ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」6.どうして俺たちは今、インドにいるんだ?
「カメリア。これは何だと思う?」
「美しいわねえ。青空を映した水路に反射する白亜の霊廟、左右対称の尖塔に、魅惑的な丸屋根。辺りに漂う湿った空気も、何とも言えない香辛料の刺激臭を孕んでいるわ」
「いや、そうでなくて。これ、タージ・マハルだろ?」
「どうやらそうみたいね」
「ミステリアス・アイランドに向かっていたはずなのに、どうして俺たちは今、インドにいるんだ?」
ちゃららーん、と吟遊詩人が鳴らすゴピチャンの音を背景に、二人は短く会話を交わした。最後のデイビスの言葉は問いかけではあったはずだが、その回答は返ってこない。しかし、ほとんど答えは出ているに等しかった。
「……フライヤーはまだ実験中だって、言ったでしょ?」
「泳いでいるぞ、目が」
地震の揺れを計測したように微振動する彼女の目線を見て、デイビスが冷静に突っ込む。
目の前には、凄まじい存在感で鎮座する廟堂。対称性と華やかさを誇るその建築が戴く玉葱型のドームは、イスラームを象徴するやや尖った先端を直立させつつ、趣向を凝らしたアーチや扉、透かし彫り、象眼やコーラン文字、さらには諸外国から輸入した翡翠、水晶、ダイヤモンド、橄欖石、珊瑚、真珠、ラピスラズリ、紅玉髄の数々など、傾国に値するほどの莫大な額を注ぎ込まれ、優美にその姿をさらしていた。
宮殿——とも見紛うほどに贅を尽くした大建造物だが、それはムガル帝国時代、第五代君主であるシャー・ジャハーンから亡き皇妃に捧げられた霊廟である。当時最盛期であったインド・イスラーム文化の極北とも言える傑作で、主な設計の取り纏めを行ったアスタッド・アフマッド・ラハウリ始め、常に二万人以上の工事関係者が働いていたとされる。
庭園は大英帝国の征服により、イングリッシュ・ガーデン風に様変わりしていたが、今でも当時の威光は圧倒的な物量と美しさとして十二分に伝わり、見る者を拝跪させる。
インドの代表的建築物であるこれを前にすれば、ここはインドではないなどと、どうあっても言い逃れすることは不可能であろう。とはいえ、最初から知らされていたリスクではあったのだから、責めることではあるまい。くしゃくしゃと髪を掻き回しながら目の前の事態を受け入れるデイビスに、カメリアは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい。今回こそは、いけると思ったんだけど」
「仕方ないよ、こっちは乗せてもらっている身だし。そんなに落ち込むなって」
「でも、もしかしたらここに行くのが正しいのかも」
どういうことだと顔を寄せるデイビスに対して、カメリアは、まだ迷ったような表情で、
「今まで、目的地の時空を完全に固定させることはできなかったけれど。それでも、到着した先では、必ず求めていた探し物が見つかったの。今回もそうなのかもしれないわ」
「でもここには、CWCが発注したビスはねえだろ?」
「ええ。だから、ビス以外の何かがあるんじゃない?」
「それって……」
二人は突然、空からはためく天使の飛び交うような啓示を受けて、互いの目を見合わせた。もしかして、考えていることは一緒なのだろうか。試しに、それが何とは言わないが、頭に浮かんだ単語を口にしてみる。
「……金」
「けんりょく」
「かぶけん」
「おたから」
「ほうせき」
「ふろうしょろく」
ぼそぼそと数語発話して——それで互いの意思は確かめ合えたらしい——二人は無言で、固い握手を交わした。
清らかな墓地にさもしい欲望などあってはならぬことだが、意気投合するということは、異国の地にあって多大な心強さを孕む。慣れぬ場所においては、できるだけ単独行動しないことが望ましい。
というわけで、恐ろしく広大な庭園の前に、無駄にくっつきあっていたのだが、デイビスの方はふと彼女の発言を思い出して、
「なあ、それって。俺に会った時も、なんか考えていたのか?」
カメリアは何も言わない——が、あ、そうなんだ、とデイビスは一瞬で理解した。
彼女は分かりやすすぎるほど分かりやすく、赤面したのだから。
「いっ、いいでしょ別にっ。何考えていても」
「またまたそんなこと言って。なにか俺に関係するようなことを考えていたんだろ? 教えろよ」
「気のせいよ、気のせい。あなたが面白がるようなことなんて、何もないから」
スタスタと歩みを不自然に早めるカメリアにぴったりと追従したまま、しつこく答えを求めるデイビス。餌をねだる雛鳥のようで、鬱陶しいことこの上ない。どこかで引き離そうにも、足が速くてとても尾行を撒けそうにはなかった。
「もしかして……」
ゴクリ、と深刻な顔をして唾を飲み込むデイビスの気配を察し、不安になったような顔で、ようやくカメリアは振り向く。その表情に、にやぁ、と気味の悪い笑みを深くして。
「あんたは、百年に一度生まれてくるという孤高のイケメン、キャプテン・デイビスに会いたくて、ポート・ディスカバリーに降り立ったんだろ。うん、そうに違いない」
「うんうん、間違いなく、そうではないわね」
ただ一刀で斬り伏せるかの如きカメリアの返答に、しかし鬼の首でも取ったかのように彼女の赤面を記憶していたデイビスは、全身からキラキラとオーラを放ちながら、凛々しく引き絞られた眼差しとともに、彼女の両手を誠実な力で握った。
「分かるよ、異性への礼賛は素直に口に出しにくいもんだよな。でも安心してくれ。俺はけして、あんたの気持ちを笑ったりしない」
「はぁ。あなたって急にスイッチが入ったように、芝居モードに入ることがあるよね」
「イケメンにも、オンとオフがあるんだ」
「そんな話はしていないんだけど」
「仕方ないな。今日は特別に、このハンサムな好青年の姿を目に焼きつけて堪能してくれてもいいぜ」
異国の風に颯爽と煌めきを流しながら、前髪を掻きあげ、ファッションモデルのように立つデイビス。その姿を、水路の縁に腰掛けながら、半目になってカメリアは見ていた。吟遊詩人の音楽をバックミュージックとして、艶やかで妖しい雰囲気が漂う中、さっくりと語れば、滑稽の一言に尽きるその男。よくもあんな馬鹿な真似ができるな、と神経を疑うが、それでも、彼の存在を浮薄だと切り捨てることはできなかった。
(まあ、一見ナルシストに見せているのは、自信のなさの裏返し——なんでしょうけど)
初めて会った時から、彼のうちに眠る二面性には気付いていたが、それはなかなか重症なのだな、とカメリアは目を細めた。おそらく自分も、彼と同じ傾向を持つ人間だからこそ、共鳴するところがあるのだろう。
破天荒に見えながら、その実ガラスのように繊細で気難しく。
ちゃらんぽらんに見えながら、その実極めて厭世家で自罰的。
どこか——自分に似ている。けれどもそれだけでなく、彼は、自分にないものをたくさん持っていると思った。彼女はデイビスに対して、深い同類のような意識を感じていたが、それと同時に、羨望に近い憧れが胸の底に燃えていることも、自覚せざるを得なかった。
だって、彼は夢をもう叶えているから———
ずき、と嫌な音を立てて、心臓が脈打つ。それは、彼に置いて行かれたような、途方もなく心細いような、暗い感情。
そうだ、彼はもう仕事の実績があって、そして自分のように孤独じゃ——ない。デイビスは、彼だけの光と影を孕みながら、しかし自身の力で前に進むことができるのだ。
たくさんの仲間がいて。からかわれながら、冗談を言いながら、一緒に働いていて。街の人々に歓迎され、英雄として称讃され。フェスティバルの只中で振り返った時、多くの人波に取り囲まれているせいで、困ったように笑っているデイビスを見て、カメリアは秘かな寂寥感を覚えた。彼の居場所は、もうすでにここにあるのだと。
彼が街にいることを望むように、周囲もまた、彼の存在を求めている。それはどんなに幸せなことなのだろう、とカメリアは想い描こうとして——やめた。せっかく別の時代にきたというのに、元の時代の喧騒に煩わされる必要はなかろう。
「カメリア、どうだ撮れ高は——って、あれ。俺の勇姿を見ていないのか」
「えぇ……まだやってたんだ」
ふいに声をかけられて我に返ったカメリアは、その事実に多少引きながら返事した。すでに吟遊詩人も胡散臭いアメリカ人を鬱陶しがり、どこかへ姿を消してしまったらしい。
そんな彼女をしばらく見つめていたデイビスだが、やがて顔を覗き込むようにカメリアのそばに近寄ると、ピン、と軽く人差し指で彼女のおでこを弾いた。
「眉間に皺が寄ってる」
カメリアは目を瞬いた。普段あまり触られないところであるだけに、弾かれた箇所がヒリヒリとする。そんな呆気に取られた表情を見て満足したのだろう、彼女に向かって、デイビスは白い歯をこぼして笑った。
「なに考えていたんだよ。そんな深刻な顔して」
———そうだ、彼に仲間がたくさんいるのは当然なのだ、と彼女は悟る。
彼を特徴付けているのは、ふいに雲間から射すようにやってくる、飾り気のないこの生来の明るさ。夏空の太陽さながらに不可視で、しかし確実に意志を宿した、特有の高潔さだった。その内部からの輝きによって、デイビスの瞳はけして汚されず、その後ろ姿は救われて見えた。
彼は、自分がこうした偶有の美しさを宿しているのを知らないのだろう、とカメリアは思う。それは、彼が自虐の種にするために毎回誇張される、その恵まれた容姿の端正さよりも、遥かに価値のあるものだった。
「?」
軽く微笑みながら、デイビスが彼女を見つめ返す——その目の優しさに、カメリアも少し気が楽になった気がして、笑顔を浮かべた。
「とにかく、散策してみよっか。インドなんて初めてなんだもの。せっかくだから遊んでいきたいよね」
「ま、時間はたっぷりあるしな。カレー食おうぜ、カレー」
それまで池の縁に腰掛けていたカメリアは、おもむろに立ち上がって、デイビスの隣に寄ろうとした。それを何気なく振り返ったデイビスが、彼女と入れ違いになるように、池の畔へとつんのめる。
「わわわっ」
「デイビス!」
咄嗟にカメリアが腕を引っ張ったおかげで、何とか水路に落ちずに助かる。ほっと胸を撫で下ろす二人。水深自体は非常に浅いが、何せ霊廟へと向かう道のど真ん中だ。これほど目立つところでずぶ濡れになっていたら、相当に恥ずかしいことになるだろう。
「す、すまない、カメリア。変なのを踏んじまって」
「踏んだって、何を?」
「右足の下で、何かがゴリッていったんだ」
言われた通りに地面を見てみると——彼のブーツの下から、キラリと煌めく光が網膜を刺した。
「あれ」
「おた、から……」
早っ。二人とも、同じことを思った。フライヤーを降り立ってから場所すら移していないのに、これほどあっさりと邪欲の対象が見つかってよいものか。
それは繊細な作りがされた指環で、真ん中に紅い石が嵌め込まれており、幾分小さめのものだった。カメリアの指に通してみても、小指しか入らない。持ち主は相当に指の細い人間のはずだ。
「あら、デイビス。彼のじゃないかな?」
人の良いカメリアは、ネコババするという選択肢をあっさりと捨てて、遠くで探し物をしている様子の少年を指し示した。散歩しているように見せているが、霊廟へとは赴かず、時折りちらりと地面に目を走らせている。
売れば幾らになるんだろうな、とか頭で考えつつ、デイビスは後ろ姿の少年に歩み寄った。小柄な少年で、まだ学童期も抜け出していないだろう。英語で通じるのかしら、と懸念しながらも、カメリアの方からそっと声をかける。
「Hello?」
その異国の言葉が自分に対して向けられたことに気づいた少年は、ゆるりと、独特の気品を感じさせる仕草で振り返り、その眼差しを鋭くする。その警戒心を露わにした調子とはそぐわない、鳥のように澄んだ声が、二人の鼓膜を震わせた。
「僕に、何か用か」
ひと目見ただけで、デイビスは美青年を標榜する自己の立場を危ぶみ。カメリアは小さく息を呑んだ。
