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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」1.ここは何と呼ばれている街かしら?

「……で、どうやって生きていけばいいっていうんだ? 今日から」

 ぷしゅー、と気の抜けたエレクトリック・レールウェイの発車音にまかれて。デイビスはスーツケースを下ろし、凝り固まった首をコキコキと回していた。

 マリーナの正午の光は、それはそれは穏やかだった——嫌がらせのように。いつもなら格納庫の中で機体を整備する時間であるだけに、これほど澄み切った青空を海の上に広げているとは思いもしなかった。じわりと色が染み出るように、その遥かまで遠い青が、彼の鮮やかな瞳に映り込む。最も風通しの良い場所に設置された、美しいプラチナ色に塗られたワゴンの前にたむろしている子どもたちは、背伸びしてミートパイをもらっているのだろう。熱い、熱いとはしゃぎながら包みを受け取り、口の中いっぱいに肉の詰まったパイを頬張っている様子は、微笑ましさに溢れている。何人かは、ブリーズウェイ・バイツのもうひとつの名物、あんずのパイを購入しているようだ。さぞやサクサクと揚がっているんだろうな——と腹の音を鳴らしたデイビスは、なけなしの想像力を使って、空想のパイに歯を突き立てる。

 甘くバニラにも似た潮風の底に、花粉の混じる春の爽やかな香りが抜けて、生ぬるく鼻腔をくすぐってゆく。僅かに混じるのは、火山岩の合間に生している蘚苔類の青臭さか、プロメテウス火山から溢れ返る雪解け水の匂いか。背後の線路の軋みを支える、ひそやかな噴水の泡立ちの音が、ステーションのオブジェに波紋の影を煌めかせ、父親の抱いた赤子が、その温かい水に手を伸ばしていた。平和というのに相応しい、気怠げなマリーナの午後。空気はめぐるように酔い、周囲の光景を掻き混ぜている——様々なリボン、花吹雪、フラッグ、飛行船を模した凧。冬が融解し始め、上着を脱ぐか迷うくらいの気温の中で、それらの色彩は目に染みるようだった。

 ああ、そうだ、今はお祭りなのだった——人々が賑やかさの原因に思い当たるのに、さして時間はかからないはずだ。少し目を動かせば、街の壁のあちこちに貼られた七色のポスターが、その喜びに溢れた文字を躍らせているのだから。

 ストームライダー、ついに完成。
 ポート・ディスカバリーの誇り。
 嵐に向かって飛び立つ英雄たちに敬礼せよ。

 その隣にちいさく、サインペンで、
 ”時折り、機体が大破することがあります”

「嫌味か、オイ」

 泣きそうになった。ただでさえ気分最悪な帰宅だというのに、彼の心の暗雲をぶち抜くよう、空は晴れ上がり、噴水にはご丁寧にも淡い虹がかかっている始末。今は何もかもが、自分の憂鬱に追い討ちをかけるものとしか思えない。

 荷物を転がしてクタクタだったが、タクシーを拾うことはできず、スーツケースの持ち手を握り、ずるずると引きずってゆく。なんといっても彼の所持金は、

 空っぽ。
 ヌル。
 空無。
 無一文。

 なーんもなし、だったからである。今どき小学生でも陥ることのない泥沼に、デイビスはズブズブと浸かっていた。きっかけは簡単なことだ。予期せぬ減給に、想定外の電車賃。ぴったり残っていたのが御の字、とばかりに、紙幣も硬貨も消え失せた財布を、爽やかな風が吹きさらってゆく。冬を超え、春がやってきたこのマリーナとは裏腹に、凍えるような懐には慣れているデイビスも、さすがに涙をのまずにはいられなかった。とぼとぼと家路につく。徒歩二十五分。どうせ宿舎に泊まるからと、安い家を探したのが仇になり、精神の重たさも手伝って、足が棒のようだった。

 思い返してみれば、刹那的に毎日を過ごしてきたツケが回ってきたのかもしれない。楽しめるうちに楽しめ、がポリシーであったのに加え、大きな海底レースが重なったことで、ここ最近はまったく金が貯まらず、泣く泣く目覚ましをかけて早起きし、粗雑な手作り弁当をつまみ、水筒の水で命を繋いでいた。その努力が、まさかこんな形で泡になるとは思ってもみなかった。今はもう遅い後悔を胸に渦巻かせつつ、坂道をくだってゆくと、通行人の何人かが、彼の方にちらちらと目を送る。あからさまに好奇と羨望が入り混じった、ともすれば微笑みかけてくれるだろうと期待する眼差しだったが、肩を落としたデイビスは、それすら気づかない。つい昨日であれば、気取った敬礼などを返したものだったが——今思えば、あれは馬鹿だった、なんて恥ずかしい真似をしたんだと、過去の自分を絞め殺したくなる。しばらく彼を振り返っていた通行人も、ああまでしょぼくれている人間が街の英雄だとは信じがたい、人違いだったのだろうと思い直して、次々とマリーナに降り立ってゆくゲストの波に加わっていった。
 
 この時期、ポート・ディスカバリーは、訪問客に人気の観光スポットとなっていた。二月までは恐ろしいほどに冷えた潮風が吹くが、それを堪えれば、心地よい南風に変じてくる。朗らかなカモメの鳴き声とともに、あちこちから植物が芽吹き出て、色とりどりの花びらを震わせる様は、悪くない景観として、しばしば報道番組に紹介されている。それに過去、例を見ない祝祭が重なれば、自然と人の足も呼び込むというもの。TODAYというタイトルが刷られた折り畳み式の特集や、地形にかなり変形が加えられていることで有名なガイドマップを片手に、ポート・ディスカバリーの外から訪れた観光客ゲストは、忙しなく辺りを見ている。とりわけ彼らの目を惹くのは、流線が特徴的な近代的建造物と対峙している、鮮やかな蒼海だった。今の時期、白波がほとんど立たぬほどに落ち着いており、宝石のような鱗をした魚がちらちらと影を遊ばせて逃げるのが見えるし、最新の科学技術を駆使した養殖業は盛んで、シーフードも旨い。熱帯魚を揚げたものもあれば、フジツボのスープなどという変わり種もあった。白ワインを合わせるといいかもしれない——もっとも、アルコール飲料はポート・ディスカバリーの特産品ではないのだが。その分、ウォーターフロントを中心とするエリアから様々な食品料を輸入し、食べるものにはまるで事欠かなかった。ポートから次々と運ばれてくるコンテナは、ここだけで世界中の料理を嗜める事実を示している。それに華を添えるのは、料理好きの科学者たちが作った、珍妙な味つけのポップコーン。もちろん、舌にそぐうかどうかは定かではない——それもゲストにとっては、格好の土産話の種となるだろうが。レストランでは特別メニューを開発し、映画スターを招き、海底レースのシーカップを磨きあげ、ついでに、新しく研究中の航海システムまで開放しているとのことだ。

