは、ただひとつのこと。
————見ていてくれ。
これが、俺の闘い方。
これが俺の選び取った道なんだ。
『グランドクルー。燃料パイプの連結を解除』
巨大なパイプの外れる音とともに、自動的に給油口の閉まる振動が走る。ここでガソリンが漏れていれば、瞬く間に引火する——だが、先ほど確認した油圧の値から、一切の変化はない。ホログラム・キーボードにパスワードを打ち込む操作音が軽やかに響く。セキュリティ・ロックの解除とともに、ストームライダーの全操縦権が、パイロットの手に委ねられた。
デイビスは、長い前髪の奥から、剣呑な眼差しを閃かせた。スロットルレバーに手をかけ、内燃機関の制御用絞り弁により、燃料供給バルブを開く。
「右舷エンジン——チェック。左舷エンジン——チェック」
神経の張り詰めるほどに引き絞られた声音と同時に、コアノズルからの噴流を交互に確認。タービン出力、ファンが猛烈な回転を開始し、ターボファン・エンジンに地鳴りのような騒音を伝えてくる。燃焼器内における二〇〇度を超過する高温・高圧ガスの内部生成。急激に上昇する燃焼音とともに、激しい轟きと震動が機内を襲う。人間がそばにいれば吹き飛ばされているであろう、強烈な風圧が格納庫を駆け巡った。
デイビスは聴覚に集中した。タペット、ノッキング、異常燃焼、その他異常な雑音、いずれも検知できず。極限まで研ぎ澄まされた神経が、荒れ狂う炎を追う。
熱波の暴虐。そのいずれも、支配の範疇にある。この手は確かに、飛行の根源を握っている。
スロットルを戻すと、先ほどの燃焼音の反響が、格納庫の広漠を物語るかのようだった。廓寥たる静けさが、なお一層印象づけられて、その一瞬の余韻を刻印する。外の世界は、ここより遙かに巨大かつ、姦しい。
『ストームライダーII、発進準備』
すべての値は正常の範囲内。ホログラム・キーボードより、ビフォア・スタートの最終フェーズコードを入力。コックピットを覆うビューポートシールドが、チェック中を表すオレンジの光でライトアップされ、まもなく、発進許可を示すグリーン・ライトに取って代わられる。薄暗く照らし出される赤銅色の金属板には、ストームライダーのエンジン・ブレードの影が、儚く投げかけられていた。
「ビューポートシールド、Open!」
その宣言で、緑の光に染められたシールドが立ち割れるように開かれ、その先に、格納庫の壁一面を覆い尽くす、二番発進口が姿を現す。扉一枚を隔てて暴風雨の吹き嬲る、あまりに暗い屋内の中——蛍光色を輝かせたマーシャラーの制服を身に纏い、光り輝く誘導棒を両手で操る、遠いペコの姿が見えた。
地上走行。
パーキングブレーキを解除。数百トンに及ぶ超重量が静かに動き始め、ゆっくりと、ラインまで車輪を寄せてゆく。
この発進口の先に、未来はある。
落ち着け、と己れに言い聞かせた。しかしそれでも、激昂したように血を滾らせる熱意は抑えきれない。心臓が激しく波打った。ああ、ストームライダーが——発進を、喜んでいる。俺には分かる、その歓喜に身の毛をよだたせるほどの震えが。
そしてついに、二番発進口さえも開かれ、中央から切り裂くように幕の開いてゆく先に、外の光が見えた。世界の終焉かとも思えるほどに巨大な積乱雲の渦巻く空。海はその全体に激しい白波が立ち、湾の上に繁る樹木は、そのほとんどが倒木し、残るものも叩き折られたか、あるいは今にも千切れそうにしなっている。
————行くぜ、ストームライダーII。
————お前の力をすべて、俺に貸してくれ。
『————ストームライダーII、発進!』
それが合図だった。超重量の巨体が、激しい熱量と排気ガスを導火線として、根こそぎ押し潰すような重圧の時空に身を委ねる。空に浮くなど、狂気の沙汰とも思える巨魁。だが科学は、狂気に味方した。海面が一瞬、面前に近づいたかと思うと、後はもう、天へと向かってその両翼は高揚するばかりだった。
何もかもが無惨に掌握され——世界そのものの法則が、変質したように歪む。排出される高圧ガスによって、黄金の束とも見紛う陽炎が立ちのぼる様は、大気が噴出する鮮血の如く。地上の鉄鎖を粉々に引き千切り、張り裂けるように重力を蹂躙し、凄まじい突風を粉砕しながら——超高温を、一気呵成に両舷のエンジンへ。爆発的な燃焼音が、宙を焦がした。一瞬で蒸発してゆく雨を払い、急加速するこの瞬間を境として、ストームライダーは嵐の中の白銀へと姿を変える。これだ。デイビスは確信した。ぞくりと駆け抜ける戦慄を攫み、急激に高まってゆくエンジン音にも、甚大な振動に震える機体にも、その感覚を同化させてゆく。呆気なく、意識は溶けて、ストームライダーに取り憑いた。鋼鉄の意志。弾丸の如く撃ち出されたそれを、六十以上の航空計器で測り、操縦桿とレバー、ペダルで支配する。
それは、一個の光り輝く刃だった。眩暈のするほど、壮絶な銀。白無と見紛うほどに鮮烈なその機体は、まるで、闇の中を照らし抜く光の権化。雄々しい翼一枚で、家屋を粉々に断ち割るほど——魁偉。滑らかなカーブも、完璧な後退角も、すべては高度な技術がなければ決して生まれ得ない、鋼鉄の彫刻。その鏡のような表面は、羽毛さえ引っかからずに、滑り落ちてゆくであろう。震えがくるようなその濡れた姿は、機能美を藝術へと高め、艶めかしい、と謳われる域にまで達している。正しく、それは、科学の粋を集めた、至高の暴力である。
その力を完全に制御できるのは、ただ一人。きぃん——と耳孔の中の空気が膨張し、振動する座席とともに暴れ狂った。姦しい炸裂音が充満し、暴れ狂う大気を蹂躙してゆく。おぞましい力学が、誰も保証することのできない昂揚感を発出し、そして起爆させた。もはやこうなれば、いかなる人工物もこの飛行機を止めることはできずに、この疾駆を遮ることができるのはただひとつ、自然の摂理のみ。恐ろしい動悸のさなか、デイビスは艶やかに笑みを創った。さあ——開戦だ。
爆烈な轟音を立てて、鋼鉄の塊が疾駆する。ビューポートに叩きつけられた何万という水滴の跡が一斉に動いて、まるでライトスピードでワープしているかのような錯覚を齎し、海は、まるで途方もない喝采をあげるようにストームライダーに道を開けた。いかなる軍も、この飛行機を撃ち落とすことは不可能。第一に、その軌道が柔軟に過ぎる。第二に——疾すぎる。戦闘機と比べて、マッハにも達していない速度であるにも関わらず、なぜ何者も目で追えないのか。答えは簡単だ。軌道と速度の均衡が、まるで釣り合っていない。あまりに軽薄に筋を描くその飛行機は、放埒、という言葉では到底補い切れない奔放さを帯びていた。それは見た目からは考えられない機動性を誇るストームライダーの特質だが、それ以上に何より、搭乗パイロットの腕前が異常なのである。
まずは、ストームライダーの慣らし飛行。急上昇、急降下、急旋回、すべて荒っぽい運転で試したはずだが、驚くべき滑らかさで反応が吸いついてきて、一部の隙もない。馴染む、どころの話ではなかった。自分の手足のように動く、それでも足りない。生まれ変わった、としか言いようがない。飛行、超速、そのすべてを珠玉へと練り上げた、別の生き物へと。その軌道には何らの歪さも見出せず、遠くで見ていれば、画家の筆運びと思えるそれは、流麗とすら称せるものである。
整備明け、ということもあり、そのブランクを心配していたが、何のことはない、すべては思いのままだった。むしろ、なぜ離れていたのか。なぜ、この飛行機に乗らずに生きていけたのかと、熱い一体感が喉に焼けつく。
状態は申し分ない。機体、パイロット、ともに良好。そのまま、ターゲットへ接近中。デイビスはディスプレイ上に表示された風速を見て、顔を顰めた。これほど本体から離れていながら——すでに暴風域か。波の高さが五メートル未満であれば、ストーム周縁より、船舶を出して観測データを得ることもできる。しかし、この荒浪はそんな考えを打ち消すほどに猛烈だった。つまりは現在、ストームの実測値は何も掴めていないということだ。その負担分はストームライダーが担うということで、観測は相当に長引くであろう。
まもなく、土砂降りの雨に見舞われた視界は、ほとんど灰色になる。暗雲が垂れ込めて暗くなるのかと思ったが、却って空中の雨が光を吸い、泥まみれの沼に突入したかの如く濁っていた。だがレーダーの示す方向、求めているものはこの先にある。デイビスは装着してヘッドセットのマイクに向かって、喉に突き刺さるような声で、ミッションの進行を通告した。
「ミッション最高指揮官より、ベース・コントロールへ告ぐ。ストーム観測開始。ストームライダーIIロストの場合は、即座にストームライダーIを発進させ、観測を継続せよ」
『了解、キャプテン・デイビス。
……あの』
「なんだ?」
『……ご武運を』
ベースの言葉に、心臓がぎゅっと掴まれるような気がした。彼女も、これが一番苦痛に満ちた時間になると、分かっている。
「ありがとう」
喉を腫らしたような声で呟き、彼は通信を終えた。
すでに風速、65m/s。
海面は恐ろしい白い泡の塊が吹き漂い、それの激しくうねる様は、一軒家を丸々と呑み込むまでに憤ろしい。泡としぶきにより、高度を上げないとまるで視界を確保できない。
デイビスは深く俯き、心を深く澄ませた。
大丈夫。精神も、今は落ち着いている。
俺の手に、すべてが懸かっているんだ。
ひとりも死なせてはならない。
烈風に負けない速度で飛行しながら、観測プログラムを起動させる。ディスプレイに新たなグラフが表示され、瞬間ごとの風速・電磁波・画像等のデータを蓄積、結果をベース・コントロールへと送信してゆく。発泡する海の合間に、ちらちらとひしゃげた人工物が見えた。海だけでなく、宙からも障害物が飛んでくる。小さな金属片と思いきや、それがトラックほどにも巨大な鉄塊であることもあり、そのたびにストームライダーの軌道は揺らいだ。
(しかし、こんな凄いの見たことないな——)
覚悟はしていたが、それでも障害物の数は予想より遙かに多かった。ポート・ディスカバリー内の被害は耳にしていないので、他の国や州の漁船を吸ったのだろう。すでに、犠牲が出た。自分のせいではない——そうは言い聞かせても、耐え切れないほどに胸が痛んだ。
「ああっ……!」
機体が大きく揺らいだ。烈風に嬲られるうちから、カンカン、と響く、金属の突き当たる音。速度を落としたら、風に流される。けれども加速が度を過ぎれば、今度は飛来物を避け切ることができない。まさしく、パイロットのジレンマをつく、おぞましい状況下だと言えよう。
海に落ちたら最後、か。水上機たるストームライダーも、ここまでの波にかかればひとたまりもなく転覆するはずだ。
しかし、この障害物の大きさと夥しさはどうだ? 最悪、ただの一発でも、ストームライダーごと紙屑のように潰される。例えるならば、高速道路でアクセルを踏みっぱなしにしつつ、前から襲い掛かってくる障害物を、ひたすらにハンドリングだけで避け続けるようなもの。
デイビスは、自分の操縦桿に力を込めた。けれども、冷え切ってわななく手を抑えられない。指に、握っているものの感覚がない。蒼白だった。微妙な制御こそが、命運を分けるというのに———
(糞ッ、ビビってんのか。落ち着け、キャプテン・デイビス。そんなのは全部、覚悟の上だろう)
痛憤を込めて、拳で、胸を叩く。それでも激しい動悸は止まらず、彼に凍りつくような焦燥を注入するだけだった。一度沼に足を取られた彼の精神は、暴れれば暴れるほど、底なしの闇にのめり込んでゆく。そして頭の方は反対に、息を忘れるほど冷たく漂白されていった。
その時、灰色に濁る視界に、一際黒く輝く鉄骨が飛来してくるのが見えた。視認できなければ、確実に命を刈り取ったであろうそれ。無理やりへし折られたのか、その先端は尖り、突き刺されば間違いなくストームライダーの装甲を貫通するであろう。
どうする?
どうにもならない!
咄嗟の判断で、デイビスは、大きく操縦桿を押し込んだ。ギロチンで首を落とされたかのように、機首が前へと落ちる。真っ逆さま——と言っても良い、ほとんど墜落レベルの急降下に、機内の何もかもが浮きあがり、落下してゆく———
———————ゴウッッッ!!
重荷のように引力に掴まれた肉体を足だけで支持し、ふたたび操縦桿を引き倒す直前、鼓膜が破れたかと思うほどの巨大な轟音が、機体の上部を回転しながら過ぎてゆく。すっ——と血の気の引いた後から、一斉に、鳥肌が全身を包み込んだ。急いで計器を視認。燃料計、変動なし。姿勢指示器、上方に向かっている。昇降計——大きく高度を失ったが、一秒毎に回復傾向。気圧維持装置は依然として作動中。激突による破損はどこにもない。
時間がふたたび動き出す感覚——それとともに、心臓が恐ろしい量の血流を体にめぐらせ始める。どくどくどくどく、と凄まじい勢いで、鼓動が鳴り響いた。それまで理性で抑え込んでいたものが、一気に溢れ出したかのようだった。
(だめ、だ。なんで、こんな焦っているんだよ。考えるな。考えるな!)
———避けられるのだろうか?
今後も、この回避行動を、何度も。
ひとかけらの偶然を掴みながら、何度も何度も。数時間、ずっと極限に気を張ったまま、ミスなく、フライトを続けることができるのだろうか?
そしてその瞬間、あらゆる感覚が、嘘のように抜け落ちて、デイビスの心臓を掴んだ。
虚無。
それが、まるで幽霊の細い嘆きのように、抗い切れぬ恐怖を伝えてくる。
「あ——」
背筋に、氷水が伝い落ちたかのようだった。
それは——
フライト計画の齟齬ではない。
自らの失策でもない。
ただただ、自分が、今まで死に直面した機会がなかったということ。それゆえに、明日も生きたくて、死にたくなくて、これほどまでの恐怖が暴れ狂う。
このフライトは、自らの死との一騎討ち。
密やかに、粛々として、死の舞踏は近づいてくる。
さあ!
墜ちろ!
衝突しろ!
命の灯火を、吹き消せ——と。
外の轟音の中に渦巻く、自然からの、神聖な悪意。
それを正面から吹きつけられ、デイビスはただ震えていた。猛烈な孤独と、耳の底に響いてくる、死神の声。
震え、絶え間なくスパークする悪寒が、魂までもを侵食してゆく。ストームライダーの内壁は、あたかも絶望の監獄のように彼に押し迫る。
「がはっ——!」
突然、凄まじい振動を鳩尾から突然の嘔吐感が湧き、ぐっと粘液が迫り上がってきた。何とか計器だけは避けられたようだ。えずくような醜い音とともに、床に吐瀉物が撒き散らされ、ぼたぼたと垂れてゆく。
『キャプテン・デイビス! 大丈夫ですか!?』
「ああ。すまない……」
震えが止まらない。デイビスは今、パイロットとしての重責を、全身で味わっていた。
そして背を伝う——紛れもない、死の恐怖。
死そのものが、猛威を奮って、彼の精神を追い詰める。
(捨て駒だろう。生贄なんだよ、キャプテン・デイビスは)
駄目だ、死を恐れるな。自分のことを考えている場合じゃないだろ。
ミッションが失敗したら、ポート・ディスカバリーが壊滅するんだ。
こんなことで臆するな。
お前は、ポート・ディスカバリーを守りたいんだろ?
闘え。
闘うんだ。
——————怖気付くなよ!