年齢はたったの一桁——とは俄かに信じ難い、高熱のナイフで削り出されたと見紛える、精悍な風格。そして炯々と光る瞳は、すでに一生涯を経て人間の奸佞を見果ててしまったような、苦痛に満ちた色合いに閉ざされていた。それはひとつの正義の変遷を刻み込んだような、荘重な顔。その中で、微かに漂う成長途中の未熟さが、なぜか哀しく感じられた。
そこに佇んでいるのは、黒い立ち襟の服に身を包んでいる、絶世の美貌と言ってもよい少年。意外に太く、節くれ立った数本の指に、カボション ・カットのジェムストーンの嵌まった指輪を映えさせ、いかにも鬱陶しげに、腕を組みながら二人の顔を見つめている。険しい岩肌を連想させる、げっそりと痩けた頰、彫りが深く、憂いを孕んだ二重と睫毛、濃き香のような艶消しの額から、やや気怠げな濃い眉が生えて、そして黒々と濡れた双眸は、激しい独立の意志を湛えていた。業火のように立ち昇るウェーブした黒髪は、光の束を浴びる霧か、その上空を漂う陽炎のようで、彼の測り知れぬ自尊心を絡めて、陰鬱にうなじに枝垂れかかっている。
さながら、研ぎ澄まされた一本の黒橡。無駄なものなど何ひとつない完成された佇まいは、恐ろしい猛獣を秘めた、亜熱帯の森を連想させる。
「え、えーと。何か探し物をしているんじゃないかしらと思って。例えば、赤い石のついた指環とか……」
明らかにその威圧感に押されながらも、カメリアは自分の平凡な風采を恥じつつ、明るく話しかけてみる。
「お前ら、英語を喋るんだな」
その問いかけには応えず、まだ声変わりをしていない声で、少年はすらすらと英語を操った。ほう、ずいぶん聡明なんだな、とデイビスは舌を巻いた。英語が母国語である彼からしても、文法も発音も抑揚も、ポート・ディスカバリーの子どもたちとまるで遜色がない。優秀な家庭教師に教わっているのだろう。
「イギリス人か」
切れ長の目で詰問するその少年に、デイビスは簡潔に答えた。
「いや、俺はアメリカ人だ」
「私は……」
カメリアは眉を寄せ、僅かの間言葉を切った。
「私は、メディテレーニアン・ハーバーで生まれ育ったの。イタリア半島が故郷よ」
すぅ、とその幼くも美しい黒目が細くなり、カメリアにだけ焦点が合わさる。
「ヨーロッパ人?」
「え、ええ。そうだけれど」
「そうだよな、その悪魔のような白い肌、気持ち悪い鼻筋。人間の所業と思えない狼藉がお得意な、欧州の人間に共通の印だな」
「え……」
未熟な声で紡がれるにはあまりに相応しくない悪態に、一瞬、耳を疑った。その言葉は、真っ直ぐにカメリアへと向けてぶつけられていた。デイビスも白人ではあるが、その事実にはまるで触れられもしない。
「帰れよ。お前のいるべき場所は、ここじゃない。ここは僕たちの土地だ。貴様らが踏み入れる資格なんか、微塵もありはしないんだ」
「え……えっと? 私たちはただ、あなたの探し物を手伝う以外に、目的は……」
「そう言って、ブンデールカンドのように侵略するつもりか? いや、もうここも侵略が始まってるんだったな。随分と気味の悪い、英国調の庭園に様変わりしたものだ」
それを聞いて、瞬時にカメリアは事態を理解した。——ブンデールカンドとは、藩王国の名だ。不都合な急所を突かれたかのように、その表情はいつになく蒼白なものとなっている。
デイビスも形勢が悪いことを察したが、下手に口を挟むまいと、沈黙を貫いている。
「へらへらと気安く話しかけてきやがって。僕たちの何がおかしい?」
「……おかしく、ないわ。あなたたちの怒りは正当で」
「なら、帰れよ。出て行けよ、全員」
「わ、私に、その力はなくて」
正直に口にするカメリアに、少年は眼光を閃かせ、咄嗟に手を上げようとした。すると、それまで黙って見ていたデイビスが急に腕を引いてカメリアを下がらせ、少年に向かって怒鳴り声をあげた。
「カメリアは関係ねえだろ! 知らない奴が勝手なことを喚き散らしているんじゃねえ!」
「なぜ、アメリカ人が介入してくる? これは僕とこいつだけの問題だ」
「デイビス」
カメリアは、彼女の腕を掴んだままのデイビスに呼びかけた。
「ありがとう。でもこの子は、私に用があるみたいだから」
その言葉に、目の鋭さは保ったままで、慎重に握りしめていた手を退けるデイビス。
カメリアは膝をついて、少年と目線を合わせた。いや、今は僅かばかり、少年の方が視線の位置が高い。
「英国によるインド侵略について、今、ここで何が起こっているか。これからどうなるのかを、知りたいのね」
ほとんど見下すように冷厳な目でカメリアを舐め回していたが、やがて譲歩したように、皮肉な声色でそうだな、と呟いた。
「私も、同じことを知りたいの。お話してくれる?」
「なんで僕が、お前なんかと」
「教えて。あなたは、知っているの? イタリアが、他国を植民地化しているのか」
少年は、より顕著に怒りを募らせたかのように、双眸を軽蔑で濁らせた。
「自国のことだろう、お前が把握していなくてどうするんだ。何もご存じないとは、大した身分だな」
「ごめんなさい。でも私、今はなによりも知識が欲しいの」
「僕が知っているのは、インドと英国周りの状況だけだ。僕に聞かれても、答えることなんてできないし、答える義理もない」
「でもヨーロッパ諸国は、今は連帯して、勢力均衡を図ろうとしてる。それは外部から利益を搾取しようということでしょ?」
「はっ、いつもいつも欧州が目指すのは略奪でもなく、交易でもなく、搾取だな。なぜこうも恥知らずなのか」
「搾取……ね」
カメリアの瞳が薄暗い歪みに満ちた。少年は、彼女のこぼすその表情に、どす黒い復讐心が少しばかり晴れる思いがしたのか、
「そうだな、お前らヨーロッパが披露する、醜い申し訳には、多少の興味があるかもしれない。結句、そんなお題目があってこそ、侵略できるのだろう。欺瞞に満ちた護身符といったところだろうな」
カメリアは、しばらく眉根を寄せていたが、一息ついて、ぐっと目を閉じると、やがて慎重な口調で語り始めた——
「私たち西欧の人間は、数々の土地を侵略の手を伸ばしている。ラテンアメリカ、アジア、オーストラリア、太平洋に浮かぶ国々、そしてアフリカにも。あなたの故国も、そのひとつよ。
大航海時代に至る前、すでに世界は西欧など目ではないほどに、各地で航海技術が発達していた。元々、遠洋航海に初めて成功し、前人未到の地を開拓して移住したのは、ポリネシアの人々だった。広大な太平洋を横断し、数千年前にはすでにコロンブスよりも遥かな旅を行っていた。スカンジナビアのヴァイキングはバルト海を股にかけ、ヴァリャーグからギリシャへの道を極めていたし、ダウ船を始めとするペルシャ人やアラブ人の優れた航海技術は、東南アジアからインドを中継してヨーロッパへと至る海のシルクロードを掌握し、東西交易を繋げる役目を果たしていた。西欧は完全に出遅れていた存在だった、必要に駆られるまでは。
けれども大航海時代を起点として、世界は一変してしまった。それまでの海は、数多の大陸を遠ざけ、西欧の野望から庇護していた。けれども、西欧の人間が大海原に乗り出し、航路を発見してから、世界はひとつになってしまった。いいえ、西欧が、西欧だけが、世界がどうしようもなく、ひとつであると”認識”してしまった。そして、世界の文明の数々の差異が浮き彫りになる。未だに、その事実を咀嚼できている国はない。これほどまでに文化の異なる私たちが、この世界を前に、どうやってともに生きてゆけばいいのか」
カメリアは、いったん言葉を切ると、呼吸を整えてから再度話し始めた。
「ヨーロッパの出した結論は、これからナショナリズムが燃え広がるにつれ、目の前にさらに明白な形で立ち上がってくるでしょう。私たちは、文化の差異に耐え切れず、それを吸収し、”進歩”させ、世界を統一する道を選んでいるの。当時、香辛料や金銀を目的とした交易の観点からも、宗教改革の煽りを受けたカトリック布教の観点からも、それが最も私たちの理にかなっていたから」
「まだるっこしいな。統一と言いながら、実質は単なる白人主義に則った征服なのだろう」
「ええ……特に政治家は、それを正義だと、恣意的に喧伝している。けれども、本気で高邁な理想に燃えている人間もいて——そのどちらも、あなたたちの味方になってはくれないと思う」
とりわけ、それが国家的な方向性として露わになったのは、ナポレオン体制後の秩序回復を図る、ウィーン会議以後である。彼女の居住地も、会議の決定事項により、ルッカ公国として数十年の短命が約束されていた。まもなくトスカーナに併合されて、この世から消え失せるだろう。
幼いにも関わらず、血の滲むように事態を把握しようとしているダカールの理解度をはかりながら、カメリアはさらに言辞を重ねた。
「私たち西欧の人間の特徴は、恐らくは、論理体系に対する、偏執的なまでの渇望なのでしょう。欧州の歴史における、決定的な事件——“ルネサンス”は、文化の発達を爆発的に推進し、さらに自然科学や法の興隆までもを生んだ。そして、旧世界との対峙を象徴する宗教改革により、キリスト教から主権を奪うことで、いよいよ啓蒙の精神は様々に飛び火し、理性の世界へと足を踏み入れてゆく。
その松明の役割を果たすのが、画一的な”進歩”の概念。キリスト教の終末論に端を発する進歩史観は、侵略を正当化する根拠を促したけれど、それ自体の正当性は訴えることができない。いざとなれば——根拠のない数々の”科学的”事象を筋道立てて並べ、偏見に満ち満ちた言説を結集して、一つの誤謬の体系を創ることができる」
それを聞くと、いきなりダカールは笑い出した。彼女の言説からひしめいてくる生理的な嫌悪感に、耐えられなくなったかのような悪魔の笑いだった。
「誤謬の宇宙、か。そうだ、貴様らの変態的なまでの『体系』への憧れは、反吐が出るほどだ。世界はすでに、それぞれの自由と喜びのなかで動き出していたのに、貴様らの束縛によって、すべての秩序は滅茶苦茶に破壊された。
貴様らの目は節穴で、論理をいじくる以外、この世を相対化する興味を持たない。だから自分たちの浅ましさや残酷性にも気付かない。自分が何を語るかに執着して——英雄気取りで、自分たち以外の世界がどうであるのか、まるで理解していないんだな」
言うと、尊大な態度で、続けろ、とダカールは命じた。
今や、その上下関係は、国際的に置かれているそれとは正反対だった。カメリアこそが子どもにぬかずき、屈従を味わっていた。なぜ彼女は、何も言わないのだろう? デイビスは何も言わずに、彼女の動向を見守っていた。それは被害者とも加害者ともつかず、しかしけして潔白な第三者の目線でもない。どこか冷たく——査定するように彼女を睥睨する。それは個人的な、意図の知れない冷酷な関心が漂うかのようだった。
しかしカメリアは辛抱強く、言葉を連ねていた。氷のように集中した神経で、絶えず自省しながら、語るべき語彙を選んでゆく。
「科学は、始めから何も狂ってはいない。歯車が狂ったのは、科学のせいじゃないし、科学は透明な言説なわけでもない。それを解釈する人間の精神に依存しているの。
世界は間違いなく、これから激動の時代に入ってゆく。そしてその時、最も残酷な形で犠牲になるのは、私たち西欧の人民なんかじゃない。アジア、アフリカ、オセアニア——まだ手をつけられていない地にも、数十年のうちに、西欧の手が襲いかかると思うわ」
少年は、しばらく黙っていたが、
「よくも言えたものだな。どの口でそんなことを叩ける?」
「……ごめん、なさい」
「貴様らの思考回路など、何の興味もない。僕が知りたいのは、なぜ、僕らが虐げられなくてはならないかということだ。なぜ、貴様らが僕らの上に立とうとしているかということだ」
「私が話している内容は、あなたには堪え難いことだと分かっているけれど……でもあなたは、西欧を憎んでいるんでしょう。そんなあなたたちが、私たちと同じ道を歩んでは——」
「僕たちが欧州のように浅ましい侵略を起こすとでもいうのか!?」
少年が声を荒げた。カメリアは、自分がたった今、誤ったことを口にしたのを察して、哀しげに目を見開く。
「僕の故郷はこれから殺されるんだ! 貴様ら狼の腹に喰われてゆく。みんな生きているのに、ここにはすべてがあるのに、ここで何百年、何千年と歴史を築きあげてきたのにだ!