 果たして、何が彼らをここまで高揚させるのか。祭り気質という住民の特徴を抜けば、答えはまたもや、一言で尽きる。要するに、金だ。ここぞとばかりに宣伝活動に莫大な資金を注ぎ込んだマリーナは、その見返りとして、特需景気に沸いていた。これらのうち、多くの部分が税として徴収され、科学研究に投資される。とにかく科学の発展には金がいるということを、彼らは存分に知り抜いていた。都市全体が金を欲している。ならば、その出所は? マリーナ外から引き込むことだ。多大な資金を要する研究ほど、補填のために大々的に外部にPRし、金を落としてもらう。単純だが確実な手法ではある——ついでに研究成果も発表できれば、これ以上マリーナの名声に貢献できるものはないだろう。というわけで、観光事業は、目下彼らの死活問題なのであった。フェスティバルの裏には、このような魂胆が隠れていたのだ。さすがに、商品を釣り合わない値段で売りつけるといった詐欺までが横行することはないが、多くの店の売り物は、普段の値付けの二、三割増し程度の祭り価格にまで引き上げられている。ちゃっかり者の住民たちにとって、美味しい事態であることに変わりはない。

 で、その華々しい祝祭が、彼の勤務する気象コントロールセンター、すなわちCWCに、何をもたらしてくれたか。

 ——無。
 ———無。
 ————清々しいほどに無、である。

 最初から予想されていたことではあったが。頭の中よりもゼロが一つ少ない予算報告を見て、デイビスは目を丸くする。

「……何かの刑罰か?」

 常日頃は沈着なスコットも、さすがに一言挟まずにはいられなかったのだろう。気難しい顔を怪訝なように歪ませているこの中年の男に向かって、まとめ髪におさまらなかった黒髪を耳にかけ直したベースは、何か文句でも、とでも言いたげに流眄を送る。

「あなたがたの給与は、前年と同クラスを死守しました」

「って、ストームライダーの予定発進数自体が削られたら、どう考えても成果報酬が減っちまうことになるんだが」

「その分トレーニングの成績の方に、特別報酬を積んでいますから」

「オイオイ——」

 デイビスはボーゼンとする。トレーニングとは、シミュレーション・システムのことではないか? 今さら、訓練生時代に吐くほど飽きた、あのトレーニングのみに勤しめと?
 思わずベースを睨むが、彼女はどこ吹く風といった表情で、スコットは最初から、書類にばかり目を向けている。しらっとした会議室の様相に、なんなんだこの空気は、とデイビスはまごついた。

 そんな馬鹿な。
 だって、ストームライダーIIに搭乗したゲストからは、あれほど好評だったろう?

 予算報告を続けるベースの声を背景に、デイビスはつい二週間前に体験した自身のフライトを省みた。

 中心気圧922hPaの、超大型ストーム。レベルは最大の5ファイブ
 その脅威がCWCから通告された時、ポート・ディスカバリーの住民たちは騒然とした。かつてこの街を襲うどんなストームでも、それほどの低気圧まで到達したことはなかった。屋根が飛ばされるどころではなく、街の壊滅が危ぶまれるレベルである。念のため、防災品の備えや窓ガラスの補強を行うように勧告を言い終えて、報道は打ち切られた。

 ホライズン・ベイでサンドイッチを齧りながら、周囲の喧騒を眺めていたデイビスは、内心、抑え切れぬほど興奮していた。すでにCWC内部ではストームを把握しており、彼にも副官としての搭乗命令が下されていたのだから。事実上、これが初めてのストームライダーの正式発進となる。今年は出番なしか——と憂えていただけに、決算期駆け込みのタイミングでの発進は、否が応にも彼を奮い立たせるものがあった。いや、彼だけではない。住民たちの誰も彼もが、ストームの威力に恐れ慄きながら、その一方では無責任にも、はちきれんばかりの期待を躍らせていたのである。今までさっぱり活躍の機会がなかった、あの・・ストームライダーの勇姿がついに見られる! CWC万歳! 科学の発展万歳! 発進予定日までに街中にストームライダーの旗が掲げられ、コマーシャルまで作られ、子どもたちは夢の中で、激しい嵐に向かって飛び立つパイロットの威厳に手を振ったものだ。そして——彼は生還した。ストームは消滅したのだ。ミッションの切り札として搭載されたストームディフューザーは、稲妻という未経験の障害に襲われながらも、ストームの暴風を相殺するプログラムを爆発的に散布し、その役割を完璧に果たした。爆風に巻き込まれ、少し、いや大分、ストームライダーの機体には破損が見られたが、しかし死傷者は一人も出さず、マリーナの被害は完全に防がれた。まさに歴史的快挙であった。

 その立役者として世に名を知られるようになったデイビスは、ここ最近、ずっと上機嫌だった。ランチは店員の好意で割引してもらえるし、通行人たちにサインをせがまれるのも悪くはない。いささか——ほんのちょっぴりの話だが——まあ無茶があったことは認めてやってもいい。しかしそれが何だというのか? 街は無事、死傷者はゼロ、経済的被害もなし。マリーナの平和を託されたパイロットにとっては、結局、結果がすべてなのだから。

「それからですね、パイロットのリソース不足の問題ですが——」

「ちょっと待ってくれよ。俺は、シミュレーション・システム漬けのトレーニングなんかやらないからな」

 デイビスは断言して、先を続けようとするベースの言葉を遮った。

「あれがどれだけ温いトレーニングかってことは、あんたもよく知っているだろ?
 本当のフライトは、もっと荒々しくて、予測不可能なんだ。シミュレーションが悪いとは言わないけれど、そんな成績だけで人事評価が上下するなんて、おかしくないか?」

「デイビス、人事評価にちょうどいいストームが、そう易々とポート・ディスカバリーにやってくると思いますか?」

 彼の対角線上に座っている女性ベースが眼鏡を押し上げ、デイビスは呻いた。まるで反対することが自分の最大のロマンだとでもいうように、あれやこれやの提案をことごとく却下するのが、彼女の常であった。

「確かにシミュレーションは、完全であるとは言えません。しかし度重なるトレーニングによって、初めて本番で安定したフライトを行うことができるというものですよ。
 そもそも、飛びたくても飛ばすことができないでしょう。あなたの専用機であるストームライダーIIは、まだ当分は修理中ですし……予備の機体も、余程のことがない限り、搭乗の許可は出せません。修理の原因に心当たりのあるあなただったら、多少の理解を示してくれると思いますが?」

「なるほど、確かに修理費の予算計上は、前年より跳ね上がっているな」

 スコットが納得したように口を挟み、修理費の欄に丸をつけた。

「先々週のミッションの結果を受けて、増やしました。もう緊急の補填要請を市にかけあうことはできませんから。
 とはいえ、この項目が他を圧迫しているのは事実です。発進数が抑えられているのも、その調整の一環なのですよ。何せ一度発進するだけで、一気に数十万の費用が——あら、どうしました、キャプテン・デイビス?」

 デイビスは頭を抱えた。発進することが街の防災に繋がるのに、修理費が高額だから発進を抑えるとは、本末転倒ではないか?

