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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」17.Buon viaggio、カメリア、デイビス!

 起きると、El río perdidoは陽光によって透明度が増して、しらしらと水面に走る旭が、うなぎのように躍り続けていた。霧は無数の黄金の粒を浮遊させ、葉は吸いつくように波紋を残して川を流れた。ミゲルズ・エルドラド・キャンティーナのテラス全体は微かに濡れて、テーブルにも朝露が溜まり、黎明に揺れていた。

 ふと隣を見たが、カメリアはもう隣の席にはいなくて、すでに身嗜みを整え、ホール内のテーブルの隅で、一人設計書の作成に向かっていた。彼女にかけてやった上着も、いつのまにか自分の背中に被さっていて、毛布とともに彼を寒さから守っていた。くしゅん、とくしゃみを残しながら、そのジャケットに腕を通すと、窓ガラスから降りそそぐ朝陽を浴びるカメリアに近寄っていった。

「カメリア。おはよ」

「おはよう、デイビス。よく眠れた?」

 カメリアは微笑んで、デイビスにオレンジジュースを注いでやった。昨日の飲み会からテーブルに載せたままの瓶を傾けたので、冷えてはいなかったが、外気に晒されていた体にはそのくらいが心地よかった。

「ずっと起きていたのか?」

「そうね、夜中から作業を再開したの。まだ清書していないから粗いけど、これで開発の着手はできると思うわ」
 
 カメリアは、自らの成果をデイビスに見せた。テーブルには二十枚以上に渡る設計書が散らばっていて、そのすべてが英語で記されている。これなら、この場にいる全員が読解することができるだろう。

 そう思って周囲を見回すと、まだ誰も目を覚ましていないようで、それぞれが実に特徴的な寝息を溢していた。ぷひゅるるる、とか、すぴぴぴぴ、とかそんな感じの大合唱となっている。

「身支度はどうしたんだ?」

「二階に洗面所と歯ブラシがあるから、それで整えて。服は、バンガローの方に干してあったよ」

「オーケー。じゃ、また後で」

 寝ぼけ眼でシャカシャカと歯を磨き、顔を洗うと、ようやく目が冴えてきた。朝の散歩代わりに、グーフィーの宿泊するバンガローまで歩き、元の服に着替える。柔らかな鳥の囀りが零れ落ち、雲の少ない薄水色の空を見て、今日も暑くなりそうだ、と独りごちた。

 バンガローを出て、ミゲルズに戻る橋の直前で、爽やかなバナナのような甘い香りが漂ってきた。ふと、枝葉の繁る樹木を見あげると、薄葡萄を綿で暈したような、華やかな六弁花が新緑の中に埋もれていた。見たことのない種類だったが、デイビスは立ち止まり、束の間のあいだ、その若紫に見惚れた。そして、カメリアの巻き髪の色を思い出し、似合うだろうか、と考えた。

 昨日は、目の冴えるような赤い花だった——けれども、こういった微妙な色合いの方が、却って彼女の柔らかな髪には映えるかもしれない。そこでぐるりと樹の周りを回って、一番花びらの傷ついていないものを摘んだ。虫がいないかを確かめて、もう一度匂いを嗅ぐ。好き嫌いの分かれるような類いではないだろう。摘んだそれをポケットに入れることなく、風に飛ばされないように気をつけて両手で守りながら、ミゲルズに持ち帰る。彼女は相変わらず、一階のホールで、書き物を続けていた。

「あら、お帰り」

 和やかに微笑みかけるカメリア。それに応える余裕もなく、

「ん」

とデイビスは、ぶっきらぼうに差し出した。

「何?」

「は、花だよ」

 ぱちくりと瞬きしたカメリアは、不思議そうにそれを受け取って、見つめ続けている。

「私にくれるの?」

「そろそろ昨日貰ってたやつも、萎れてきただろうからな」

 先ほどからそっぽを向いたままのデイビスは、けして目を合わせぬようにしながら、手の中の花を再度突き出す。若干、昨日より花の大きいものを選んでいるあたり、見栄っ張りの証がよく表れている。

 カメリアは恐る恐る、それを受け取ると、ようやく理解が滲んできたようで、後光のようにぱーーーっと光を撒き散らして笑った。

「嬉しい! ありがとう」

「……ああ」

 けれども彼女は、いつまで経ってもそれを飾る気配がなかった。隠しきれないほど頬を綻ばせて、すぐに耳元に挿すこともなく、くるくると幸せそうにいじっている。

「つけないのか?」

「ん? ……へへー、どうしよっかな」

 ゴロン꜀(.௰. ꜆)꜄とアザラシのように長椅子の上に寝転がりながら、花を目の前にかざして見つめているカメリアは、発言内容こそ控えめなものの、だらしなく頬を緩めて、超ニッコニコであった。こんな満面の笑みを浮かべる人間は見たことがない。デイビスは考える。このままでみんなの前に姿を現したのなら、確実に誰かにツッコまれるであろう。

「あんた、絶対絶対、他の奴らの前ではそんな顔すんなよ?」

「どうして?」

 彼は少し迷った。多少大げさに伝えた方が、彼女には言いつけを守ってもらいやすいのかもしれない。

「ふ、二人の、秘密だから」

「分かった。二人だけの秘密ね」

「約束できるか?」

「任せて!」

 デイビスに諭されてシャキッと姿勢を正したカメリアは、いつになく顔を凛々しく引き締めたが、少しの沈黙の後、堪えきれずににへらー、と崩れ落ちる。そのだらしなさには脱力するが、まあいっか、喜ばれないよりは、と黙認することにする。

「朝ごはん、できてるんだって。みんなも上で食べてるから。二階に行っておいで」

「もはやここも、宿屋みたいな状態になってるな。飲み会用に貸し切ったんじゃなかったのか?」

「んー、でも今日はいよいよフライヤーを作るし。作業の合間の休憩所としても使いたいからって、貸し切りの期間を延ばしたみたいよ」

 くるくると風車のように貰った花をいじりながら、カメリアは嬉しそうに答えた。そしてようやく、耳許の髪にそれを挿し込んで。

「似合う?」

「うん。良いんじゃないか」

「はあ、今日はずっと付けていよう」

 幸せ一色、と言わんばかりに周囲にぷわぷわとハートを飛ばすと、カメリアは上機嫌で手鏡を覗いて、飽きることなくもらった花を見つめていた。これだけ喜んでもらえるなら、まあ、あげた甲斐はあったかな、と納得する。

 朝食の香りの流れる中、トントン、と靴音を立てて階段を登ってゆくと。色鮮やかなライムグリーンと、シグナルレッドの羽毛が、彼の目の前を掠める。

「よお、色男」

「よかったなあ、ようやく渡せて」

「みみみみみみみみ見てたのかよッ!!!!」

 ニヤニヤしているホセとパンチートを、真っ赤になって追い払うデイビス。蠅のようにブンブンと彼に付き纏う彼らは、当分その腹立たしい笑みが剥がれ落ちそうにはなかった。

「あら、そのお花、どうしたの?」

 一方のカメリアは、朝食を終えてきたミニーたちに、早速耳許の花について訊ねられた。ふっ、けれども私は動揺なんかしない。愛しのデイビスと約束したんだもの。カメリアはキリッと凛々しい顔をこしらえ、影の深い口調で言った。

「そう……ちょっと、色々あってね。でも、二人だけの秘密だから」

 ああ、この台詞、超言ってみたかったーーーーーー。事情ありげに匂わせる言葉をようやく口にできて、天にも昇る心地のカメリア。そんな架空の羽をパタパタはためかせて恍惚としている彼女を一目見れば、すべての事情が恐ろしいほどに筒抜けなのだったが、あいにくと頭がカラッポすぎて、そんなことはまるで念頭にない。

「ねえねえ、もう一度言ってみて」

「えっ」

「もう一回、『ちょっとね』って答えたいの」

 ミニーたちは若干たじろぎながらも、恐る恐る問い直した。

「そ、そのお花、どうしたの、カメリア?」

「うん、ちょっとね、秘密だから。きゃーーーーーーー」

 床に大の字になってジタバタと喜ぶカメリア。こいつはアホなのか。階下から聞こえてくる会話に、デイビスは思いっきり頭を抱えながら、どべしゃ、とテーブルに突っ伏した。


 で、朝食後。

「さて、どこでフライヤーを作る?」

「さっき散歩して見繕ってきたの。グリーティング・トレイルに向かって左手側に、大きな空き地があったから、そこを作業場にしようと思うの。ハンガーからも近いし、まだ燃やされていないフライヤーの材料も、すぐに運んでこれるはずだわ」

 全員に工程表を渡したカメリアは、簡単に概要を伝えた。

「えーと、資材調達班と、部品作成班。それに、実際に組み立てる班ね。それぞれ割り振りも考えたけど、自由に交換して良いわ」

 渡された工程には、それぞれ部品ごとにどのように作れば良いかが事細かに書かれ、まるで市販の説明書のように親切な内容である。これに設計書が加われば、各自で動くのに難しいことは何もないだろう。

「完了までに、どのくらいかかりそうかしら?」と挙手して質問するミニー。

「そうねえ、特にトラブルがなければ、予定通りにいくと、だいたい……」

 考え込むカメリアの言葉を待って、ゴクリ、と唾を飲み込む音が揃う。
 手伝いたいのは山々だが、さすがに何日も何日も手を貸せる訳じゃない。短くあってくれ、と祈るディズニーキャラクターたちに——