貴様らヨーロッパ人にそれをどんなに叫んでも、お前たちは僕らを未開人、野蛮人と呼んで愚弄するだけだ。貴様らは神を持ち出しながら、その実、全部が大義名分に過ぎない。どこにも真実なんてないじゃないか!
なぜ貴様らは、そんな破れかぶれの論理を、さも正論のように語ることができる? 貴様らの国にある正義とは、そんなものなのか? 人間を蹂躙する行為の正当化が、正義なのか? それが、貴様らの築きあげた文明のすべてなのか!
ここでインドの力を示さなければ、僕の同胞たちは、叛乱にすら持ち込めずにつぎつぎと虐殺される。アジア、アメリカ、アフリカ、オセアニア——どの世界でもみんなそうだった。文明は破壊され、人は笑って殺戮され、何人もの奴隷が海に叩き込まれた。貴様らに、彼らの呻き声が聞こえるか? 彼らがどんなにお前らを憎んでいるのか、気づいていないのか? 憎悪、憎悪、憎悪、それだけがお前らから学んだことだ。この世の秩序のすべてが、お前らの賢しらな正義のせいで滅茶苦茶に破壊されているんだ。それをお前らは唯一の世界の理だ、だから跪け、死ねと僕たちに説き回っているんだ!」
泣きそうなほどに苦しく絶叫した少年。
その罵倒は、確実に彼女の心を抉り————
剥き出しの暴力に、切り刻まれ。その瞳の奥に揺れている無防備な感情は、少年と同じほどに幼い少女のように見えた。それこそ、ほんの少し吹きかけられた悪意の吐息で、魂が粉々に砕け散ってしまいそうに。
「カメリア」
見かねたデイビスが、制するように彼女に声をかけた。彼の緑の双眸と目が合うと、カメリアは微かに脅えたような顔をした。
「もう、いいだろ。そんなことを一人の人間に話して、何になる? あんたは世界のすべてじゃないし、こいつは犠牲者のすべてでもない」
カメリアは手を握り締めたが、彼には何も言わなかった。ただ俯き、絞り出すように最後の言葉を告げる。
「————復讐、したいのね?」
その声は、暗さに満ちていた。
「ヨーロッパが植民地支配に齎した最大の武器は、科学よ。ヨーロッパに復讐したいのなら、真の科学を学ぶ以外に道はない」
少年はせせら笑った。
「虎を殺すために虎穴に入るというわけか。ああ、僕は科学者になってやるさ。いつか、お前たちを皆殺しにする兵器を作って、貴様らのしでかしたことを思い知らせてやる。絶対に」
「…………」
カメリアは、何も言わなかった。ただ微かに、肩が震えただけだった。
「行こう」
デイビスは、カメリアを水路の縁に腰掛けさせ、彼女を庇護するようにそばに立った。カメリアは、浅い水一面に青空が映り込んでいるのを見つめている。楽園への道のりを模した、前庭を十字に分断している、澄んだ池である。風が吹くと、彼女の水に反射する面影も、あえなく四方へと乱れた。
「ごめん」
驚いたようにカメリアは、顔を上げた。
「まさかあそこまでヒートアップするとは思っていなくて。……助けられなかった。あんたのこと」
「……ううん。むしろ私の方こそ、あなたを巻き込んじゃって」
「本当に、大丈夫か?」
そっと、デイビスは彼女の前に跪いて、その表情を覗き込んだ。
「あんたが悪いんじゃない。子どもからあんな言葉を投げつけられたのは、心が痛むだろうけど。……それでも、自分が背負えない責任は負わなくていい」
「ありがとう。そうね……あなたの言う通りね」
悄げた顔で、カメリアは礼を返した。そのいつになく影の深い表情に、デイビスはどこか醒めた視線をそそぐ。
「しかしあんたも、随分と退かなかったよな。意固地というか、盲目というか。……餓鬼にあんなことを言って、何か変わるとでも?」
軽いジャブがわりに、デイビスはちくりと言葉を放ってみる。そしてそれは思った通り、余計に彼女の後悔を燻らせるようだった。
一瞬、酷く痛々しげにデイビスに流眄を送ると、叱られるのを恐れる子どものような顔で下を向いてしまい———
「やっぱり、何も言わない方が良かったね。私が間違っていたわ。ただの傲慢な行為だった」
「さあな。何が正解かなんて、分かりゃしない。今日言った言葉が、三十年後に意味をもって迫ってくることもあるだろうし。そんなことは、誰にも予知できない」
デイビスは肩をすくめた。
「ただ、所詮は他人事だろ。下手に正義漢ぶって引っ掻き回すよりは、静観するのが筋だと、俺は思うね」
デイビスの言葉は、邪論であるとも、正論であるとも言えない。物事は結局、行動するか、しないかの二択だ。その議論はどこまで言っても、平行線でしかない。どんな事態にも、常にその二つの意見はついて回るものだ。
「そう、ね。……もしかしたら私は、自分の捌け口として、あの子を利用しただけなのかも知れない。私のせいじゃない、って、誰かに言明したいだけなのね、きっと」
カメリアは身悶えるようにして、顔を両手の中に隠した。
「私の時代では、まだイタリアは植民地支配には手を出していない。それどころではないのでしょう……まずは半島の情勢の安定からだもの。でもこの時代においては、もうすでに、他国への侵略が始まっているのかもしれないわ。
近隣の地域において、確かに統一の動きは勢力を増しているの。カルボナリの思想は危ういし、愛国の気運に煽られ、何度となく軍が決起して、多くの人間が犠牲になった。教皇も、声明を発表する事態になってる」
「……それは、危険な状態なんじゃ」
「イタリア統一と独立は支持するわ。でも……さすがにこのまま行ったらどうなるんだろうって、不安になる。仕方ないのかもしれないけれど」
どこか冷笑じみた口調なのは、おそらくは第三者である聞き手のデイビスが、話に倦怠するのを恐れているからだろう。
中世以来、小国に分裂していたイタリアが、ナポレオン戦争の終焉を機に、国家統一運動を通じて統合するという、歴史的事実は彼も学んでいる。しかし、イタリア統一に至るまでの変遷はあまりに複雑で、よく追えてはいない。デイビスは、自国の歴史しか深く知りはしない自分を恥じた。こういう時に会話の引き出しがないのは、致命的だ、と彼は内心で舌打ちする。
けれどもカメリアは、急に優しく遠ざけるような目をして、
「でもそれこそ、あなたと関係ないわね」
と言って、話題を封じ込めてしまった。彼の忠告に従って、もう下手な真似はすまい、という意志の表れだろう。しかしあまりにも彼女が自分を悔いている表情なので、哀れに思ったデイビスは、先ほどとは違った深い声色を出して、
「カメリア。どうしてあんたは、そんな時代の中で、空を飛びたがるんだ?」
と訊ねた。
迂闊だった。いつものように輝く笑顔を取り戻し、夢を語ることを求めていたのかもしれない。
知らぬ間に、自分もその役割を押しつけてしまっていたのかもしれない。
しかし、実際に絞り出されたのは、どこまでも暗く、昨日聴いたのとはまるで違う、石のような言葉だった。
カメリアは気怠げに顔を上げて——まるで表情の伴わない顔で、機械的に囁く。
「———科学は人殺しの道具じゃないって、全人類に証明したかったから」
その声に浮かんでいたのは————
憎悪でも軽蔑でもない——ただ、恐ろしく虚しい、何かに対しての感情。名前をつけられないほどに温度は損なわれて。復讐を誓う怒りや、熱もなく。ただただ何もない、根こそぎ奪われた、それだけの、死んだ冷たさ。
デイビスはたじろいだ。
その孤独さは、いったい何に向けられているのだろうと——そんな想像の追随を許さない、絶対的な深淵の気配が漂っている。
頭から爪先の細胞まで、彼女は自分とは異なる土壌に基づいて考えなければならないのだという思い。その確信は、風のように彼女に吸い込まれてゆく一方で、遠ざかってゆく彼女からは棄却され、彼女の物静かに燃える瞳の葛藤が、より一層のこと、近づくことのできない彼を嘲笑った。
それは初めて、目の前にいるこの人間とは、分かり合えないのだ、と突きつけられた感覚だった。
ポート・ディスカバリーならば、理解し合う方法はいくらでもあったろう。挨拶すれば、話し合えば、議論をすれば、同じ冗談で笑い合えば。
しかし今ここで、そんなことは何の役にも立たない。
そして、そんなデイビスの目を恐れるカメリアの眼差しは、あらゆる事物への罪責感とともに、どこか、不可思議な尊厳すらも漂っている気がした。
「デイビス、ごめん。少しの間、一人にしてもらってもいい?」
だからこそ、その申し出は、彼自身を沈黙の頑なさから守るために発せられたものなのだと思われた。
「三十分あれば、きっと元気になるから。……せっかく来たんだし、それまで観光でもしていて。ここは、こんなに美しい場所なんだしね」
……
デイビスが行ってしまうと、アレッタが、軽く身震いをする。彼にはまだ心を許していないものだから、落ち着きを取り戻したのかと思ったが、そうではなかった。そのつぶらな黒い瞳が、じっとカメリアを見ている。
「どうしたの?」
アレッタは甘えたような声を出して、頻りに首を傾げた。こういう時には、訴えようとする内容はおおよそ決まっている。
「お腹は空いていない? お水は? 好きなところに行って大丈夫だよ」
囁くと、アレッタはたちまち軽く飛び立って、そのまま水路に足をつけ、水浴びをした。きららかな陽射しの中で、大きく広げられた翼が細波を切り、一瞬、滑らかなヴェールを噴き上げると、心地良さそうに体を洗っている。酷く平和な風景であった。
この鳥は、正確には彼女の鳥ではなく、父親であるチェッリーノが保護したものだ。エジプト・シリア戦役において、流れ弾に当たり、死ぬこともできずに苦しんでいたと言う。アレッタもまた、欧州の侵略による犠牲者であった。
高慢と言えるまでに激しいその鳥の気性を、カメリアが尊重しなかった時は一度もない。文明社会で生きてゆくのに困らない程度に慣れさせはしたが、その一方で、この美しい隼を手元に置き続けることは自分のエゴイズムではないかと、日に日に募る疑問を抑圧していたのも嘘ではなかった。アレッタは、報恩のためにファルコ家に仕えているのだ、と父は言う。ならば、この隼の上に降りかかった暴力の贖罪は? ……何者によっても、それは埋められたことのないままである。
カメリアがかつて、先ほどの少年と同じくらいの幼少期、数百年前に興ったルネサンスの新風に熱をあげていた彼女は、その西欧中心的な歴史の背後に積み重ねられた、遙かに広大な影響を察するうちに、無知にも没頭していた己れを唾棄するようになった。次にルネサンスのように新世界を目指すならば、けして同じ轍を踏んではならないと、重々父親に諭された。彼は、すでに娘が新たな革命を起こすだろうということを予期していたのだろう。ルネサンスの人文主義のみを、よくよく参考にしなさいと。