「それと、謹慎処分の間は、給与は六割までカットされます。今のうちに貯金をなさい、デイビス」

「謹慎?」

 耳を疑った。というのも、彼は元々散財の気の激しい上に、先月は潜水艇同士で繰り広げられる海底レースに多大な金を費やしたため、慎ましい節約生活を送らざるを得なくなっていたのだ。慌てて、会議室の椅子から立ち上がる。これ以上収入を減らされたら、たまったものじゃない——

「俺はポート・ディスカバリーをストームから守ったヒーローだぜ? 昇進すらしていいくらいなのに、謹慎処分なんて、何を間違ったらそんな結論が出てくるんだ?」

「それに関しては、ポート・ディスカバリーの市長から、丁重な感謝状を賜わっています。『キャプテン・デイビスは自然の魔の手からマリーナを救った英雄に値し、この先もより一層、人類への貢献の精神を磨くことを期待するものである』と」

「ほらね——」

 鼻高々と胸を張るデイビスに、ベースは氷雪のような眼鏡の下の目を光らせて続ける。

「……それと同時に、苦情も頂戴しました。『ヨットの航路侵害、ヘリコプターの空路侵害、並びにフローティングシティの縦横無尽なる飛行は、甚だ危険な行為に相当し、今後このような無謀なフライトはけして行わぬよう、重々お願い申し上げる次第である』と」

「う……」

 二の句が継げず、ふたたび腰を下ろしたデイビスは、胸の内で歯噛みした。

「しかしながらデイビス、謹慎処分を下すのは、これらの所業を鑑みてではありません。あなたは重大な規約を侵したのですから、粛々と処分を受けねばなりません」

「はー」

「はー、という返事はありません」

「それで結局、何なんだよ、俺の罪状というのは?」

管制塔わたしからの命令違反です」

「命令違反?」

 はて。自分は、そんな既成事実を作るヘマを犯しただろうか。
 デイビスは今日何度目かとなる手慣れた素振りで、首を傾げた。

 ここで重要なのは、ストームライダーが軍用機ではなく、また航空機の通常の類いにも当てはまらないということである。一般に、航空機は乱気流や豪雪等の悪天候を回避し、場合によっては運休にすることで、安全性という最も重要な事項に服従する。ところが反対に、荒天の際にのみ発進し、危険の中に身を晒すことこそを最大の使命とするのが、この飛行型気象観測ラボ、ストームライダーである。すなわち彼らのフライトに、安全の文字はないのだ。従って、パイロットをミッション内容のみに集中させるために、ストームライダーに与えられた特権は、頭ひとつ抜きん出ている。かいつまんで言うと、大体こんな感じ——

 一、ストームライダーの空路は、いかなる航空機にも優先されるものである。対峙の際には、他の航空機は、面舵にその空路を譲るものとする。ただし、ストームライダーが互いに対峙した場合、両機がともに面舵に切らねばならない。
 二、ストームを破壊するのに十分の高度に達するまで、ストームライダーは半径百フィートに渡って退避信号を発信し続けなければならない。予定飛行高度に関しては、発進の前日までに(それ以降に発進が決定された場合は、可及的速やかに)管制塔は市に通告しなければならない。
 三、ストームライダーは、管制塔のあらゆる命令に従う。ただし、ストームの規模、動き、進行経路、あるいは悪天候等の理由によりやむを得ない場合、パイロットは良心と市の奉仕精神に従って、自らの空路を決定するものとする。

 ベースが指摘したのは、このうち三に該当するものだった。しかし、方針の内実を見ると、通常の航空機では考えられないような破格の権限を与えられていることは明白である。裏返すならば、天候のことは誰にも分からない、その時になったら独断で動くしかない、だからパイロットには良心のある奴を選べ、というのである。性善説、ここに極まれり。察するに、ポート・ディスカバリーの住人は総じて能天気な傾向にあるから、このように生ぬるい方針でよしとしたのだろう。

 ストームライダーの数少ない正式パイロットであるデイビスは、無論この基本方針を熟知していた。といっても、狡猾な彼のことだから、どうすれば裏をかけるか、という点にのみ気を回して、訓練生時代を過ごしたのである。無線を切ったことに関しても、自分はあの時、「よく聞こえない」という一言でもって事前に牽制し、通信の切断が自然現象に由来するものであることを示唆したはずだった。まさか、あの時の言葉を、ベースはよく聞き取れなかったのか?

 眉根を寄せたままのデイビスに、ベースは威厳を持って言い放つ。

「キャプテン・デイビス。明日から、二週間の謹慎処分を命じます。自主トレーニングには出ることは許可しますが、出勤扱いにはできません。もしもその間、ストームライダーに搭乗しているのが見つかった場合は、即刻解雇処分といたします」

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれよ」

 彼は焦って、ぱたぱたと手を横に振った。

「俺は全然納得なんてできていない。パイロットの行動原理は、『良心と市の奉仕精神に従って』、なんだろ?」

「そうです。『良心と市の奉仕精神に従って』、あなたは私の指示を仰ぐべきでしたよ、デイビス」

「そんな無茶苦茶な解釈って——」

 ベースは、こつんとペンの頭をデスクに落として言った。

「私たちは、あなたに嫌がらせをするために通信をしているのではありません。あなたの命、引いてはポート・ディスカバリーの人々の命を守るために、通信があるのです。ベース・コントロールからの指示は遵守なさい。それに従えぬようなら、空路はメチャメチャになり、ストームライダーは大破し、あなたはたちまち海の藻屑となりますよ」

「デイビス」

 俄かに、それまで黙っていたスコットが、おもむろに低い声で言った。

「上官の命令を聞けない右腕は、いらない」

 体温の下がるような沈黙が、会議室を支配した。自分に向けられた刃でないとはいえ、そのあまりに唐突な鋭さにベースも驚き、デイビスへと目をやった。
 平常心——な訳がない。今までの軽口が嘘のように、彼の顔色は蒼白だった。心なしか、手が震えている。その目は、信じることができないというように、懸命にスコットに注がれていた。彼からの言葉を待っているのだろう。
 しかしスコットは、手元の資料に目を落としたまま、微動だにしない。まるで、彼を見ないことが自分の使命なのだと、自らに言い聞かせているようである。