「————半日くらいかかるかしら」

「「「「「「「「「は?」」」」」」」」」


 ———腑抜けするような日程が提示され、一同はぽかんと口を開けた。

「今時、老人会の準備でさえ、もう少しかかるぞッ!!」

「わ、悪かったわねー、フライヤーは元々実験用に作ったから、作りがシンプルなの。
 角度や部品同士の噛み合わせの箇所は、慎重に作らなきゃだけど」

 少し顔を赤らめながら、言い訳を連ねるカメリア。いけないことではないのに、なんかちょっと恥ずかしい。

「それじゃ、今日中にできあがるってこと?」

「恐らくはね。午後の早い時間にできる予定だから、そこから飛行試験を行おうと思うの。それを含めても、だいたい夕方くらい」

「ふむ。すると夜はまた、テキーラ祭りが開催できるな」

 早くも酒飲みの機会を計画しているパンチートを横に、ドナルドはふっふっふっ、と怪しい笑い声を延々と漏らして、自身を主張している。

「なあ、さっきから何を笑っているんだ?」

「ふっふっふっ、きーておでょりょけ、みてぃえわりゃえ」

「見せる前から、お前は笑っているだろ」

 ドナルドは意気揚々と、背後に隠していたそれをみんなの前に露わにした。

「じゃーん。まほーちゅかいの、ぼーし!」

「あらっ、それってフィルハーマジック・オーケストラの……」

「へへー、でゃって、いまみっきーは、あにみゃる・きんぐでゃむにいってりゅんでゃもんねー」

「んもう、ドナルドったら、また勝手に帽子に触ったのね!」

「こんでょこしょ、でゃいじょーぶー! こりぇがありぇば、すぐにでゃって、ふらいやーができちゃうもんにぃえー!」

 取り戻そうと伸ばされたミニーの手をくぐり抜け、ドナルドは、得意になって三日月や星の描かれた青い三角帽子を被った。

「やったじょー! あてーん、しょん!」

 おもむろに大きく手を振りかぶったドナルド。青い帽子が浮きあがり、不思議な光を湛え始めた——と思ったら、あまりにそれの齎らす魔力が強すぎたのか、結果は大暴発だった。ぶわっと巻き起こった暴風に、一同が紙の如く吹き飛ばされたかと思うと、チェリーパイの香りやら、オーケストラの不協和音やら、電気ウナギやら、箒と水飛沫やら、あちこちに絵の具と火花が飛び散って、爆発した花火工場よろしく、大惨事となっている。

「ドナルド! ドナルドってば!」

「ワーアーア!」

 デイビスは咄嗟に、そばに生えていた樹の枝を掴むと、もう一方の腕でカメリアの手を掴み、ほぼ宙に浮いていた彼女を何とか捕まえる。暴風で砂埃まで立ちのぼっている状況では、ろくに目も開けていられない。ふと隣を見ると、トロンボーンのスライドに首を絞められているホセや、シンバルでがんがんと頭を挟まれているグーフィー、電気ウナギに感電しているデイジーの姿が目の端に映った。こんなにも即席で生き地獄を作れるドナルドは、ある意味天才であるに違いない。

「アレッタ、お願い!」

 デイビスにしがみつきながら、必死に叫ぶカメリア。飼い主からの命を受けた隼は、暴風の中を力強く飛んでゆくと、その鉤爪を鋭く光らせ、青い魔法使いの帽子を掴み、一気に剥ぎ取った。

 途端、ぴたっと魔力の暴走は解けて、後に残ったのは立ち込める砂埃と、風に吹き飛ばされた面々だけ。みな、ぐったりとして髪や乱れた衣服を整え、幽霊の如く立ちあがる。

「点呼ー!」

「一」

「二」

「サン」

「四」

「ごお」

「六」

「七」

「八」

「九。やれやれ、全員いるな。で、元凶のドナルドはどこ行った?」

「あっ。あんなところに」

 パンチートが指差した先には、上半身から地面に突っ込んだのか、実にカートゥーンらしく、真っ白な尻と足だけが生えている。なかなかにシュールだな、この光景。犬神家の一族を思い出す。

 大きなカブよろしく、全員で力を合わせて引き抜くと、スポッと間抜けな音を立てて収穫されるドナルド。けほけほと微量の土を吐いたドナルドは、そのまま怒りのあまり、激しく地団駄を踏んだ。

「まったく、いんがおおほお、ってやつだよお、ドナルド。八つ当たりしないでよお」

「なんでゃよもー!」

「うっふふふふ、ねえ、ドナルド?」

 き、きたーーーーー。数度気温の下がった空気に、全員がゾッとして、にこやかな笑顔を浮かべるミニーを硬直しながら振り返る。

「こっそりミッキーの持ち物に触って、勝手に使った挙句、この体たらく。いったい、何なのかしら?」

「びょ、びょくのしぇーじゃにゃいよ、あのぼーしが……」

「四の五の言わずに、この状況に至るまでの背景を、教えてくれないかしら」

 おどろおどろしいミニーに詰め寄られているドナルドは放置して、カメリアは、アレッタが掻っ攫ってきた手許の魔法使いの帽子を見つめ、首を傾げた。

「それにしても、凄い力ね。これを被れば、誰でも魔法が使えるのかしら?」

「いいや、違うよ。元々まほおは、誰にだって使えるんだ」とグーフィー。

 デイジーは肩をすくめて、ピン、と自分の頭についた枯れ葉を指ではじく。

「ああやって、欲に目が眩んだり、楽をしようとしたりすると、失敗するのよ。魔力に制御がついていかずに、言うことを聞いてくれないの」

「難しいのね」

「そうだよお、まほおは、誰にだって使える。でも、そのまほおを正しく使えるのは、この世にほんの一握りしかいない」

 グーフィーは、大切そうに帽子の皺を伸ばしながら、静かに言った。


「————まほおとはね。
 まほおとは、夢を叶える力のことを、いうんだよ」


 その言葉を聞いて、改めてカメリアは、手許の帽子を見た。何の素材でできているのだろう? 水のように肌に滑らかに馴染むその布は、神秘的な深海色に発光して、手のひらまでが薄蒼く染まっている。まるで生きているかのように弱くなったり、強くなったりしながら、時折り何の前触れもなく、微細な粒子を舞いあげるのだった。

「被ってみたら?」

とデイビス。カメリアは顔をあげた。

「フライヤーは、夢のほんの第一歩であって。あんたは、その先に辿り着きたいんだろ?」

「え……ええ」

「もしもこの帽子で、その夢が分かち合えたらさ。みんなも、フライヤー作りに気合が入るかもしれないじゃん」

 カメリアは、デイビスの目を見つめ、無言で何かを考え込んでいる様子だった。やがて彼女は姿勢を正して、おそるおそる、その青く発光する帽子を、自らの頭の上に載せた。

 その瞬間————

 凄まじい勢いで光がほとばしり、帽子に螺旋を描くように、銀の光明が天へと向かって躍り狂う。力強く空気を切り裂く風音。燃えるマグネシウムのように白熱する強い火花が流れ出して、反射が一面に黄金の燐光を撒き散らし、瞳の奥底に星を投げかける。帽子はなおも激しく振動し、カメリアは慌ててその縁を掴んだが、けして暴走はしていない——いや、むしろ、ようやく勝ち得た自由を謳歌し、目まぐるしくその魔力を解き放ち始めているのだった。ダイヤモンドとも見紛う強烈な閃光は、眩く、濃く、素早く仲間たちの脇を通り過ぎ、彼らの頭上に滴る粒子の軌跡を描いて、その筋に囲まれた彼らは、ふわりと足先が浮かびあがるのを感じた。重力の軛もなく、誰も彼らを止める者などない。目の前に広がるのは、めくるめく勢いで光り輝く世界と、世にも素晴らしいFantasmic魔力の洪水だけ。

 くすぐったいほどに壮大な魔法がかかる。それは誰も見たことのない、イリュージョンの世界への旅路だった。途方もない量の彗星が降りそそぎ、レーザーのように光線が宙を駆け抜け、それらは魔法の力の中で調和し、一体化する。そしてそのうちに、彼女の人生の中で、最も美しく、最も偉大で、涙の出るほど力強い調べが、光の底から響き渡ってきた。この世のものとは思えない幸福に溢れたそれは、まるで、遠い彼方から手渡された激励のよう。膨大な希望で心が押し包まれ、胸に燃え広がる勇気が、焔を噴くほどに熱く滲む。音楽は、なおも胸いっぱいにその勇敢なメロディを反響させながら、激しい風音を立てて光を操り、空中へと導いた。崖に打ち寄せる波のように火花の飛沫をあげて、煌めくばかりに豪奢な滝の余韻を残し、とめどもない花火が宙にみなぎり、興奮するような破裂音を響かせて、旋律とともに躍動してゆく。彼女の中からほとばしる力に、何より、彼女自身が驚愕していた。いったい、自分のどこに、これほどの魔法が眠っていたのだろうか? 光と音のマジック。夢を見ること、それ自体が夢のような体験だった。

 カメリアは、眼前の光景に目を奪われたまま、そっと、現実に繰り広げられる魔法に手を伸ばした。

 魅せられている、としか言いようのない表情だった。
 宙に無数に浮かぶ燐光は、星空のように目の前を漂って。降りそそぐ中でその姿を変えながら、色鮮やかなイマージュを振り撒いてゆく。

 万華鏡のように。
 宇宙のように。
 宝石のように。
 オーロラのように。

 それは、人生に魔法がかかる瞬間。
 幻想的なミストに包まれ、輝かしい音楽に心を奪われ、誰しもが息を呑んで、霧の上に映し出されるヴィジョンにすべてを忘れ去る。目の前で物凄いことが起き続け、ただただ、自分の手を差し伸べるしかできないという感覚。心が掴まれるドキドキはあって、心を呑み込んでしまう喜びはあって、それはこんなにも人々の魂を魅了してしまって、どんな悪夢だって太刀打ちできないのだと。


 ——See it in your mind,
 And you can find
 In your imagination,
 Mysteries and magic,
 Visions fantastic,
 Leading to strange and wondrous dreams.