彼女は文学や藝術を愛好しているが、自らその道に進まなかったのは、その言葉を生み出すだけの霊感が貧しいことを、十二分に知り尽くしていたからだ。真に才能を費やせる領分は、科学しか残されてはいなかった。けして汚されることなく、捻じ曲げて利用されることもなく——そのような発明品を創りあげることが、自分に与えられた唯一の使命なのだと言い聞かせて、研鑽を重ねてきた。けれども不意に、あの言葉が胸に去来する。それは大人から発せられたものではない。幼少時代に一緒に遊んでいた、近隣の子どもが口にしたものだ。
———それが結局、何の役に立つの?———
カメリアは首を振るって、考えないようにした。要するに、その最大の問いからは逃げ続けてきたのだ。空を飛ぶ、などという空想は、言ってみれば、人の命を救いなどしない。自らの夢と、その目的との隔たりを突かれて、彼女はただ沈黙するしかなかった。
科学の平和利用——それを可能にしているポート・ディスカバリーは、夢のような場所だと思った。そこで英雄として讃えられるデイビスが、激しい光のように眩しく映った。けれどもそこは、彼女の生きている場所ではなく、カメリアはデイビスなわけでもない。自分の力でその問いに答え続けなければ、何の意味もないのである。
まもなく、水に濡れたアレッタが帰ってきた。わざわざカメリアの膝に乗ると、その大きな翼をはためかせて、水しぶきを振り撒く。遊ぼうと、誘っているかのようだった。
「あなたが望むなら、どこに飛んでいったっていいんだよ。あなたは私のものじゃない。いつだって、自由の身なんだから」
アレッタは無邪気に小首を傾げ、カメリアを見た。彼女の言葉を解することをせず、その唇の動きを不思議そうに見つめる、異国の幼子なのだと、カメリアは思った。
……
彼女と別行動を取ってから、デイビスは、菩提樹のそばにいた。できるだけ遠ざかりながらも、目に入る範囲にいた方がよかろうと、カメリアの姿が小さく見えるくらいの木陰。葉擦れは彼の耳を洗い、震える枝の翳を、薄っすらと地面や幹に投影させていた。
デイビスは、その蒸し暑く肺を占める空気から逃れるように、煙草を咥えて火を点じた。熱帯に流れ込む柔らかな日の明るさは、光学の泥濘みを含みながら、彼の目蓋まで流れてきていた。彼はまんじりと、網膜の底に染み込むまぶしさを眺めた。喘ぐような埃っぽさと、汗ばむような過労の感じが、光線の内部に溶け出していた。彼は茫然として霊廟の上の空を見続けた。
「おい」
話しかける声を聞き咎めて、デイビスは黒目だけで流眄を下に送った。先ほどの少年が、痩せた薄のように立っている。
「アメリカ人だと名乗ったな」
「ああ、そうだが?」
「握手してくれ」
「……それは、俺の手に何の価値があってのことだ?」
子どもは酷く真摯な顔で、その黒玉のような瞳にデイビスを映し込み、ぶっきらぼうに手を伸ばした。
「アメリカは、イギリスと独立戦争をした。ブンデールカンドの民も大いに鼓舞された。ブンデールカンドは、全面的にアメリカを支持する。だって、アメリカにできるなら、ブンデールカンドだって、イギリスから独立できるから」
デイビスは、思わず胸を打たれて、その少年を見つめた。あまりに、書物上の歴史を盲信し、何のディテールも用心深さもなく、ただ事象と結果にだけ目を奪われたような発言。それが却って、この地がどれほど傷つけられたかを示唆しているようである。
少なくとも、デイビスは少年から敵意を向けられないことに対して、一人、監視の目のない岩陰に逃げ込んだような、歯切れの悪い安堵感を覚えた。それを喉の奥に呑み込んで、彼は煙草を挟むのに使っていた手を伸ばし、求められていた挨拶を少年に差し向ける。
「デイビスと呼んでくれ」
「僕はダカール。ブンデールカンドの王子だ」
さすがのデイビスも、その自己紹介には目を見開いた。高価な身なりや所持品に目を留めれば、確かに一般の生まれではないとは誰でも思うが、まさかそこまで高い身分であるとは予想しなかった。しかし少年は哀しげに頬を歪めて、デイビスの驚きを制するように、付け足した。
「もう、従属国だけどな。被支配民族に、王子も乞食もない。だからアメリカが、羨ましい」
なるほど、とデイビスは目を細める。少年の目からすれば、アメリカ人は誰しも、英国からの鎖を引きちぎった英雄のように見えるのだろう。それはマイソール王国の大英雄ティプー・スルターンを含め、英国からの植民地化に屈従を味わうインドに多大な影響を与えたはずだった。
アメリカ独立戦争。それは、彼の人生のうちに励起したことのない、過去の事象の借り物だった。かつての事実は、確かに歴史の土に刻み付けられているのかもしれない。そしてその余波を一身に受けたこの世に、彼の世代は生まれ、無傷の生活を育んでいる。激戦が終わった時代に生まれるために、自分たちはいかなる犠牲を払ったといえるだろう? それに立場を変えてみたならば、アメリカ人にも呪いの如き怨嗟を受けるべき歴史は、それこそ山のようにある。新大陸発見から西部開拓まで、歯の浮くような理想論に裏打ちされた地獄を広げてきたのは、自分たち移民の祖先である。奴隷解放の父とされたエイブラハム・リンカーンは、先住民の大量虐殺を指揮しているし、第一、独立戦争の司令官たるジョージ・ワシントンでさえ、ネイティブ・アメリカンには絶滅政策を取り続けてきたではないか。そうした事実を全て無視し、自らの地点を軸に世界史を編纂し、安易に彼を同志だと呼ぶ少年の姿は、憐憫混じりの苛立たしさが募るようにも、結句、それが無力な同族嫌悪に過ぎないようにも感じられた。
しかしダカールは、今は無邪気に、デイビスの右手の方にこそ目を見張っていた。そこには、二本指で挟み込まれた、薄い紫煙を放つ煙草が香りを漂わせていた。気怠く俯くその筒状の紙が、ちょうど彼の目線に近いがゆえに、関心を寄せたのだろう。雀のように首を傾げて、紙のうちに焚かれた炎を、魅入られたように見つめていた。
「それは、阿片か?」
「いや、煙草だよ。吸ってみるか?」
そうした好奇心を微笑ましく思い、デイビスはダカールの薄い唇に煙草を咥えさせた。嬉々とした喜びと、恐る恐る、と言うのに相応しい慎重さをこき混ぜながら、舌にその紙の棒を乗せた少年は、火の灯る穂先を見つめたまま、軽く息を吸う。矢庭に、苦しく咳き込んだダカールの背をさすりながら、柔らかな笑みを浮かべて、煙草の吸いさしが奪い去られた。
「はは、坊主にはまだ刺激が強かったな。そいつは、成人してからの嗜好品だよ」
ダカールは眉を歪めて、掠れた咳をこぼしながら、デイビスの顔を強い目で仰いだ。
「僕も、すぐに追いつく。こんなの、十本でも二十本でも一度に吸えるように」
「いや、それは健康に悪いから普通にやめとけよ」
何の曲芸なんだよ、と呆れて進言するデイビス。
「まあ、煙草が旨くなってくるのは、もうちょっと世界を知って、酸いも甘いも、苦味も語れるようになって。それからだろうなあ」
彼は、ふたたび煙草を奥歯で噛みながら、ダカールの頭を撫でた。指の底に、砂埃でざらつく巻き毛の太さを感じた。途端に、また胸の奥がちりちりとした。
「僕のこと、子ども扱いしているんだろう」
「ん? ……あー、まあ。だってお前、まさか老人とは言わねえだろ」
「侮るなよ。僕は、大人よりも物を知ってる。父上から高度な教育を受けているし、自分でも、たくさん学んだんだ」
瞳の奥底に燃え盛る矜恃を認めて、なんというかこいつ、劣等感からくるプライドがバリバリなんだよなー、と考えるデイビス。それこそ同族嫌悪の証なのだともいえるが、それを少年に言ったところで、まだ理解できないし、何の意義もないだろう。デイビスは肩をすくめて、自分の感じたことを翻訳した。
「あのな。餓鬼だと思うことと、馬鹿だと見下すことには、何の関連性もねえんだよ。餓鬼は馬鹿じゃねえってのは、言われなくたって知ってるよ」
「じゃあ、違いは何なんだよ」
「わっかんねえけど。餓鬼は……まあ、将来を持ってるし、守られるべき存在、ってことなんじゃねえのか」
「僕は誰に守られなくても、立派に生きていける」
あくまでも楯突こうとするダカールに対して、面倒に感じたデイビスは白旗をあげ、あっさりと議論を諦めた。
「ま、それでもいいけどさ。……あんまりお前一人で、世界の悪意と対峙しようとするなよな」
掻き回すのをやめて、ゆっくりと、落ち着く間隔で頭を叩いてやる。心臓よりも緩慢なその律動に愛撫されたダカールは、しぶしぶと心を鎮めて、デイビスの手つきに身を委ねた。怒ったような、安らいだような、泣くのをこらえるような、その全ての感情を孕んで、なお切実な顔だった。
デイビスは煙草の匂いを肺に吸い込みながら、耐えるように頭を優しく叩かれている少年に目を細める。いくら水際立った容姿をしているからと言って、やはりダカールはまだ子ども——なのだ。彼が同年齢の際には、馬鹿なこと、くだらないこと、取るに足りないことばかりを楽しんで、大人たちを呆れさせ、そして将来限りなく明るいのだと信じていた。未来への希望が二十代になった今に至るまで潰えなかったのは、ひとえにポート・ディスカバリーに身を寄せている恩恵とも言えよう。あの街には、確かに明るい未来が広がっていた。
ここでは、時の流れは緩慢だった。何度となく奪われる国境の内側に、市場の屋根が光を型取り、あるいは快活に笑うイギリス人居留地の軍人が、あるいは靴墨のように黒くなってその笑いを見つめる人間が、ちいさな影絵のようにゆっくり横切り、溶けて、消えてゆく。暑い空の下に立ち尽くし、巨大な河のほとりで身を清め、冷たい目線を浴びせられる国民たち。彼らの眉の多くは、上から押しつけられるように気難しく歪んでいたが、しかし時折りこぼされる笑顔は、飾り気なく、驚くほどの茶目っ気を含んで、鮮やかだった。犬が昼寝し、屋台は色鮮やかな麻布をはためかせ、花はかぐわしく開き、人は手を合わせながら沐浴する。子どもたちは、その細い髪を陽の下に曝すたびに、藁屑のような白光を纏わせた。土埃にまみれたそのしなやかな脚は、骨と筋を浮きあがらせ、乾き切って、胡桃色の逞しさを張りめぐらせていた。それは何らの観客も前提としない、激しい静寂に磔にされた、生活のドラマだった。