(———! なんだ、今のは……)
その瞬間。
彼の視界の隅に、一瞬、薄茶色の飛翔体が映った。それまで死の一色に彩られていた思考が停止し、覚えず眼差しが吸い寄せられる。
激しい暴風雨。その中で、真っ直ぐに飛び出してくるのは————
「————————アレッタ!?」
叫ぶ。激しい雨の中、その呼び声が届いたのかは定かではないが、あの宙を切り裂くような高らかな鳴き声が、ビューポートの向こうから微かに聞こえてきた。
(来たのか、カメリア。この嵐の中、こっちの世界に———)
あれほど来るなと言ったのに——いや、心のどこかで、こうなることを予感していたのかもしれない。あいつは、そういう無茶をしかねない大馬鹿だ。
しかしこの状況下で、それは諸手を挙げて歓迎できることではなかった。衝突すれば、アレッタの命だけでなく、ストームライダーにまで被害が及ぶ。エアインテークに吸い込まれてバードストライクを起こされたら、たまったものではない。
デイビスは、アウトフロー・バルブから空気を排出し、一気に機内を減圧した。急いで自身のハーネスを確認すると、風に流される隼の飛行ルートを見極めて、緊急ボタンでハッチをこじ開ける。
ぐん、と耳の中の空気が膨張し、一気に聴覚の吹き飛ぶ感覚とともに、凄まじい轟音が機内に雪崩れ込む。
「アレッタ、今助けてやるからな! 下手に風に逆らうな、そこにいるんだ!」
物凄い烈風で、聞こえたかは定かではないが、確かにアレッタは、叫んだ彼の方を振り返った。
デイビスはそのまま、怒濤の如く逃げ去る空気に抗うように、ストームライダーの尾翼を一閃させた。神業——だった。瞬間的に何かが飛び込んできたのを視認し、即座にハッチを閉めたが、たちまち豪雨で床に水溜まりができて、傾くたび、滂沱の水の筋が伝ってゆく。すぐに与圧をかけ、ふたたび機内の酸素濃度を回復させる。アレッタは床に転がり、しばらく失神していたようだったが、ふたたびストームライダーが大きく傾くと、それを皮切りに濡れた翼を大きく煽り、けたたましく鳴き喚いた。デイビスの顔には、物凄い量の冷や汗が浮いていた。
骨折や内臓破裂がないか、今すぐ看てやりたいが、操縦席から立つわけには行かない。アレッタは小さなはためきを繰り返しながら、ゆっくりとデイビスの元へ近づき、何かを訴えるように声をあげた。
「アレッタ、今、風速の少ない地点を探してやる。そこに着いたら放してやるから、お前はカメリアと一緒に、元の時代に帰れ」
必死に鳴き喚く隼を無視するように、ビューポートに映り込む波の泡立ちを見て、風を読み続ける。しかしそれでも、アレッタは何かを訴えるのを止めることはなかった。
「馬鹿! お前がいないと、カメリアが元の世界に帰れないだろ! なんで自分の主人を見捨てて、俺の方になんか来たんだよッ!!」
無益だと分かっているのに、機内に轟くほどの大声で怒鳴りつけると、怒りに続いて、身の凍るような哀しみが湧き起こってきた。故郷の運命を背負っているこんな時に、他人の人生にまで責任を持てる自信なんてない。
「カメリアが行けって、お前に言ったのかよ。相当なサディストだな、お前のご主人は。……いや、マゾヒストなのかも知れねえが」
枯れた笑いがこぼれ、愚痴のような言葉が口をついた。
しかしそれは、アレッタを否応なく昂らせたと見えた。その憤怒の直接の原因は、主人への侮りではなく、むしろ自身の存在をそのように見縊ることへの、徹底的な警告にあった。
ぐっ、と濡れそぼった爪で肩を掴まれる。思わずデイビスは、痛みで顔を顰めた。肉に穴が開く——その寸前を理解しているような、完璧に制御された力加減。しかし抉るような激痛は、さながら、大男に肩を掴まれているようだった。それとともに、測り知れぬほどに黒洞々たる瞳が覗き込んできて、彼の精神を見透かした。それはストームの猛威に対する、得体の知れない恐怖と同じなのではなく、むしろ克明に、魂の凍るような威圧でもって、彼を威嚇する凄絶さを持っていた。
(なっ——)
————なんだ、この異様な存在感は。
意識が、一瞬にして氷結する。
あまりに異様な、怪物的とも称せる、黒々とした眼。
瞬時に、悟る。この鳥は、他のどんな人間よりも、正しく状況を理解している。その上でひたすらに——自分を値踏みするような。ありとあらゆる精神の動きを観察し、唾を飲みくだす様子までも、その漆黒の目玉にまざまざと映り込ませる様に、デイビスはひたすらに恐怖するしかなかった。
それは物言わぬ、挑戦的な眼光だった。傲慢とも、謙るとも表現できない風格。その態度はちょうど、五分五分のところでぴたりと裁定の秤を止めていると言って良いだろう。
この男につくか、つかぬか。
その最後の一存を、己れの放つ次の言葉に待っているような気がする。その審判に敗北すれば、プロメテウスの如く内臓を貪り喰われそうな。それほどまでの凶暴さを押し秘めて、この鳥は自分に選択を迫っているのだと、そう彼は感じた。
厳かな、沈黙。
震えるパイロットは、やがて掠れた声を出して、その黒い目を見つめ返した。
「……お前さ、俺よりも飛行に慣れてるだろ。隼なんだ、最高速度だって、この飛行機より出せるよな。
音だけで、障害物を把捉することはできるか」
デイビスは、操縦桿を握ったまま、静かに語りかけた。
アレッタは何も言わなかった。凝っと身動きもせぬままに、猛禽類らしい獰猛な眼の底で、彼の緑の眼を見つめていた。
「取り引きだ。お前は必ず、この俺がカメリアの元に帰す。だから今だけは——カメリアじゃない、俺に仕えるんだ。さもなくば、このままストームライダーごと、お前を海に沈めたって良いんだぜ。
信用しろとは言わない。お前の主人が信じた、俺に賭けろ。生き残りたいなら、俺に命運を託すんだ。
…………どうする?」
脅迫じみた言葉を選んだが、実際はほとんど虚勢だった。
凍りついたように、隼は動かない。
どれほどの時間が経ったかも分からない、そんな数秒が過ぎ去った後。
——————高く、嘶く。
アレッタは突如として、堂々たる翼を打ち振るい、その身震いでもって、デイビスに強烈な勇気を与えた。その一声でもって、彼はすべてを理解した。アレッタの漆黒の眼は、ビューポートの彼方、点にも見えない障害物を正確に把握し、耳はどこまでも研ぎ澄まされ、微かに引っかかる風切音を拾う。肩に食い込む鉤爪の感覚が、心強さを象徴するかのように熱い。
「アレッタ!」
隼は、恐ろしい眼光で彼を見つめた。臆するな。お前はお前の使命を果たせ——そう命じられているかのようだった。
「は……はは。一時休戦だな、アレッタ。まさかお前と二人で、ストームに挑むことになるなんてな」
しかし今、これほどに自分の力になってくれる者はいない。確かにこの隼は、デイビスの右腕、いやそれ以上に頼りがいのある存在だった。
「なんだよ、お前、本当は俺のこと、ずっと好きだったんじゃないのか? 素直じゃねえよな、もっと前から俺に懐いたって——あだだだッ!!」
デイビスは涙目になりながら、ひりひりと噛み跡の残る手を、空中で振った。畜生、こんな時ですら可愛くねえ。
デイビスはまもなく、その鳴き声の意図を正確に理解し始める。微妙なニュアンスで、飛来してくる物体の方角とともに、飛翔速度すら分かった。その度ごとに、ぎりぎりで躱す。言葉ではない、けれども確かに心を通わせている感覚が、彼の全身に満ち満ちてくる。
アレッタがカメリアのかけがえのない相棒であった理由を、血肉で理解できた。この隼は、信頼できるどころの話ではない。同じものを見、同じものを聞、同じものを感じ続ける。さながら、ひとつの生命体となって飛行するかのように。比翼の鳥——とはこのことを言うのだろう。運命をともにし、アレッタの鉤爪は操縦桿を握り、自分の背には翼が生えたかのようである。そしてその翼は、真っ直ぐにストームライダーの両翼へと連なっていた。
守れ。
もはや、何が正しいかは問題ではない。
自分の技術が、まさにそこに足りているか否か。
自然に対して、勝つか負けるかだ。
「アレッタ、観測を再開するぞ。荷が重いかもしれねえが、俺のボディガードはお前に頼んだぜ」
ぐっ、と鉤爪がわななくようにそれに応える。デイビスは完全に障害物の予測をアレッタへ任せ、ストームの観測データの収集に心をそそぎ始めた。
十分近くのロスだ。回避行動で手一杯になっている間、ほとんどストームの観測値は取れていない。|胴体《フューサラージ)前面部分のアンテナの矛先を、ストームに向けることが困難だったためだ。
だが、もう大丈夫だ。
俺は負けない。
アレッタがいれば、きっとストームの消滅まで持っていける。
そこへ————
『ストームライダーII、聞こえるか。こちらストームライダーI。ストームライダーII、キャプテン・デイビス、応答せよ』
————闇を切り裂くように、新たな光が飛び込んできた。
(……無線、だと……?)
レーダーには確かに、もう一機の信号反応が近づいていた。SRI。その機体名の意味が分からぬほど、自分は錯乱などしていないはずだ。だが、ここは風速の凄まじいエリアであり、彼の突破できるはずがない。
「キャプテン・スコット、なぜ貴官がここにいる!? CWCに戻れ!」
頭が無限に冷えてゆくようだった。なぜ、なぜ、土壇場になってこんな自殺行為にも似た真似をする?
『こちらストームライダーI、周波数一三三・四二にて最高指揮官に応答する。帰還命令を出すなら、こちらはそれに従う。ただ、小官の判断する限り、それは得策ではない』
「合図があるまで、発進は許さないと命じたはずだ。貴官は、俺の指揮に反抗するというのか!?」
『キャプテン・スコットより、ミッション最高指揮官へ。貴官の指示は、すべて信頼している。ただ、当初の飛行計画の前提条件に変更が出た。そこでパイロットの独断により、ストームライダーIを発進させた』
「前提だと?」
確かに絶望的な成功確率だとはいえ、あれは神経を研ぎ澄ませて念入りにシミュレーションした結果だ、狂いが出るとは俄かには信じ難い。心臓の罅割れるような恐怖を覚え、デイビスは震え声を絞り出す。
「どこだ。どこの情報が間違っていた? 教えてくれ」
『サブ機がロストすればメイン機の障害になる、それゆえ格納庫にて待機。
これだけのストームだ、メイン機・サブ機双方に期待を寄せて共倒れするよりも、メイン機のミッション阻害に付随する可能性を潰した方が、成功確率が上がるのは同意せざるを得ない。だが——それだとメイン機のストーム観測必要時間が、必然的に延長する。
両機で観測するとなれば、単純にデータの取得効率は二倍だ。ストームディフューザーの威力演算にかかる時間は、半分で済む』
「そ——そんなのは、理屈だろ? あんた、前に言ったじゃないか。風を読む技術に長けたパイロットじゃないと、巨大なストームには立ち向かえないって——」
『ああ、そうだ。だからその点においては、こちらで解決した』
デイビスは首を傾げた。解決、というのはどういうことだ? 操縦スタイルの転換など、一朝一夕でどうにかできるものじゃない。
はず、なのだが————
「心配するな、デイビス。こっちの機内には、ドクター・コミネがついている」
「うう、高いよー、怖いよー。耳がキーンとするよー」
『…………………………オイ』
ストームライダーIのコクピットの隅に縮こまっているのは、艶やかなおかっぱ頭に眼鏡をかけた、年齢不詳のうさんくさい男。
何やら聞き覚えのある声に、デイビスはずるるるるんっと、コンニャクのように脱力してゆく。
「神聖なストームライダーに、マッドサイエンティストを乗せるなーッ!!」
『それは違うぞ、キャプテン・デイビス。ドクター・コミネは、CWCと風力発電所が分裂した後も、常に架け橋となってくれていて——』
『ふふん、天敵に対して、滔々と自分の功績を語られるというのも、悪くないな。スコット君、ワインを一杯』
「ここはファーストクラスじゃねーんだぞ、悠々とくつろいでいるんじゃねーッッ!!」
『やれやれ、犬猿の仲とは本当のようだな。いったい何が原因なんだ?』
呆れたように肩をすくめるスコットに返事することなく、コミネは弾かれたように眼鏡の下の眼光を鋭くし、大声で命じた。
「臨界点だ、引いてくれ!」
突然投げられた厳しい物言いに従い、スコットはぐんと進行方向を変えた。十二時方向から、三時方向へ。そのまま、ストームの周縁をなぞるように、緩やかに弧を描きながらストームライダーIIから離れてゆく。
レーダー上からそれを確認したデイビスは、通常はありえないその動きに、ぴんとくるものを感じた。
「ひょっとして、遠距離観測、か……?」
『そうだ、ドクター・コミネは、風力発電所一、フィールドワークに長けた研究員だ。そこで一緒にストームライダーIに乗り込み、ストームに近づける限界を見極めてもらっている』
コミネが、その先を引き継いだ。
『風は目に見えないが、この私には、カザミスティックがあるからね。それをストームライダーの両翼に取り付け、観測デッキから確認しているんだ。
ストームの外周を回り、ストームライダーIの耐えられるぎりぎりを攻めながら、ストームの観測データを集めることはできる。それでも、ストームの周囲は暴風域だから、ある程度の距離を取ることは免れない。データ取得効率が二倍とまでは言えないが、しかし計算時間の短縮に繋がることは間違いない』
『そういうことだ、デイビス。言っただろ——もっと私を頼れって』
びく、とデイビスは身を震わせた。スコットが何について語っているのかが、痛いほどに分かる。しかしスコットは、それに直接触れぬままに、ただ行動によって示してくれたのだ。
誰も彼もを守ろうと、自分一人で闘おうとしていた——けれども周囲には、これほどの絶望的な状況下でも、自分を助けようとしてくれる仲間がいる。
スコットだけではない。ドクター・コミネも、命を賭けてストームライダーIに乗ってくれているはずだ。
本来ならば、彼こそが守らねばならない民間人。
だが、高所の恐怖も、死の恐怖も押し切って——コミネはストームライダーに、力を貸してくれる。
『ちなみに、カザミスティックの光はチョコレート色。この辺り一帯は、ワイルドかつ、ちょっぴりビターな風だね。まるで一生に一度のロマンティックな恋に敗れ、心の張り裂けるがままに周囲を無残に破壊し、それでももはや二度と得られることのない、あの輝かしい青春の想いを回顧するかのように——』
『「…………」』
イヤ、ヤッパリコイツハオイテイコウ。
デイビスの頭の中に、スイッチの切り替わるような音が響く。
そして、何かを伝えなければならない、自分のかけがえのない相棒として——
デイビスは、改めてスコットに向き直った。
「サラさんが泣くぜ。俺はあんたの弔辞なんて読まねえからな」
『奇遇だな、私もお前の棺桶により伏して泣く趣味はない』
互いに皮肉を交わし合ってから、父親のような威厳を湛えるバリトンで、スコットはその先を紡ぐ。
『私が指揮官を務めている間、お前は、私のかけがえのない副官だった。だからこそ、私もまたお前の指揮に従い、お前の相棒になれる。というより——お前のような問題児のフライトに付き合えるのは、この世で私一人しかいない。お前なら、この意味が分かるよな、キャプテン・デイビス』
胸にのしかかる重み。
その一言一言に、思考が熱く痺れてゆくような思いがした。
泣くな。
ここで泣いたら、最高指揮官としての威厳がなくなる。
だから絶対に、涙なんか流しちゃいけないんだ。
デイビスはしばらく声を出せずに拳を握り締めていたが、やがて、くしゃ、と顔を歪めて笑った。
「ああ、分かるさ。結局はあんたも俺と同じ、CWCの不良ってことだろ?」
『何とでも言え』
「———でも俺は、あんたのそういうところが好きだったんだぜ。キャプテン・スコット」
笑みの下から呟いたデイビスは、緑の眼を朝露のように揺らめかせて思考した。
このまま、ストーム観測が終わった段階で、帰還を命じることもできる。
しかし、彼の頭には、別の作戦が組まれ始めていた。せっかくの一世一代の博打だ、大きく賭け金を積んでやろうじゃねえか——と。
「ベース・コントロール! こちら、ストームライダーII、キャプテン・デイビス。起爆プロセス演算結果の値を、二つのディフューザーに二分化して、返却することはできるか」
突然向けられた問いに驚きながらも、ベースは一瞬にして、その言葉の含意を正確に推し量った。
『二分化? まさか、ストームディフューザーの同時発射というわけですか?』
「ああ。ストームディフューザーの耐久を懸念していたが、出力エネルギーを半分にすれば、一機にかかる負荷は確実に耐久できるレベルに収まる。ストームの上下から同時に撃ち込めば、爆風の掛け合わせによって、プログラム散布の効率化も期待できる」
『理屈は簡単ですし、プログラムの修正も可能でしょう……が、実施検証する余裕はありません。デプロイして、いきなり本番となりますが、大丈夫ですか』
「切り戻しには何秒必要だ?」
『ボタンを押すだけで済みます。指示が来次第、二十秒程度で従来の状態に戻せるわ』
「了解。静的テストを念入りにして、レビュアーを複数用意してくれ。後はそっちで頼む」
『了解。一時間以内に、デプロイを予定します』
ベースとの通信を切ると、集中して言葉を放っていた声色をからりと変えて、明朗に乾燥し切った音程で、もう一人のパイロットに語りかける。
「———さーて、そういうわけだ、スコット。まさか落雷でエンジンを破損して着水する、なーんて、ダセえ結果に終わったりしないよなぁ?」
『そっちこそ、発射したストームディフューザーを機体に突き刺して、吠え面をかくなよ』
スコットの燻銀のように胸板に響く声が、それに応える。
デイビスの強い目。
スコットの熱い眼差し。
互いに見交わすこともなく、しかし確かに、それと対峙するかの如く。まるで種類の違う二本の剣が、金属の摩擦音を立てて、固く交差するようである。
————俺は、あんたに賭けた。
————ならば私は、挑むだけ。
交わし合う信念は、それだけですべてが決まる。
浮薄な物言いの陰に隠れて、無造作に託された賭博の金貨を受け止めながら——スコットは不敵に笑った。良い根性をした若造だよ、と。
「言っとくけどなー。俺ひとりだって、ミッションは充分に遂行できたんだからな?」
『ほう』
「ま、あんたが発進したいって言うんなら、仕方ねえよな。ミッション最高指揮官としては、その意思を尊重してやってもいいぜ」
『さっそく憎まれ口か、可愛げのない部下だな。本当は私のことが、心配で心配でたまらなかったんじゃないのか?』
「……ああ」
デイビスは一瞬目を落としたが、やがて小さな声で付け足した。
「でも今は、感謝してる。頼んだぜえ、スコット——」
その最後の呟きが、祈るような口調で掠れているのに気づいたが、スコットは何も言わず、そしてその無言でもって、二人は同じ覚悟を確認し合った。
プログラムの修正を手配し終えたベースは、先ほどから気になっていたことを知るために、もう一度ボタンを押して通信を入れる。
『ベース・コントロールより、ストームライダーIへ。……ドクター・コミネ。大丈夫ですか』
『だだだだだだだだだだだだいじょうぶだよお、わた、私は、天下の天才科学者なんだ。まだまだ本番はこれ、これこれこれからだからねえええええ』
『ドクター・コミネ、それならもう少し、ストームライダーIの高度を上げても平気か』
『ヒィッ!』
ガタガタと震えるコミネの様子を察してか、ベースは軽く溜め息をついて、言葉を継いだ。
『……そんなことだろうと思って、精神安定剤を連れてきました。少しの間、無線を占有することになります。キャプテン・デイビス、よろしいですか?』
「ああ、構わないが……」
精神安定剤ってなんだ? と訝しむデイビス。そしてその謎は、たった一秒後に氷解する。
『『ドクター!』』
「はっ。ま、まさかその声は我が同志。アリアとドクターEK」
たちまち、コミネの青い顔に生気が蘇る。CWCを辞め、風力発電所に勤め始めた彼に寄り添う光。それが、若き気象学研究者であるこの二人であった。
『Hi、ドクター。げんきー?』
「わーん、アリアー。私のてんしー」
『博士。おーえんしにきたよー』
「ああっ、ドクターEK。会いたかったよー」
輝く金髪をポニーテールに結んだ、愛らしい雰囲気の美女に、人参色の髪の上からゴーグルつきの帽子を被った、純朴な顔立ちの美青年。色違いのネクタイに白衣を合わせ、学生の如くワイワイと群れているが、その実態は超優秀な科学者である。なぜこれほどの研究員たちがドクター・コミネについてゆくのか、と学会が頭を抱えていることは言うまでもない。
ドクターEKは生真面目な声色で———
『博士。僕は、マリーナの英雄たちのために、風起こしの舞を踊るべきでしょうか』
「ぜ、全然事態が分かってない」
この状況でどうしたらそんなことが言えるのか、と愕然とするコミネ。
『キャプテン・デイビス、キャプテン・スコット。あなたがたにも、同様の人々を用意しています』
「こ、こんなのが、あと何人無線に飛び込んでくるんだ?」
『待っていてください、今連れてきますから』
無線の向こうが沈黙に閉ざされ、デイビスは身震いした。応援してくれるのは有難いが、なんとなく胸騒ぎがする。
そして————
『よお、デイビス。またストームライダーを大破させるんじゃねえだろうな。来期の予算がこれ以上減らされたら、CWCはやっていけねえぞ』
『彼女と痴話喧嘩していたっていうのは本当か。搭乗寸前で、復縁の電話をするために飛び出していったんだろ?』
『パパー、ちわげんかってなーに?』
『駄目よクレア、その言葉は今すぐ忘れなさい。あなた、家に帰ってくる時、トイレットペーパーも一緒に買ってきてちょうだいね』
『デイビスさん、事故に遭うのは勝手ですが、デイビスさんに貸したお金は労災保険から引き出しますからね。僕とキャバクラに行った時に支払った五十ディズニードル、地獄の果てまで追っても返済してもらいますよお』
『あああああ、ストームライダーが、僕の整備した美しいストームライダーが、雨と風と潮水と舞い上がる塵で汚されてゆくううううう。美しい銀の裸体が、ヴィーナスの誕生とも見紛う金属製の官能的な裸体があああ』
「お前ら、ピーチクパーチクうるせーぞ!!」
わらわらと声を寄せる、幼稚園さながらの地獄絵図に、デイビスは頭を悩ませた。コックピットにはたった一人しかいないのに、信じられないほど大勢の人間が詰め込まれている気がする。
ドン、と机を叩く音がして、場が嘘のように静まり返った。
『全員、静粛になさい』
『『『『『『『『……はい』』』』』』』』
地獄のような沈黙が無線を浸す。
『キャプテン・デイビス、キャプテン・スコット。あなたがたは責任感の強い人間ですから、何よりも精神状態が心配でした。けれどもその性質は、悪いことばかりではありません。信念を得れば、きっと誰よりも力を出せるはず。
前にゲストと空を飛ぼうとして、私に反抗したことがありましたね、デイビス。あなたは本当に私の手を煩わせますが——まあ、これは私の仕返しのようなものです。あなたは、誰かと一緒にいた方が、その本来の力を発揮できるようですから。
————みな、心は一緒です』
その確信を、痺れるような感銘とともに、デイビスは受け止めた。グローブに包まれた手を見つめる。いつのまにか、その震えがおさまっていた。
ストームライダーは、ポート・ディスカバリーの人々の思いを繋げて、フライトしている。
いや、彼はもう知っている。ポート・ディスカバリーだけではない。守らねばならない人々の想いが、過去にも存在していたこと。この世に束の間だけ願われた、美しく、切なく、儚い夢を。
(嵐がくれば、人は祈る)
あの時に呟いたペグは、長い歳月をケープコッドで過ごし、もう、この世にはいないのかもしれない。
(生まれて初めて、僕は、本当の意味で夢を見た気がする)
そう囁いたダカールは、秘密基地で孤独な手紙を書き残して、すでに亡くなってしまった。
(ああ、信じられない、これであたしは自由になれるんだわ!)