 滴り、噴きあがり、囁いてくる流水の音。それはゆっくりと胸に込みあげながら、優しく彼女の心に語りかけるかのようだった。


 ———心を覗いてみて、
 想像力の中には、いつだって見つかるの。

 神秘や魔法、
 幻想に包まれた世界が、
 見たこともない素敵な夢へと連れていってくれるでしょう。


 カメリアはゆっくりと目を閉じ、自分の中の空想に身を委ねた。漆黒の闇。けれどもそこには、微かに脈打っている。眠りに落ちる前、命の底から励起してくるような、あの遠い世界が。

 そこへの還り方を知っている。透明な糸屑の束にでもなったかのように魂がほぐれてゆき、そのひとつひとつの糸が、世にも美しい幻影たちと遊んだ。この世に生まれる前の、一番無邪気で、純粋で、奔放な空想のダンス。宇宙に浮かぶ色鮮やかな星雲のように、果てしなくイマージュは花開き、その儚い幻を揺らめかせて躍る。青い光が何度もちらちらと瞬き、オレンジや、紫や、黄緑色や、鮮やかな薔薇色へと変わっていった。世界の始まりまでも冴え渡るようなヴァイオリンのささめき、未明から響くオーボエの歌、高らかなトランペット。なんという豊かな無限の彩りが、この空間の中に満ち溢れていることだろう? 地の果てから、煌々たる歓喜が躍り上がったかと思うと、空の彼方から、憧れのかけらが転がり落ちてくる。それらは夢という形になる前の、魂の奥底に秘められた、原始のゆらぎなのだった。

 溢れて溢れて、脳をまばゆく染めて、眠れなくなるほどの夢の洪水。目を瞑れば、いつだって、心の中にあった。この世の人々が抱く、大好きなもの、懐かしいもの、これから創造したいもの、そのすべてがここから生まれて、この渾沌へと還ってゆく。

 そして。その力に惹かれたように、遠くの方で、どこからか、懐かしい音楽が聞こえてくる。それは暗闇の底から、七色のしゃぼん玉に乗って、狂おしいほどの喜びとともに浮かびあがってくる。そこに生きるのは、会ったことも、話したこともない人々。なのに、数え切れないその人生の瞬間が、限りなく愛おしい。知っている。彼らがどんなに夢に魅せられてきたかも、世界に刻みつけた生き様が、どれほど純粋なものなのかも。地面が持ちあがるように、体が浮かぶように、その泡沫は、確かな飛翔の力を湛えていた。

 イノシシやミーアキャットの親友たちと闊歩する、生意気な子ライオン。ジャングルの中で手を叩きながら踊り回る狼少年。妖しいピンク色の像と、泡から滑り落ちてゆく鼓笛隊の格好をした鼠。あくびをしたり、照れたり、くしゃみをしたり、ギターを弾いたりする小人たち。懐中時計を見て大慌てで飛びあがる兎と、小瓶に入って漂流する金髪碧眼の少女。スーパースターとして胸を張る逞しい青年に、青い鬣を靡かせるペガサス。操り人形の中で踊る、生きたマリオネット。高らかなジャズ・トランペットをBGMに踊る青い魔神。白い木蘭を髪に挿した、初々しい唐服の少女。みすぼらしい格好で歌いながら掃除をする、高貴な顔立ちの女性。同じミートボールのスパゲティを食べているうちに、キスに至る野良犬とスパニエル犬。可憐なチュチュを身につけたカバやワニによる、優雅なバレエ。花畑の匂いを嗅ぐ子鹿や、ふわふわとした黒い顔を赤らめるスカンク。素晴らしい御馳走で歓迎の意を示す蝋燭の紳士。海の底の魚たちが奏でる、陽気なカリプソ。

 限りもなく溢れてくる、抑えようもなく突きあげてくる、これらの愛おしさの結晶。分かっている、これらはみな、同じ想像力の海で繋がる仲間たちの夢。自分のイマジネーションをそれぞれのやり方で花咲かせながら、別々のページをめくり、別々の魔法に酔い痴れ、別々の物語を紡いでいる。でもきっと、人々が抱いている夢の淵源は、たったひとつ。誰もが同じ、途方もなく壮大な海から生まれ、そして結実した末が、これらの物語なのだ。

 始まりはたった一人の、ほんのイマジネーションだった。それは、いつの時代の、どこにでもいる貧乏な、シカゴに生まれた痩せっぽちの少年。亜麻色の癖っ毛に、利発な目。勤勉家で、雨の日も雪の日も新聞を配達し、妹想いで、独創的な絵を描いては叱られてばかり。鉄道や農場、リンカーンの演説、冒険小説、芝居や映画、漫画、そして様々に咲き誇るアメリカの活気に溢れた景色は、やがて十万、百万、千万のゆめゆめしい煌めきを携え、彼の中で踊り始める。

 家の壁にたっぷりとコールタールを塗りながら、徐々にその目の光は、熱烈な興奮を湛えていた。それは狂気と言っても良い、彼を創造へと駆り立てる、あの途方もない海の色。世界は少年を育み、少年は世界から学ぶ。あらゆるものに、少年は魅了され続ける。

 どんな物音にも、どんな景色にも、目を凝らせば、そこには魔法があった。ドラマがあった。前進する勇気があり、歴史があり、笑顔が、努力が、語りたいものがあった。ざわめき、輝きを増してゆく幻想の粒子を操りながら、想像力という海に絵筆を浸して、この現実の世界を、塗り変えてゆく。

 ————僕はいつか、この世界を変えるんだ。遠い未来に、本物の魔法で、きっときっと、誰も見たことのない景色を描くんだ。

 すると、粗末なベッドに眠る彼のそばで、一匹の鼠が、彼の肩にシーツをかけ直しながら、そっと語りかけるだろう。

 ————君はいつか、この世界を変えるだろう。遠い未来に、君に魂を吹き込まれた僕たちと出会った時、誰も見たことのない景色が、生き生きと動き出すんだ。

 一人の夢は、二人の夢となる。二人の夢は、めくるめく星空の中で膨らんで、涙と汗の結晶を受け継ぎ、無数の流れ星を降りそそがせる。その類い稀な生命は、才能溢れるイマジニアたちを引き寄せ、何十万、何百万、何千万もの手に触れられて、さらなる高みを目指すだろう。彼らは議論に花を咲かせ、紹介し、闘い、うんざりし、模型を作り、指を鳴らし、計算し、シミュレーションし、色を塗り、飲んだくれ、決意し、机を叩き、こっそり修正し、褒め合い、讃え合い、素晴らしいアイディアを語り合う。何も終わらない、何も、何も。幾つもの夜を超えて、前進し続けるその軌跡は、時代の変遷を踏破して、生み出すことを止めはしない。発明に次ぐ発明を、想像に次ぐ想像を、情熱に次ぐ情熱を求め、未来へ駆け抜け、過去に学び、再構築し、新たな夢に取り掛かる。それは続いてゆく。この世に想像力のある限り、いくらでも世界は変わり続ける。昨日も、今日も、明日も、変わり続ける。

 カメリアは、虹色に輝く魔法の光に照らされながら、ゆっくりと目蓋を開けた。自らの確信したその思いは、口にした瞬間から、めくるめく音楽の中でかかってゆく。

 この世界Disneyの、魔法の力に。


「————イマジネーションがあれば、それは夢になる。夢を思い描けば、それは叶う。……どんなことだって」


 デイビスの耳には、彼女の恍惚と漏らした言葉が、無限の物語のページをめくってゆく、深い風の音で紡がれているように思った。

 彼女は静かに帽子を手に取ると、後ろに束ねていた自らのシニョンも解き、ばらり、とその巻き髪を風に吹きさらわせながら、全員に向かって、力強く囁いた。


「人が夢に向かって、舞いあがる世界。私は、そんな世界へと、この世界を変えたいの。私が生まれ落ちた時代は、戦争や弾圧に明け暮れ、侵略の野望が渦巻く時代。けれども私は、その道を抜け出して、人々の本当の美しさを見つけたい。夢を見れば、もっともっと素晴らしい出来事が、私たちを待ち受けているはずだから。

 大空は、いつだって人々の自由を駆り立てる場所よ。私たちの夢は、どんな争いにも、どんな悲しみにも汚されることなく、この果てしない青空を翔けてゆく。誰の心の中にも、そんな純粋な思いはあるの。

 ここは、夢が叶う場所。誰もが自分の魔法使いとなって、素敵な翼を生やして、飛んでゆくの。科学は、人々に魔法をかけて、崇高な事業に貢献できる。きっとフライヤーなら、それを証明することができるわ。

 ———みんな。力を貸してくれる?」


 そこにいた十人の仲間で、互いに目を交わし、頷き合う。晴れやかな誓約は、吹き抜ける風のように、彼らの胸の中を同じ色に染めあげる。

 ここが、始まり。夢を生み出す、最初のひとかけら。ここから踏み出し、情熱を受け継いでゆけば、きっとどんな夢も、素敵な魔法にかかるから。
 ミニーはふと、あの人・・・も、こんな思いで、私たちのことを生み出したのかもしれないな、と考えた。

 彼が亡くなってから、もう何十年という歳月が経った。
 この冒険とイマジネーションの海も、彼の死後、長い間経ってから新たに創造された世界。

 私たちは、未来へ進めているだろうか?
 彼の夢を受け継ぎ、次の時代を始めることができているのだろうか?

 ミニーは、胸を塞ぐような一瞬の哀しみに堪え——
 それを振り切るように、揺らめく瞳で青空を仰いだ。

 ねえ、ウォルト。
 あなたは今も、空から私たちのことを見守っていてくれるのかな。
 時々、あの頃と同じように、私たちにやきもきしたり、驚いたり、目を輝かせて感嘆してくれてる?