風が吹くとき、そこには静謐な呻き声が過ぎ去った。菩提樹がしなった。空は紺碧を解れるほど深くし、菫色の柔和さを帯びた。灼ける陽射しが眼差しを抑え込み、生者の瞼をじりつかせる。微かに金色を帯びた、目に見えないその光は、浮き彫りとなったその土地に、静穏な杭を埋め込んだ。
美しかった。
例えようもなく美しかった。
デイビスは、煙草の煙を淡くたなびかせながら、自分が見知らぬ世界の片隅に立っているという事実を、脳天の底から味わった。例え、時代を違え、場所が離れ、別々の文化が育ったとしても、そこに人間が根づき、生きているという事実だけは変わらない。吹き抜けてゆく風や陽の痛みは、この蒼い蒼い空をよすがとして生きる者たちだけが胸を焦がすことのできる、懐かしい故国の気配であるはずだ。
ダカールは地面に尻をつけると、一握の砂を手に取り、音もなくそれを指の間からこぼしていった。長い砂の尾が、不死鳥のように広がりながら濛々と辺りを烟らせてゆく。砂をまぶされて象牙色に染まったその太い指は、どこか遠くの映像を思い出し、その記憶のありかを探り続けているようでもあった。
「この世には、語れないものがたくさんある」
と、ダカールは言った。
「僕の故郷もそうだ。様々な因習と生活が渦巻きながら、この地に蔓延する宇宙を培ってきた。でも今は、その土地が蹂躙されてゆく。何の理解も示そうとしない奴らに。どうすればいいのか分からない」
「ああ」
デイビスは呟いて、煙草を叩き、灰を落とした。水路で水浴びをしていた白鷺が、その羽を伸ばしてひさひさと飛び立っていった。
「俺の街とは違う。何もかも。ここにあるものは、ここだけにしか存在しない」
言いながらデイビスは、ちりちりとした焦げが、自分の心を蝕んでゆくのを感じた。辟易感——なのだろうか。だが、何に?
それが正義でもなく、倫理でもなく、あらゆる人道的な感情とは無縁のものであることは、明白だった。しかし考えることすら憂鬱な今は、その粘つく歯痒感を振り払いたい。デイビスは強く煙草の残り香を噛み締め、苛立ちを引きちぎるようにして話題を変えた。
「なあ、ダカール。プロメテウスの伝説を知っているか?」
「プロメテウス? なんだ、その妙な単語は」
ダカールはぱちくりと目を瞬かせて、聴き慣れない言葉を繰り返す。
「ああ、ギリシャ神話なんだけどな。プロメテウスって神は、自然界の猛威に震える人類に同情して、戦車の車輪から火を盗み、人間たちに授けたんだと。
火は、人間たちに多大な功罪を齎した。ひとつは文明、そしてもうひとつは戦争だ。その罪を糾弾され、プロメテウスは山に磔にされて、幾度となく内臓を貪り食われる苦痛を味わった」
プロメテウスに関するエピソードは、ギリシャ神話の中でも、指折りの有名な小噺に入るだろう。彼が味わうことになるその妙になまなましい天罰の恐ろしさから、幼い子に聞かせるにはいささか残酷な内容と言える。
ダカールは、初耳のようだった。胸に染み込ませるように身動ぎを控えてその物語を聞くと、溜め息をついてデイビスの目を見た。
「それをなぜ、僕に話す?」
「いや、カメリアがさっき、科学が植民地支配の武器だ、って言っていたからさ。
火をもたらしたのは、プロメテウスが勝手にしたことだろ。それでも、一度戦争を始めてしまった以上、戦火は人類全員の責任になる。誰が始めたわけでもないこの負の連鎖を、どうやって終わらせたらいい?」
くだらない思考実験に過ぎない、と切れ長の眼を細めて、デイビスはそれを語る自分を侮蔑した。しかしダカールは腕を組んで、その黒目を上に向け、真剣に考えている形跡を見せていた。
きっと、素直なんだろうな、根が。デイビスはそう合点する。
「終わらないんじゃないか」
ダカールはぽつりと言った。
「過去から今へ、今から未来へ、ずっと禍根の連鎖を繰り返されているのなら。この世は永遠の地獄じゃないか?」
「さすがは、仏教の生まれた土地の発想だな」
「僕はムスリムだよ」
「ま、そりゃそうだろう、こんなところにいる人間だしな(注、タージ・マハルにはムスリムが礼拝できるモスクがあります)」
肩をすくめながらデイビスは足を組み替え、菩提樹と頭の間に回した片手で、後頭部を支えた。
「俺は、アメリカン・ドリームを思想の根底として生まれ育ってきた人間だからなー。首根っこまで、楽観主義に浸ってるんだよ。どうしても、きっと何か出口があって、救われるはずだって、考えちまう」
「救われる?」
「馬鹿な考えだろ。それが俺たちの思考回路なんだ」
ふわり、と煙草の煙を吐き出す。風が、棕櫚や栴檀を揺らす。葉が躍り、光が跳ね、紫煙を乱し、なおも空中を吹き抜けてゆく。
「僕たちはみんな、救われたい。……みんなのことを、救いたい。だけどそれには、学問が必要なんだ」
ダカールは、目を潤ませていた。
「ここじゃ、学べることが限られている。だから父上は、僕を欧州に送り込むつもりだ。僕は、反発しているけれど、きっと丸め込まれて、ここを離れなければならない羽目に陥るに決まってる。
結局、問題を解決するのは、ヨーロッパの力を借りなければいけないのか。あいつらは、僕らのことなんか理解してくれないのに。僕らは、あいつらを理解して、追いつかないといけない。その構図が嫌だ。どうしていつも、我慢するのが僕たちなんだ」
ダカールの語ることは、おそらく真実なのだろう。義務はすべて侵略された土地に押し付けられ、征服国は笑っている。
ところがデイビスは悠然として、
「さあねえ、俺には関係のないことだから。ま、ヨーロッパに行っても、頑張ってくれよ」
とこともなげに唱えるばかりだった。ダカールは、それが癇に障ったらしく、パッと怒りを顔に浮かばせて、
「なんだよそれ。関係ないって、同時代に生きている人間だろ?」
「あいにく俺は、未来人なもので」
「はぁ?」
思いっきり小馬鹿にした声をあげるダカールに、ニヤリとデイビスは笑って言う。
「干渉できないんだよ、お前たちの時代にはな。というわけで、できるだけ傍観者でいたいっていうのが、偽らざる本心だ」
「本気で言ってるのかよ、未来人なんて?」
「ま、信じるも信じないもあなた次第、ってとこだろうなー。俺の故郷はポート・ディスカバリーっていうんだが、まだこの時代には、そんな街はどこにもありゃしねえだろ?」
挑発的に言い放ったが、有名とはいえ、所詮はアメリカのひとつの都市に過ぎない場所を、インドの少年が知っているはずもなかろうと思った。それはダカールの方でも同じことを考えたようで、デイビスの発言を試すように、
「じゃあ、そのポート・ディスカバリーの国歌を唄ってみてくれよ。まさか、そんなのも未来にはないなんて言うんじゃないだろうな?」
「おー、もちろんあるぞ。国歌というか、街のテーマソングだけどな。聞きたいか?」
「ああ。聞きたい」
ダカールは頷いた。すると、くしゃ、とデイビスは人懐こい緑の眼を細め、よーし、俺の美声にひれ伏せよ、と軽口を叩いて朗らかに笑った。そして、ほんの僅かな風にも切れ切れになるほどちいさく、ダカールが驚くほどに透明な声で、彼は歌い始めた。
As sure I know a time and space
In a future yet to be
When the great storms flow like a stream
The weather and water
Amaze you, Port Discovery
Let it spark every dream
A world unbound, a new frontier
Nature’s fury in your hand
The tempest at your command
The weather and water
Amaze you, Port Discovery
Let it spark every man
Count them, new tomorrow’s
Soaring and floating up inside a dream
Kids will ride the thunder
Let them send you, let them bend you
Become one with your destiny
The giant sea and atmosphere
Like a power in between
Reminder that man must explore
Disocover, discover
Amazing Port Discovery
Let it spark everyone
あまりに果敢ない声なので、それがいつのまに終わったことにも気づかなかった。
ダカールは我を忘れたように、青空をその瞳に映し込むデイビスを見ていたが、やがて顔中に歓びを浮かべた。
「別の惑星の歌、みたいだ」
「ん? どうしてだ」
「だってここには、人間の争い事なんか一言も書かれていない。自然のことしか歌っていない! 素晴らしい歌じゃないか、デイビス」
「お前には、イギリスを打ち負かした国のことなら、何でも良く響くんだなあ」
デイビスは哀しげに苦笑した。
「俺たちは、これが正しいと信じていることを歌に盛り込んでいるだけだからな。でももし、俺たちの築きあげてきた思想が間違っていたとしたなら。……俺の街もいつか、罪過を償う日がくるだろう」
いつになく不穏な口調。
ダカールは、今ひとつピンときはしなかった。デイビスがいったい、何を恐れ、何に言及しているのか。
それでも、未来は彼自身の思っていたよりも、ずっと奇妙で安息な方向に向かっているようだった。自然。それは新しい概念だった。人間と人間の対立がやまないこの世界に、まさかそんなものを主軸とする街が生まれてくるとは。
「さっきの、アメリカン・ドリームの話だが」とダカールは切り出した、「どうしたら、そんなことを信じられるようになるんだ?」
「さあなー。俺がおぎゃあと生まれた日にはもう、周りの人間たちは、みんなそう信じ切っていたよ。せこせこ蟻みたいに頑張っていたら、いつか未来にゃ報われる、ってな。だが、他のアメリカの都市と違って、俺の故郷は格段にその意識が強いんだ。俺の街に住んでいる奴らは、どいつもこいつも博士みたいなもんだからなあ。学問の発展を信じて、自然と共生するために、全員で協力して研究してんだよ。