「————いらないのかよ、俺のこと」

 その姿は、親の怒りを買い、捨てられるのではないかと恐怖している、幼い子どもにそっくりだった。
 うなだれたまま、小さく声を絞り出したデイビスに、

「ああ、そうだ。いらない」

 存外あっさりと言い切ったスコットは、手許にあった紙コップの中のコーヒーを啜る。

「若い分、無茶をしたくなる気持ちは分かる。……だが、頭を冷やせ。これは目立ちたがりのためのゲームなんかじゃない。ポート・ディスカバリーの人々の命は、お前の玩具じゃないんだ」

 息苦しい沈黙。
 寡黙な彼が発するからこそ、それらの警告はずしりと重みがあった。
 口をつぐんだままうな垂れていたデイビスは、

 怒っているわけでも、
 哀しんでいるわけでも、
 自暴自棄になっているわけでもない、

 そうかよ、と、ただ一言。ぽつりと言い残して、会議室を後にしたのである。





……

 さて——
 ここまでが、キャプテン・デイビスの本日の半分。午前中に起きた出来事の顛末である。
 CWCから与えられている宿舎の部屋より、ひとまず必要なだけの荷物を纏めて、彼はエレクトリック・レールウェイに飛び乗った。実は彼の人生において、この日が最も忙しく、奇異な一日となるのだが、彼はまだその事実を知らない。

 一日の残り——あと十一時間五十分。

(こんな日に海の上で、ストームライダーのエンジンを全開にふかしたら、最高なんだけどな——って、隼が飛んでいるし、巻き込んじまうから無理か)

 デイビスは煌めくばかりの緑の眼で、頭上に広がる空を見つめた。雲ひとつなく、太陽は絹のように柔らかな光線を降りそそがせている。

 彼の居住区は、CWCと同じく、ポート・ディスカバリー内に位置している。天空都市計画の発表から数年。世界有数のフローティングシティを擁しているその街は、とりわけ海と天体の観測に優れ、世界中の科学者が出入りしていた。気象研究を使命とするCWCは、このマリーナでなければ生まれなかったはずだ。多くの後援者と税金の投入によって実現したこの施設には、研究所とともに、独自の訓練場が併設されていた。付近の空域では、CWCの専用機以外の航行が禁止され、管制塔の指示を得られればいつでもトレーニングが可能となっている。恐らくはそこから出発したのだろう、薄い飛行機雲が青空に線を引いていた。ストームライダー——ではあるまい。先ほど、発進数を抑えるという方針が共有されたばかりだし、何より雲の道筋が上下していて、不安定なことこの上ない。乱気流に見舞われたというわけでもなかろうし、新米の訓練生でも乗っているのだろうか。どんな操縦をしたらあんな軌道になるものなのか、問いただしてみたい気持ちでいっぱいだった。

(スコットは、いいよな)

 正式なパイロットとしてストームライダーを操縦できるのは、現在のところ、彼を除いてはスコットしか残されておらず、他は全員、訓練生にすぎない。その数、五十名弱。余談だが、スコットは訓練生の教官も担当している。訓練生が飛行しているということは、彼もまた、訓練場に出ているということになるだろう。

 初めて見た時から、この男は「できる」部類の人間だと思った。そして実際に、トレーニングを経験する中で、フライト訓練の成績は、いつもスコットが最優秀だった。髪をオールバックに撫でつけ、筋骨逞しい体で、常に冷静沈着。カカオのように滑らかな肌をパイロット・スーツに通し、その存在感は揺るぎない威圧を放っている。どこか一目置かれるような男。それが多くの者の抱く、スコットの最初の印象だった。

 彼の信頼を支える礎は、リーダー気質もさることながら、その絶対的な操縦技術にある。スコットの操るストームライダーIには、全くと言っていいほど揺れがなかった。ある小規模のストームを消滅させる実地訓練から帰還した時など、コックピット内のデスクに置かれたリンゴが、少しも位置を変えずに置かれたままだったと、まことしやかに囁かれたものだ。最初にスコットの試験飛行を見た時、デイビスは舌を巻いたのを覚えている。完璧な離陸角度、強い意志を感じさせる、まるで定規で測ったかのような針路の正確さ。ベースからの信頼も厚く、第一期ストームライダー正式パイロットとして選抜されるのは、当然の流れだったと言えよう。

 残る椅子、もといパイロット席はたった一つ。
 デイビスは死に物狂いで、その座を獲得しようとした。

 今思い出しても、無茶なことばかりやったものだと、笑いが込み上げてくる。シミュレーション・システムの風圧や風速を、ありえない数値に設定して訓練したり、夜中にこっそり訓練用の飛行機を飛ばしたり、エンジンを改造して爆発的な推進力を得たり。見つかれば懲戒免職レベルであろう内容も、パイロットになるためならと、他人の目を盗んで敢行した。

 憧れだったのだ。ストームライダーは。

 第一期ストームライダー操縦士のもう一人の、そして最後のメンバーとして抜擢された夜、遠い存在だったスコットから、フローティングシティHYDRA-7のバーに誘われた。良いバーだった。広くはないが、人と人の距離を親密にする薄暗さと、雰囲気の慎み深さがある。インテリアもシンプルではあるが、ボーイの手によってよく磨かれていた。夜闇の向こうには、ゆっくりと点滅する赤い警告灯や、幾千、幾万もの夜光虫の光が集まった海が見えた。カウンターの隅に腰掛け、スコットはギムレットを、デイビスはスカイ・ダイビングを。薄暗い照明の中でも抜けるように青い液体が、グラスに満々と湛えられているのを、スコットは呆れ果てた目で見つめた。

「お前、本当に空が好きなんだなあ」

「ギムレットを頼む奴は、ハードボイルドかぶれのスカした野郎って決まっているんだ」

 軽口を叩くデイビスを、怒るでも、不快な顔をするでもなく。スコットは黙って、少しだけグラスを上げた。

 無言の乾杯。

 互いに、酒に慣れぬほどの年齢でもない。グラスを傾けてぐっと煽ると、よく冷やしたブルーキュラソーの爽やかな香りが、胸いっぱいに広がった。もしもストームライダーのコックピットを開けられたら、大空の大気は、こんな風に澄み切っているのかな——とりとめのない考えが頭をよぎる。

 スコットは、一口つけただけで、すぐにグラスを置いた。よく鍛え上げられた肉体が、牛革のような張りと艶で、微かに埃の散るのを包み込むライトに照らされている様は、暗鬱な貫禄を漂わせていた。存在の完全性、とでも言おうか。同じパイロットにしても、デイビスとは階級が二つほど違う。スコットの乗り込むストームライダーIがミッションの中枢を担い、ストームライダーIIが補佐をする、というのが、業務上の二人の立ち位置だった。