 あのね。
 私、わたし、本当はね————


「ミニー、どうしたの?」

「あ……」

 いつのまにか、ぽろぽろと頬を伝っていた涙に気づきながら、ミニーは、胸いっぱいに彼への想いが込みあげてくるのを感じた。思い出す。彼の魔法に感嘆し、ともに同じ夢を描いていた頃を。

 デイビスがミニーを抱き寄せ、そっと肩を叩いた。ずっと封印していた想い。友達やゲストの前では見せられなくて、いつも明るく振る舞っていた、その長年抑圧していた反動が、今になって襲いかかってきたようだった。

 けれども、暖かい体温に包まれながら、思う。
 これで良い。
 哀しいことは、間違いじゃない。
 あの人との絆が、今も私の胸に生きている証なのだと。


「何でもないの、少し、昔のことを思い出してしまっただけ。でも過去を思い出すことは、悪いことじゃないわ。前に進むための、大切な一歩なのだから」


 ————あなたのことが、大好きだった。

 今でも忘れない。
 あなたがいかに私たちのことを愛してくれたか、そしてどんな仲間をここに残してくれたのかを。

 あの人の魔法は、今もここに生き続けているから。
 忘れない。
 忘れることなんか、できない。

 変わり続ける中で、私たちは、私たちの最善を尽くして、夢を叶えに行くわ。

 ここは、一人の人間の夢ワン・マンズ・ドリームから始まった、壮大な世界。
 想像力を空へと舞いあがらせ、素晴らしい体験を大地に根づかせるために。


 ———今日も青空の下で、最高の夢を思い描こう。


「あなたの夢は、きっと叶うわ、カメリア。だって、私たちが一緒なんですもの!」

「よおぉーし、頑張るぞお!」

「じぇーいん、じぇんりょくでかかりぇー!」

 デイビスは満面の笑顔を零すと、周囲の全員に向けて、一際輝く声を放った。


「さあ、みんなで飛ぼうぜ、あの大空まで!」


 彼の切り裂く声は、青空を突き抜けて。交わし合う笑顔は、きっと新たな時代の始まりを連れてくる。

 魔法の光に包まれながら、どの仲間の顔も、快活に前を向く。
 見あげれば、本当に鮮烈な入道雲が、降りそそぐ光を跳ね返し、その純白を主張していた。

 背後の深い青に映える姿は、まるで誰もが耳にした、汚れなき壮麗なお伽話の城。空の藝術——その思いのままに描かれた絵画を見つめれば、大人たちは懐かしい思い出を掻き起こし、若者は、未来への誓いや挑戦心を掻き立てることだろう。


 ———Disneyland will never be completed. It will continue to grow as long as there is imagination left in the world.


(あなたの言葉を守るわ、ウォルト。これからもずっと、ここを夢が叶う場所にするために、私たちは邁進してゆくの。新しい世界の、新しい世代になっても。変わり続ける光景の中心は、あなたの言葉で満ち満ちている)


 夢は終わらない。
 それは、今日も続いてゆく。

 この世にイマジネーションがある限り。
 夢は受け継がれ、新たな物語を語り続ける。

 作業を始めようとして、ドナルドはふと、先ほどの騒動に紛れて転がってきた箒に目をやり、悪いことを思いついたようにふてぶてしい顔つきで、

「ほーきにも、てちゅでゃってもりゃおー」

と、魔法をかけた。銀の燐光に包まれた箒が震えると、やがてそれは立ちあがり、柄から生えた両腕を伸ばして、ずんずんと工具を運んでゆく。今度は邪欲にまみれていなかったのか、きっちりと成功したらしい。

「あらあ、やるじゃない、ドナルド!」

「でいじー、びょくのこと、みにゃおしてゃ?」

 鼻高々のドナルドを一瞥すると、デイジーはいきなり、長い長いリップ音を立てて、その頬にキスをした。その場にいた誰もが頬を赤くして、アヒルたちに背を向ける。しゅぽんっ、と二人が離れた音から判断する限り、相当な吸引力で吸いついていたらしい。

「まったく、急なラブシーンはやめてほしいよなー。見てるこっちの方が照れるだろ」

「あら、私はいつでも大歓迎ですけど?」

「……どうして視線がこっちに向けられているんだ?」

「あらあら、不思議な現象ね。ひょっとしたら、あなたの心の奥底の欲望が、目の前に具現化されたのではないかしら?」

「ンなわけねーだろがッ!!!!」




 ————ひとつの譬え話をしよう。

 もしもあなたに与えられた人生の時間が尽き、その意識が深い闇に沈んだとして。
 今や思考は深い漆黒と同化し、起こす手も知らずに微睡み続け、刻む時計も欠いたままに、幾星霜が経過している。

 そして、何の脈絡もなく。何の前触れもなく。
 ある時、暗闇の淵からふたたび、あなたの意識はこの世に浮上し。かつての世界に還り、瞼をあげて、限りない光を浴びることを許されたと仮定しよう。

 あなたは真っ先に、その開かれた彼方の、いかなる光景を目に映したいと願うのか?

 もしもその景色の中に、噴きあがるように青い青い大空があるのならば。
 あなたにとっての空とは、この世の象徴なのだろう。その光の淵源に、狂おしいほどの生の希望を重ねていたのだろう。

 ————そして今日も、その空は生者の上に輝いている。

 刻々と移り変わる鮮やかな色合いと、あまりに膨大な顔を見せる事象の数々。

 葉の合間から漏れ落ちる薄い光線。
 厚い雲を、練り絹の如く輝かせる太陽。
 強いオレンジからブルーへ、薔薇色から葡萄色へと移ろう散乱。時に叩きつける雨の痛烈さ、雪の静けさ、雷の激しさ、遙かな風の音。

 人々の叡智も、怒りも、お喋りも、さざめきも吸って、空は地上の営みとともに、別次元の時間のうちを歩み続ける。

 空は、そのような場所なのだ。

 もしもあなたが、自分の心を見つめれば。
 そこには、見つかるはずだ。
 人生のうちで、空の下で紡がれてきた、様々な思い出の物語が。


 ——See it in your mind,
 And you can find
 In your imagination,
 Tales of enchantment,
 Beauty and romance,
 Happily ever after!


 木材を鋸で切っていると、ミニーが盆に載せたお茶を差し出してきた。

「サンキュー、ミニー。今日も暑いな」

「フライヤー作りには、絶好のお天気ね」

 その冷たさで喉を潤しながら、デイビスは何気なく天上を見あげた。

 藍色を奪うほどに深々と強まる青空は、彼らの些末な声を吸い込み、その瑠璃を遠大に切り取る入道雲は、蒼穹をあざむくばかりの純白を、髣髴として遊ばせていた。汗をかくそばから、風が体温を冷ましてゆく。けれども天上は、地上からは見えない清洌な風が吹き荒れ、体内を清められたように感じることだろう。

 あそこまで、飛べるだろうか、とデイビスは思った。フライヤーなら確かに、あの雲まで目指して飛翔することができるはずだ。考えただけで、体を奮い起こすような欲望が突きあがってくる。

「うふふふふ」

「どうした、ミニー?」

「不思議ね。こんなにワクワクするのは、とっても久しぶり」

「ああ。きっとあいつが、俺たちの一番前で、引っ張ってくれているからだろうな」

 デイビスは苦笑して、それに答える。

「ねえ、あなたの目にも、彼女がとっても光り輝いているとは思わない?」

「何のことだ?」

「ほら、ご覧なさいよ、彼女の姿。まるで魔法にかかったみたいにキラキラしているわ。

 ねえ、デイビス——あなたは今までに、生きている姿があんなにも美しい人を、目にしたことがあるかしら?」


 デイビスはゆっくりと顔をあげて、カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコを振り返った。


 藍色の空から落ちてくるのは、まばゆい、けれども目に見えない、透明な光。
 長い睫毛が、暑い太陽に透けて、七色に見えた。
 鳶色の巻き髪は、太陽の反射の中にばら撒かれて、黄金の滝を流したように見える。

 デイビスは、何も言わずに、その背中を見つめ続けた。

 彼女の眼差しは、自分の仕事に熱心にそそがれて、彼を一顧だにしなかった。

 ただの後ろ姿。
 それなのに彼女は威風堂々として、ここではないどこかの場所へと導かれているように見える。長い試練を渡り、その途方もない呼び声に答えたいと願う彼女は、普通の人間が抱く、生きる力を超えてゆくようだった。


 ——Tale as old as time,
 True as it can be.
 Barely even friends,
 Then somebody bends,
 Unexpectedly.


 初めて出会った時は、なんておかしな奴がやってきたんだろうと思っていた。
 訳の分からないことばかり言って、すぐに自分の世界に浸り切って、人の話なんてちっとも聞かないで。

 でも、陽の下を駆けて、大空を飛んで。
 世界中を、一緒に冒険して。
 それとともに、少しずつ、互いに何かが変わり始めたのかもしれない。

 いつだって、真っ直ぐに手を差し伸べて。
 光の中で、笑っている。

 デイビスは、改めて————

 自分の心の武装を解いて。
 静かに、その姿を目で追った。


 ——Certain as the sun,
 Rising in the east.
 Tale as old as time,
 Song as old as rhyme,
 Beauty and the Beast.


 彼女は、後ろからそそがれ続ける彼の眼差しに気づきはしなかった。グーフィーとともに設計書を見ながら、切り出した木材を指差している。

 何を話しているんだろう?
 どちらも、互いに笑い声を零しながら、まだこの世にはない新しいものを描こうとしているのが分かる。くすくすと肩を震わせるたびに、髪の房が魔法の光のように零れ落ちて。

 けして振り返らずに、前だけを見て。ひとりで担うにはあまりに大きすぎるものを目指して、彼女は道を切り開いてゆく。まるで明日も、太陽が東から昇るように、確固とした足取りで、未来へと向かって。

 太陽を背負い、
 ドレスは風の中に翻り、
 髪は蒼穹を飾るリボンのように靡いている。

 いかにその姿はたくましく感じられたことだろう? 一歩ごとに、光は強くなり、落ちる影は濃くなり。そしてその二つに彩られて、より一層、彼女の鮮やかさは増した。
 そして、人々の夢を愛しながら、明るい水飛沫のような笑い声とともに、どこまでも前に向かって進み続ける。

 それこそが、彼女の強さだった。いくらでも明るく、冗談と喜びに満ち、生き生きとして、まるで火花が迸るように、生きる勇気を燃やすことを惜しまない。

 確かにそんな人間には、今まで出会ったことがなかった。

 カメリアは、他の人間とは違う。
 他のどんな人間も、彼女のようにはなれない。
 例えそれが、昔話に謳われる、英雄でさえも。彼女の奥から響いてくる、あのまばゆいばかりの世界に捧げた讃歌には敵わないだろう。

 この世に、たったひとりが、そうやって生きてゆけるのだと。
 デイビスは、そう感じた。


 ——What would I give
 If I could live
 Out of these waters?