ニューヨークの大都会の片隅で、儚く潰えたベアトリスの夢。
(かつてこの世にいた人々の意思を汲み取って生きるのは、私たち生者の義務だよ)
神殿の片隅でインディが拾いあげた、滅亡した文明の残骸。
(わしゅれないでね。このよに、ほんものの、まほーちゅきゃいがいたこてょを)
ある一人の男を深く愛していた、陽気なディズニーキャラクターの仲間たち。
目の前が、晴れてゆく思いがした。
何も忘れてはいない、何も。
俺は、彼らの築きあげてきた人生の先に生きている。その軌跡たちは、どこにも消えやしない。
(同じ、なんだ。みんな)
スコット。
ベース。
CWCのメンバーたち。
ネモ船長。
ベアトリス。
ペグおばさん。
ジョーンズさん。
ディズニーキャラクターのみんな。
誰もが未来を求め、夢を抱いて歩いた。
果てしない旅路の途中。
ポート・ディスカバリーは、その終着点に存在するマリーナだ。
だから、思え。この七つの海に生きた人々の、何もかも。
受け継がれてきたみんなの夢を、未来へと託すんだ。
どくん、と心臓が高鳴った。
沸騰するかの如く、全身が熱い。
「まだだ…………」
デイビスは、初めて足掻いた。
生きたいという思いも、守りたいという願いも込めて。闘う理由は、充分にここにある。
「まだだッ———」
迷いをすべて捨てて。
血を、滾らせる。
激しい情念が灼けて、天まで焦がすかのようだった。
「まだだッッッ!!!!」
叫ぶ。
汗が散った。
操縦桿を握り締め————吠え猛る。
「こんなところで、俺が負けるわけには、いかないんだよッ————!!」
ひとりじゃない。
その思いを受け取って、デイビスは翔け抜ける。
負けるわけにはいかない。
俺たちは、必ず勝利する。
激しい嵐の中で、未来を見据えながら。
ストームライダーを旗印にして————
前に進むんだ!
「やだ、デイビスったら、いつから熱血主人公になったの? でもそんなあなたも、す・て・き」
「ん?」
デイビスは不審げに眉を寄せた。前方から飛んでくる、飛び魚を思わせるような影。あれは、まさか——ドリームフライヤーではないか? この嵐の中で、なぜあんなにも軽々と滑空できているのだろうか?
肩に載ったアレッタも、不思議そうに首を傾げた。
固定した車輪に片足を載せ、切り裂くように、それは、ストームライダーの正面へと素早く旋回させた。びしょ濡れになった前時代のドレス、絞れるほどに水を吸った髪、水滴を弾くために操縦士の目を覆う、あれは——ウインドライダーのゴーグル。どきん、と心臓が高鳴り、そんな状況じゃないと分かっているのに、背凭れに体を押しつける。目の前の人物が、玉虫色に光るゴーグルを、颯爽とずりあげると、濡れた巻き髪の下から、あの強靭な鳶色の瞳が現れた。そしてその人物は、激しく降りそそぐ雨の中、ばちこーんと大きなハートマークを飛ばしてウィンクしながら。
「はぁーい、デイビス、元気にしてるー? ストームライダー応援団団長の、カメリア・ファルコでーす」
「なんであんただけ本当に俺の前に出てくるんだよッ!?!?!?」
「最近の出番があまりにも少なくて、そろそろ私のことを読者が本気で忘れかけているだろうという、作者のささやかな配慮の結果よ」
「いやいやいや、分かってるだろうけど、今、最終決戦の真っ最中なんだよ。というか、危ないからこっちに来るな、って言っただろ」
「あらあら、そんな口を利いて良いのかしら? 本物じゃないのよ、私は、夢。単なる、ゆ、め」
「はぁ……?」
「つまりは、私に思い焦がれるあまり、あなたが描いた妄想ってこと。デイビスってば、そんなに私に会いたかったのね。カメリア、涙が出ちゃう。だって、女の子だもん」
「ちっ、違ッ! 俺は断じてっ、そんなことは——!!」
「そっかあ、なんだか寂しいな。デイビスは私と、会いたくなかった?」
「……い、いや、その……」
言いかけて、羞恥心に口をつぐんだ。だって発進前、自分は確かに、恥ずかしさ満載のことを叫んだような気がするし、本当のカメリアもそれに勘づいているのかもしれない。頼むから俺に妙なことを思い出させないでくれ、と必死に念じるそばで、カメリアは嵐でテンションが上がっているのか、くるくると珍妙な舞を踊って、いつもより面倒臭さが数倍増しだった。
「大丈夫だよお、今はストームライダーはシス調扱いにしてるんで、どんな愛の言葉を囁いても、誰にも聞こえないもの。ま、私は耳をダンボにして聞いてるけどー。●REC」
「……もう、どこから突っ込んだらいいんだか。あと、凄まじく古いよ、そのネタ」
「それとねえ。登場した理由は、もひとつあって」
「えっ。まだあるのか?」
「ほら、この小説って、ソアリン×ストームライダーってタイトルの割には、二つの飛行機が同時に出てきたことってないじゃない? というか単純に、ストームライダーの登場頻度が少なすぎるのよね」
「……こ、これから活躍するんだよ。これから」
「クローズしたくせに?」
「てめえッ!! 大きなお世話だろッ!!!」
「まあ確かに、Twitterでは未だにストームライダーの言及が絶えないけどぉ。TLにも、あなたの小説やイラストが流れてくるしね。ついつい、ふぁぼっちゃう」
「やめろやめろ、そういうリアルなメタ話にまで持ってゆくのは」
「そんな訳だし、クローズ決定後にソアリン導入が発表された時、誰もがチラッと、本編にストームライダーが出てくるという、淡い妄想のような期待を抱いたじゃない? ところが実際に幕が上がってみたら、ストームライダーは影も形もなく。うぷぷぷ、時代はまさに、ソアリン一色ね」
「うるせーッ!! ストームライダーのクローズをネタにするな、まだちょっと心の傷が、ズキズキ痛むんだよッ!!」
「だからこうして、ソアリンとストームライダーで、夢の共演を果たしてあげたんじゃない。これでようやく、タイトル詐欺を解消し、対面が叶いました。どーお、ご感想は?」
「果たしてこれは、望まれていた展開なのか?」
「失礼しちゃうわ。これ以上に燃えるシチュエーションが、どこにあるっていうのよ」
「俺は、もっとこう……ドリームフライヤーとストームライダーが、すれ違いざまに敬礼し合ったりとか、アレッタとストームライダーが競争したりとか、そんな感じのエモいのが、良いなって……」
「うんうん、分かった。デイビス、あのね」
「なんだ?」
「熱血アニメの観過ぎ」
「う、う、う、うるせーッ!!!」
なんなんだよコイツ、とデイビスは髪をくしゃくしゃに掻き乱した。妄想の中でさえ鬱陶しすぎるぞ。一方のカメリアといえば、肩をすくめ、酷く譲歩したような顔つきで。
「そんじゃま、かったるいけど、敬礼でもしたげますかー。 熱 血 好 き のキャプテン・デイビスさんが、直々に御所望のシーンみたいですし?」
「お、恩着せがましく言いやがって、この野郎——」
「ねえねえ、あなたって、S.S.コロンビア号の舳先に立って、『タイタニック』の物真似をやるタイプ? 次にアメフロに行ったら、二人でインスタのストーリーにあげない?」
「だからどーでもいーだろ、そんな事はッ!!」
カメリアは、こほん、と咳払いをすると、背筋を正して、デイビスと向き合った。ふざけるのはここまでで、ちゃんとシリアスな空気に戻してくれるんだろうな、とデイビスは訝しむ。
歴史書曰く。
時空を超えての邂逅など、不可能。従って、後世の者が何百冊とこの二人の伝記を追っても、互いが鉢合わせたことを示す文章は、一片たりとも見つかりはしないであろう。
そう——航空史上では、二人の出会いなどけしてありえない。
だが、この夢の海においては。
———カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコは、キャプテン・デイビスを視野に入れる。
流れる裾は、風にはためく旗の如く。額まで押し上げられた、薄暗い玉虫色のパイロット・ゴーグルの下。簡潔の極致まで切り詰められたそのグライダーに身ひとつで乗り込み、静謐に見開かれた双眸は、飛行の精神——いや、その静かに冴え渡る魂魄までもを、深海の如く底光らせている。
幾筋もの雨を伝わせたその顔。どこか険しい、冷徹な眼に見えた。その眼差しが強靭に引き絞られると、以降の所作は、すべてが絵になるようであった。不安定な足場にも関わらず、片腕でドリームフライヤーの柱に掴まりながら、右手を心臓の上に当て、そのまま深く腰を落とし——不動の最敬礼を、沈黙のうちに、キャプテン・デイビスへと捧げる。
それが、初めての敬礼だった。彼女の時代に、飛行士同士が出会った際の敬礼など、存在しない。いや、そもそも、空を翔ける人間自体が——皆無。当時、気球以外の方法で飛行を経験していたのは、人類の中でも彼女ただ一人であり、同じ情熱を持った飛行士は、地球上のいずこに見出すこともままならなかった。
それゆえに、その伏せられた面から向けられる激しい眼差しは、時空を超えて、果てしなき彼方に聳えるポート・ディスカバリーを穿つ。間もなく、人類はライト兄弟の有人飛行を契機に、その飛行機の設計技術を確立し、血みどろの世界大戦における、数十万機に及ぶ軍用機の製造、革新的なジェットエンジンの発展を経て、その航空史の最果てに、この堂々たる飛行型観測気象ラボを据える。もはやストームライダーは、巨大、精緻、複雑怪奇、膨大を極めた、人類の高度科学技術の大伽藍にまで到達した。力学、設計、技術開発、実験、運用は言うに及ばず、部品の一々の製造からその組み立てに至るまで、幅広い分野の技術を結集させねば、その記念碑の実現は不可能である。
窓の一枚、パイプの一本、螺子のただ一つにすら宿る、測り知れぬまでに膨大な知識と経験が込められた、その成果。それはすべてを圧倒する巨躯となって、眼前に君臨する。その超越的に輝く白銀の塗装を見れば、一目で理解できる。飛行という理不尽を叶えるために——人類は、どれほどの情熱を費やさねばならないのか。その鋼鉄に纏わる巨大な歴史を、彼女が目撃することはない。すべては、彼女の後に生まれ、次世代を担う人々が繰り広げるものなのである。ゆえに——荘厳な銀の光に照らされ、彼女は静寂を貫かざるを得ない。沈黙。あたかもそれは、愚かさと英明の道を歩み続ける、未来の膨大な人間たちの悲喜劇に拝跪するかのよう。今さら、膝を折る以外に何ができよう、彼女が一指だに触れることのできない領域で、その壮大な叙事詩は幕をあげるのだから。
その時間の厚みを汲むように——彼女の敬意はただ一人、深々と藍色の艶を滑らせるビューポートに防護された、キャプテン・デイビスのみへと捧げられる。未来の都市、ポート・ディスカバリーに。カメリアは深く腰を落とし、貴人に相応しい慇懃さと、果てしなく悲壮な凛気を漲らせ、パイロットに向かって、最大限の敬意を露わにした。瞻仰を受ける彼の横顔は、放電管のブルーネオンに照らされ、その秀麗な顔立ちを、鋼鉄の如く雄壮に見せていた。
一拍を置いて、その男が、ゆっくりと挙手の答礼を返す。真っ白なグローブが、視界の端に持ちあがり、手首の白蝶貝の釦を光らせ、完璧な角度を描いて敬礼を形作る。その玻璃のように澄んだ眼差しは、己れと相対する先駆者へと向かって、極めて慎み深い敬意を捧げた。歴史深き、メディテレーニアン・ハーバーに。祈るようにひれ伏したその男の眼差しは、霊的なまでにうやうやしい光を帯びる。
向かい合う歴史の両極が繋がり、終わらない軌跡を描く。あたかもそれは、メビウスの輪の如く。そしてその敬礼を通じて、もはや未来も過去もない確かな情熱が、見交わす瞳に、焰の如く籠もった。
今はただ、互いに敬礼を交わし合う中、魂を結びつけるのは眼差しだけ。
嵐のうちに大小の両翼を広げる、竜の如き二機の飛行機の、その異常な隔たりに呑まれる寸前で、しかし瞳に宿る妖しい熱が、大空の中で対峙する二人の飛行士たちを、辛うじて引き裂くことから妨げていた。
永遠の如く、敬礼の姿勢を崩さぬ二人。不意にカメリアが、その紅い唇をふっと綻ばせると、微笑んだ。
「ねえ、デイビス?」
「なんだ?」
「本当は今、泣きそうなんでしょう」
「……うるせー」
答礼の手を震えさせつつ、堪えるようにそう呟くデイビス。そんな彼から目を逸らすこともなく、カメリアはその顔を雨に濡らしながら、堂々と囁いた。
「良いのよ、泣いたって」
デイビスは、微かに目を見開いた。ストームライダーの放つ銀の光の中で、雨の音が、強くなった気がした。その躊躇いを受け止めるように、カメリアは優しく、首を傾げて。
「これまでストームライダーは、空を飛ぶ唯一のアトラクションだったでしょう? でも今は、ソアリンができたんだよ。ほーら、TDSでいちばん心強いあなたの仲間が、ここに」
「こ、心強いか? あんたが」
「少なくとも、一緒に空を飛ぶことはできまーす」
「はは……でもな、カメリア。ソアリンがグランドオープンした時には、ストームライダーはもうクローズしちまってて、——」
「本当に? StormRider Forever、なんでしょ?