 人の下につくのはまっぴらだ、と思う一方で、彼に仕えるのはどこかわくわくした。スコットには不思議な魅力があった。寡黙だが、すべてを知り抜いているような態度で、いつも叱られてばかりのデイビスとは、字義通り格が違ったのだ。

「明日から、よろしくな。デイビス」

 彼には、そんなスコットが、羨ましくてたまらない。

「————ああ。よろしく、スコット」

 それでも。
 この上官のそばにいる限り、役立てることも、盗めるものもあるのだろう。
 握り交わした手は、温かく、そして力強かった。

「ところで今夜は、どうしてバーに?」

「明日はまだオリエンテーションだが、明後日から実施訓練が始まるだろう。酒を飲むチャンスは、今夜くらいしか残っていない」

「なるほど」

「あとは単純に、お前に興味があった。一度、CWCの外で、ゆっくり話してみたかった」

「…………………………………………へぇ」

 デイビスは気恥ずかしさから目を逸らした。

「あんたからバーに誘ってくれるなんて、意外だったな。酒なんか飲まない人種だと思っていたよ」

「お前は、よく飲みそうだな。女を口説くためだけに、酒場に通っていそうだ」

「…………」

「酒は、好きだよ。毎日は飲まないが。ストームライダーパイロットの肩書きを肩から下ろしたい時も、たまにはある」

 そう言って、スコットは二口目を飲むために、唇で軽くグラスに触れた。
 慣れている、と思った。いつでもスコットの所作は自然で、嫌味も媚びもなく、洗練されている。憎たらしい男だ、と思う一方で、そんな彼にどうしようもなく魅了されている自分がいる。

 スコットと、自分。
 何が違うのだろう。
 どんな努力を費やせば、自分は彼に引け目を感じずにいられるのだろう。

「それじゃあ酒は、強いんだな」

「嗜む程度だ。若い頃よりは随分減ったがね——今はもう、晩酌に付き合ってくれるような仲間がいなくてな。妻も飲まないし」

「俺は飲んでいないのに、酔っているとよく言われるよ」

「どういうことだ?」

 不審そうに眉根を寄せるスコットの、子どものような素直さを感じ取って、デイビスは薄く微笑みながら肩をすくめた。

「単なる笑い話だよ、そんな真剣になることはないぜ。……あいつらもきっと、悪気があるわけじゃない。だけど、酔っ払いみたいに混乱した軌道だって、みんなに馬鹿にされる。確かにレーダーの軌跡を見てみると、酷いもんだ。プリントして、ポスターにしたらどうだとまでからかわれた。

 俺が正式パイロットに決まった時も、他の訓練生たちに、さんざん笑いのネタにされたさ。上層部の奴らの目は狂ってる、とか、俺とあんたじゃ、水と油——いや、水と酒くらい、レベルが違うってな」

「ほう」

 興味なさそうにスコットは相槌を打ち、

「それでお前は、そいつらの言うことを鵜呑みにして、私を目の敵にするわけか?」

「まさか。そんなことで逆恨みするほど、心が狭くないんでね」

「賢明だな」

「それにあいつらの言うことは、当たっているところもある。あんたと俺は違う」

「他人なのだから、当然だろう。違うという事実に、いったい何の意味があると言うんだ」

 スコットが、まるでよく理解できないというように言った。

「彼らは訓練生で、お前は正式なパイロットだ。選ばれたのはお前であって、彼らじゃない。胸を張っていいと思うが」

「あいつらじゃない。あんたなんだ。俺の前にいるのは、スコット、あんたしかいないんだ」

「私か?」

 スコットは、何の邪心もない様子で、首を傾げた。
 もしかしたらこの男は、人を羨むということを知らないのかもしれない。その推測は、デイビスの胸のどこかに、焦げるような苦みと痛みを植えつけた。どす黒いわけじゃない——だけど、いつも心をもつれさせていた、糸くずのような何か。それを振り切るために、彼が必死に意識をそそがなければならなかった何か。

「それは、私が上官だからということか」

「違う」

「私の言動が、お前のキャリアの障害になっているということか? 直せるよう善処するから、どこに問題があるのか教えてほしい」

「だから、違うって」

「では、なんだ? 間違い探しじゃないんだぞ。デイビス、初日から私に心を閉ざしていて、この先二人でやっていけると思うのか」

「あんたは、気付いていないだけだ」

「何に?」

「そういうところだ、スコット。そういうところなんだ。あんたはどうせ、俺のことなんて、歯牙にもかけちゃいないんだよ!」

「デイビス、はっきりと言語化してくれないと分からない。部下の精神をケアするのは、上官の仕事なんだぞ」

「…………」

 子どもっぽい振る舞いだと分かっている。だからこそスコットは、理解できないだけなのだ。今、この場で一番幼稚なのは、自分自身だ。

 デイビスは片手で、グラスを握り締めた。

「———俺は、あんたに勝てない。一生、勝てる気がしないんだ。無理だ、あんたに追いつくのは」

 言った途端、信じられないほど自然に、肩の荷が降りた気がした。そうだ、自分はずっと彼に嫉妬していたのだ——けれども、素直に言葉にしてしまった今、焦りや妬みは掻き消え、漠然とした畏敬の念だけが残った。けれども彼には、その尊敬すらも悟らないでほしい。

 スコットは、しばらく口の中に酒を馴染ませるようにじっと黙っていたが、やがて薄い唇を開き、

「お前には才能がある」

と告げた。デイビスは、ぴくり、と肩を震わせた。

「ストームライダーの格納庫で、機体を整備しながら、お前のフライトを見ていた。たくさんの訓練生が飛んでいたが、お前のは、一目で分かった。煙草を吸いに出た時には、退屈しのぎによく眺めに行ったよ。私とは全然タイプの異なるフライトだが、とにかく見ていて、飽きなかった。

 いい飛び方だ。いささか向こう見ずではあるが——パイロットの意志と機体が、完全に一体化している。お前が強い意志を持つ限り、嵐の中でも、ストームライダーは応えるだろう。俺は最初から、お前が選ばれると思っていた」

 励ますようでもなく、強い言い方をするわけでもない。
 ただ淡々と、それが事実だ、と言わんばかりに、スコットは言葉を紡ぐ。

 頬が熱くなった気がした。スコットが、自分のフライトを見ていた? まさか。毎日励んでいたのは、彼に追いつきたかったからなのに。

「め、めちゃくちゃだったろ……俺のフライトは」

「そうでもない。一見、規則性のない動きにも思えるが、風の力を借りて、ガソリンの消費量を抑えているのだろう。見る目のある奴が見れば、却ってあの方が効率的な飛び方なのだとは、すぐに分かる」