 ——In your imagination!


 想像力と、創造力。
 それが、彼女から世界に捧げられる、最大の資質だった。

 自らの生きる世界を変革するために、彼女は頭上を仰ぎ、夢を見る。泡沫のような幾つもの思い出がこぼれた。
 涙も、憧れも、宝物も。ここには限りない数の記憶が瞬いている。風が吹くと、それが舞いあがって、波紋の向こうに光を透き通らせるようだった。

「カメリア! ここの組み立ては、どうするの?」

「ここはね。うまく羽目板に引っ掛けてから、慎重に柱を下ろしていって……」

「なるほど! こういうことね?」

「そうよ。素晴らしいわ、デイジー」

「ソウシタラ、コノナワヲムスベバイイノ?」

「ええ、落ちないように、気をつけてね」

「マカセテ、タカイトコロハトクイナノ!」

「ふふ、さすがだわ」

「なんだか、楽しくなってきちゃったね!」

「まあ、マックスったら、木屑だらけよ」

「さっき、木屑の山の上に転んじゃったんだよ」


 ——What would I pay
 To spend a day
 Warm on the sand?

 ——Dream a fantastic dream!


「だんだん、できてきたねえ」

「あてょちょってょでゃねー! はやく、しょらをてょびてゃいなあ」

「みんな、熱中症になる前に、いったん休憩しましょう。それから一気に仕上げようね」

「紳士淑女諸君! ミゲルからタコスの差し入れを貰ってきたぜー!」

「パンチート、そいつはタコスじゃない、ケサディーヤだ」

「なんだって良いんだよ、旨いもんならな」

 砂時計が降りそそぐ、暖かい時間に包まれながら。その一粒一粒の瞬間を、例えようもない黄金に輝かせるように。あらゆる時間が、彼女の魂を照らし出してゆく。

 ずっと求めていた仲間たちに囲まれて、彼女はなんと幸福そうなのだろう。そしてそれとともに、ますます彼女は、手の届かない高みへと登ってゆき。限りない憧れを、描き続ける。


 ——Betcha on land,
 They understand.
 Bet they don’t reprimand their daughters.

 Bright young women,
 Sick of swimmin’...

 Ready to stand!
 ——Ready to stand!


 カメリアは、ふと、目の端に映った空を仰いだ。
 真っ青な色。
 手を伸ばせば、指の上に静かに流れ落ちてきそうなほどに、それは濃く深い。

 アレッタが大きく翼を広げ、降りそそぐ太陽の光を、美しいシルエットで切り取っている。宙を翔ける鳥は、どれほどの自由を謳歌しているのだろう。物心ついた頃から、その軽やかさにずっと憧れていた。あの頭上が、届かない世界だなんて、一度も考えたことなどなかった。

 辿り着きたい、と思った。

 太陽の輝きを浴びて。
 あの世界へ。
 あの場所へ。

 雲の向こうには、まだ出会ったことのない、限りない人たちが待っている。
 その人たちみんなに、素敵な魔法をかけにゆくんだ。

 もっと、先へ。
 もっと、前へ。
 無限の人々に、この大空の自由を届けたい。

 そのために、持てる全部を、光射す方向に捧げよう。あの自由の世界に手向けよう。


 ————私なら、それができるのだから。


 ——Someday, my prince will come.
 Someday, we’ll find true love!


「なあ、カメリア——」

「なあに、デイビス?」

 巻き毛を揺らして、何気なく、彼の呼び声に振り返るカメリア。強靭な光を帯びた彼女の視線が、彼の瞳の底を射る。そこで初めて、二人の眼差しが結び合わさった。

 ————目の前に生きるこの美しい人間は、誰なのだろう、とデイビスは思った。

 激しく瞬いて仕方のない、力強く明朗な火花と、迸るほどに壮大なイマジネーション。どれほど生きても生きても、けして足りないと思うような、あの限りない人生への希望。揺るぎない、あの絶大な信念。狂おしいまでの世界の肯定と、その愛情と一体となった存在感。

 それはまさに、人々を魅了する魔法の源だった。どんな宝石よりも生気に満ち溢れ、活き活きと光を撒き散らす瞳が、彼の姿を映し込む。

 おとぎ話のお姫様なわけじゃない。
 王子様を待ち続けるばかりの人間でもない。

 ただ、自分の力で立って、夢を見て、生きている。
 だからこそその姿は、どんな物語の英雄よりも格好良いんだ、と彼は思った。

「デイビスったら、どうしたの? そんなに見つめちゃって。私が、そうまで可愛く見える?」

 カメリアは悪戯そうに笑って、彼の顔を覗き込んだ。そんなわけないだろ、と怒鳴られることを期待しているのだろう。いつもみたいに、自分を卑下させて、冗談の種にしようとするのは、彼女なりの処世術だった。


「————ああ、そうだよ」


 だからこそ。それを裏切りたくて、本当のことを言った。カメリアの笑顔が消えて、一瞬、素の表情がさらけ出されて。時が止まったかのように、微かに目が見開かれる。


「見惚れてた。あんたが、あんまりキラキラしているから」


 真っ直ぐに、彼女の瞳の底を見つめながら言う。
 糸が張られたように、二人の眼差しが、熱を帯びる。

 彼女は、唇を震えさせながら、狼狽して、何を言おうかと考えあぐねているようだった。それをじっと見つめるデイビス。不思議にも、そのしぐさのひとつひとつが、驚くほどゆっくりと目の中で揺れ動くように感じた。

「カメリア!」

「あ……」

 背後から掛けられた呼び声に、カメリアは戸惑ったように、デイビスとの間で視線を往復させる。

「呼ばれてるぜ。行ってこいよ」

 その眼差しの背中を押すように、優しく微笑み、彼女を送り出した。カメリアは困惑したように数歩行きかけたが、その場を離れる直前で振り返ると、少し遠くから、彼の名前を呼びかける。

「ねえ、デイビス?」

「ん、なんだ?」

「あのね——」

 向日葵のように咲き誇る、無防備な笑顔。
 どき、と不自然な鼓動を残して、一瞬、心臓が止まりかけた。

 こいつ、こんなに美人だったかな? それとも今日は、あまりに空が高すぎるせいなのだろうか。

 初夏の生気に弾けるような、鮮やかに輝く新緑が目に眩しい。壮絶なまでに濃い蒼穹を背景に、ふっくらと紅みの深い唇が健やかに映え、眩暈のするような太陽を一心に浴びて、黄金に透き通る髪が広がり、燦然たる光を周囲に振り撒いて。

 魅力的——と言うほか、なかった。

 蕩けるような笑みでもなく、
 誘うような笑みでもなく、
 神秘的な笑みでもない。

 隠されていることなんて、何もなかった。彼女の内面のすべてが、輝くばかりにそこに曝け出されていた。そして、そこから溢れ出る光は、透かした太陽の何倍にも強度を得て、彼の心の底まで真っ直ぐに照らし返すような。一途に、誠実に、鮮烈に生きている、というその事実が、何よりも彼女の美しさを引き立てている。
 その笑顔を見ていると、なぜか涙が滲んでくるようで、そんな安堵感に包まれて、けして目を離せなどしない、このままずっと見つめていたい、と思った。

 ああ、確かに、彼女は祝福されている。
 世界を愛し、愛されるように。限りない眩しさの中に、生きている。

 だけど————



「私はずっと、デイビス一筋だから。世界で一番大好きなのは、あなただけだよ」



 ————彼女が肯定してくれるのは、いつだって、俺だ。

 今度こそ、何も言い逃れすることはできない。
 はっきりと、心臓が止まった。

 カラン、と落ちた工具を拾いあげる力もなく。
 動悸以外のことを気にする余裕もなくて。

 へたり込む。
 息が詰まって、何も言えない。
 ただ、左胸の下で、堰き止められていた物凄い量の血流が、バクバクと送り出されてゆく。そのひとつひとつが、痛々しいほどに自意識を腫れあがらせた。


「……真正面から言うなよ、そんなこと……」


 暑いのか、熱いのか、溶けてゆくように眩暈がする。
 もうカメリアは行ってしまって、彼にそそがれるのは、天上から降ってくる太陽の光だけ。


 ——Tale as old as time,
 Song as old as rhyme;


 物語は繰り返す。
 遙か昔から受け継がれ、
 詩の中で謳われて。

 ————きっと、どんな人間も、そうやって生きてゆく。

 語り継ぎ、歌い続ける。
 自らの夢の物語を。




……

「みんな、本当にありがとう。あなたたちという仲間がいたから、完成することができたの」

 カメリアは、全員の前でゆっくりと告げた。
 みな、木屑や、泥や、汗だらけ——けれども満ち足りた表情で、彼女の背後のフライヤーを見守っていた。

 海から空へと向かって飛翔する、人工の飛び魚——とでも喩えようか。その輪郭をなぞる微妙な曲線は、自然の黄金比に倣って削り出された結実である。
 大きく風の力を得るために左右に広げられた両翼に、張り巡らせた革ははたはたと揺れ、尾翼に抜けてゆく曲線を描いた骨は、かつてレオナルド・ダ・ヴィンチの残したスケッチに依拠し、溜め息のつくほどに優雅である。太陽の光を柔らかに透かす庇の下には、煤を丁寧に拭われて輝く、革張りの二座席を設け、さらにその下に取り付けられた華奢な車輪が、フライヤーを僅かに大空へと向けて、傾斜角を設けていた。

 まるでそれ自体が、自然の造形美のような飛行装置。
 デイビスが彼女と初めて会った時、海辺で目にした発明品と同じものが、あの日の見たそのままに、そっくり、目の前にある。