冒険は、けして終わることなんてない。
飛べるよ。
私たちは、何度だって、この世界で一緒に夢を見ることができる。絶対に、ひとりじゃない」
———光の雫が、心に弾けたような気がした。
カメリアは、デイビスを見る。
デイビスは、カメリアを見る。
世界史も、航空史も、さらにはパークに刻印された歴史も超えて。
————あの青空の下で。
確かに筋書きを超えた物語が、幕を開けた。
「私たちの出会いは、ありえない出会いなんかじゃない。思い描けばいつだって、一緒に空を飛べるんだよ。
それにね、デイビス。ストームに立ち向かう勇気が欲しいなら、私よりもっともっと大切な人たちのことを、忘れているんじゃない? 彼らがいなければ、東京ディズニーシーは絶対に完成しないんだから。そうでしょう?」
「……俺の……大切な人たち、って」
「あらあら、デイビス、どうしちゃったの? あなたを支えてくれる仲間は、まさかこれで全員だなんて思ってはいないわよね。ほら——胸に手を当てて、思い出してみてよ。この小説が、最初に書かれた理由」
「え?」
カメリアは指を折って、歌うようにそれを数え始めた。
「その一。初めて乗ったソアリンがあまりにもエモすぎて、こりゃあ小説にしなきゃいかん、と勝手に思い立ったから。その二。執筆ついでに、TDSのBGSも調べたいなーという、個人的な欲望の捌け口」
「オイ。誰が興味あるんだ、そんな情報」
デイビスはずる、と傾きながら、延々と続けられるその言葉を聞く。
「その三。ストームライダーは終わらない。もう一度、たった一度だけで良い——あなたと一緒に、ポート・ディスカバリーの空を飛びたいという夢が、今もゲストの心の中に光り続けているから」
その瞬間————
デイビスの瞳の奥から、燃えるように熱いものが滑り落ちた。
そして、よみがえる。空から降りそそぐ光ほどにも熱いその希望が、何を照らし出しているのか。この胸を満たし続ける情熱が、どんな思い出によって支えられていたのか。
「忘れないで、デイビス。かつてあなたと冒険したゲストはみーんな、ストームライダーを愛してるの。終わることのない物語の中で、いつだってあなたは、最高の主人公なんだよ。この先、ディズニーシーがどんなに変わったって——ずっとずっと、大好き。誰よりも明るく笑うあなたに出会って、あの日みんなが、あなたに恋をしたんだから。
さあ、用意はいい? ゲストの期待にお応えして、もう一度、ストームライダーの出番よ。ほら、キャプテン・デイビスは負けないんでしょ。ふざけてばかりのお調子者で、チャラくて、みんなを振り回して、生粋の問題児で———最高に、カッコいいんでしょ。
飛ぼうよ、デイビス。もう一度、そのカッコいい姿を、私たちに見せて。ゲストはあの日と同じように、ストームライダーに乗るのを夢見てるの。
この先に、ワクワクするような冒険が待っていることを信じて———
———みんなの夢の続きを、叶えに行こうよ」
闇を切り裂くように、未来へと響かせるように、彼を勇気づけるカメリアの声を耳にして。
呆気なく。あまりにも呆気なく。
目尻いっぱいに溜まった涙で、目の前が、霞んでいった。
「…………あ…………」
気づいたら、堰き止めていた何もかもが、ボロボロになって両頬を伝っていた。瞬く間に視界を歪ませるそれは、泥臭い感情の決壊、と呼べるのかもしれない。喉が詰まって言葉が出なくなり、唇を噛み締めたのに止まらなくて、嗚咽すら突きあげてきた。自分は絶対に酷い顔をしていると、分かっているのに——それでも最後の夜、パイロット席への声援と拍手で沸き立つ、あの瞬間が忘れられなくて、込みあげる思いが滂沱の雫となって、止まらなかった。
デイビス。
母親のように呼びかけるカメリアを前にして、気を張っていた何もかもが、晴れて、剥がれ落ちてゆく。けれども、泣き崩れる彼に手を差し伸べるのは、彼女一人ではない。遠い昔、観測デッキに乗り込んで目を輝かせ、彼と冒険をともにした——背後にいる、数え切れない人々の夢を見る力が、時空を超えて、ストームライダーの翼を無限の大空へと飛翔させるように。
カメリアはドリームフライヤーの上で、じっとデイビスの姿を見守っていたが、やがて深い眼差しをそそいで、語りかけた。
「デイビス——あなたの願いを、分かっているよ。この街も、みんなのことも、大好きなんだよね。だからストームライダーのパイロットになることを、夢見たんだよね」
「ああ……」
「同じだよ、みんなだって。ストームライダーを大好きになって——みんな、あなたともう一度冒険したいって思ってる。ね、一緒に——乗り越えようよ」
「……ああ……」
幻のカメリアは、静かに手を伸ばして、雨の雫とともに美しい艶を滑り落としている、藍色に透徹したビューポートに触れた。最先端の科学技術を費した、あまりにも巨大すぎるストームライダー。その巨体を前にして、ドリームフライヤーも、カメリアの手も、まるで威厳に溢れる銀竜と対峙した、至極小さな白鳩のような存在に過ぎない。
なのに。
そっと、ビューポート越しに手を重ね合わせると、これ以上に暖かいものはないんじゃないかという感覚に囚われる。瞳を満たす揺らめきの彼方で、カメリアは微笑んでいた。圧倒的な鋼鉄の照り返しを受けて、その半身を、神々しい白銀の燐光が滑り落ちてゆく。
絶大と、極小。
重厚と、簡勁。
銀灰と、純白。
未来と、過去。
すべてが相容れない、二つの飛行機の対峙。けれども伸ばした手は、ガラス越しに重なり合って。デイビスの緑色の瞳に映る、カメリアの紅い唇が、ゆっくりと開かれる。
「私の夢は、あなたと一緒に。あなたの夢は、ゲストとともに」
紡がれる言葉は、まるで詩のように。
嵐に塞がれた彼の胸へ、黄金の文字が刻まれてゆく。
デイビスはその言葉の放つ確かな力に導かれるように、震える声で、ゆっくりと囁いた。
「あんたの夢は、俺と一緒に」
「あなたの夢は———」
「———みんなの中に」
「そうして、夢を分かち合いながら、同じ階段を登ってる。私の夢は、あなたが受け継ぎ、あなたの夢は、ゲストたちが受け継いだ。これから、夢は芽を吹き、潮風に揺れ、大きな花を咲きこぼす。夢は終わらない。どこまでも続いてゆく。明日も、明後日も、さらにその明日も。その先に、人々のイマジネーションがある限り」
すべては、戯曲を超えて動いてゆく。受け渡されてゆく。
出会った数だけ、彼の胸の中で揺れ動く思い出は、どれほどの時が経っても色褪せない。
「なあ、カメリア。あんたはどうだ」
「私?」
「俺はあんたに、夢を与えられたか?」
ぱちくりと、軽い瞬きをひとつ残すと、カメリアは満面の笑みを咲き誇らせ、
「———もっちろん。とっくの昔にね!」
と得意げに胸を張る。それを聞いて、デイビスも思わず、プッと噴き出し、信じられないほど力強い笑い声を響かせた。腹を抱えてけらけらと笑う彼に、からかわれたと感じたのか、カメリアは不満そうに眉を寄せる。そしてデイビスは、目尻の涙を拭うと、いつもの太陽のように眩しい、あの屈託のない笑顔で。
「バーカ。それはな、こっちの台詞なんだ。
———俺だって、初めて会った時からずーっとずーっと、あんたからたくさんの夢を貰っていたんだよ!」
迷いはすべて浄化され、空の彼方に吹き飛んでしまった気がした。本当に——暗雲の垂れ込める中でも、その笑顔は、雲間から差してくる陽射しをばら撒いたよう。向き合うカメリアも、ふたたび、嬉しそうに頬を綻ばせる。
涙を睫毛に光らせながら、酷く懐かしそうに、顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた今——自分に与えられた役目は、果たしたのだと。
そう理解したカメリアは、穏やかに微笑み返すと、す——と、ビューポートから手を離した。
「ではでは、私は、地上に帰りまーす。無事に生還してね、デイビス。あとアレッタのことを、くれぐれもよろしく」
「こんな短い出番で満足か、カメリア?」
「うんうん、この章、まだ先が長いし。ここで文字数を費やさずに、とっとと退場した方がよさそう」
「世の中の小説って、こんな風に書かれてんのかなあ」
「よそはよそ、うちはうち、よ」
カメリアはドリームフライヤーを地上へと向きかけて、ふと、何気なくストームライダーの方を振り返った。
「あ、そうそう。読者サービスのおまけってことで、ついでに、何か願い事を叶えてあげてもいいわよ。ただし、願いは三つまで」
「なんだ、その投げやりにすぎる突然のサービスは」
「お得ですよお、小説ならなんでもアリだもん。カメリアとハッピーエンドを迎えたい、とかでも」
「馬鹿ッ!! あんたって奴は、ほんっとーに、馬鹿だッ!!」
「願いを増やせという願いは、受けつけません」
「俺はそんなに欲深じゃねえよ」
「ちぇっ、つまんない人だなー」
デイビスは微笑んだ。相も変わらずたわ言しか口にしないカメリアだが、躍るように心が変わっていることに気づく。
「なあ、カメリア? あんたに叶えてほしい願いが、たった一つだけあるんだ」
「なになにー?」
両手をあげて元気よく答えるカメリアに、デイビスは、ニッ、と悪戯そうに口角をあげて言う。
「俺と一緒に、飛んでくれるか?
もう一度、この大空を———どこまでも」
一瞬の静寂の後、カメリアは、にぃ、と唇を吊り上げて、彼に応える。どこまでも無邪気に、楽しそうに。嬉しくて嬉しくて、堪らないように。この広い地球上で、ようやく、たった一人の同じ魂の人間を見つけたような、そんな喜びが、太陽の如く満ち溢れている笑顔だった。
「行きましょう、デイビス。あなたの知っている世界を、私に見せて。あなただけが、私をそこへ舞い上がらせることができるから」
彼女は、告げる。
出会った日と、同じ言葉を。
あの、どうしようもなくドキドキして、ワクワクして、冒険の始まりを告げる言葉を。
カメリアは———
カメリアは、今、俺と同じ世界に生きている。
この嵐の中で、俺の無事を祈り続けている。
夢じゃない。まばゆい、あのどこまでも汚れのない瞳は、今も同じ稲妻の先に向けられているのだろう。激しい雨風の中で、同じ時間を、彼とともに闘ってくれているはずだった。
(——————さあ、一緒に飛ぼう!)
その一瞬で、ドリームフライヤーの姿は掻き消えた。けれども、何もかもがなくなったわけじゃない。操縦桿を握る手に、不意に、すべての人々の優しさを込めた手が、重ねられた気がした。激しい豪雨が叩きつける中、静けさに包まれたようなその手にだけ、どこからともなく、じわりと暖かい熱が広がってゆく気がした。それは凍てついていた彼の心の氷を溶かし、響き合う情熱を伝えてくる。
「……みんな……」
デイビスは、掠れ声しか出ない喉で、小さく呟いた。
消えかかっていた希望が、嘘のように心に満ち溢れてくる。
守ろうとしていたもの。守りたかったもの、守れなかったもの。あの日、ゲストとともに立ち向かった荒れ狂うストームの中で、守ろうと決意したもの。そのすべてが、渾然として胸に渦巻き、未来へと繋がってゆく。
そして。
背後を振り返る。
誰もいない観測デッキ。伽藍堂で、薄暗く、立ち並ぶ金属製の椅子には、誰一人として座る影などなく。
けれどもそこには、忘れられない思い出がある。
束の間のあいだ、彼と運命をともにし、命さえ賭けてくれた、あの夢いっぱいの人々。家族もいた。恋人もいた。友人同士も、老人も、ひとりで俺に会いにきてくれた奴も。みんなみんな、ストームライダーが大好きな奴らだった。
彼らの心の中に、俺が生きているように。
俺の心の中にも、彼らが生きている。
互いに分かち合った夢は、今も、心に途絶えることなく。
「スコット。そこにいるか」
デイビスは静かに、マイクの向こうの人物に語りかけた。
『ああ。ここにいるぞ』
落ち着き払った、威厳に溢れた声色で。
相棒の声が、それに応える。
「呼んでくれ。俺の名前を」
『どうした? 餓鬼にはミルクが必要な時間か』
「馬鹿言え。単なるコミュニケーションだろ、こんなもん」
スコットは、軽く肩を揺らした。この青年とも腐れ縁なのか、出会ってからの月日の中で、確かに、数え切れない会話をした。
そうして培ってきた思い出は、まるで、宝物のように。
『デイビス。……頑張れよ』
きっと、胸の中に輝き続けるから。
————弾かれるように、彼は顔をあげた。
「待ってましたぁ! さあ、見てろよ、みんな! 行っくぜえ、ストームライダーII、リクエストにお応えして、夢のリバイバル・マッチだ!」
張りのある快活な声とともに、ストームライダーの冒険が———もう一度、幕を開ける。
真っ直ぐ、果てなく、突き抜けて。
すべてがその重々しい光輝に、尋常でない快哉をあげる。
爆発的な推進力を得て、機体が閃く。燃えあがる熱気。轟音は、宙を斬り裂く証跡となり、周囲の摂理が両翼にひれ伏した。すべてが分かち難く融合したかのような一体感が、ストームライダーに取り憑いた。エンジンから発せられる凄まじい高圧ガスの衝撃波に、海水が噴き上げられ、一挙に怒濤の道を空ける。天井から点滅する、機器のライト。それは、デッキに並ぶ夥しい空っぽの椅子に、金属的な反射を投げかけながら、もう一度、あの頃をよみがえらせようとする。デイビスが思い描くと、魔法がかかったように、そこにはたくさんのゲストたちが笑顔を浮かべて座っていた。
この燃えあがる力は何だろう?