「俺はあんたみたいに真っ直ぐ飛ぶなんて性に合わないし——それでも、ミッションの成功率を上げるために、少しでも安定して飛行した方が、周囲から価値を認められる」

「誰でも同じフライトがいいわけじゃない。どのフライトが合うかは、ストームによって様々だ。
 中規模のストームまでなら、私のフライトの方が成功率が安定するだろう。だが、猛烈な風が吹き荒れるレベル5ファイブなら? 要求されるのは、風を読む力と判断力だ。それこそ、常日頃から風を正確に推し量れる奴だけが、ストームを消滅できる。

 それに私には、経験があるからな」

「経験って、何のだ? まさか、回るダンボの操縦士だとか言うんじゃないだろうな」

 スコットはちらりとデイビスを見た後、伝えるべきか迷って言葉を詰まらせていたが、やがて口を開き、

「…………空軍で、磨いたんだ」

 ———噛み締めるように告げられたその内容に、デイビスは目を見開いた。

 さて——この件に関しては、いささかの解説が必要だろう。彼らの所属しているCWCは、性別、年齢、国籍を問わず、すべての人々に門戸を開けている機関である。当然とも言うべき事項かもしれないが、しかし背景を強調するならば、そもそもポート・ディスカバリーは、自由や平等を強く打ち出している街だ。科学の向かうところ、それは人道的な目的でなければならない、というわけだ。従って、CWCも街の信奉を忠実に体現し、なんと十歳の子どもでも丁寧に面接するとの事例がある。その分、採用倍率が跳ね上がる原因にもなっているのだが。

 ただし、たった一つだけ、ポート・ディスカバリーには似つかわしくない厳しさで、制限事項が設けられている。あまりに有名なその内容を知らぬ者は、この街にはひとりもいないと言っていいだろう。

 軍人、ならびに従軍経験者、この場所に立ち入るべからず。
 我らの誇り高き発明に、一点の血も染み込ませることなかれ。

 輝かしい平和事業サンクチュアリに、兵士なる存在は禁物だというのだろう。他のエリアでは、科学の分野において、軍事技術が先頭を率いるのが自明の理である中、半官半民の研究機関により、弛まぬ研究を重ねてきたポート・ディスカバリーは、軍事に依らずに科学技術を発展させてきたことを、何よりの誇りとしていた。ストームライダーは、まさにその花形だった。自然災害を超克する飛行艇。人々に熱狂的に受け入れられたその新型機は、ポート・ディスカバリーのすべての人間の平和の象徴として、技術の清廉潔白さも同時に宣伝され続けてきたのだ。その最前線に立つストームライダーIのパイロットが、元軍人だと知られたら、どれほど格好の噂になるだろうか。すでにマリーナ外にも大々的に広告しているだけに、揶揄や批判の激しさは計り知れない。

「……空軍、ねぇ——そっか。道理で」

 デイビスは、ようやく彼の操縦技術の地盤に思い当たった。スコットはピスタチオを齧り、遠い目をしたまま、かつての記憶を物語る。

「俺に軍隊は合わなかった。金が欲しくて入隊しただけだ。それに、飛行機に乗れた嬉しさで、はしゃぎ回っていたからな。しょっちゅう隊律を乱しては、上官から処分を受けていた。デイビス、ちょうど、今のお前のようだった——いや、盛りすぎたな、すまない。お前よりは、まだずっとマシだった」

「おい。ついでのようにディスるなよ」

 抗議の声をあげると、スコットが鼻を鳴らして笑った。こんな風に無防備に笑うのかと、意外に思った。彼が笑いをこぼしているところなど、一度も見たことがなかったから。

「何とか、軍曹までは上り詰めた。だがそこから先は、さっぱりだ。軍紀を守れぬ奴は、昇級できなかった。人に厳しくできない性格も災いした。誰も俺を慕ったり、畏れたりしなかった。俺はだめな男だった。いつもびくびくしていて、上官や部下を恐れていたせいで、とうとう精神を病んだ。それで軍隊をやめ、妻子を連れて、海を渡って移住した」

 窓の向こうからフラッシュのような光が投げかけられ、一瞬、スコットの横顔が強く照らし出された。ヘリコプターでも航行しているのだろう。プロペラが回転する音とともに、硬い眉毛や、頑迷な頬骨、それに奥深く煌めく黒眼がよく見える。

「ポート・ディスカバリーは、俺にとって、未来の街だった。どこもかしこも明るい——それに、底抜けの希望がある。誰もが、未来がより良くなることを疑わないし、マリーナは美しく、人は善人であることを無条件で期待している。

 驚いたよ。海をひとつ挟むだけで、こんなにも変わるなんてな。歩いていると、奇妙な科学者が議論を戦わせていたり、子どもたちが生き生きとして、変わった実験を行なったりしている。ポップコーンの匂いが漂っていて、つやつやと輝く合金の椰子の下で、若者たちが波の光を見つめている。人々が楽しむのは、兵士たちのパレードではなく、海底レースであり、海軍の吹奏楽ではなく、タイムトラベラーバンドだ。

 しばらく無職だったが、決心して、CWCに入った。渓谷バレーで、軽飛行機を平和に操縦していたと、経歴を偽ってな」

 昨日のことを思い出すかのように話し終えた後、スコットはギムレットの最後の滴を飲み干した。

「あんた、そこまでして空を飛びたかったのか」

「ああ。空軍に在籍していて学んだのは、それだけだ。後は思い出したくない経験しかない」

「ふぅん」

 デイビスはナプキンに手を伸ばし、それまで舌で転がしていたオリーブの種を包んだ。しょっぱさと、苦味と、鼻を刺すような新鮮な青さが、最後の風のように抜けていった。

「分かっているかもしれねえが、ここは、住むには悪くない場所だぜ。住民は頭のネジが飛んでいる変人ばかりだし、ベースみたいにやたらと口うるさい連中もいるが、それでもみんな呑気で、心が自由だ。あんたが気を病むようなことは、今後もう起きることがないだろう。……この先も、きっと楽しく暮らせると思う」

「そうだな。それが、俺がCWCに行くことを決めた理由だ」

 スコットは俯いた。空になったグラスの底に、見えないものが見えているように。
 いや、本当に見えているのかもしれない。未だに彼の内で揺らめくもの、熱くするもの、その魂を奮い立たせようとするものが。
 そしてデイビスは、不意に気づく。なぜ自分が、堅物の代表格のようなこの男に、惹かれて仕方がなかったのか。

 ———ああ、そうだ。この男は、俺と同じ情熱を持っている。スコットは、鏡に映った俺自身だったんだ。

 最初から、知っていたじゃないか。彼の愚直なまでに見事な軌道には、他の人間にはない意志が込められているって。なのになぜか、その原動力が懐かしかった。眩しくて堪らないはずなのに、魂で理解できた。

 空への情熱。一番になりたいという思い。何より、宙を切り裂いてゆくあの疾走感スピードへの、どうしようもない欲望と憧れ。青空を貫いて、太陽の光そのものになり替わったような錯覚。