昨日できなかったことが、今日できるようになる。今日できなかったことも、明日できるようになる。そうやって、一歩ずつ俺たちは進んでゆくんだと。もしもその哲学を否定するなら、この世は単なる苦行にしかならない。日々、たゆまぬ変化を信じなければ、生きている喜びなんてありえない」
「変化?」
「ああ、そうそう。俺の故郷は港町なんだ。だからきっと、この考えも、海からやってきたものなんだろうな」
何気なく呟いた単語に、ダカールは興味を惹かれたようだった。先ほどの歌われていた「自然」の概念と、それは連関しているものであった。
ふと、デイビスは言葉を打ち切って、明るい確信を持ったような口調で、少年に訊ねた。
「興味ありそうだな、坊主。お前はさ、海っていうのを、見たことあるか?」
「ない。僕は内陸に住んでいたから」
「そっか。いつか見てみろよ、人生がひっくり返るだろうぜ。
いいか坊主、お前のこの右眼の目尻から、真っ直ぐに眉間を通り抜けていって、左眼の目尻の方まで——」
と言って、デイビスの人差し指がダカールの視界を真っ直ぐに横断する。
「バーーーーーーーーーーーーーッとどこまでも蒼い水が広がっていてな、頭蓋骨の上はどんなものもなくて、ただ晴れあがった空だけがぼーっと空っぽになってる。水は塩っぱくて、白波を立てて波打っていて、太陽が鋭いくらい光の筋を煌めかせて、潜ると、それはもう別世界なんだ。真っ青で、上も下も見惚れるほど神秘的で、人間の世界なんかどこにもなくなっちまう。そんでもって、それはそれは不思議な生き物たちが動き回っているんだ。
海は水を噴きあげ、絶えず躍動し、氷河を創り、火山を煮え滾らせ、珊瑚礁を育み、渚を創りあげる。暖かい海、冷たい海、太陽の光で透き通るような海、果てしなく暗くて深い海。そこを、多種多様の生命が泳いで、まったく別の生き方を繰り広げている。一度行ってみると、人間社会の悩みなんざ、吹っ飛ぶぜ。海に生きている数億、数兆の見たこともない生き物たちは、俺たちの人類のことを微塵も考えていやしないんだ。
この世にはもっと壮大なことがあって、もっと偉大なものが広がっていて。そんな自由の中の、本当に小さな陸地にしがみつくように、俺たちは必死に生きている。そう考えると、俺はなんだか、情けなさと、元気が湧いてくるんだよな。なんでかは知らねえけど。
結局、海に生かされ、海に揉まれ、海に夢を見て。
……そうやって、繰り返すんだろうな。ずっと、ずっと」
デイビスの穏やかな語り口は、さながら鴎の鳴き声を戴きながら、青く雄大に白波をあげる大海原のよう。その言葉に誘われたように、ダカールの頭の中に、想像の海水がとぐろを巻く。
港町においては、常に膨大な水と対面して暮らしているのだろう。海という別世界を前に、些末な人生を燃やし、生を躍らせる人間。それは波に揺すぶられながら砂浜を転がる貝殻のように、無限の連関の中の運動だった。いや、それは人間だけのものではない。すべてが、動き続け、波打ち続ける海を中心として、その生命を移り変わらせている。
「————MOBILIS IN MOBILI」
ダカールが、静かに、確信を持った声で呟く。デイビスはきょとんとして目を瞬かせた。
「なんだそりゃ。なんかの暗号か?」
「簡単なラテン語だぞ。お前の街、博士ばかりなんだろ。まさかお前だけ違うのか?」
「え、ええっと。いや、博士だ博士、デイビス博士だ。何言ってんだよ、俺だけ違うわけないだろ」
慌てて、デイビスは答えた。痛いところを突かれたせいで、背筋に冷や汗が流れる。
元々、デイビスは飛行機の研究者志望として、大学で専門的に学んで学位を取るつもりが、ストームライダーパイロットへの募集を機に、CWCへの就職によって流れてしまったのだ。よって、彼の持っている学位は修士のみと、当初の予定に比べれば何とも中途半端な状態に留まっている。パイロットの腕に学位は関係ないが、その経歴は、彼の微妙なコンプレックスを刺激するものとなっていた。
ダカールは、ますます不審げにデイビスを見つめた。
「デイビス博士なんて科学者の名前は、聞いたこともない。お前、嘘をついていないか?」
「こ、これから有名になるんだよ。今はその、世にも画期的な研究論文を申請中なんだ。悪いか」
しどろもどろに答えるデイビスを見て、ふーん、と意味ありげにダカールは呟いた。畜生、だから餓鬼は嫌なんだ、と思いながら、空気を誤魔化すために、また一本、煙草を口にする。
「ま、とにかくカメリアにはちゃんと謝っておけよ。あいつはお前より大人だ。お前の理不尽な怒りにも、ちゃんと頭を下げたんだからな」
「……」
ダカールは、まだ腹に据えかねたように反抗的に黙ってしまった。しかしぐっと呑み込んで、新しい質問を投げかけてみる。
「彼女も、海の研究者なのか」
「いや、あいつの場合は、むしろ逆だ。上だよ。あっち」
ピン、と指差して、デイビスは上を向く。
ダカールは空を仰いだ。そこには、晴れやかに広がる無限のナイルブルー。浮かんでいる綿雲の遥か向こうから、太陽の光が降りそそいでいた。睫毛に当たった日の光が七色の線を撒き散らす中、遠く、雲以外はその次元には何もない。
空なんて、いつでも見られた。母親からアイラーヴァタ(注、神の乗り物であり、雲を編むと言われる象)の伝説を聞いて、あそこを飛んでみたいと思ったこともある。
しかし、なぜだろう。今はその切ないばかりの水色に、未来の希望すら感じられるのは。
まだ、誰にも汚されたことのない世界。可能性は無限に膨らみ、誰かが想像すればするほど、瞬く間にその姿を変えてゆくようだった。
「大空なんだ、カメリアの目指している舞台は。あいつは誰よりも真っ直ぐに夢を追いかけている最中だから。だからいつか、あいつが夢を掴むところを見たくて——俺はあいつと一緒にいるようなものなんだと思う」
デイビスは、自分の話でもないのに、どこか誇らしげにそう語った。そして不意に、発言した言葉を恥じたかのように、ま、他人のことなんざどうでもいいけどな、と鼻の頭を掻く。
それを見て、デイビスはあの女性のことを信用しているのだろうな、とダカールは推察する。きっと、太陽が東から昇り、西に沈むように、彼女の内面を自明としている。そんな風に、誰かの心を語ることができるのは、どこか羨ましかった。
「……僕、も」
「うん?」
「僕も。……イギリスの支配から逃れられた暁には、空を飛びたいし、海にも潜ってみたい。僕は、生まれついたこの土地しか知らないから」
デイビスはじっと黙って、ダカールの言葉に聞き入っていたが、やがて身を起こして、数度少年の肩を叩いた。
「……そっか。頑張れよ、坊主」
だからこそ。
彼には月並みな言葉を吐くしかできなかった。そして嘲笑する。自分のような醜悪な人間が、何を吐いているのか、と。
もう生きていけないというほど傷ついた経験もなく、歴史に翻弄されたこともなく、修めた学問は中途半端。人の痛みに同情することもできず、中立な立場から智慧を授けることもできず、自分の心を抉りながら真実を語ろうとすることもできず。それどころか、信頼を勝ち得るために博士だと欺き、ぬくぬくと先人の功績にあやかり、自らの欠点を晒け出そうともしない。
嘘、嘘、嘘、どこもかしこも嘘だらけ。保身のために欺瞞で塗り固めながら、賢しらに子どもに道を説く自分は、本当は誰よりも偽善者なのではないかと思った。その肌の内側までもが、無意味に歳を重ねてきた愚昧さに満ち満ち、軽蔑されるのが相応しいように思えた。
(でもじゃあ、俺に何ができるっていうんだよ——)
デイビスは、誰とも言えぬ影に向かって、悪罵を吐く。卑劣な沈黙が、恐らく——自分の中で最大の自己嫌悪の証。そして彼がそれだけしか選ぶことのできない、なけなしの選択肢だったから。
いつだって自分は卑怯で、その卑怯さに言い訳を積み重ねた人生しか残されていない。それには、唾棄がふさわしいとしか思わなかった。
「デイビス。今、時間あるか」
ダカールの言葉に、デイビスは顔をあげる。
「僕の秘密基地に、連れてってやる。僕の宝物を、見せてやるよ。お前だけ、特別だぞ」
得意げに勧誘するダカール。子どもにそうした秘密を分かちあおうとしてもらえるというのとは、大人の側からすれば、誉れあることであろう。
しかしその言葉から、すぐに差別的な意図を見抜いたデイビスは、冷たく首を振った。
「だめだ」
「え?」
「俺は、カメリアと一緒でなければ、そこには行かない」
きっぱりと断言する声に、ダカールの顔が強張った。さすがに、気の毒になる。ある日突然、親しい友人から仲間外れにされたような——苦しいほどに切ない表情をしていたから。
「でも……僕は、僕は」
意気揚々と彼の申し出を受け入れ、喜んでくれることを期待していたのだろう。動揺を隠し切れないようにダカールは狼狽え、数歩下がった。
「僕はヨーロッパ人なんか、秘密基地に入れたくない。あそこは僕の聖域なんだ」
「そうか、それなら、俺もそこに行かないだけだ。一人で行ってくれ」
「僕……お前に見せたいものがあって、だから……」
「だめったらだめだ。何を言われても変わらねえよ。行くのは俺とカメリア、二人揃った上でだ」
頑としてデイビスは、首を縦に振ろうとしなかった。一瞬、その頑なさに、憎悪と怒りが胸に燃えたが、一言でも突っぱねてしまえば、あっさりとデイビスが手を振っていなくなってしまうのは分かっている。
ダカールは人質をとられたように、心底悔しそうな顔をして、分かった、と呟いた。
数分後。
アレッタの羽繕いを手伝ってやっていたカメリアは、自分の方にやってくる足音を聞いて、ふと顔をあげた。
怒っているようでも、神妙でも、緊張していると言ってもいい表情をした、先ほどの少年。背後からどこか見守っているようなデイビスに目を向けると、いいから、その餓鬼に集中してやれ、と少年に気づかれないように身振りだけで指示される。恐らくは彼こそが、この少年の教師役を担ってやったのだろう。
「仲良くしたいわけじゃない。お前が好きなわけでもない。でも僕の言うことを聞いたら、秘密基地に連れていってやってもいい」
何の前置きもなく切り出されたその発言に、一瞬、カメリアはたじろいだ。虚をつかれて広がる沈黙を埋めようと、彼女は慎重に訊く。