嵐は何も変わっていないはずなのに———
もはや怖いものなど、何もなかった。
ストームライダーは生きている。
終わっちゃいない。何もかも。
迸る昂揚感。誰にも止められない。ああ、そうだ。そうだった。この感覚を味わいたくて、ストームライダーに乗っているんだ。蘇る、すべて。俺が魂を捧げてきた、すべて。胸が躍る。血潮が、滾る。心臓を叩く鼓動が、生きている、と強烈に告げるようで。
「ひゃっほーう!」
轟、と凄まじい風切音を立てて、デイビスは取舵を切った。乱暴な速度に機内が揺さぶられ、硬い背凭れと背骨がぶつかり、覚えず肘掛けを攫む。隣人の手と触れそうな狭さ、硬く冷たい金属の触感に、あの懐かしい冒険の感覚が、じわりと込みあげてくる。百二十二の椅子の立ち並ぶデッキの前方には、コックピットと観測デッキを隔てる、美しく磨かれたポール。その下から——キャプテン・デイビスとベースのやりとりは、まるで勇気づけるように機内に響き渡る。
『ストームライダーII、そこは進入禁止です』
「すぐ戻るって!」
厳しい警告と相反する、声変わりしたての少年のように軽やかなテノール。
めくるめく期待が、胸を天翔けて、抑えきれない。
ビューポートの向こうには、激しくうねる大海。その波は悪魔のように狂暴だったが、もしも暴風雨でなければ、見えてくるのは、軽やかなヨットやフェリーが疾駆する湾だった。蒼穹に映えるそのまばゆい色合いは、限りない冒険心を駆り立てる。太陽が目に滲むよう、波を掻き分けて近づくフェリーの頭上で面舵を切り、ぐん、とかかる横Gとともに、新たに鼻先まで迫ってくるヨットの帆を、まるでその翼で切り裂くように、衝撃波で激しく打ち靡かせる。さらに面舵へ、機内が大きく傾く。細長い半島に繁った緑葉樹が風に嬲られて、激しく幹をしならせた。
「おぉっとぉ! ストームライダーIIが鼻の差でリードかぁ!?」
急カーブを駆使してあの日のストームライダーIに追いつきながら、エンジンの噴射する轟音とともに、デイビスの叫び声が、青空の下に心の一切をさらけだすかのように響き渡った。観測デッキに座る者たちは、次第に、このパイロットの腕に魅せられてゆくのを感じるだろう。そう、型破りに見えて、その裏に培われた圧倒的な実力が、ゲストたちを嵐から守り抜いている。
やがて広がってゆく視界。透き通る碧洋の沖合いには、躍るような幻が広がってきた。
量り知れぬ水平線まで充溢する青波の合間から、高らかに飛び跳ねる、何十頭もの野生のバンドウイルカたち——流線型の肢体から突き出る背びれが、透明な水を掻き分けて真っ白に攪拌し、破裂するように精気を含んだ泡沫が、無限に波を創造する大海原を煌めかせた。揺れ動く波紋のうちから輝かしく飛び出してゆく、命の群れ。そしてそれらの向かう先には、海の遠い彼方に、高層建築物の聳え立つ科学都市の翳が見える。
嵐のさなかでも、その幻想は美しい。いや、嵐だからこそ——この海の秘める、無限のロマンを掻き立てて、イマジネーションは止まらない。もっと遠くへ、もっと速く。海に纏わる物語も、伝説も、すべてがこの上に輝いていた。
(なあ。みんな、夢を見ているんだよな)
バレルロール。ゲストを乗せていればけしてあり得ない螺旋状の動きに、重力と遠心力が入り乱れて、全身を襲った。
なのに、悲鳴と歓声が聞こえた。荷物ネットに入れたバケットの中のポップコーンが跳ね回る。うねる海面を白浪が荒れ狂い、そのぎりぎりを、切り裂くように飛行する。サービスだ。軽く翼の先で海を掬いあげると、水飛沫が、夢のように降りかかった。一瞬の虹がかかり、きらきらと乱れ、散らばってゆく。先ほどまでの悲鳴は、感嘆の溜め息と、笑い声に変わる。
(みんな、俺と一緒にいてくれるんだな。そうだよな。もう一度、乗りたくて乗りたくて、仕方なかったんだよな)
いつのまにか、不安が消えていた。
そんなものは始めからなかったかのように、胸は勇気と希望ではち切れんばかりだった。
キャプテン・デイビスの乗客の方々は、どうぞご無事で——そんな祈りにも似たプレフライトクルーの言葉が思い出されて、唐突に、笑いが込みあげる。そんなの、もう遅い。百二十二名のゲストたちはみんな、俺の機に乗っちまったんだ。スコットやベースが何を言おうと、みんなは、この俺に会いにきたんだ。邪魔などけしてさせやしない、俺のゲストだ。全力で楽しませてやるよ。
(みんな、今もこのストームライダーに乗って、一緒に冒険しているんだよな。俺だって、君たちとの思い出を、けして忘れたことなんかないさ。
なあ、覚えているか。あのミッションの日——あんなにもワクワクした表情を浮かべて、君たちと俺が出会ったのを。
運命の出会い、って、ああいうのを言うんだろ? 観測デッキに響き渡る君たちの笑い声を聞いて、大人しくフライトする気分なんざ、吹き飛んじまったんだ。
ま、ベースには、絶対に無茶をするな、って釘を刺されていたんだけどさ。でもそんなの、関係ねえよな。俺は君たちに、とびっきりのフライトを経験させてやりたかったんだよ)
アレッタが肩に爪を立て、高く鳴いた。
「おおっと!」
身を竦ませるような擦過音。間一髪——しかし誰もが分かっている、このパイロットは、その程度に衝突する力量のはずがないと。回避のために機首を落とすと、ぐん、と下腹にシートベルトの喰い込む感覚。途端に、一気に片翼をもがれたように、ストームライダーは重力の引き寄せるがままに、錐揉み状に吸い込まれてゆく。泡立つ海が鼻先まで近づく——激突する! その怖ろしい緊迫感とは裏腹に、海面に叩きつけられる寸前を見極めたデイビスは、口角を吊りあげたままラダーペダルを踏み込み、そのまま、両翼が海に対して垂直になるよう、機体を九十度ロールさせて飛行した。ハーネスがなければ、椅子から転げ落ちてしまいそうだ。右舷エンジン、出力最大、左舷エンジン、出力減。髪が逆立って空中に放り出される中、尾翼のラダーを最大限に利用し、ピッチアップを昇降舵で強引に相殺、流麗としか言いようのない姿勢を維持し続ける。
ベースは呆気に取られた。ナイフエッジはシンプルに見えて、非常に高度な曲技飛行だ。主翼の揚力を失うがために、力業で飛行しなければ、重力に引きずられてずり落ちる——それを、このような低空飛行で、軽やかに披露するなどと———
ありえない。
こんなことを、ストームライダーができるはずがない。
そう、あの頃と同じアトラクションであれば。
「あっははは! おいアレッタ、これがストームライダーの最新のフライトなんだ。こんな飛び方、体験したことなかっただろ? 帰ったら、お前のご主人様に話してやれよ!」
潮風のように爽やかな笑い声がコックピットから響き、ぐん、と機首を持ちあげて機体をループさせたデイビスが、肩に載った隼と顔を見合わせると、きゅい、と真っ黒な瞳が彼を見つめた。アレッタも楽しんでいるみたいだ——大きく翼を広げ、風を切るようにその羽を震わせている。
ここに乗った人々、ひとりひとりの顔を思い出せる。外の舞いあがるミストに濡れてきた学ランの高校生も、友人に連れられてきた絶叫嫌いも、ペアルックのカップルも、小さなプリンセスも、プロのストームライダー・ファンも、往年を懐かしむ老夫婦もいた。あーあー、はしゃいじまって、と肩をすくめて眺めていたが、プレフライトクルーの話を聞く間もなく、すぐにシートベルトを引き出し、宙に浮いた足をぶらぶらさせるのを目に留めて——ああ、その何気なく揺れる足、そしてビューポートシールドの先に向けられた笑顔が、何よりも喜びを物語っているって知ったんだ。ベースに怒られてばっかりの俺に負けず劣らず、みんなも揃って、無鉄砲な奴らばかりだったよな。君たちのような冒険家に出会えて、本当に嬉しかったよ。
(なあ、みんな。俺がコックピットのパイロット席から、ずっとディスプレイ越しに君たちのことを見ていたって、気づかなかったろ? 君たちが、まだ見ぬパイロットに、限りない憧れの眼差しをそそぐように。俺も君たちのことを、愛おしいくらいにひとりひとり、大切に見守っていたんだ。
君たちは、隣の席の奴とわいわい話しながら、口々にこう言ってたよな。
ストームライダーが発進する瞬間、最高の冒険が始まる予感がする。
これは本当に、ワクワクが止まらないアトラクションなんだ——って。
え? そんなこと昔すぎて、全然覚えちゃいないって?
でも俺は、何ひとつ忘れていやしないんだ。
だって、あの時の君たちときたら、少年みたいに好奇心でいっぱいの顔をしていたんだぜ)
ブォン、と轟く風切り音を残して——ストームライダーは、海を疾駆する。まるで海の魔の手から逃れながら、その鈍重さをからかうように。その飛行機は、異常な瞬発力と機動力で、荒々しい潮の匂いを浴びた。
豪雨により、蜂の巣めいた穴で埋め尽くされた海面は、烟る霞と白波によって、縦横無尽に散ら白けて見えた。けれども彼方には、この機のパイロットの故郷たる、近未来的な都市景観が広がっているのである。その比べるもののない発展ぶりを一目見れば、あまりに強大な富と甚だしい進歩に、異世界に迷い込んだかの如く感じるであろう。白煙に包み込まれた機械生産基地や、計算し尽くされた輸送機関、最先端テクノロジーを駆使した実験農園、西海岸一の面積を誇る図書館。その合間で、人々は洗濯物を干し、品種改良されたトマトを囓り、広場の片隅で議論を重ね、路地裏から太陽を見あげる。それが、彼らの日常だった。デイビスも、スコットも、ベースも生きて生活する、そこは外からの訪問客たちには未知の世界。何もかもが巨人的で、何もかもが革新的。産業革命時の英国の如く、絶え間なく煙があがり、次々と真新しい明日の希望が産出されている。
(あの時、俺は密かに誓ったんだ。君たちに、この無限大の世界を見せてやる。俺の故郷も、そこに生きる市民たちも、どんなに溌剌として前を向いているのかって。
なあ、見えるだろ?
この世界が、どれだけ美しいのか。どれほど果てしなく広がっているのか。
みんな、この街に冒険しにきたんだろ? その夢を、叶えてやるぜ。俺の生きてきた世界を、みんなに見せてやるよ)
フローティングシティ。今は荒れ狂う波に濡れそぼった、人影のない海上浮遊都市だが、きっと陽光の降りそそぐ下では、合成ドリンクに挿したストローを咥えながら歩く科学者たちが、潮風に白衣を翻して、手を振ってくれる。ストームライダーは緩く旋回して、ビューポートや窓いっぱいに、発展的な街の様子を見せた。目に飛び込んでくるのは、重々しく、どこかアカデミックで、開放的で、暖かみのある街だった。海の匂いが漂う。明るい陽の光が射し、あの特徴的な、懐かしい青緑と金銅の色彩が、ポート・ディスカバリーを郷愁で彩っていた。地上五百メートルまで達するバベルの展望台、気象の電波を集めるパラボラアンテナ、パラソルの下で飲むパイナップル ・スムージー、ガラス張りの研究所には渚の波紋が反射し、その揺らめきには目を奪われるほどだ。みんなが生き生きと歩いている。何も憂うことはなく、何も悲しむことなどないように。ストームライダーに乗っている人々には、この時代を懸命に生きる彼らの笑顔が、愛おしい宝石のように見える。
目の前に雄大に広がるのは、建設中の空中都市。完成した暁には、史上類を見ない規模となるだろう。空中港はさらに繁栄し、ポート・ディスカバリーは国際的な経済の中心地となり、さらなる人間が、物資が、膨大に流れ込む。出発の轟音が響く中、整備隊が軽やかにグライダーを操って誘導棒を振り、人々は空中に居住し始め、目覚めたならば、透き通る窓ガラスの遙か彼方、地球の果てに昇る真新しい曙光を望むだろう。黎明と戯れるウミネコの鳴き声や、無数に舞いあがる飛び魚の銀鱗、海上を滑る朝霧の上を、儚い光芒が揺れ動いて。未来の理想郷は、空の街へ。飛行船が影を落とし、ドローンが太陽光発電を行い、子どもたちの飛行型模型が空を飛ぶ。ここで人々の見た限りない夢は、科学を通じて、現実のものとなる。
晴れた真昼には、全長数百メートルを超過する航空貨物船が、上下反転した巨大な艇体へ、美しく塗装された真紅の外壁を輝かせながら、大空を行き交うのが見えた。ヘリウムガスを充填した真っ白な気嚢が、特殊ネットを張り巡らされた艇底からちらついている。それはまるで、宙に群れながら鋼鉄の歌を奏でるクジラたち。ストームライダーは、その合間を果てしなく自由に泳ぐ、銀のカジキのようである。素晴らしい風切り音を立てて、貨物船の間際を驀進。幾つもの国際信号旗を棚引かせる、カプセル状に突き出た操舵室に挨拶をすると、そのガラスのドームで航海の先を見つめる船長は、必ずストームライダーに敬礼を行った。
ここに足りないものなんて、何もない。
すべてが満たされている。
なあ、ワクワクするだろ? このマリーナをすみずみまで探検してみれば、きっと君たちも分かるぜ。ポート・ディスカバリーは本当に、どこよりも素晴らしい街なんだ。
自分の愛する故郷を見下ろす、圧倒的な歓喜。機内に痺れるようなネオンの光が走ると、ぞくりと心が浮き立った。進むべき道筋を、真っ直ぐに見据えて。
みんな、飛びたいんだよな。こいつに乗りたかったんだろ? さあ、全力疾走だ!
「ストームライダーII、最高速度! 行っくぜえ———!!」
時が止まったかのように浮遊感が支配する中を、一気に、突き抜ける。びりびりと走る震撼を爽快感に変えて、全身の血潮を滾らせる。ストームライダーの唸りが心臓に響き渡り、圧倒的な重厚感で鼓動を支配した。もはや機関車の剛力の如く。その破壊的な轟音が体を突き抜ける時、巨大な音響が自らの心臓の猛りだと錯覚し、強制的に昂らざるを得ない。果たして地上のどれだけの者が、この最高速を引き出せるというのだろう。凄まじい馬力が漲るとともに、ストームライダーIIは覇者の如く天空を翔け抜ける。
床一面が、一同に振動した。高まるシステム稼働音。ターボファン・エンジンが高圧ガスを最高度に圧縮して渦巻かせる、その激しいわななきが、何重もの鉄板を通じて、神経を麻痺させるように伝わってくる。滑り止めをつけたその床を踏み締め——雨粒で少し濡れていて、キュッと甲高い音がした——一気に、突っ切れ! 爆発的な威力とともに、信管が叩き起こされ、着火を促進。ストームライダーの内部に尋常でない焰が燃え盛り、ガスの温度を一瞬にして数十度跳ねあげ、瀑布の如き勢いで噴射する。
荒れ狂う嵐の中でも、彼の進撃は止まらない。もはやデイビスは、一個の光輝の化身だった。髪はばらまくように風に洗われ、輝きに満ちた双眸は、どこまでも己れの信念を燃やし尽くす。その眉が、前触れなく跳ね上げられたかと思うと、まもなく、息を呑むほどに鮮烈な笑みに変じた。
できないことなど、何もない。
空を飛ぶために、生まれてきたんだ。
この夢の海に生きる俺たちの魂は、自由なんだ。
そう確信する端正な貌には、傍若無人な光芒が漂い始め。浮薄と紙一重の奔放さを糧に、なお一層のこと——情熱の火花が、彗星の如く全身を灼き尽くす。
圧倒的な存在感。息すらできない。輝いて、輝いて、その果てに魂を絞り尽くしても良いと思えるほどに絶大な栄光を背負って、彼は強靭な磁場として生きていた。嵐すらも、自身を引き立てる舞台であるかの如く。目の光、勝ち誇った笑み、激しい精神、そのすべてが常人のものではない。
それは、永遠のヒーローだけが持つ輝きだった。太陽そのもの——すべてがひれ伏し、そのまばゆさに引きずり込まれる。一介の人間に過ぎぬ生命が、なぜこんなにも光り輝くのだろうか。艶やかに、強烈に、傲然と微笑する彼と対峙して、その場に佇んだままでいられる者など、一人もありはしない。そして、その双眸の目覚ましい意志が、眼底を眩しく射抜き、魂を光で染め尽くす。まるで、光の嵐だった。自身のまばゆさに溺れながら、何もかもに情熱を刻みつけるよう、その活き活きとした姿は、すべての人間たちを飛翔の感動に打ち震わせ、限りない大空へといざなった。光が、光を導いてゆく。そう信じ込むほどに、彼の存在は驚異的だった。
自由の眩暈。自由の彼方。その先を、白銀の翼が疾駆する。圧倒的な浮遊感と重圧が、目をあざむくほどに全身を包み込む。それを突き破るように、一気にデイビスは、レバーを叩き込んだ。フルスロットル、しっかり掴まってろよ! ぐん、と高度が急上昇して、体が座席に押しつけられる。これほどの上昇角度で急加速するなど、誰もが体験したことのない領域である。みんな、シートベルトは着用してるだろ? 黄色い紐を引っ張って、プレフライトクルーに、誇らしげにそいつを見せたよな。この先に、素晴らしい冒険が待っているんだ、それを期待していなかったとは言わせないぜ。
よみがえってくる、かつての光景。全身に襲い掛かってくる凄まじいGに高揚しながら、デイビスはそれを脳裏に思い浮かべていた。
初めてのミッション。観測デッキにゲストを乗せると聞いた時は、嬉しくて嬉しくて、はしゃぎ回った。俺のストームライダーに、人々が乗ってくれる。彼らは必ず、俺の飛行機を愛してくれるだろう。早く、大海原の彼方へと連れて行ってやりたい。晴れ間の向こうから射してくる太陽を浴びて、まばゆいほどに輝く目を見たい。逸る心臓をおさえて、ポート・ディスカバリーを駆け抜けた。息の弾む彼を中心として、めぐるように夕暮れの蒼穹が躍る。それは、俺が知っている街だ。そこが、俺の愛している街なんだ。永遠に未来を目指す場所。勇ましい壮麗な交響曲がスピーカーから響き渡る中、暑い空を見あげて、すれ違う女の子をからかって。紅い絨毯を思わせるアスファルト、たなびくフラッグ、金属製の椰子の木、銀色に伸びるポール。アクアトピアに弾ける笑い声を聞きつつ、ホライズン・ベイの前の桟橋を渡り、潮騒のさざめきに呑み込まれ、目の前に聳えるあのCWCの金色のドームが見えてきた時には、本当にドキドキしたもんだ。
————なあ、みんなだって、そうだろ?
いつだってストームライダーは、最高にワクワクさせてくれて。そうさ、誰もが俺の飛行機に憧れて、こいつのカッコよさに夢中になったんだ。みんな、忘れられない思い出があるだろ? 突き刺さるストームディフューザーに恐怖したり、煙や水飛沫の中で揺さぶられたりして、とびっきりの笑顔をこぼしただろ? 何年経っても色褪せることのない、素晴らしいロマンの詰まった飛行機だったよな。
もう一度、乗ろうぜ。
大丈夫、夢を見れば何度だって、そこに辿り着けるさ。俺たちに必要なのは、冒険心と、イマジネーションだけだ。それがあれば、君たちと俺のフライトは、永遠なんだ。
ストームライダーは生きている。
さあ、準備はいいか?
俺と一緒に、最高の冒険に出発するんだ!
「こちら、ストームライダーII、キャプテン・デイビス! みんな、観測デッキから、最高の笑顔を俺に見せてくれ!」
ストームライダーIIのコックピット・レコーダーから送られてくる映像を見て、ベース・コントロールの人間たちは一同に呻いた。ああああ、またストームライダーIIが大暴走している。以前、ポート・ディスカバリーの市長から、厳重注意を受けたというのに——その一方で、難渋を極めるはずの操縦は、嫌味になるほど卓越していた。
「……クライマーズ・ハイならぬ、フライヤーズ・ハイ、って奴ですかぁ——?」
「……これ、ゲストが乗っていたら、嘔吐する奴が続出だな」
呆気に取られるペコとアンドレイ。ベースは頭を抱えながら、ゆっくりと呟いた。
「スイッチが入れば、どこまでも力の出せる子だというのは知っていましたが……しかし、これは……」
さて、帰ってきたらどんな処罰を下すべきなのだろう。活躍に免じて見逃すべきなのか、それとも——ぐるぐるとベースの頭を思考がめぐる。
これほどまでの重責の中で軽々と操縦できるのは、奇蹟的とすら言えることであり、処罰とは何か違う気がする。それに、太陽のように明るい笑い声をこぼしながら運転しているところを見ていると、不思議にもこっちまで——なぜだか——
「たのしそー!」
無邪気な感嘆に、その場にいる全員が振り返った。まだ片手の指で収まるほどの齢の、スコットの娘——黒い巻き髪を揺らしたクレアは、まるで見たこともない新しい冒険譚を体験したかのように、キラキラと目を輝かせていた。
「デイビス、かっこいー! クレアもストームライダーにのるのー! いっしょにうんてんして、きゃあきゃあいうのー!」
「あらあら、クレア、パパだって、別のストームライダーに乗って飛んでいるのよ?」
「パパのより、デイビスのほうがいー! スリルまんてんなんだもーん!」
ああ、親の心、子知らず。ゲストの安全が守られているのは、むしろスコットの運転の方なのだが——率直すぎる女児の純度百パーセントな感想に、全員、涙を滲ませざるを得ない。
デイビスは、絶好調、といった様子で、無線の先に明るい声を投げかけた。
『スコット! なーにちんたらと飛んでいるんだよ、置いていっちまうぞ!』
「また、無茶苦茶な操縦をしやがって——言っただろ、ストームライダーIは、容易にストームへは近づけないって」
『だーいじょうぶだって、何のために俺も、ドクター・コミネもいるんだよ?