 ああ、これは、こんなにも美しい作品だったのか。
 一度失われたものをふたたび前にし、デイビスは改めて、嘆息を禁じ得なかった。それは新しく生まれ変わったものなのに、それまでの血も汗も涙も、彼女が支払ってきたすべてが染み込んでいる。

「あんたの夢の、集大成だな」

 彼は感銘に満ちた声で呟いたが、いいえ、とカメリアは首を振り、晴れやかに笑った。

「"私たち"の、フライヤーよ。ここにいるみんな、全員で作りあげたフライヤーよ」

 堂々と言い切ったカメリアの声に、フライヤーもどこか誇らしげに、翼に張った革をはためかせる。その真っ白な両翼は、空に舞いあがれば、どれほどまばゆく己れの姿を輝かせることだろうか。

 いよいよ、飛行試験が始まる。カメリアは、己れの肩に乗っている隼に向けて、優しく語りかけた。

「さあ、アレッタ、準備はいい? ここにいるみんなも、あなたのように空を飛ぶのよ」

「俺も一緒に乗ろうか?」

「ありがとう、その方がバランスを取りやすいわね」

 片側に重心が偏るのも良くなかろうと、デイビスが声をかける。初回の試験は危険を伴うものだが、彼の中のどこにも恐怖はなかった。大丈夫、今のカメリアなら、きっと空を飛べる。アレッタは、彼らが短く会話のやり取りをする様をじっと見つめていたが、やがて、きゅい、と鳴きながら首を傾げる。

「いい子ね、アレッタ。すぐに追いかけるから、先に行ってて」

 彼女のキスを頭に受けて、小さく頷いたアレッタは、ぱたたた、と軽い羽音を立てて、大空へと真っ直ぐに吸い込まれていった。出発だ。その後を追うように、デイビスもカメリアも、フライヤーに乗り込んで、頭上に広がる大空を向く。

「カメリア、デイビス、気をつけて!」

「ありがとう。デイビス、掴まって——行くわよ!」

 掛け声とともに、カメリアは思い切り地を蹴った。ぶわっと、全身を迎え撃つ風の彼方へ抜けて、彼らを乗せたフライヤーは、一挙に限りない大空に飛び立つ——ように思えたのだが——

どたたたたたたたたたっっっ


と座席から投げ出されてすっ転ぶカメリアとデイビス。フライヤーは前のめりに傾き、少しばかり前に進んだだけだった。朦々と砂埃が舞い、全員が見守る中、シーンとした沈黙は非常に胸にくるものがある。だ、誰か、何か言ってくれよ。カラカラと車輪の回る音が、虚しく彼らの鼓膜を掠めた。

「なんだ?」

「で、デイビス、死ぬ死ぬ死ぬ」

 思いっきりカメリアを押し潰していることに気づかず、座り込んだまま眉根を寄せるデイビスに、彼女は死にかけのコオロギのような声をあげた。

「アレッタったら、また機嫌が悪いのね。第二話と同じだわ」

 地上へと戻ってきたアレッタは、彼女の腕に止まりはしたものの、つーん、と明後日の方向を向いてしまっている。目を合わせようとしても、ますます顔を背けてしまう。カメリアはすっかり途方に暮れてしまった。

「お腹が減っているのかしら?」

「おやつの時間とか」

「朝食は、もうあげたはずなんだけど……」

 わいわいと集まってきた周囲のディズニーキャラクターたちが、バナナやらアボカドやらトルティーヤやらの貢ぎ物を差し出してみるが、一向にヘソを曲げた状態は直らない。捧げた供物が、本当に隼が好むものなのかどうかはともかく。

 そこへ、ホセがつかつかと歩み寄ってくると、矯めつ眇めつ、アレッタを見回して、ふむ、と顎に手をやった。同じ鳥同士、通じ合うことでもあるのだろうか——ホセの赤青の鮮やかな尻尾が、ぴこぴこと左右に揺れていた。

「セニョリータ、隼サマは、どうやら相当に拗ねているようだよ」

「困ったわ、このままじゃ飛べそうにないわね」

「そうさ、んでもって、その原因は君にある。この隼サマは、やきもちを妬いているんだよ」

「やきもち? どうして?」

「そりゃ、自分たちの胸に手を当てて考えた方が早いんじゃないのかい?」

 そこで、デイビスもカメリアもお互いに見つめ合い、二人とも同じ結論に行き当たったように、俯いて頰を赤く染めた。周囲のキャラクターたちが全員、ニヤニヤと笑みを浮かべているのが分かる。デイビスは目を逸らしながら、髪を乱暴に掻き乱した。

「え、えーと。とにかく」

 ごほん、と咳払いをする。

「俺はいいから、まずは一番に、アレッタを可愛がってやれよ。長い付き合いなんだろ。あんたの家族みたいなもんだし」

 カメリアは改めて、最近のアレッタとの関係を振り返った。確かにここのところは、作中での扱いがおざなりになっていた——作者もよく存在を忘れていたし——その鬱憤が溜まっていたと考えても、不思議はなかろう。

 カメリアは躊躇いがちにアレッタを撫でると、意地でも目を合わせようとしないその隼に、静かに囁きかけた。

「ごめんね、アレッタ。あなたはずっとずっと、私の一番のお友達よ。この世の誰にだって、あなたの代わりになれる人なんていないの」

 きゅい、と鳴いて首を傾げるアレッタ。その黒スグリのような眼が、潤みながら、じっと主人の顔と対峙する。ああ、ようやく目を合わせてくれた——と束の間の喜びに浸る余裕もなく、その脚は柔らかに彼女の腕を蹴ると、そのままデイビスの腕へと羽ばたいていって。

「な、なんだよ?」

 久々にアレッタを腕に止まらせ、戸惑うデイビス。どうもこの鳥の眼差しは苦手だ。自分のことを裁定するような——自分はこの鳥に査定される立場であるのだと、まざまざと主張されている気がする。アレッタは、そのままトコトコと手首の付近まで遡って歩いてゆくと、慎重に匂いを嗅ぎ、狙いを定めて、思い切り彼の手の甲の皮に噛みついた。

「あだだだだだだだッッッ!!!!!!」

「あ、アレッタ、駄目よ、そんなことしちゃ!」

 痕が残るほどに嘴に力を込めたアレッタは、それで気が済んだのか、異様にスッキリした顔で飼い主の元へ舞い戻ると、ここぞとばかりに頰を擦りつけ、カメリアに甘えてくる。はたから見れば微笑ましいその様からは、しかしガラス張りの如く、彼に見せつけるという目的が見えに見え透いていた。う、うわー、超居た堪れない。カメリアはアレッタの背を撫でながら、カクついた動きで負のオーラを放つデイビスから目を逸らした。

「ヒョットシテ、タダタンニ、デイビスノコトガキライダッタンジャナイカシラ?」とクラリス。

「そのかのおせいは、高いよねえ」とグーフィー。

「デイビスのこと、変質者だと思ったのかもよ」とマックス。

「やたら飼い主に近づくし、よく挙動不審になるしねえ」とデイジー。

 てっ、てめえら、好き放題言いやがって、と怨嗟の念を漂わせてぷるぷると震えるデイビス。その横で、ホセ一人だけが、ひっそりと肩をすくめた。

(それにしても、大した忠誠心だね、こりゃ。本来なら、こんな人間のお嬢さんに仕えるような位の御方ではないんだがな)

 このまま黙殺して良いものか、迷いはする——が、本人が黙っていることを勝手に伝えるのは、彼の美学に反する行為であった。オウムだからといって、何でもかんでも考えなしに口にするのは、無粋者のやることだ。

「最後のパズルピースが、揃ったな」

 パンチートが、ゆっくりと告げる。それが良い切り替えの合図となって、カメリアはふたたび、アレッタに向き直った。

 というわけで、Take2。グーフィーの手によるカチンコが鳴る。

「アレッタ。私ね、あなたと一緒に、ずっと空を飛ぶことに憧れていたの。
 あなたは隼で、私は人間。でも、フライヤーがあれば、私たちは同じ世界に舞いあがることができるのよ」

 3カメでじっくり周囲から撮影されながら、カメリアのことをじっと見据えるアレッタ。その眼はいつも曇りひとつなく、清流のように澄んでいた。

「私は、あなたと一緒に飛びたいの。ねえ、アレッタ、あなたはどうかしら?」

 アレッタは少しばかり首を傾げると、そっと数歩近寄って、驚いたことに、カメリアの唇に軽くキスをした——ちなみにこれが彼女の、記念すべきファーストキスとなった——そしてそのまま、誘うように鳴き声を張りあげ、勢いよく青空へと飛び立ってゆく。

「呼んでる……」

 ファーストキスのショックに震えながらも、親友の飛翔する姿を仰ぎ、カメリアはちいさく呟いた。

 飛ぼうよ、と。アレッタは、彼女に語りかけていた。
 互いの種族も、生きている世界も関係なく。
 心にその願いがあるなら——きっと、一緒に舞いあがれるはずだ。さあ、おいで。君ならできることを、知っているよ、と。

 これが、空を介した最初の交流。

 直感的にそう察したカメリアは、急いでデイビスの腕を掴んだ。

「デイビス、乗って!」

「お、おう!」

 慌てて、フライヤーに飛び乗るデイビス。カメリアは脇目も振らずにフライヤーの柱に掴まると、真っ直ぐに地を蹴り、その体重を一気に後ろに預けた。瞬間、全身を駆け抜けるのは、今までとは段違いの速度と軽やかさ。ぐん、という重力のうねりとともに、風の音の低さが一気に高らかに舞いあがり、背中に一気に重圧がかかって、陽射しの中へと放たれる。

「飛べた!」

 下から聞こえる歓声も、どんどん風の中へと呑み込まれ、彼らの目に映るのは、輝かしい太陽の光のみ。デイビスは、瞳に痛いほど広がってゆく、一面の青い景色に目を奪われた。


 凄い————

 そこに見えている青は、果たして地上から見えていた青と同じだろうか?
 こんなにも明るくて、広くて、壮大で、突き抜けるような陽射しに溢れている。
 囂々と唸る風も、足の底をさらう空虚も、何もかもが自由の証として彼の全身を洗い清め、そして飛翔させる。今や、フライヤーを操るカメリアの精神が、これまでとははっきり違うのが分かった。彼女は、自分を信じている。想像力のある限り、空の只中で限りない力を手に入れ、どこに飛んでゆくのも思いのままであることを知っている。

 アレッタが、太陽を弾く唯一のものだった。
 消え入るばかりに陽光を吸いながら、風と戯れ、風と遊び、風と睦み、そして包み込まれる。その遠い遠い行き先まで。どこまでもともに羽ばたいてゆけるだろう、このフライヤーならば。

「カメリア……っ!」

 嬉しさのあまり、振り返る。すると彼女は珍しく、恥ずかしそうに微笑んで、掴まっている柱の陰に身を隠した。空の近くなった分、ふわふわと巻き毛が風に揺れて、飴色の瞳が硝子玉のようにキラキラと透き通っている。


 —————可愛い……


 反射的に、と言うべきか。
 そう心の中で呟いた瞬間、思いっきり心臓がひっくり返って、異常な速度で高鳴り始める。

(は?)