「……それは、とても有難い申し出だけれど。でも、いいの? あなたの大切な領域に、私が踏み込んで」
すると、少年は急に不安げな顔になって、背後の大人を振り返った。
そうだ、ちゃんと言えよ。言葉にするんだ。とデイビスは目だけで訴えた。
一瞬、その指示にひるみながらも——ダカールは頷き、ふたたび眼前のカメリアの方を向く。
「初対面の人間に悪態をつくのは、無礼なことだと、デイビスに教わった。それにインドの民は、客人を丁重にもてなす。別にお前を歓迎するわけじゃないが、それでも外から来た人間は客人だ。ぼ、僕が望んだわけじゃないぞ。ただあいつが、デイビスがっ、お前と二人で聖域に行って、一緒になりたいんだって、ずっと駄々をこねて仕方がないから、それで——」
ちょっと待て。
どもりながら話す内容に固まったデイビスは、問答無用でダカールの首根っこを捕まえた。そしてカメリアに背を向け、二人でごにょごにょと密談をする。
「おい、お前。どういう言い方をしているんだ」
「な、なんだよ。嘘じゃないだろ」
「嘘じゃないけど語弊がある。どう考えたって違う意味に聞こえるだろ」
「知らないよ。英語は難しい」
「てめえ、肝心な時にだけ言語能力がへっぽこになりやがって」
何やら揉めているらしい彼ら二人を目にして、カメリアはなんとなく合点がいった。菩提樹の下で、彼らが二人で会話している場面。詳細は聞かないことにしておこうと思っていたが、あれは———
カメリアは、二人の間に交わされた内容のすべてを察して、彼女なりの簡潔さで結論づけた。
「つまりあなたが、私と彼の駆け落ちを手伝ってくれるキューピットというわけね」
「そういうことだ」
「駆け落ちの意味分かってんのか?」
どんどん違う方向にずれてゆく二人の会話を見かねて、デイビスがツッコミを入れる。
「……指輪を、返していなかったわね」
カメリアは、ポケットから小さな赤い石のついたそれを取り出すと、跪いて、少年の空いている手の薬指に通した。はかったかのように、それはぴったりと指に収まる。藝術品の如き高貴な肌は、最後の装飾品により、その美しさを完成させたかのようだった。
少年はそのまま、ぶすっとした顔つきで、彼女と目を合わせずに握手した。
「カメリアよ」
「ダカールだ」
名乗り合いは短く。不器用に手を握り合う彼らの上を、白鷺か何かなのだろうか、巨大な影が通り過ぎてゆき、遅れて緩やかな暖かい風が吹くと、瞬く間に元の太陽の光が戻ってきた。光線に含まれている温度が戻り、日向に晒された皮膚は、直射によって静かに暖められる。
カメリアの眼球には、ふたたび降臨した陽の光線が当たって、濁りのない透明な角膜を露わにしていた。その奥に、黄金を含んで、悠久の大地とも見紛う鳶色の瞳が揺れ動いていた。それを、ダカールの瞳が物静かに映し出す。
「跪くなよ」
やがてダカールが、無愛想に言った。
「どうして?」
「お前は僕の奴隷なわけじゃない。人間は皆、生まれつき平等なんだ」
カメリアは優しく、彼に微笑みをこぼした。
……
背の低く垂れ下がっている襤褸布を潜り抜けると、そこはダカールだけの知っている世界だった。
ミステリアス・アイランドという秘密基地に関して、ここに来る前にやいのやいのと議論していたデイビスとカメリアも、今、目の前に築きあげられたその純粋な憧れの権化を見ては絶句せざるを得ない。子どもの稚拙な遊び場だ、と笑うことは簡単だ。しかしそこには——成人した人間が失った、遙かに豊饒なものが漂っている。粗末な絨毯の上に座ると、その洞窟のように高く薄暗い世界が、一望できた。きっと、ゴミや廃材を拾ってきて、長年かけて、コツコツと空間を創り上げたはずだ。その塵芥と、彼の酷愛する夢の象徴が、混じり合う。
粗末なトタンを組んだ棚。それは遙か高くまで乱雑に積み上げられて、手を触れれば、たちまち崩れ去ってしまうような怖さがある。その隙間に、彼は様々な宝物を飾っていた。ゴミ捨て場から探し出したのだろう、幾つも垂れ下がっている極彩色の曼荼羅のヴェールは、どれも汚れたり、穴が空いたりしているものの、神秘的な雰囲気に一役買っていたし、古びたサモワール(注、装飾性の高い、壺型の給茶器)の中には、鮮やかなガラス片や陶器の欠片が詰め込まれている。お気に入りらしい本もあちこちに転がって、ページには微笑ましい落書きや走り書きがしてあって。イギリス人が捨てた新聞の切り抜き、愛らしいラベルの缶詰、母親からくすねた宝石類。それに、不要品を組み合わせて開発したらしい、継ぎ接ぎだらけの奇怪な実験道具たちは、見たこともない色の染みを辺りに吹きこぼして、不思議な香りを発していた。
何より、あちこちで微かに射してくる日の光を浴びて、煢然と輝く鉱物の結晶。どれほどの数がそこに飾られているのだろうか。飾るのに一番良い場所を選んで、何度となく位置を変えられたに違いない、と思うほどに、その配置は完璧だった。瑠璃や瑪瑙、翡翠、橄欖石、真珠貝、トルコ石、アメジスト、それに澄んだ音を立てそうなほどのクリスタル。
まるで自分たちが小人となって、巨大な鉱物標本を前にしたと見紛うほど。空間全体が彼らを魅惑し、その天真爛漫な憧憬に呑まれるかのようだった。
「デイビス、これをお前に見せたかった」
まさしく、秘蔵の場所、なのだろう。蕩然としてそれに見惚れるダカールに、デイビスも感嘆の声をあげる。
「こいつは凄いな。やるじゃねえか、ダカール。俺が餓鬼の頃友達と作ったのなんて、これの十分の一以下だったぜ」
「僕は天才だからな。つまり昔のお前の脳味噌は、今の僕の頭脳の十分の一にも満たなかったということだ」
ピキ、とこめかみに青筋を立てるデイビスを、カメリアが素早く制止した。おかげで握り拳を何とかおさめたデイビスは、可愛くねえ奴、とこぼすだけに留める。
ダカールはあちこちを蝶のように飛び回って、デイビスの前に財宝を積んでいった。
「見てくれ。クリスタルの結晶だ」
「おーっ、綺麗だな。透明度も高いし」
「あとこれも。大理石なんだ。ジャイプル産の、いい奴だろう」
いそいそと持ってくるものは、どれも彼のお気に入りのものなのだろう。いったいどこで見つけてきたのか、貴重な結晶も混じっているように見える。
「幾つかは、タージ・マハルに落ちていたのを拾った」
「窃盗じゃねえか」
「神の思し召しだと思って、有り難く貰ってしまっていた」
「罰当たりな奴だな。知らねえぞ、俺は」
とはいえ、ここにある以上はもう遅いというべきか。なるべく指紋をつけぬようにしながら、彼のコレクションを鑑賞する。
アレッタを肩に載せたままのカメリアも、興味深そうに、盛んに見回していた。こういうことは、彼女こそワクワクする性質だ。さぞかし、夢のような光景に胸をときめかせていることだろう。
「デイビスは海で、カメリアは空だろ。僕は海も、空も、それにこういった宝石が転がっている地底の世界も、全部冒険してみたいんだ」
抑え切れない昂揚と興奮を目に浮かばせて、ダカールが夢を口にする。
俺の専門領域も空なんだけどなあ、と思ったが、それは口に出さないことにした。とにかくダカールの知的好奇心が刺激されているのであれば、それでいい。
「なあ、デイビス。ポート・ディスカバリーには、お前みたいな物凄く偉い博士が、たくさんいるんだよな」
ぎくっと肩を揺らすデイビス。隣のカメリアから送られる眼差し——子どもだと思ってなにデタラメを吹き込んでるんだコラ——というシグナルに萎縮しつつ、デイビスは慌てて回答した。
「あ、ああ。もちろん、孤高の天才である俺にはみんな敵わないけどな、はは」
「みんな博士? 身分の違いはないのか? それに軍人は?」
「みんな平等だ。軍も持っていねえ——戦力を放棄していて、科学技術と軍事を近づけないよう、絶えず監視している。ほとんど実験都市みたいなものだが、将来的には世界の大部分が、軍の放棄とまではいかずとも、中立国には移行するだろう」
「…………」
唖然としてデイビスを見つめるダカール。彼のみならず、カメリアまでも驚いて言葉を失っているようだった。自分に嘘をついているのではないかと、ダカールは躍起になって、デイビスに反論する。
「そんな統治は、見たことも聞いたこともない。今の世情でそんなことを謳う国があれば、たちまち欧州に乗っ取られて潰されるはずだ」
「だから言っただろ、俺は未来人なんだって。俺の住んでいるような街が創設するには、もう少し世界全体の成熟が必要なんだ。残酷なものを見て、反省して、改悛して。国の動きなんざ、その繰り返しだ。時機を得なきゃ、人間は賢くなりはしねえんだよ」
ダカールは俯き、その言葉を自大陸の歴史に当て嵌めた時の重さを呑み込みながら、そばにあった自分の発明品のひとつを手許に引き寄せ、悲しそうに見つめた。デイビスが生きているような時代に辿り着くのは、いつのことだろう、と思い描いて。
彼が見つめているのは、駄目になってしまった時計を基盤に、鏡や、シリンダーや、人形を組み合わせた装置。スポットライトのように基地にそそいでくる一筋の日光の中にそれを置くと、装飾品で飾られた美しい指で、かたかたと仕掛けの円盤を回す。
「世界中の人間が学問に跪き、それを崇敬したら、どんなに素晴らしいだろう」
彼の指の動きに合わせ、ちいさな、可愛いオルゴールの音を立てて、秘密基地の壁中を一斉に満天の星がめぐる。想像はどこまでも広く、果てしない。それはどんな国にも属さない、精神の小宇宙のようだった。
「もしも世界が、政治や戦争なんかなくって、真理を求めることにだけ心を開いていたのなら。世界は、こんなに醜くはなかっただろう。人の欲望でズタズタにされることもなく——海のように清らかに、自然の変化の波にだけ身を任せていただろう」
ダカールは、先ほど、デイビスから教わったばかりの海のイマージュを、比喩として口に出してみた。
生まれてこの方、本物など見たことがない。
それゆえに彼の中では、ただ想像力だけが舞い踊り、この世で最も美しい絵の具を塗りたくっていた。それは誰とも分かちあえない、彼だけの憧憬の次元。
蒼い、どこまでも広がる天鵞絨。
光のカーテンが舞い降りて、生命の群れが朧ろなシルエットを投げかけ、広大無辺な有機体の祭典を繰り広げる。浮こうと、沈もうと、そこは無限に夢の続く世界。
彼は濁ったインダス川やヤムナー川しか見たことがなかった。水は茶色いものだ。青いなどと。いったい、どんな色をしているのだろう?