ストームライダーI、高度三三〇〇〇フィートまで上昇。そこから北北西の方向へ、反時計回りに回り込むようにして、ストームに接近せよ』
「高度三三〇〇〇フィート? 乱気流のど真ん中だろうが」
『重力で篩い落とされる分、そこが一番、障害物が少ないんだ。一気に突っ切れば、ストームなんざ、すぐ目の前だよ。近道しようぜー?』
「デイビス!」
『先に行ってるよー!』
ブツリ、と無線が打ち切られ、スコットは露骨に顔を顰めた。何を根拠にそんなことを断言できるのか——専門家のドクター・コミネを振り返ると、彼は珍奇なポーズで座席に貼りつき、呆然とした顔のままで、ゆくりなく、こくこくと頷いていた。そんなコミネのぽつりと漏らした言葉が、妙にスコットの耳に残る。
「どうして風のことが分かるんだろう……」
ストームライダーIIとの距離は、どんどんと広がってゆく。レーダーの情報からでさえ、彼の操縦の破天荒さは一目瞭然だった。徐々にストームへと近づきながら、飛来する障害物を回避しつつ、しかし確実に、観測データを拾い集めている。驚異的としか言いようがない力量である。
スコットは溜め息をつくと、腹を決めて、一気にブーストをかけた。途端に恐ろしい真剣さで速度が上がり始めた。こんな手荒な運転は、今までにやったことがない。常にゲストの安全を考慮し、ミッションの成功を念頭に置き、ガソリンの消費量を計算して——そんな優先事項を積み重ねた先に、彼の操縦はあった。それがゆえに、この超高速の段階など、完全に未知の領域である。
(知らないぞ、デイビス——どうなっても)
ぐっ、と生唾を飲み込むと、スコットは前傾姿勢を取り、そのまま操縦桿を手繰り寄せた。一気に高度を上げるストームライダーI。超上昇。ボウ、と機首が不可思議な鳴動をあげて、稀薄な大気の底に揺蕩っていた粘りけが呼び起こされてゆく。激越な燃焼音は、およそ三十五度の上昇角度をつけ、戦闘機にも引けを取らない勢いで高度を増していった。
「これ、確実にタワー・オブ・テラーよりも高いでしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?!?」
『『ドクター、がんばってー!』』
長く尾を引く悲鳴と、無責任な無線上の声援が、空に虚しく響いてゆく。
スコットの全身を襲う、凄まじい恐怖——しかしドクター・コミネのように、身体的な不快感なのではなく、寧ろ、自分は本当にこのスピードでストームライダーを飛ばせるのか、という、パイロットとしての自己の資格を問われる恐怖だった。確かにこれは、自らの腕前を信じていなければ、けしてできない芸当だ。だからこそ、デイビスはストームライダーの勉強を惜しまなかった。設計、耐久性、ソフトウェアの仕様。パイロットがそこまで知る必要あるのか、と問うた気がするが、デイビスはこうして軽やかに飛ぶためにこそ、研鑽を続けていたのだ。
ストームライダーを信じたいんだ、と煙草から立ちのぼる煙を流して答えたデイビスの声が、脳裏に響く。
———あいつは飛びたがっている。俺が、その最大限の力を引き出してやらなくちゃならない。
———最後の最後まで自分の愛機を信じてやるのは、パイロットの仕事だぜ。
スコットはラダーペダルを微かに踏み込み、旋回させた。それは、スコットの初めての一歩。飛びたいように飛ぶ、その放恣への、最初の階段。
途端に、ストームライダーIは、その思いに応えた。子どものように。ずっとこの瞬間を、待ち侘びていたというように。
ふっ——と、すべてが軽くなった気がした。まるで重力と戯れるような鮮やかさ。コミネなどは後ろの方で、もう、言葉も出ない様子だったが。鮮やかな軌道の中で、時が緩慢になる。そして次の瞬間から、怒濤の如く流れ込む心の軽さが、身をほとばしって溢れ出る。自由。その意味が、まざまざと全身を駆けめぐった。
それは遠い昔日、あの快晴の青空へ向かって、チェッリーノ・ファルコが初めて気球で飛び立った、あの圧倒的な瞬間と同じ感覚だった。今日、この文章を読む私たちは知っている、スコットもチェッリーノも、生きた時空を違え、ついに相まみえることはないことを。そして、彼らの身ぬちを攫んだ感覚がどれほど酷似していようとも、その事実を知る者など、この地上にはけして存在しないのである。
スコットの胸を、明るい光が射してきた。チェッリーノがその感情に名前をつけなかったのと同様、彼もまた、その思いを言語化することはない。しかし彼は、見えてくる世界の、あまりの明るさに驚いていた。
彼は、何か冗談を言って、笑い転げたい、子どものようにはしゃぎ回りたい、それでいて、明るさに纏わる偉大なヴィジョンが、精神をまっさらに清めてゆくのにつれて、永久に目を開けたまま、どこまでも翔け抜けてしまいたかった。
その喜びは、誰にも伝えられないし、誰とも分かち合うことなどできない——しかし確かに、キャプテン・スコットは、チェッリーノ・ファルコの感じたあの自由の瞬間を、本人の知らぬ間に、その魂へと受け継いだのだと言えよう。
ここから始まる、彼の新たな夢の旅路。
飛ぼうぜ、と。あの太陽のような笑顔が、真っ直ぐに誘いかけているような気がした。
ずっと、鳥のように空を見あげていた一人の青年。
あの切なそうな、懐かしそうな背中が憧れていたのは、この壮大な眩暈の正体だったのだと、初めて気づいた。
———そうか、とスコットは不意に悟る。
お前は、ここに辿り着きたかったのか。
果てしない夢を抱いた奴らが集う、魂の故郷。
お前は、もう一度そこに還りたくて、あんなにも狂おしい目で憧れ続けていたのか。
ドリームフライヤーを舞いあがらせるのが、イマジネーションの力なら。
ストームライダーを飛翔させるのは、夢の力だ————
『ストームライダーIッ!!』
無線を通じて叫び声が聞こえたが、スコットはけして心を乱すことなく、険しい眼光を閃かせた。
ラダーペダルを戻し、正面から飛来してきた障害物をぎりぎりでかわす。髪一筋。その差で、反応できた。ほとんど超人的な反射神経だが、第六感で、それを回避した。つっ、と冷や汗が伝うが、精神力でねじ伏せ、ふたたび、ラダーペダルを押し込んでゆく。まるですべての装甲が空気摩擦で磨り減ってゆき、消滅の裂け目に直進してゆくような錯覚を受ける。
鳥のようなデイビスの軽やかさと比較すれば、確かに彼の飛び方は無骨だ。アクロバットを見せることもなく、余裕に溢れた笑い声を響かせることもない。しかしそれでも、飛行から伝わる信念は痛烈。真っ直ぐの、何者にも出せない力強い軌跡。これほどの乱気流の中でも——その目的はただひとつ、ストームを観測し続け、キャプテン・デイビスの補佐をすること。その思いが揺れ動いたことなど、一度もない。
キャプテン・スコットは、紛れもなく、一流の飛行士である。強い意志に溢れ、高度な技量を宿し。何より、その全身に漲る自己への誇りは、キャプテン・デイビスにもけして引けを取らなかった。
———私だけが、この滅茶苦茶なパイロットの相棒になれる。
それは、自分はそれに値するという自負であり、そうでなければならぬという使命感。
長年パイロットの経験を積み重ね、長い階段を登ってきたのは、この日のためだったと言っても過言ではない。
デイビスは、あれほどの速度を出しながら、ストームライダーIが障害物を躱したことに驚いたようで、軽く口笛を吹いた。
「やるぅ。惚れたぜ、スコット」
『ふざけていないで、操縦に集中しろ!』
「固いこと言うなって、息抜きは必要だろ?」
『デイビス、今度同じことをしたら、貴様にストームディフューザーをぶち込むぞ!』
デイビスは笑った。まるで黄金の粒子が零れ落ちるかのように、その笑い声は明るさに染まっている。
「ははっ! 楽しくなってきたなあ、スコット?」
『馬鹿! ちっとも面白いことなんてないぞ』
「そいつは残念だな。俺はいつだって今が、最高に楽しいぜ」
堂々と言い切る様は、いかにも少年——いや、少年たちの羨望を集める主人公、といったところか。その様子をベース・コントロールの受信映像から見つめていたペコは、ちょっと失礼、と呟いて、ベース・コントロールのマイクに向かって話しかけた。
「えーと、デイビスさん?」
『よお、ペコ! はは、どうだ? ストームライダーIIのヤツ、自由に飛び回れて、めっちゃくちゃ嬉しそうだろ?』
「あのですねえ、ストームライダーに乗れて、楽しくて楽しくて仕方ないんだっていうのは分かりますけどお。こっちのベース・コントロールにはアンドレイがいるってこと、忘れちゃいませんよねえ?」
『ぎくり』
「デイビスさああああああん、ストームライダーは曲芸機ではないんですよ? なんでアクロバット飛行をしているんですか? 整備士の僕の気持ちを考えたことありますか? だいたいですねえ、高翼機は安定性を最大の特長としているのに、あなたの飛び方ときたら——以下四万字ほど省略——」
『あっはい……はい……すんません……』
「うーむ。結局、カッコつかないんですよねえ」
アンドレイに公開説教され、みるみるうちに縮こまってゆくデイビス。みっともないなあ、とペコは首をすくめつつも、口には出さずに、ぼんやりと考えた。
(ま、もしデイビスさんが無事に帰ってこれたなら。その時は、貸してる五十ディズニードル、チャラにしてあげてもいいかな)
もしも、の話だけど。
そうドライに結論づけたペコは、同僚のアンドレイを振り返り、ピン、と掌中のコインを指で弾きあげる。
「……というわけで、アンドレイ。どれに賭けますう? 一、はしゃぎすぎてストームと明後日の方向に到着。二、はしゃぎすぎて燃料不足で途中帰還。三、はしゃぎすぎてストームライダーの翼がもげ、パラシュートで途中脱出」
「うーん。三に、二十ディズニードル」
「やめなさい、あなたたち」
禍々しさ極まる賭け事の内容に、こ、この人非人どもが、とベースは震えあがった。
(みんな。待っていろよ、必ず俺が、ポート・ディスカバリーの未来を守るからな)
キィン——澄んだ音をあげて、空中を飛翔するストームライダーII。それを操縦するデイビスの緑の瞳は、エメラルドよりも鮮烈な光を湛えてゆく。迷いはなく、曇りもない。
————さあ、一緒に飛ぼう!
カメリアの声が、心の奥底に響き渡る。
その言葉は、力になる。勇気になる。
それがあれば、自分の目の前にあるすべてを肯定できる。
あんたのことも。
CWCのみんなのことも。
俺を応援してくれた、ゲストたちのことも。
全部全部、大好きだった。
失われることのない、飛行の夢。
それがあれば、俺たちはきっと、あんたと同じ空に辿り着けるよ。
鮮やかなフライトを通じて、ストームライダーの飛行士たちは、過去に歴史を築きあげてきた人々と、魂を通い合わせてゆく。
キャプテン・デイビスは、カメリアと一緒に。
キャプテン・スコットは、チェッリーノとともに。
それはまさしく、夢の系譜。
連なれば連なるほど、それは大きな力となり、この冒険とイマジネーションの海に、新たな英雄を創造してゆくだろう。
人々の想いが、時空を超えて繋がる今——かつてこの世にあった最初の女性気球操縦士、ソフィー・ブランシャールが、気球に乗りながら幼きカメリアに呟いた、この古の言葉を引用することも許されるだろうか?
————空は孤独であると同時に、愛の場所だ。風という風が、溢れんばかりに私を誘って、そこへ行くことを命じているのが分かる。人間は、地に縛りつけられた不自由な存在だと、誰もがみんな思っている。でも、そうね、その一方で、私たちは夢を見ることをやめられない。昆虫も、鳥も、蝙蝠も、ムササビも、魚だって、烏賊だって、蛙だって、空を飛べるのに——どうして私たち人間が、それをできないことがあるでしょう?
果たしてそれは、人間の中に芽吹いた、ほんのちいさな疑問だったのだろう。しかしその問いは、幼き日のカメリアを揺さぶり、現在のデイビスを動かし、未来のスコットを変えてゆく。
私たちは、空を飛べるのか?
人は、どこまで辿り着くことが可能なのか?
空を翔ける飛行士たちは、自らの姿でもって、その言葉に決着をつけるだろう。
まるで、一陣の疾風の如く。ストームライダーを乗り回す、二人の飛行士。その姿からは絶え間なく、勇気という名の挑戦が溢れ、観衆たちは彼らの精悍さに心を奪われる。
見つめるクレアの心に、初めての風が吹く。
遠い過去の彼方から。数多くの勇敢な飛行士たちが飛び立ってきた、あの晴れやかな舞台を目のあたりにして、彼女の胸にまばゆく芽生える、飛行機に乗りたいという、熱い思い。魅せられた——と言っても、過言ではない。その感情は、めくるめく想像力を掻き立て、彼女のちいさな心臓を、止め難いほどに逸らせていた。
『パパぁ……!』
「どうした? クレア」
思わず、顔が綻んだ。しぐさや顔立ちは妻に似て、甘え方も可愛い盛りである。その様子を窺うことはできないが、無線から飛び込んでくる舌足らずな声だけでも、その愛らしさが自ずと目に浮かんでくる。
『パパ、かっこいいねー! ヒーローみたい!』
「ははは、そうか。待っていなさい、お父さんが必ず、クレアのことは守るからな。今はお母さんのそばで、いい子に——」
『でもデイビスのほうが、パパよりずーっと、しゅじんこーみたいだね!』
その瞬間、凄まじい怨嗟が無線からみなぎってきたのに、全員がヒいた。デイビスは凍りつき、慌てて無線の先の保護者に向かって、ぱたぱたと両手を振る。
「ちっ、違ェよスコット、クレアはまだたったの四歳だぜ? さすがの俺だって、んなアホなことは——」
『貴様——この年齢の女児まで誑し込むとは、人間の風上にも置けぬクズ。下半身見境なし男だとは知っていたが、いつのまにやらあんな手やこんな手を使って娘を籠絡しおって——』
「何を想像しているんだよー!?!?」
哀しみに溢れた絶叫とともに、二機が同時に、エンジン出力を上げた。逃げるデイビスと、追うスコット。ベース・コントロールのディスプレイに表示されるレーダースクリーンを、全員が沈黙して見守っていた。それまで風速の関係で大きく空いていた距離にも関わらず、ストームライダーIのレーダーはゴキブリとも見紛う俊敏さで障害物を捌き切りながら、恐ろしい速度でストームライダーIIへと追いついてゆく。いいのか、これ。
『メーデー、メーデー、メーデー! こちらストームライダーII!』
「貴重な救難信号を馬鹿なことに使うのはおよしなさい!」
『ベース、違うんだよ、スコットの眼がマジなんだって! ストームライダーI、どいてくれーッ!!』
「あなたも正気に戻ったらどうなのです、キャプテン・スコット! たかだか子どもの発言ですよ!」
『ハッ、た、確かに私ともあろうものが、このような些事で動揺するなどと——』
「デイビス、おーきくなったら、わたしとけっこんしてねー!」
『キャプテン・デイビスは、実に優秀なパイロットでした』
『おいこら、スコット、過去形にするなっ。こんなところで俺の弔辞を読むなーッ!!』
ベースは急いで振り向き、あらあら、と頬に手を当てて穏やかに微笑しているサラに声をかけた。
「奥さん。なんとかして、彼を落ち着かせることはできないんですか」
「そうねえ、あの人、一度こうと決めたら曲げないから。そんなところが可愛くって、結婚しちゃったの」
「惚気話はいーです。どんな手段でも構いませんので、キャプテン・スコットを鎮めてください」
「知ってる? サッカレーさん。あの人の好物って、ウイスキーと、ケチャップ・オムライスと、ミッキーアイスバーなのよ。可愛いと思わない?」
のんびりと言うサラに、ベースはくしゃくしゃに髪を掻き毟りたくなった。あああああ、日頃からキャプテン・デイビスがぼやいていることではあるが、どうしてポート・ディスカバリーには、揃いも揃っておかしな人物しかいないのか。
「まあ何もしなくても、ショック療法で、そのうち戻ると思いますけどお」
「ああ。飛行機に慣れていない人間に、この操縦はキツすぎるからな」
ペコとアンドレイの不吉すぎる予言。とその時、とある奇妙な呟きが、スコットの背後から聞こえてきた。かくも乱暴な操縦ばかりしていれば、当然の結果ではあるが。
「うっぷ。さっき食べた、寿司ロールが」
「何? ……まさか」
コミネの言葉に、肩を震わせる。この状況で、すでに胃の中にあるものに言及するなど、嫌な予感しかない。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!!!」
「うぼええええええええええええええええええええええええええええええッッ!!!!!」
悲鳴の後、相当に派手な吐瀉の音が飛び散り、無線が不快な音声でいっぱいになって、思わずデイビスは、耳を塞いだ。同時に、キラキラとした滝のようなものが、コミネの口から迸り出る(注、視聴者に配慮してモザイクをかけています)。自分の搭乗機ではないとはいえ、その悲惨さには、R.I.P.、安らかに眠れ、と十字を切るしかない。つうか俺もさっき吐いたし、これで両方のストームライダーが汚れたってわけか。なんか嫌だな、その仲の良さは。
「おーい、ドクター・コミネ、大丈夫か? ネクタイを緩めて、仰向けになった方がいいぜ」
『ありがとう、でも大丈夫さ。吐いたらスッキリ、高原の風の吹き渡るような爽快感が』
『……私の操縦のせいですまない、ドクター・コミネ。後で掃除する』
換気システムを全開にしながら、スコットは肩を落とした。綺麗好きな彼にとっては、なかなかな地獄が後ろに広がっている。
風速は95m/sを突破。
不意に雲の切れ間から、天空へと聳え立つその巨大な本体が見えた。目の前に迫ってくるのは、上空二十キロにも渡って雲を積み重ねた、その麓である。
スーパーセル!