 どんな訓練生の中にも、それはあった。しかし、この男と自分は——その激しさを、どうやっても止められなかった。けして燻るだけで終わるわけにはいかなかった。だから毎日、朝も夕もトレーニングをした。胸が焦げついて死んでしまう前に、叶えなければならなかった。

 苦さと陶酔を混ぜ合わせたような表情で、スコットは声を絞り出す。



「———どうしても、ストームライダー乗りになりたかった」



 それは、夢の一ページ。
 雲の切れ間を切り裂き、真っ直ぐに照らし出す光のように——心躍らせ、無限の挑戦を促す、自分だけの物語。

 知っていたのだ。この口下手な男の中に、こんな少年のような憧れがあるって。彼は俺と、同じ感情を知っているんだって——

 デイビスは、じっと俯いているスコットに目を奪われ、そして密かに自分の手を握りしめた。強い力が込められた拳は、熱くて、痛かった。

 グラスが空になっていることに気づく。スコットはバーボンのシングルを頼み、デイビスはブルーマルガリータを注文した。

 バーテンが酒を置く。
 なんとはなしに、互いに目線を交わした。

「———今の話、ベースには黙っていてやってもいいぜ」

「そっちこそ、無断でシミュレーション・システムの設定を変えたり、真夜中に練習機を乗り回していたことは、他言無用にしてやってもいい」

「なんであんたがそれを知っているんだ?」

「ハリケーンの三倍クラスのストームのシミュレーション設定、だろう? 俺も退屈な時は、たまに世話になっているからな」

 グラスを鳴らし、ニヤリとほくそ笑むと、それで黙契が足りた。二人は一気に酒を干した。この日からスコットは、デイビスのよき上官であり、友人になった。スコットは、自分にはないすべてを持っていた。けれども、それは違う楽器から奏でられた同じ音であり、同じ旋律だった。毎日をふざけて過ごしながら、いつもどこかで、スコットに恥じない道を選ぼうとしていた気がする。彼はデイビスの模範であると同時に、良心だった。何かの拍子に、不意にスコットから、「私の相棒」と呼ばれた瞬間を、忘れられない。胸が信じられないほど熱くなった。彼に追いつき、追い越し、あの黄金のような誠実さと精悍さを身につけたかった。

 そうしたら、いつか、俺は俺のフライトに自信を持てるようになるのかもしれない。

 誰よりも完璧に、誰よりも気持ちよく、誰よりも自由を味わいながら、青空へ————

 そう、思っていた。
 そう信じていたのだ。
 ほんの数時間前の、凍るようなスコットの通告を聞くまでは。

『上官の命令を聞けない右腕は、いらない』

 その言葉によって、スコットは、あっさりと自分を見限った。
 思わず振り返った。何かフォローの言葉が入るはずだと思った。そもそも彼は、自分が人に厳しくできない性格だと打ち明けていたのだから。けれども。続け様に発せられた台詞は。

『ポート・ディスカバリーの人々の命は、お前の玩具じゃないんだ』

 ああ、スコットは、俺がストームライダーを乗り回すことで、人命を軽視したと思っている——

 冷や水を浴びせられるように、デイビスはその事実を感じ取った。
 
 それがどれだけ彼の軽蔑に値するかは、幸か不幸か、何の苦もなく察することができた。口調の冷たさ。言葉の選び方。何より、デイビスのうちにも根付いている、パイロットとしての誇りと重い責任が。

 お前に期待した私が馬鹿だったと、そう心中で呟くスコットの声を、剥き出しにするかのようだった。

 目眩がするほど虚しかった。いくら市長や住民たちに称賛されたとしても、スコットに認めてもらえなければ意味などない。彼は、唯一の自分の理解者だったのだから。

 デイビスは髪を掻き回し、地面を見つめた。晴れ渡ったマリーナの空は、彼の足元に、くっきりとした影を落としている。

 先ほどの会議室では、スコットは、一度もデイビスを見なかった。一瞥する価値もないということか。規約ルールに忠実なスコットからすれば、デイビスの起こした一連の騒ぎは、上官という枠を外したとしても、目に余る振る舞いだったのかもしれない。

 だとすれば。

 自分は甘えていたのだろうか。全部自分の思い上がりで、本当はストームライダーに搭乗する資格などなかったのではないか。だからこそスコットは、自身の手腕を鼻にかける自分を見放し、失望したのだろうか。

 そんな暗雲が、胸の中に立ち込める。褒められるとまでは思っていなかったが、一言くらいは、労いの言葉をかけてもらえるかもしれない。その期待は結局、夢物語に終わり、単に自分の甘さを思い知らせるだけの材料にしかならなかった。

 今はただ一刻も早く、帰って、眠りについて、彼の冷たいあの声を忘れたい。

 ヨロヨロとスーツケースを転がしながら、デイビスはため息をついた。一年に何日か、こういう日はある——それでも、今日はとりわけ酷い有様だった。

「あーあ、何かいいことないかなあ。空から可愛い女の子でも降ってくればいいのに——なんて」

 暗くなった気分を、軽口を叩くことで、なんとか明るくしようと試みる。実際には、余計に惨めになっただけだったのだが。

 落ち込み始めたらどこまでもきりがない自身の現状を哀れみながら、デイビスは知らず、海の方角へと足を向けていた。

 そうだ、どうせなら波の音でも聞いて、心を無にしよう。
 そうすればせめて——明日からは、元気を出せるかもしれない。

 いいアイディアだった。どうせこの後は予定があるわけでもないし、休暇と思って羽を伸ばすのもひとつの手なのかもしれない。五分ほど行くと、防波堤に囲まれた浜辺がある。遊泳禁止のため、いつも人影は疎らである。コンクリートで構えられた防波堤の上へ、階段を登ってゆくと、ふわりと潮風が抜けた。磯の匂いだ。天頂が果てしなくて、どこまでもまばゆく、自由である、前後左右からすべての障害物がなくなり、眼差しは遠くまで抜けて、海に吸い込まれてしまいそうになった。柔和な砂の色、そして遥か高く伸びる薄青と、太陽の帯を引いて煌めく大海が、眼球を超えて満ち足りてゆく。人はまったくいなかった。みな、街のフェスティバルに夢中なのだろう。おかげで、この放漫に過ぎる景色を、独り占めすることができる。

 ここにきてデイビスは、ようやく、ひとときの慰めを手に入れられたのだ。人は、強烈に事態の好転を願うときは、却って悪循環に陥り、執着をなくした時に、初めて暗中から抜けられるものである。彼は防波堤に腰掛け、春の陽射しに霞む海の光をぼんやりと見つめた。

 「求めよ、さらば与えられん」と説いたのは誰だったか。根拠のない、くだらない妄言だと笑っていたものだが、この時、彼はその言葉の意味を、身をもって知ることになる。

 最初、それはちいさな影だった。珍しいことだ、二羽も空にいるとは、と何気なくデイビスは顔をあげる。なるほど、確かにそこには、頭上をめぐる何かがあった。

 鴎か、さもなくば隼が飛んでいるのだろうと思ったが、その割には一度も羽ばたく気配がなく、しかも遠近感とサイズの釣り合いが取れていないように感じる。つまり、もっと小さいか、もっと大きいか。……目に入れるたびに、それはどうやら後者に該当するのだと、デイビスは思い当たる。

「UFOかな?」

 未確認飛行物体という条件に合致するそれは、よく目を凝らすと、鳥の骨組みのようだ。生き物——ではない。もっと無機質だが、しかしなぜか気まぐれな印象を受ける。見ているうちに、あることに気づいた。まさかそんな——エンジンが積まれて、いない?