 デイビスは、理解できない動悸の度し難さに気を取られ、化石のように硬直していた。

(いやいやいや、なんだよ。俺いま、何考えた?
 カメリアだぞ。夢でも見てんのか? 俺の隣にいるのは、あのカメリアなんだぞ)

 冷静になると、ハチャメチャに失礼なことを考えたのだが、それが事実だった。なんなら、今でも最高に可愛く見える。仕草のひとつひとつ、ほんの瞬きの仕方さえ、16ミリカメラに収めておきたくて仕方がない。そんなの、数日前だったら絶対にありえないはずなのに。

 なんで、こんなにおかしいんだ。今朝からずっと、調子が変だ。
 いや、分かってる。カメリアが自分に向かって笑う時、こうなんだ。他に何も考えられなくなって、死ぬほど顔が熱くなって。全部全部、頭から吹っ飛んでしまう。

 彼女はすぐに指笛を吹き、アレッタに合図すると、体重をかけて方向転換をし、ゆるりと地上へ向かわせた。
 着地も、完璧だった。先ほど飛び立った地点とまったく同じ場所に、ふわりと力を抜くように舞い降りて、僅かに車輪が動いたきり、無駄に地面を滑ることもない。喜びよりも、ほっとした感覚が彼女を包んだらしい。少し震える足で地面に降り立ったカメリアは、大きく羽を広げて腕に止まってきたアレッタと見つめ合い、ありがとう、と囁いた。

 これで私も、あなたと一緒に、どこまでも空を飛ぶことができる。

 ようやく辿り着けた、夢の場所。
 ここが私の、アナザースカイね。(協賛:日本テレビ)

「カメリア、おめでとー!」

「わわわっ!?」

 彼女の上に投げかかってくるのは、ばっと、太陽を覆う八つの影。ディズニーって凄いわ、シルエットだけで誰が誰なのか分かるようになっているのね。カメリアは自分の上に降ってくる間近な災害を見つめながら、死ぬ前の最後の思考のように、そんなとりとめのないことを考えていた。

 咄嗟に、デイビスがカメリアの腕を引いて、自分の後ろに庇った。どしゃしゃしゃしゃ、と無残な音を立てて地面に倒れ込んでゆくキャラクターたち。こ、殺す気か。カメリアもデイビスも、蒼ざめた肌をうぞぞぞっと粟立たせながら、その死体の山を見る。

「酷いじゃないか、避けるなんてー!」

「ばっ、馬鹿っ、何人が束になって抱きつこうとしてんだよ。カメリアが死んじまうだろ!」

「俺たちの心配は!?」

「お前たちはトゥーンだろ。ディップでしか死なないって、知ってるんだからな!」

「ほっほーう」

 キラリ、と目を光らせたドナルドは、幽霊のようにその山から這いあがって立つと、思わせぶりな笑みを浮かべてデイビスの肩を叩いた。

「やでゃなあ、でいびしゅったら。じぶんいがいのひとたちに、きゃめりやにでゃきついてほしくなくって、かばってゃんでしょ?」

「はぁ!?」

「またあれったが、へしょをみゃげちゃうにぃえー」

「ち、違うよ。俺はただ、生命の危機を感じたから、」

「まあ、デイビスったら……(うっとり)」

「な、なんで少女漫画タッチの画風に変わってるんだよ。変なことを期待すんな!」

「変なことって何よー!」

「えーと。とにかく」

 今にも始まりそうなすったもんだの収拾をつけるために、ミニーは軽く咳払いをした。

「おめでとう、カメリア。これで本当に、フライヤーは完成したのね。空を飛べるようになったのね」

「そ、そうね。色々と見苦しい場面はあったけど、それはいったん、忘れてもらって」

 カメリアはディズニーキャラクターたちに向き合うと、真っ直ぐに手を差し伸べた。

「みんな、フライヤーに乗せてあげるからおいで。一緒に、空を飛ぼう」

 カメリアの誘いに、全員が素早く顔をあげる。と言っても、フライヤーの座席は二つしかない。そうなると、必然的にこのメンバーであれば———

「離しなさいよ、ドナルドー!」
「びょく、でいじーといっしょにのりゅんだもん!」
「ワタシ、アノイチバンオオキナクモニサワリニイキタイワ!」
「クラリス、だめ、そっちに行ったら踏み潰されるわよ!」
「なあパンチート、これなら雄鶏のキミでも飛べるんじゃないか?」
「おっ、おっ、大きなお世話だッ!!」
「アッヒョ、靴は、脱いだ方がいいのかな?」
「父さん、明治時代の日本人じゃないんだから……」

 早速、醜い揉み合いが勃発するわけで。ああ、世界平和を願って作られた飛行装置だというのに、結局この世から争い事は消えないのだろうか。ボーゼンと佇むカメリアのそばで、デイビスはひたすらに呆れ返るほかなかった。

「……なあ、いいのか、あれ?」

「い、いいのよいいのよ、ソアリンが人気っていう証なんですもの。グランドオープンの日は、最大で350分待ちを記録したんだから」

「……す、ストームライダーは回転率が高いから、そんなにゲストを待たせなくて済むし」

「どうして張り合おうとするのかしら?」

 ともあれ。
 デイビスは、くしゃ、とカメリアの頭を撫でて、晴れやかに笑った。

「おめでとう、カメリア。あんたの努力が、やっと実を結んだんだな」

 その屈託もなく祝福してくれる言葉に、彼女も微笑みを返す。誰に言われても嬉しいのだけれど、やっぱり、彼からの言葉が誰よりも嬉しくて、誰よりも特別で、惜しみなくそそがれるその笑顔を見あげながら、心中秘かに考える。

 少しは彼との距離も縮まった、のかしら?
 答えは神のみぞ知る、といったところだろうけれど、今日のところは、ひとまず彼を故郷に帰せそうでよかったわ。

「心残りといえば、このまま二人でロストリバー・デルタに永住、という駆け落ちルートも回収しておきたかったくらいなんだけれど——」

「漏れてる、漏れてる。心の声が」

 デイビスは、ぺちり、とカメリアの額を叩いた。

「職場の休暇は、明日まで取ってあるんだったかしら? それなら今日はここに滞在して、明日、ポート・ディスカバリーに帰りましょうか」

「ああ、色々あったけど、なんとか当初の予定内に収まって良かった。本当にありがとうな、カメリア」

「うん! デイビスのためなら私、いくらでも頑張るよ。これから先も、なんだって頼ってね」

 カゲドリに襲われ、魔宮に閉じ込められ、フライヤーを破壊され、新しく作り直し——と、三泊四日にしては異様な詰め込み具合の旅で、彼女にも心身ともに相当な負荷がかかったはずなのだが、それでもカメリアはにこにことして、胸の前で両手を握りしめた。いつでも、何があったとしても、彼女の態度は変わらない。それでデイビスの役に立てるなら本望なのだと、心に誓っているようだった。


(でも、俺なんかのために頑張らなくても。あんたがあんたの夢に向かって突き進んでくれれば、それだけで俺は、嬉しかったんだよ)


 そんな彼の思いも知る由もなく、彼女は静かに微笑しながら、フライヤーに乗り込む仲間たちの姿を見守っていた。

「んもう、野蛮な人たちね! レディーファーストって言葉を知らないのかしら」

「ホントホント! チップトデ-ルダッタラ、ドゲザシテFPヲサシダシテキタハズナノニ!」

 ミニーと、そのリボンの上に座っているクラリスは、ぷりぷりとして列から離脱した。キューラインの長さ——というより、その乱暴さに諦めて、後から乗ることにしたらしい。

「ごめんね、ミニーにクラリス、まだまだフライヤーは改良する余地があるわね。ここにいる十人、全員が一度に乗れるくらいに、座席を増やしていかないと」

「本当? ねえ、カメリア、それじゃあ、ミッキーの分の席も用意してくれるかしら」

 ミニーは限りない空想を膨らませながら、カメリアの手を握り締め、夢を語った。

「いつか、大好きなミッキーと一緒に、大空を飛びたいの。あなたの作ってくれたフライヤーでね」

 ミニーらしい——と言える、ささやかな、愛らしい願い。恋人と一緒に空を飛ぶ、というのは、とてもロマンティックなことなのだろうなと、カメリアは思った。

「ありがとう。ミニー、あなたの夢は、必ず私が叶えるわ」

 手を交わして、握り合う。

 どんな願いも、きらきらと輝く宝石。
 この手で大切に受け取って、地面に埋め、花を咲かせよう。
 これからも、人の夢を叶えるために、私は夢を見るのだから。

 あの日、父親はたった一言、まだ幼い彼女に告げた。

 ———仲間とともに作りなさい、と。

 チェッリーノは、それ以外に彼女に何も言わなかった。その物静かな瞳は、彼女の求めるものを熟知し、どこまでも羽ばたいてゆくことを信用していた。
 昔から父母は、彼女を望む道を尊重していた。科学者になりたいと打ち明けても、微笑み、頑張りなさいと告げただけ。多くの書物を買い与え、世間からの声など耳に入れず、ただ遠くから彼女を見守るだけ。貴族の女性が科学者などと、とんでもない、と言われたことは一度もなかった。