雷雲群を伴った、超巨大積乱雲。そこから根を下ろすのは、この世のありとあらゆる暗雲を掻き合わせた、巨大な塔——神の怒りの向けられたバベルの塔を思わせる。それはおぞましい速度でゆっくりと回転し、豪雨の筋は異様に濃い。雲が孕んだ灰色にしても、ここまで不安を煽る色はなく、この世の何とも比較し難い不気味さであった。
こいつが、今回のストームか——デイビスは生唾を飲んで、自らの敵と対峙した。アレッタは武者震いをするように、軽く羽をぱたつかせた。ふわりと羽毛の匂いが広がり、それが生命の暖かさをともなって、鼻腔をくすぐる。デイビスは、その美しい翼を優しく撫でた。
「こちらストームライダーII、ターゲットに接近。スコット、おふざけは終わりだぜ」
『了解。いい子にしているぞ、キャプテン・デイビス』
どこか耳に馴染むやりとり。デイビスはふっと微笑むと、スロットルを強く叩き込んだ。
「———さあ、行くぜ、アレッタ、みんな! ここからが本番だ!」
高らかな隼の鳴き声とともに、ぐん、と急上昇したストームライダーIIは、そのまま、荒れ狂う暴風雨の中を全速力で突き抜けていった。落ちてくる障害物を、凄まじい反射神経で回避しつつ、一気に高度を上昇させる。もはや声では追い付かないと判断したアレッタは、肩を掴む爪の力によって、彼とともに活路を見出し、宙を駆け抜けた。床が迫り上がり、胃袋も内臓も膀胱も、押さえつけられるように背後へ落ちかかってゆく。
ここからは、スコットには任せられない領域。俺の任務だ。俺だけが、役目を果たさなければならないんだ。
しかし、急激に目の前が翳った。家の外壁ほどもある鉄屑が、真っ直ぐに落ちてくる。——避けられない! それまで急上昇の体勢に入っていた利を切り捨て、デイビスは最大限に操縦桿を押し込むと、あろうことか、真っ直ぐにストーム本体の中へと突っ込んでいった。瞬間、地獄のような颶風の立てる轟音が全機内を支配した。一瞬にして肝が潰される——それは何者も生還者の聞いたことのない、化け物の咆哮のように異様な絶叫。その死の響きから逃れられたことのない、凄まじい悲鳴は、精神薄弱な者なら、耳にしただけで気が触れてしまうことだろう。最大の暴風域の餌食となったストームライダーは、その瞬間、空前絶後の速度で吹き飛ばされ、激越な渦へと引きずり込まれてゆく。
しかしデイビスは、三半規管の正常性を滅茶苦茶に刈り取られながらも、肌の感覚のみでその爆発的な猛威の遠心力を完全に見切り、渾沌の最中からそのコンマ一秒を掴むように、一気にストームライダーの機尾を振り切った。その瞬間、巨体から発せられる新たな遠心運動が巻き起こり、ストームの引力から、凄まじい勢いで機体が飛び出る。反動で、ストームライダーは激しく旋回したが、破滅の坩堝の計り知れぬ引力からは離脱できた。振り回される感覚に、鼓膜がガンガンと虚ろな響きを主張する。数あるスピンの中でも、フラット・スピンは最も深刻で、回復は不可能とパイロットたちから恐れられる、水平方向への旋回状態を指している。ラダーに仰角をもたらす相対風を与えない限り、操縦系統のみでは回転を殺すことはできない。
デイビスは座席にしがみつきながら、ストームライダーIIの片方の浮舟を落とし、海に捨てた。本来は緊急着陸用の降着車輪を引き出すための予備動作だが、彼には別の狙いがあった。途端、一気にバランスを失って機体は片側に傾き、さらなる失墜を見せてゆく。しかしフライト・パスとスピンの緊密な関係が崩れ、猛烈に込み上げてくる吐き気に歯を噛み締めながら、ストームライダーをさらに数度、大きくバレルロールさせた。休む間もなく、歪む五感。天地が逆転し、視界の灰色がさらに拷問の如くねじ曲がった。胃が捻転し、内臓が浮きあがって、同肉体に怒濤の負荷がかかる。髪の逆立つような悪寒に襲われ、強烈なGが体を縛りつける。胃液がぐぐっと喉へとせりあがる中、そのままフルスロットルを叩き込み、急上昇を試みる。しかしその操縦により、機体の水平方向への回転は勢いを殺され、不安定ながらもなんとか体勢を回復させることができた。
おぞましい動きだ、とても気象観測用ラボに適したものではない。問題は、こうしたフライトに設計が耐え得るかということ。急いで計器を確認しようとしたが、その直前で周囲が蒼ざめてゆき、まったく視界が効かない。貧血のこの感覚——グレーアウトだ。すべてが、淀んだ灰色に包まれてゆく。下半身に力を入れ、脳に血液をめぐらせることを意識しながら、デイビスは無線の先に向かって呼びかけた。
「ベース! ストームライダーIIの航空計器情報を読み上げてくれ!」
『こ、高度二五六三フィート、速度一五五ノット、ADI、右に三〇度バンク、上に一〇度ピッチアップ。RPM、七〇パーセント』
ベースは震える唇を動かして読みあげた。今しがた目にした異常な飛行が、現実のものとは信じられなかったためだ。
「アレッタ、障害物は!?」
ぐっ、と鉤爪にかかる力が強くなる。
右か!
しかしグレーアウトのせいで、飛来物の方向がまるで掴めない。落ち着くんだデイビス、ストームライダーのことなら、自分の手足のように把握しているだろ。どこに重要な機器や回路があるのか、目を瞑っていても分かるはずだ。ストームディフューザーだけは、何が何でも、守り切れ———ッ!!
天地がひっくり返ったかと思う衝撃と激震。目を奪う一瞬の閃光とともに、鼓膜を突き破るほどの破滅的な轟音が、機内を埋め尽くした。同時に、暗い視界の中で、機内いっぱいに、氷のように冷たい雨が降りそそいできた。冷たい水滴が次々と肌を濡らし、おぞましい噴射の音をあげて、白煙さえもが立ち込めてゆく。雨は終わらない。バチバチと、千切れた回路が紫電を振り撒き、焦げ臭い匂いを漂わせてきた。糞ッ、この視界不良の中で——デイビスは舌打ちを残し、湿気でぬめるパイロット・グローブを口で脱ぎ捨てた。
「みんな、しっかり掴まっていろよ! 今、叩き落とすからなぁ——ッ!!」
触覚だけで操縦桿を探り当てたデイビスは、素手でそれを握るなり、ラダーペダルと連動させて、躊躇なく大きく振り切った。がくん、と機内が激しく揺さぶられ、胃のうねるような衝撃を覚える。暗転した視界は戻らない。残る感覚と勘だけで、操縦を続けるしかない。
『ベースよりストームライダーIIへ、応答せよ! キャプテン・デイビス! 聞こえますか!?』
「聞こえているけど、今、お喋りしている場合じゃないんだ!」
二度目の、激震。一瞬の浮遊感に続いて、奈落の底に突き落とされたような墜落感が機内を襲う。ばらばらと火の粉の降りかかるように火花が飛び散り、雨と交わって、じゅう、と煙草を押しつけたような音がばら撒かれた。破断されたパイプががたつき、何かのコードが落ちてきて、それが微かに頬を掠める。その音から察するに、ほとんどストームディフューザーすれすれを貫通してきたと考えて間違いない。障害物に備え、ディフューザー付近はすべて重要系統を集め、真下の装甲裏に格納しているはずだ。大丈夫、守り切れている!
アレッタが鳴き喚いて、騒音によるパニックに陥った。待っていてくれ、もう少しの辛抱だ、と念じながら——汗と雨にまみれた手で強く掴み直し、操縦桿を振り切る。三度目。胃の浮くような感覚とともに、今度は戦慄が大きかった。血の凍りつくような落下の後に、けたたましい金属音が聞こえて、ふたたび、機内に暴風が入り込んできた。雨の降りしきる中、その冷たい気流で、何かが開放された感覚がする。
「やったぞ!」
歓喜の叫び声とともに、デイビスの視界が急激に、像を結び合わせていった。視える。目の前にざわめいていた灰色がクリアになり、くっきりとしたビューポートが広がってきた。
デイビスは初めて、天井を確認した。穴は小さく、凹凸も少ない。だが、夜空が見える以上、そのダメージは致命的だ。こうなればもう打つ手はなく、機内外の間の気圧差により、機内の空気はどんどんと外へ逃げていってしまう。
そして、元々グレーアウトしたばかりだった体に——それは、唐突にやってきた。
(しまっ——)
間に合わない。
咄嗟にデイビスは、手を伸ばした。気圧差を検知し、自動的に座席上部から、酸素マスクが落下してきていた。それを攫み取る寸前で——がくんと、力が抜ける。底無しの穴に吸い取られたように、脳は気力をなくし、その指は虚しく空を掻いた。息が弾み始めて、他に何も考えられない。
「アレッ、……マスク……を……!」
頭痛の中で、絞り出すように言うが、もはや手遅れだ。もう、呼吸以外の何も、頭にはなかった。機首が大きく下がり、海面へと墜落してゆく中で、あえなく酸素マスクは前方へと離れていってしまう。
まだ、駄目だ。
ここで倒れては、駄目なんだ——!
酸欠の中、すべてが滲むように白んでゆく。視野が狭窄してゆき、想像を絶する苦しさが脳を支配し始めた。
「畜生ッ! 畜生畜生畜生畜生———ッ!!」
最後の執念を燃やしながら、デイビスは決死の思いで、操縦桿を引き倒す。
ぐり、と掌の向こう側で、何かが深く押し込まれる。それを最後の感覚として、虚しくも意識を手放す、その寸前で————
「諦めるな、少年!」
ふたたび、意識が浮上する。デイビスは、ふっ——と瞼を薄く開け、声の方向を見あげた。
酸欠による症状——なのだろうか? 彼の目には、夜だというにも関わらず、まるで光に溢れたように、辺りが真っ白に照らし出されて見えている。そして、天井から光を射し込ませる穴から、堂々と彼を覗き込む、まばゆい逆光を浴びた人影。どことなく後光にすら思えるその輝かしい姿は、記憶の中のそれと、合致する。丸く大きなヘルメットに、緑と紫のアクセントの効いた、強健な宇宙服。何より、ほんのおもちゃのサイズくらいしかない、その人影は——
「また会ったな、海側の少年!」
「スペース・レンジャーのおじさんッッッッ!?!?」
デイビスはぎょっとし、酸欠なのも忘れて目を剥いた。間違いない。幼少期の夢の出会いから二十年の歳月が流れても、スペース・マウンテンの上で自分に飛び方を教えてくれたあの時と、何ひとつ変わるものはなかった。透明なヘルメットの中に収まっているのは、ニスでコーティングされた青い眼に、きりりとプリントされた太い眉、のの字の髭を生やした、逞しい顎である。
「こんなところで力尽きるつもりか? 君は、この街の守備隊員になったのだろう。ならば、その崇高なる任務を果たし、大切な人々を守らねばなるまい」
「どうして……こっち側に——」
「TDLのキャラクターだからと、見くびっていたか? 陸も海も、関係ないぞ。スペース・レンジャーは、仲間のピンチには、いつでも駆けつける」
それからバズは、その真率な眉を不意に緩めて、懐かしそうな顔つきになった。
「大きくなったな、少年。……本当に君は、あの頃と比べて、大きくなった」
霞みがかった視界の中で、デイビスは、その勇敢な宇宙飛行士の影を捉えた。酸素の回らなくなった状態ではよく見えないが、けして成長することのないそのプラスチック製の頬には、一筋の涙が伝っているようにも思えた。
「さあ、これを。酸素マスクだ」
そう言うと、座席上部からぶら下がっていたマスクのコードを、バズの足が軽く蹴り飛ばした。震える手でそれを受け止めると、残された最後の力を振り絞って引き寄せ、鼻と口を覆い、生成される酸素で静かに肺を満たした。化学プロセスの燃える匂いが立ち込め、同時に、もう片方の手でゆっくりと与圧をかけ、これ以上高度が下がらないようにと、感覚だけで機体の角度を調整する。ぐぐ、と機首が持ち上がってゆく感覚とともに、ほとんど高度を失っていたストームライダーIIは、海面に叩きつけられる寸前で、ふたたび高度を微増させていった。今はこれでいい。墜落しない限りは、高度の回復など、後でも構わない。
バズは、素早く破損箇所に目を走らせると、ビッと軽い音を立てて、背中に抱えていたテープを引き出した。
「シールドビニールを貼ろう。宇宙船(注、バズの)の修復も可能な粘着テープだ。応急処置だが、一時間程度ならもつはずだ」
「ありがとう……頼むぜ、おじさん」
ほとんど瀕死に近かったはずだが、咳き込む合間で深呼吸をしながらも、デイビスの双眸にふたたび、ぎらつく焰がよみがえる。ここで挫けてたまるか——デイビスは、歯を喰い縛った。俺の生まれ育った街を、何者にも穢させはしない。
その間にも、バズは吹き飛ばされないように必死に外壁に掴まりながらも、何とか修繕作業を進めていった。小さなバズには、暴風雨の威力はあまりにも強い。しかしその指には、仲間を助けるという使命の下、燃えるような力が宿されていた。
ぺたり、と最後のテープを貼り終えると、半透明のそれを幾つも重ねたせいで、今やほとんど機内の様子が見えなくなる。その事実に、ふと、一抹の寂しさが過ぎった。そしてバズは、ストームライダーのアンテナに強く掴まりながら、そっと自分の右足の裏を持ち上げ、掠れかかったサインペンの筆跡——下手な文字で書かれている、かつての彼の持ち主の名前を見つめた。
人はみな、大きくなり、時を超えてゆく。そして彼らは、自分たちとともに空を飛んだ記憶を糧として、偉大なる未来へと前進してゆくだろう。ディズニーランドは、そうした子どもたちを迎え入れ、ふたたび現実へと送り出す場所でもあった。多くの子どもたちと遊んだ。例え彼らが成長しても、彼らの中に、自分の思い出は永遠に生きている。
薄いテープに隔てられた向こう側へ向かって、バズは静かに微笑んだ。
「お別れだな、少年。いや——キャプテン・デイビス」
その声に引かれて浮上するように、ようやく、デイビスの目の前にも視野が戻ってきた。高所で低酸素には慣れているアレッタが、心配そうに彼の顔を見下ろしている。その首を優しく掻き撫でてやりながらも、彼は夢うつつの中で、バズの言葉を耳に響かせた。
「長い年月を経て、君は大人になった。もう自分の力で、愛した人々を守れる。彼らの想いに応えるために、何度でも傷ついて、前に進むことができる」
「……おじ、さん」
「いいか、大人のなすべきことは、ちっとも難しいことじゃない。それは、泣かないことでも、童心を忘れることでも、傷つかないほど強くなることでもない。
———自分の大切なものを心から愛し、胸を張って、守り抜くこと。それができた時、人は初めて、大人になる」
バズは遠く、ストームライダーの向こう側で、赤と緑に点滅する航空灯をチカチカと両翼に光らせながら、真っ直ぐにストームの先へと向かって指差した。
「無限の彼方へ。————さあ、行くんだ!」
それが、最後の魔法の言葉だった。ふたたび、力を取り戻したストームライダーは、主人の合図を求めるように、狂おしい震動でもって急き立てる。夢だったのか? いや、確かに天井に空いていた先ほどの穴は、頼りないながらも修繕されている。夢じゃ——ない。そして、握り締めていた自分の拳に違和感を覚え、デイビスはゆっくりとそれを開いた。
デイビスは、微笑んだ。
そこには、たった一粒——殻の割れかかった、ピーナッツ。その表面には、まるで妖精の粉が撒き散らされているかのように、薄闇にキラキラと輝いていた。
『キャプテン・デイビス!』
「——ああ、大丈夫だ。現在、機内気圧771hPa。このまま、800hPa付近まで与圧する。全員、掴まっていろ、ストームライダーを加速させるぞ!」
ふたたび、破壊的なエンジン音。観測デッキの椅子が、床ごと一同に激しく振動する。押し潰されていた尻が跳ね回り、シートベルトが一斉に金具の音を立てた。何か言葉を発しようとしても、うねる景色の迫力に押されて、そのような意欲すら消し飛んでしまう。右に左に、ストームライダーの観測デッキは休むこともなく揺さぶられた。
「後ろの方、大丈夫か!? 気分の悪くなった奴は、俺に言ってくれ!」
『あれ? ストームライダーに、エチケット袋って、ついていましたっけ?』
「ついてないけど、慮って飛ぶくらいはできるだろ!」
小窓を過ぎてゆく映像は、一層のこと凄まじいスピードで。がたつく機内のせいで、多くのたたらを踏む音が聞こえた。
この振動ではさすがに、シートベルトだけではよるべない。金属製の肘掛けは、今や雨粒に湿って、強く掴もうとすると容易く滑りそうなほどである。激しいフラッシュが、機内を照らし出した。続いて、雷の爆音。その巨万の電流が、空気を引き裂く音すら聞こえた気がする。
「こちら、ストームライダーII! ストームライダーI、無事でいるか?」