どこにも人間がいない世界。
それはいったい、どんなものなのだろうかと。
すると、それまで沈黙を守っていたカメリアが、微かに身を乗り出して、内緒話の口ぶりで彼に話しかけた。
「ねえダカール、誰にも秘密よ。私はね、魔法が使えるの」
ダカールは顔をあげて、カメリアの鳶色の瞳を見た。
「魔法? いったい何のことだ」
「見ていてちょうだい」
彼女は、何かをハンカチで包み込むと、それをそっと彼らの座っている絨毯の上に置いた。ダカールもデイビスも、思わずそれに視線を集めたが、だめよ、上を見るの、と諭されて、二人とも顔をあげる。
微かな陽の光が射す以外に、薄暗い空気に満たされている秘密基地。
しかし、その瞬間————
世界が、天井を軸として真っ青に廻転した。彼らの周りをめぐるのは、一面の、青い光。薄暗い空間を照らし出してめぐる、青の洞窟。泣きたくなるようなネオンブルーが、壁を走って、躍動する。それは数々のダカールの宝物が落とす巨大な影とともに、秘密基地の四方八方に至るまで揺れ動き、揺蕩い、そして心を揺さぶった。
世界中を影絵にして、嫌なことも、辛いことも、すべて陰翳に溶かし込んでしまい。そして魂からは、ただ青い幻想だけが迸り、世界を狂おしいほどの魔法で満たしてゆく。何もかもが、塗り潰される。めくるめく、その鮮やかなディープ・ブルーに。
暗闇の中の青は、様々なイマージュを掻き起こす。胸を塗り潰すような夜空の透明さ、宇宙の果てに煌めくスピカやシリウス、激しい温度で燃えあがる青い焔、地底深くに育まれて輝くサファイア、生命の根源たる偉大な海。この世に生まれてきて、最初に見る夢が、このブルーの幻なのかもしれない。そう思わせるほど、どこまでも神秘的に胸を躍らせるそれは、彼らの心に直接、何かを呼びかけるかのようだった。
デイビスは、いつか、どこかでその青を目にした気がした。物心がついた頃、両親に外食に連れて行ってもらった夜、闇に沈むポート・ディスカバリーへ、一面に満ち溢れていた青こそが、まさにその色だった。あの時から、マリーナを好きになった。つまらない、寝床に入らなければならない時間だと思っていた夜を、愛するようになった。そこは光が差し込み、音楽が流れる世界。そして、最初の魔法が描かれるキャンバスであり、ポート・ディスカバリーは何があろうとそれを守ろうとしているのだということを、幼心に思い知らされたのだった。
「ほんの、イマジネーションよ」
小さな悪戯を成功させて嬉しがるように、カメリアが笑った。本当に、彼女は魔法使いの弟子なのかもしれない、と思う。それほどまでにその秘密基地は美しい光に満たされ、現実の醜いものを忘れさせた。
ダカールは、その黒い瞳に数多の青い光を映し込んだまま、呆然と呟いた。
「生まれて初めて、僕は、本当の意味で夢を見た気がする」
そうして、青に彩られた秘密基地を見つめ続ける姿は、誰よりも尊く、そして孤独だった。カメリアは彼の顔を痛ましげに見ながら、アレッタの羽を撫でていた。
……
埃っぽい秘密基地を出て、外の空気を吸う。日は、ほんの少し傾いていたが、まだまだ高い位置にあった。遠くにヤムナー川が見える。微かに午後の光に霞みながら、その水面をきらきらとさせていた。
「有名になれよ」
二人に向けて、ダカールは端然と命令した。
「デイビスと、カメリア。どっちの名前も覚えた。今度から、科学書を読むときには、その名を見つけるんだ」
愛らしい少年の約束に、カメリアは微笑んだ。その考えを持ち続ければ、難解な科学書の読解も、宝探しのように見えてくるのかもしれない。
「私は、彼とはまた別の時代から来た、過去の人間なの。その意味では、彼よりずっと探しやすいはずよ。
でも、デイビス博士は優秀なので、もしかしたら私の名前よりも早く見つかるかもしれないね」
「う……」
い、嫌味な言い方しやがって。と睨みつけるデイビスの視線から逃れるように、カメリアはぷいっとそっぽを向いた。
すると、ここにきてダカールは、急に「キューピット役を担う」という誓いを思い出したのか、慌てて捲し立てるように喋り始める。
「ち、違う。デイビスはお前のことを尊敬している。だってさっき、僕と二人きりになった時、言っていたから——」
その言葉の続きを察して、デイビスの頬が紅潮した。まさか、あの時こぼした言葉を、そのままそっくりカメリアに伝えようとしているんじゃないだろうな。
さっと頭に血がのぼる。やめろ、あれは独り言のつもりで言ったんだ。彼女に聞かせるような内容じゃ———
「でっ、でっ、デイビスはっ、いつかカメリアの胸を掴むところを見たくて、あんたと一緒にいたいんだって、言っていたからッ!!!」
硬直。
凍る沈黙の中で、目が点になる二人。あまりの内容に、何も言葉が出てこず、空気は砂漠のようにカラカラに干上がるばかりだった。
やがて、カメリアは静かに手を伸ばすと、そのまま発言者の肩をぽん、と叩いて。
「……………………ダカール」
「な、何だよ」
「その話、向こうで詳しく聞かせてもらえないかしら?」
「やめろーッ!!」
弾き出されたように体の自由を取り戻したデイビスは、大声をあげて発言内容を否定した。
「胸、じゃなくて夢、だ。クソガキがッ!!」
「わーん。デイビスが児童虐待してくるよー」
「これ、英語じゃ本来は絶対にあり得ない言い間違いだよね」
「メタ発言はやめてくれ。英語で会話してる設定なんだ、俺たちはっ!」
もうだめだ。序盤の緊張感はどこへいったのだろう。立て直しの効かない空気の崩壊を前に、デイビスはへなへなと崩れ落ちた。畜生、なんでいつも俺はこんな役回りなんだ、というか古いんだよノリが、と地面を拳で殴打しながら。
彼女には誤解して伝わらなかっただけ、ましと言おうか。
晴れ渡る空をバックにして、お手上げ、というように、カメリアが両手を挙げていた。
ともかく。
ダカールに見送られて天上へ舞い上がった二人は、フライヤーの進む方向を慎重に見極めた。一応、東に向かっている——つまりは、ミステリアス・アイランドがある南太平洋の方へと飛翔しているということだ。
軽くお茶でもする時間だったが、今日中にビスを受け取りに行くなら、ぐずぐずとしてはいられない。銀箔のように一面を埋め尽くす海に、少しばかり傾いた太陽が照り輝いて、彼らの網膜にまざまざと焼きつけた。カメリアはまたはしゃいでいて、綺麗ね、綺麗ねと何度も言っていた。最初に受けた心の傷からも、ようやく回復してきたように見える。
「ところで、カメリア。さっき秘密基地の中で披露していた、あの手品は、どうやったんだ?」
「あなたの故郷の市場で買ったの。こんなこともあろうかと、フライヤーに積んでおいてよかったわ」
カメリアが取り出したのは、暗いところで光るライティングスティック。単三電池二本で動くもので、電源を入れると、青いライトとともに、ぶいーんと微振動の音を立てて飾りが回る。
「……あ、そう」
ずる、と拍子抜けして肩を落とすデイビス。種明かしをすれば、だいたいそんなところか。けれどもダカールの目には本物の魔法として映り、彼の魂を魅了したことだろう。
「……ダカールは、あれからどうするのかしら。復讐する、と言っていたけれど」
「さあねえ。あいつが反逆者としてしょっぴかれることのないよう、祈るばかりだけれど」
反逆者、という不穏な単語に、カメリアの心臓が重くなる。植民地におけるそのレッテルが示すところは、見せしめの処刑という意味だろう。デイビスは、遠く緩んだ陽を浴びて、金属の如く照らし出されている地球の表面の襞を見つめ、手すりに頬杖をつきながら、ぽつりと言った。
「生きていけたらいいよな。あれだけ聡明な子どもは、きっと優れた科学者に成長するだろうから」
デイビスもカメリアも、それ以上何も言わなかった。もうダカールにしてやれることは何もない。それを重々知り尽くして、あえて語ることをやめたのだった。いかなる道を選んだとしても、その自由と責任は、彼だけが担っている。
しかし、デイビスの呟きにもまた、確かに正鵠を射たところがあった。ダカールは恐らく今後、科学の道を志すことは、二人の目にも明らかである。あの秘密基地で見た蒐集品が嘘でないのなら、その精神には、科学者こそが相応しいと思える。もしも生きる時代が重なれば、どこかで巡りあうこともあるのではないだろうか。そしてその希望を頼りに、これからダカールも、人生を賭けて、彼らの名前を追い続けるはずだった。
銃殺か、天才科学者か、どちらか。
ダカールの行き先は厳しく、ほんの吐息ひとつで、どちらに分岐するかも分からない。
「ねえ、デイビス……」
「んー?」
微かにシャツに染み込んだ煙草の香りと、柔らかな汗の匂いを漂わせながら、デイビスは語尾を伸ばし、何気なく振り向いた。
揺れる髪の中から、光線の如くそそがれる緑の眼差し。揺らめく光を閉じ込めた、鮮やかな双眸のエメラルド・グリーンが、一直線に彼女の目に飛び込んでくる。
それはまるで、透徹した意志を立証する閃光。自然界の何にも喩えられない——周囲の人間とは異なる珍しい瞳の色だが、彼自身はその特異さに気付いていないのかもしれない。頬杖をついているせいで、口許の表情が掌底に隠されている中、歴然と輝くその二つの虹彩だけが、掻き消すことのできない劇しい印象を残してゆく。
平凡な瞳に平凡な髪、十人並みの顔立ちに生まれついたカメリアは、その眩ゆい緑の瞳を、何度見ても強靭だと思った。デイビスの持つ虹彩は、人が人としてあり続ける強度のようなものによって支えられていた。どんな暴虐にも征服され得ない、鮮烈なグリーン。それに彼の持っている強さは、眼の色だけには留まらなかった。
———カメリアは関係ねえだろ! 知らない奴が勝手なことを喚き散らしているんじゃねえ!
———あんたが悪いんじゃない。子どもからあんな言葉を投げつけられたのは、心が痛むだろうけど。それでも、自分が背負えない責任は負わなくていい。
———あんたは間違いなく、史上最高の科学者だよ。俺が保証する。誰よりも偉大で、聡明で、人類の航空史に名を残す、本物の発明家なんだ!
———だって空って、他人の力で飛んでも意味がないだろう? 俺が行かなきゃ、いったい誰が、俺を本当の大空へ連れ出してくれるっていうんだ?———
「どうしたんだよ?」
デイビスは頬杖をついたまま、輝く緑の双眸を細めて、人好きのする笑顔でカメリアを見た。明るい——気さくで、大型犬のように友好的な笑い。きっと彼は、世界中のどんな人間に対しても、分け隔てなくこの笑顔を差し向けるだろう。そんな善良さに裏打ちされた壁のない優しさが、確かに彼の中にはあった。
その表情を目にして、一瞬、考えていた言葉が止まってしまう。伸びてゆく沈黙が不自然の域に達する前に、カメリアは無理に口角をあげて、微笑んだ。
「……あの、ごめんね。ミステリアス・アイランドとは違ったところに行ってしまって」
「まだ気にしてたのか? 大丈夫、大丈夫。試作品ってことは分かってたんだしさ、次はもっと気楽にいこうぜ」
そう言って、彼は彼女の肩を気軽に叩いた。それは衣服越しの、一瞬の触れ合いだったにも関わらず、彼の掌の重みや指の力が伝わり、じくり、と片方の肩にだけ体温が染み込むようにも思う。その言葉が、彼の本心からなのか、自分の作り笑いを見抜いて励ましてくれたのかは、彼女には分からなかった。
「あー、腹減ったな。ミステリアス・アイランドに着いたら、なんか喰っていくか。どうせ経費で落ちるしなー」
ぐっと伸びをしながらそう語るデイビスに、カメリアはそうね、と相槌を打って、彼に背を向け、海を覗き込んだ。
上空の風に潮風が入り混じり、未知の匂いがする。もっと吹きすさんでくれればいい、とカメリアは思った。
目の前を覆い尽くしてゆく薄い水の膜が、早く風の流れに乾いてしまうことだけを願って。