 であれば、なぜあんな高所に、原始的な飛行機が浮かんでいるのか。付近に山はなく、グライダーのように滑空してきたとも思えない。それどころか、蝶のように自在に大空を飛んでいるのである。

 そう、
 まるで、


 ———その飛行機が、ひとりでに舞い上がるsoaringかのように。


「嘘だろ……」

 デイビスは呆然として、目を止めた。はて。自分は、見てはいけないものを見てしまったのだろうか? 貧乏生活の果てにたどり着いた、白昼夢なのだろうか?

 飛行物体は、旋回しながら、少しずつ高度を下げているようだった。大きく横に張り出した翼の裏に、青い海の光が反射し、波紋がまだらに散って揺らめいている。どこかトビウオを思わせるような、その形状。座席部分は、カブリオレ式の小型の馬車のようで、左右に華奢な車輪がつき、屋根に隠れてうかがえない内部からは、はためく布が垂れ下がっていた。

 突然、鋭い猛禽類の鳴き声が響いた。それは潮風を切り裂き、遙か高く、太陽の近くから降りそそいできていた。陽射しを乱反射する波にも、砂浜にも、ありとあらゆるものに反響し、大空の覇者に対する共鳴を求めるように。デイビスは、その方向を仰いだ。隼の声など、幾度となく耳にしている。だがその鳴き声には、耳慣れない響きがあった。
 声の主は、すぐに見つかった。大きく広げた羽の先まで、しっかりと風を掴み、飛翔している。たった一声に宿る誇りと、迫力。肉体に漲る、恐るべき狩人の力を誇示するそれを聞けば、小動物らは、たちまち身を縮こませて巣穴に閉じこもってしまうだろう。
 まるで王者のような雄叫びをあげるような声に、思わず、デイビスは後ずさる。まさか、俺を獲物だと思っているんじゃないだろうな、と。あの鋭い爪や嘴で攻撃されたら、たまったものではない。

 ところで。
 隼は、空中で最速のスピードを出せる生き物だということを、皆さんはご存知だろうか?
 非常に軽量なこの鳥が両翼を折り畳み、空気抵抗を最小限にまで留めると、鋭い弾丸となって宙を貫通することが可能になるのである。

 とはいえ、最速に達するムーブメントは限られている。
 両翼を畳むということは、羽ばたきや滑空が封じられるということ。要するに、彼らは速度を得るために、高度を犠牲にするのだ。
 すっと狙いを定めたような静けさの中で見せるのは、まさにこれから吹き荒れる暴風の過酷さに耐えるための体勢。

 ここまで書けばお分かりだろう。

 隼が始めたのは、まさにその行動。
 すなわち、

 ————急降下である。

「嘘だろおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?!?!?」


 本日二回目の、夢と見紛う目撃を果たしてしまった彼は、全速力で砂浜に飛び降り、美しいストライド走法を見せつけた。スーツケースを置いてきてしまったが、そんなものはどうでもいい。とにかく、あの隕石のような生き物が突っ込んできたら、大怪我は免れないのだ。慌てて走ったせいで、足がもつれ、派手にすっ転んだ。顔から浜辺に突っ込む。砂埃が朦々と舞うそばから、春の潮風を浴びて、浜に生えた草が耳たぶをくすぐってくる。デイビスは涙目になった。ああちくしょう、もしかして、今日は本当に物凄く厄日なんじゃないのか、これ——

 転倒で潰れた鼻を揉みほぐしながら振り返ると、すでに目の前には、先ほどの飛行物体が、ゆっくりと砂に車輪を触れさせているところだった。柔らかに、けれどもけして少ないとは言えない量で、辺りに砂埃が立ちのぼる。微かに軋む、車輪の回る音。顔面に砂が飛び散り、それを乱暴に腕でぬぐう。デイビスは思わず咳き込んだ。

 土煙の中に、朧ろに浮かぶ影——それは、予想よりも大分ほっそりとして、しかも下に行くほど分厚く、急激に太くなった。安直に例えるなら、箒を縦にした形とも言えるだろう——随分とブラシの部分は大きいが。ほどなくしてそれは、旧来のドレスなのだと気付いた。そういえば、訓練生の際に見た歴史の教科書にも、このようなファッションの人々が描かれていた気がする。

 女?

 どちらかの性別だと決めつけていたわけではないが、それでも見え隠れしているシルエットに驚きを隠せない。徐々に砂埃がクリアになってゆくにつれ、そのシルエットは微細な性格を露わにした。勝気そうな眉に、好奇心で引き締まった唇。美人でも醜いわけでもない、まさに絶妙と言ってもよい顔立ち——ああ、その中でも、青空を映して輝く鳶色の瞳だけは、美しいと称えてもよいのかもしれない。多少見惚れてしまう程度には、その目は無欲さに満ち溢れていた。

 女は、スカートを手で軽く払った。その身のこなしには、はっとするような気品が備わっていた。素早く、淀みなく、流れるように辺りを見回す姿は、野生のアンテロープを思わせる。

 あたかも古代ローマの、白い石柱から顔を出すように。
 その奇妙な乗り物の隙間から、軽く様子を伺った彼女は。

 肩に止まっている、高らかな隼の声を浴びながら———
 時代遅れの素朴なドレスと、頬の横に垂れた巻き髪を風に揺らし———
 なぜか、頭に松ぼっくりをくっつけたままで———

 優雅にその場に着地した。

 ぽかんと、目も口も大きく開けたままの、砂塗れになった彼に、彼女は何気なく目を留め、こう問いかける。




Mi scusi. Come si chiama questa città?失礼。ここは、何と呼ばれている街かしら?




 これが——マリーナ史上最高のパイロットと、ハーバー史上最大の発明家の邂逅。
 華々しい航空史の裏に秘やかな痕跡を残すことになる、彼らのファースト・コンタクトだった。





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