『ストームライダーIより、最高指揮官へ。三発ほど障害物を喰らったが、いずれも、操縦系統や環境制御システムに支障はない。任務続行可能だ』
「了解。このままストームの上空まで一気に突っ切るぞ、覚悟を決めろ!」
言いながら、デイビスはまだ残っていたもう片方のフロートも捨てた。これで安全な着水がほぼ不可能になった——だが、この退路をじわじわと切り落としてゆくような行動には、それだけの価値がある。機体のバランスが取れたストームライダーは、ふたたび操縦の容易さを取り戻した。それまで視界不良の中で、なおかつ片側を庇うように飛行していたのだ。二つの障害が除かれた今、完全に自由はこの手の中にある。デイビスは乾いた唇を舐め、笑みを引いた。
彼は、観測データの総送信量と、演算システムからの要請量を確認した。損傷は大きかったが、得られた結果と比較すれば、代償は安い。先ほどのフライトにより、ストームの外部からの観測データは、すべて出揃ったはずだった。後は、ストームの目の内部に降下し、追加データを送信し続けるだけ。
勝てる。
初めて、その可能性が見えてきた瞬間だった。
「ミッション最高指揮官より、CWC総員に告ぐ! 現時刻をもって、ストームライダー二機による外部観測完了。ただ今よりミッションは、ストーム内部観測フェーズへと移行する。ベース・コントロール、引き続き、出力エネルギーの演算処理チェックを継続せよ!」
『了解、キャプテン・デイビス。
ストーム追跡レポートより、最新の情報です。オーバーシューティング・トップ、雲頂高度、対流圏界面突破、十九・六キロメートル』
「ストームライダーIIよりベース・コントロールへ、両機にレーダー反射図を送ってくれ!」
『了解。現在送信した内容が最新です。観測時刻、二一、一九、五三』
「ストームライダーIIよりストームライダーIへ、偏光ゴーグルを着用せよ。現在地点より、高度四二五〇〇フィートへ。フランキング・ラインに沿って、上昇気流に乗れ。ともに、ストームへ突入する。行くぜえ、スコット!」
『了解、キャプテン・デイビス』
「みんな、もう一度黄色い紐を引っ張って、シートベルトが抜けないことを確認してくれ! 親御さんたちは、絶対に子どもから目を離すな!」
『ドクター・コミネ、搭乗前に耳栓を渡しただろう。それで、耳を塞ぐんだ』
『ああ……また何か、始まるんだね?』
『そうだ。貴方にはすまないが——この飛び方が一番、怖いかもしれないな』
『えっ。何をそんな、不吉なこと、を——』
その宣告をされた瞬間から、急のめりに前の床がせり上がり、窓の外の海の角度が傾いてゆく。超速。Gに逆らい、頭に血が昇ってゆき、ついには、そこまで上がるなんて異常すぎるだろう、という臨界点すらも超えて、どこまでも傾斜は止まらない。あとはもう、吊るし刑としか思えない拷問的な角度が、どんどんと背中を引きずり下ろし、ぱっくりと口を開いた虚空へと放り出してゆく。ストームライダーたちは、誰がそう取り交わしたわけでもないのに、最短距離でその高度を目指していた。地と天を結びつける、垂直線。重力すらも置き去りにして、二機が一気に、上空へと突き抜けてゆく。三百馬力を超過するターボファン・エンジンで、凄まじい排気ガスを噴射しながら駆け登ってゆく。あまりの速度に、その軌道は光跡となって見えるであろう。雨霰となって降りそそぐグレープフルーツ大の雹を粉微塵に打ち砕きながら、ストームライダーは一直線に天空を目指す。
『あのさあ!! ストームライダーって、こういうアトラクションじゃなかったでしょ!? 絶叫系が苦手な人間でも、安心して乗れるアトラクションだったでしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?!?!?!?』
『リバイバルだからな。あの頃より、ライドシステムが進歩してる』
『ファンのリクエストに応えて、懐かしのまんまで復刻してくんない!?!?』
「時代の最先端を行くのは、ポート・ディスカバリーの流儀だからさー!」
コントロール・パネルの赤い光を瞬かせつつ、コックピットで交わされている無線のやりとりとは別に、機内の状況は凄まじく苛酷なものだった。まるで真空とも錯覚するレベルで、全身に襲いかかる垂直G。身動きひとつ取れない——全面的に押しつけられる圧は、目に見えない大岩がのしかかっているかのよう、その重圧にさらされれば、指一本、動かすのは困難である。肺が絞られて、まともな呼吸すらままならない。白銀の装甲が軋み、烈風に甚振られるあまり、耳障りな悲鳴をあげている。強烈に吐き出されたガスは、たちまち蛋白石色に盛られた氷粒へ。まるで即席の積乱雲を積み重ねてゆくかの如き高圧ガスを噴出しつつ、ストームライダーたちは空へ行く。あたかも編隊飛行さながらの所業であるが、その舞台は禍々しい翳に満たされた嵐天なのである。いかにそれが危険と隣り合わせで行われた技巧であるのか、くどくどしく語る必要もあるまい。
「みんな、辛いだろうが、耐えてくれよ! ストームの上まで、あと少しだ!」
脂汗を絞りながら、デイビスは必死に、観測デッキに向けて声を振るった。
一方のストームライダーIも、同等の脅威に晒されながら、酷烈な垂直上昇を継続させる。デイビスがスコットを仰いだように、スコットもまた、デイビスに憧れた。深夜、悔しさと羨望で眠れずに、シミュレーション・システムで密かに訓練を積み重ねたこともあった——それは、自分の相棒が立脚する、あのまばゆい世界に辿り着きたかったからかもしれない。逆立つ髪と、後頭部から尻までを座席に押しつけるその勢いは、ほんの僅かな乱れで墜落へと変質するであろうが、並走して昇り詰めてゆくストームライダーIIには、けして遅れを取ってはならないと思った。
私も、そこへ行く。
お前と、同じ境地へ。
『雲底高度、突破!』
厳しい姿勢を維持し続ける中で、キャプテン・デイビスの声が、ノイズとともに無線から響く。
『メガストーム雲頂高度、到達!』
雨が、あがった。
世界が変わる。周囲を積乱雲に包まれているがゆえに、その濃密な乳白色に反射が育まれ、むしろ視野は明るかった。その峰は微かな月明かりに照らされ、闇夜のうちに、厳かに聳える壮大な雲の山々を露わにする。
古代の人間たちが神々の舞台として思い描いた、まさにその光景がそこにある。そしてあちこちの雷雲が、月光とは異なる閃光を孕んで、ゆくりかに瞬いていた。それが数万年に渡って、いかに人類を震撼させてきたのか、想像には及ぶまい。
ギリシャ神話では、ゼウスが放てば全空間に漲るという雷霆はオリュンポス最強、世界は一撃で熔解し、全宇宙は灼熱の炎に包まれ、見渡す限りの天地は逆転し、根源たるカオスさえもが消し飛ぶという。
インド神話においては、白象アイラーヴァタに乗った雷霆神インドラのヴァジュラがヴリトラを倒すと、雲の牛群にも喩えられる膨大量の雨が、雌牛の咆哮のような轟音で海へと流れた。
北欧神話ではまた、雷神トールが真っ赤に焼けたミョルニルの絶大な威力でもって巨人たちを粉砕し、山の巨人、霜の巨人は、その槌の振りあげられる音を耳にしただけで震えあがったと謳われている。
世界を破壊する、轟音とその威光。
その象徴として、雷は自然界の頂点に立ち続けている。
ストームライダーを取り囲む積乱雲の迫力は凄まじい。葡萄房状。いかに逞しいユピテルの裸体であろうとも、これほどのおぞましい塊にはなるまい。純白の大雲を糧として、小結節があり得ない力瘤を膨れさせ、不断に痘痕の如く盛り上げてゆき、その表面にいかなる平坦も許さない。しかもそれは、生きている。みるみるうちに発達するその稜線は妖しい紫に光り、薄い切れ目などは、皓々と稲光が漏れていた。隠し切れない巨万の糧を平らげ、後はいつ、その上げた鉄槌を振り下ろすかということだけ。そしてそこから、紫電一閃、あまりの速度ゆえか、瞬間ずつコマ送りのように紫色に捻れた銛を突き立ててゆく、その破壊的な雷霆のエネルギーは莫大。あまりに気儘、それゆえに暴虐。間近で見れば、その網膜を剥ぎ取る強さであり、それを防御するのがストームライダーのビューポートだった。この特殊塗料を塗られたガラス面は、一定以上の光量を調整し、パイロットを防護する役割を担っていた。だがそれを考慮しても、ざんざ振りの雨の中に潜む、あの紫竜の翔ける様は、必ず直視した者に数分に渡る眩暈・頭痛・吐き気を催させるであろう。そしてこの嵐の猛威を前にしては、そのような無防備な時間は致命的になる。それゆえ、デイビスはさらに偏光するパイロット・ゴーグルを着用することを命じた。視界はさらに暗くなるが、今は命を最優先にしなくてはならない。
しかしデイビスが不安を掻き消せないのは、そうした雷害の恐ろしさ自体ではなく、ほとんどジンクスのようなものだ。ストームライダーIが以前、右舷エンジンから出火したのは、この落雷に直撃したからだ。考えたくはないが、まさか今回も——いや、ストームライダーには耐雷性が付与されたと聞いている。その出来如何によって、今後のミッションの方向性は決せられるであろう。しかしデイビスの頭の中にあったのは、もはやポート・ディスカバリーでも、ミッションでもなく、ただひとえに、スコット個人のことであった。
———ストームライダーI、墜ちないでくれ、頼む。どんな手を使っても、お前の主人だけは守りたいんだ。
祈るような思いで、デイビスは天空を翔け抜ける。このような異次元で、けして彼独りを逝かせるものか。スコットには妻子がある——これから、新しい子も生まれてくる。彼を棺に入れるなど、死んでも許されることではない。
その時、脳を引きちぎるような光輝が走り抜け、デイビスは絶望的な思いに駆られて顔をあげた。よみがえる光景。視野を両断するのは、蛇のようにのたくる稲妻の残像。積乱雲を自然の反響板として、鼓膜を叩き割ってなお鳴り止まないその余韻に、声が震える。
「スコット!」
しかし、網膜を火傷させるような残像の中で、いまだ、一陣の白銀に光るものがあった。——躱した! そのまま、常に冷静さを欠かさないスコットとは思えない力任せの操縦方法で、錐揉み状に上昇させてゆく。
『ヒィィィィィィィイイイイイイイ!!!!』
『しっかり掴まっていろ、ドクター!』
何度も、何度でも。
立ち向かう。
挑戦する。
そして、超克する。
それだけが、前に進むただひとつの方法。
喰らいつくように、前だけを向いて。キャプテン・スコットの操縦するストームライダーIは、地の底から天を貫く、まばゆい人工の雷撃と化す。
雲を突き破って驀進する姿は、まるで人間から雷に対する復讐の如く。重力の枷を引きちぎり、なおストームライダーたちの瀆神は止まらない。
「スコット、大丈夫か!」
『喋るなデイビス、舌を噛むぞ!』
「分かった! あのさ、一言だけ言っていい?」
『なんだ?』
「"見事なライジングだったな、スコット"」
『おふざけは終わりだと言っただろうがッ!!』
長い雲の果て。
身を削って急上昇し続けたストームライダーは、ついに、目指された天空の地へと到達した。
二人の目の前に広がるのは、惨憺な、おぞましい、そして神々しいほどに渦巻く異次元。その驚異的な景色に、息を呑む。
さながら、毒にのたうつ蛇。いや、とぐろを巻く龍と言った方が良いのか——その巨大な暗雲から、張り裂けるような断末魔を響かせ、あらゆる鱗を逆立たせ、荘厳な終末へと呑み込むように。すべてが白と黒、いや光と翳の世界であり、そしてその全体をゆっくりと回転させながら、その引力に捕まった者を遙か深淵へと引きずり込む。あまりの規模に、遠近感すら失われた。
その強暴さは、ひとつの重力である。銀河が星間物質、宇宙塵、暗黒物質(ダークマター)を引き寄せるように、この嵐は同様の暴力でもって、気象を支配する。それは本当に自然が創造したのだろうか、と疑うほどに支離滅裂な意志を感じる一方で、しかし自然でなければ造れない、これほど尋常でない規模の地獄は、けして人間の手では創り出せない、そう、魂から理解せざるを得なかった。すべてが、人類の積みあげてきた吝嗇な所業を遙かに凌駕し、嘲笑い、屈服させ、粉微塵にする、破滅的な物理法則の為せる業であった。デイビスは絶句する。それ自体が、ひとつの世界だった。国、どころのレベルではない。数億もの人間が密集し、文化を、文明を築きあげるのと同様——天文学的な規模の暗雲が集積し、生き地獄を渦巻かせ、原始的な神々の住まう、空闊たる大神殿と成り果てたのであろう。その全体が遅々たる速度で廻転し続けるのは、物凄まじい光景であった。世界の終焉を思わせる雷雲が煮え滾り、数十を下らぬ箇所で雷鳴を点滅させて肥え太り、生み出した稲光をふたたび呑み下し、その子宮のうちに孕んでゆく。あれほどまばゆい光が——ここでは僅かに、周囲の雲を照らすに満たない。どれほどの雲量が、ここに引き寄せられたというのか。降りそそぐ豪雨は、数万トンにでも及ぶのではなかろうか。それが一斉に、あまりに一斉に、万雷の拍手を轟かせる様は、魂の凍るような大音量と化している。まるで彼らを迎え入れる、冷酷な娯楽の始まりの如く。手を打ちつけ、足を踏み鳴らし、風に口笛さえ切り裂いて響く。さながら——圧倒的な生贄祭。震えるストームライダーは、闘技場に導かれ、死ぬまで足掻きを命じられた、グロテスクな奴婢のよう。やがて中央へと暗がってゆく深淵は、巨大海溝の如く、雷光以外の光を見出せない。見ているだけで、視線が引きずり込まれ、烈風に蹂躙されるかのように。風の鳴り響く慟哭は、もはや哲理など何も持たない。塵にも満たない——とは、正しくこのこと。ストームライダーはあたかも、象を前にした蟻の如く、その運命を奪われながら宙に浮いている。
射し込んでくる微かな光すら、悲愴にして残酷。すべては最後の傾いた光に照らされて、ここを人間たちの対面する最後の光景とするかのようである。
まさしく、天空に空いた破滅の奈落。
彼らの使命は、この暴風雨の牙城を崩すことにある。
目の前に渦巻く、そのあまりの——人智を超越した威厳に。
スコットはただただ、震える脚を必死に耐え。
デイビスでさえ、肌が紙のように白くなり、血の気を失った。
人類はとんでもないものを敵に回した——と。
それだけが、断言できる唯一の事実。
それ以外に何も、何も言葉など滑り落ちてこない。
恐ろしい、絶対的な沈黙。
それを破ったのはパイロットたちではなく、意外にも、ただ一人の乗客からであった。
「アイリス。そこにいるんだろう」
不意にコミネが、ベース・コントロールに向かって呼びかけた。
「僕に、何か言うことはあるかい」
『あなたときたら……昔から酷い高所恐怖症だったというのに、ストームライダーに乗ったのですね』
「ま、仕方なくだよ。緊急事態だからね」
『……ありがとう、ドクター・コミネ。CWCを代表して——このご恩は、けして忘れません』
「別に。僕にはCWCなんて、どうでも……」
長時間の操縦に晒され、げっそりと項垂れて蒼白だったが、その口調は変わらない。
コミネはしばらく沈黙していたが、ようやくそれを、小さな声で告げた。
「僕が乗ることで、君が笑顔になってくれるなら。それでよかったんだ」
ベースは目を見開いた。長年ともに研究をしていた二人だが、そのように私情の深い言葉は、彼の口から一度も飛び出したことがなかった。
コミネは微かに耳朶を赤くしながら、座席の端にうずくまっている。
対等と考えるに足る材料など何もない、絶望的な対峙。
だがデイビスは、勝敗を宙吊りにし、ただひたすらに、自己の精神を研ぎ澄まし続けた。
もう、この恐怖心をごまかさない。
震えながらも、立ち向かうだけ。
持てるすべてを費やし——何があろうとも、闘うんだ。
「ベース。あんたにもう一度、夢を見せてやるよ。このポート・ディスカバリーは、未来を信じるマリーナだ。夢を見ないうちは、明日はやってこない。ストームライダーはそのために、あんたの手で開発された飛行機だぜ」
デイビスは、カラカラになった喉に水筒の水を流し込み、肩に乗ったアレッタにも水を掬って飲ませてやった。濡れた口元を拭いながら、彼は前を見据える。
さあ——正念場だ。
デイビスは緑色の眼を輝かせ、挑戦的に笑った。
「この街にいる誰も彼も、みんな俺が守ってやるよ。だってヒーローはいつだって、最高にカッコいいもんだからな!」
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