 けれども、唯一、飛行機の開発に際して、条件を課したのがそれだったのだ。


(———今なら分かるよ、お父様。あなたが、どうして私にそう言ったのかを)


 カメリアは、遠く空を見つめながら、心の中でそう語りかけた。

 かけがえのない仲間たちに、囲まれながら。




……

 陽は傾き始め、日中の酷暑も落ち着き、嘘のように涼やかな風が、El río perdidoから持ちあがってきた。帰国は明日だ、ということを伝えると、こんなこともあろうかと、ミゲルズの貸し切り予約、明日まで延長したぜ、とすかさず宴会役のパンチートが鼻高々に告げる。要するに、まだまだ飲み会は終わらない、ということであろう。

「……ふ、二日続けて、宴会かあ」

「今度は送別会だとさ」

「もはや飲みたいだけなんじゃないかしら?」

 そしてお金はどこから出るのだろう、と考えていると、どうもミッキー・マウスへのツケだとのこと。そしてそんな手筈を整える者といえば———

「大丈夫よ、ミッキーは売れっ子の映画俳優だから、このくらいは朝飯前なの。だからみんな、どんどん飲んで食べてね」

「「「「「「「「「…はぁ」」」」」」」」」

 ミニー、やっぱり、あんたの仕業か。本当にそれで亀裂が入ったりしないのか、と心配になってくるが、九十年以上続く二人の力関係はもはや覆らないのであろう。同情の涙が滲んでくる。

「というわけで、帰れる奴は飲み会の準備だ!」

 がやがやと引きあげる中、彼が振り返ると、カメリアはミゲルズから敷地に運んできた机に向かって、まだ書き物を進めていた。時折り、フライヤーに視線を送ったり、机の上に休んでいるアレッタを撫でたりしながら、夕陽を背にして、ひたすらに記述し続ける。

 潮騒のように引いて、自然の豊かな静けさだけが浸す中で、カリカリとペン先が紙を引っ掻く固い音だけが、奇妙に印象的に聞こえる。ふう、と消耗を浮かべて、独りごちるように吐かれた溜め息。その過程で、ようやく彼女は、そばに落ちている影の存在に気づいたようだった。

「あら、デイビス。あなたは行かないの?」

「別に。あんたの仕事が終わるのを待っているだけ」

 斜陽に照らされ、少しばかり日灼けした、と思える肌の色をした彼は、腕を組みながら、内心、微かに早まる鼓動を隠して、無愛想な顔で見つめている。
 カメリアは苦笑して、でも、もうちょっとかかるわよ、と囁いた。

「設計書の続き?」

「うん、後世のために、清書しているの」

 カメリアは、完成間近の書類を夕陽に照らし出して、線や記述のひとつひとつを確認しながら呟いた。

「これで、私がいついなくなったとしても、あなたをポート・ディスカバリーに帰すことができる」

 デイビスはしばらくの間、何も言わなかったが、やがて彼女の後ろから同じ机に手をついて、その手許を覗き込んだ。ちょうど、自分の胸のあたりにカメリアの頭がきて、ほのかな体温を感じるような気がした。少しばかり下を向くと、その頭のてっぺんに、小さく整ったつむじが見えた。

 カメリアは相変わらず、イタリア語で何かを記している。時々、彼のシャツに数本の巻き髪を擦りつけることになるその頭を、幻のように見つめながら、デイビスはそっと問いかけた。

「……明日さ」

「うん?」

「ポート・ディスカバリーに帰る前に。どこか一緒に、回らないか」

「あら、それは素敵ね。どこに行きたいの?」

 手を休めずに、彼女はデイビスに問い返した。

「そうだなー。サバンナとか、北極の海とか、万里の長城とか。綺麗な南国の海も、見てみたいな」

「ふふ。欲張りね」

 カメリアは軽く笑い声をこぼして、「いいわよ」と言いながらペン先をインクに浸した。

「カメリアは、どこに行きたいんだ?」

「私? そうだなあ、今まで行ったことのないところが良いかな」

「世界の大部分じゃねえか」

「そうだよー。私、世界中をめぐってみたいんだもの」

 欲張りなのはどっちだよ、と呆れるデイビスに、くすくすとカメリアは笑い声を返した。まあ、無欲とも取れる発言内容の気もするが。

(カメリアは、どこに連れて行ったら喜ぶんだろうな)

 十中八九、どこでも目を輝かせそうで——だが本当に経験させたいのは、そうじゃない。昨日、ディズニーキャラクターたちが好き放題語っていたように、ずっと心に秘めていた、憧れの地などはないのだろうか?
 どこか、肩の荷を下ろせるような場所。誰のことも考えなくて良い、そんな手つかずの広大な世界へ連れて行って、静かに休ませてやりたい。それがどこなのかはわからないけれど、自分のこと以外の何もかも忘れて、己れの喜びに浸ってほしかった。

 訊こうか。けれども、あまりに豊饒にすぎる沈黙が心地良くて、この繊細な空気を乱したくないようにも思う。
 彼女は設計書を見返していて、ふと、空欄になっている、表紙の一番大きな枠に気づいたようだった。

「あら、そうだわ。フライヤーの名前をつけなくちゃ」

「ああ、そうか。今まで、仮の名称だったもんな」

「うん、これで完成だから」

 カメリアは首を傾げて、少し考える。

「そうね。ドリームフライヤーなんて、どうかしら? これは、たくさんの人の夢を叶える飛行機だから」

「良いんじゃないか? あんたの長年の夢の結晶でもあるしな」

「ふふふ、そうねえ。みんなのおかげで、ようやくここまで来れたわ」

 達筆な文字で、「Il Volantino Dei Sogni」と流れるように記してゆく。夕陽に照らされるその流麗な筆記体を、デイビスは遠い場所で進んでゆく出来事のように、ぼんやりと見つめていた。


「ドリームフライヤー。……これから先も、たくさんの人々の夢を叶えていってほしいわ」


 ふわ、と風が吹いて、設計書の端がはたはたと煽られた綿毛が飛んできた。蝶が音もなくはためいて、名もない青い花の上に止まった。座っているカメリアのドレスが、風に縺れて揺れる。その裾はデイビスの足下をくすぐり、スラックス越しに、微かな感触を生んだ。

「デイビス?」

「なんだ?」

「先に、送別会に行っていても良いのよ。あなたのこと、待たせてしまいそうだもの」

「あ、ああ」

 そういえば、カメリアを待っている、という名目でここにいたのだった。あまり穏やかに時間が流れるので、その意味を忘れていた。

「私がいないと、寂しい?」

「よく言うよ。俺がいなくて、寂しがるのはそっちだろ」

「ふふ。まあ、少しだけね」

 カメリアはそう言うと、透き通るように微笑みを浮かべて。


「でも、デイビスが楽しんでいる方が、私も嬉しいから。大丈夫だよ」


 デイビスは、机に置かれている指を微かにわななかせたが、その動きは小さく爪音を立てるばかりで、他に何も伝えなかった。はたはたと、設計書の端が風に靡く。俯いている顔から、ほとんど無意識のうちに、返事が漏れた。

「うん、……」

「どうしたの? まだ何か用事があるの?」

「……抱き締めて良いか」

「えっ?」

 地上のすべてをオレンジに染める夕陽の中、目を丸くして自分を仰ぐカメリアを見て、デイビスは自分の発言内容に気づき、そこではたと思考が止まった。

 自分は今、色情狂のエロオヤジのようなことを言わなかったか? いやいやいやいや、何を言っているんだ俺? 昨日のアルコールが残っているのか? つーか、台詞がめちゃくちゃキモくないか?

「あーっと、いや、なんというか、違う、違うんだよ。その、川沿いは冷えるから。さ、寒くねえかなー、と思って、ちょっと言ってみただけ。あはは」

 慌てて、デイビスはぱたぱたと片手を振り、硬直した表情筋に何とか油を差すようにして、ぎこちなく笑い飛ばした。カメリアは不思議そうに彼を見つめていたが、しばらくして、柔和に頬を綻ばせた。

「ありがとう。大丈夫だよ、そんなに寒くないから」

「そ、そう。そうだよな。あんた、ドレスだし。俺より、あったかそうな格好してるもんな」

 何やら訳の分からぬ理由を言って、ずりり、と後退りする。うまく誤魔化せたのだろうか。よく分からないが、カメリアはそれ以上に追及しようとは思っていないようだった。改めて触れるには、さすがに気まずすぎるからだろうが。

「……それじゃ」

 重い踵を返して、じり、と地面を踏みにじる。撤退、というのが相応しいような惨めな行動である。
 ところが彼が敷地を出る前に、ふと何かを思い出したらしく、カメリアが小さな声で呼び止めた。

「あっ、ごめんデイビス。ついでに、ミニーに伝えてほしいことがあるんだけど」

「何?」

 振り返るデイビス。ちょうど風が吹いてきて、設計書の一枚が、物哀しい空気の中にふわりと舞いあがった。その時にはもう椅子から立ちあがっていたカメリアが、一拍遅れて、初めてデイビスに抱きついてきた。驚くほど暖かな柔らかさに包み込まれて、一瞬、思考も呼吸も吹き飛んだ。首許に縋りついてくる腕や、押しつけられた胸から、魂に染み込むような人肌の温度とともに、懐かしい、彼女の髪の匂いがした。強い力で抱擁されているわけではない。けれども、その暖かさのうちに、何もかも忘れ、何もかも他のものが消え去り、ただ真新しいシーツの中で子ども同士が遊んでいるような、そんな消え入りそうに儚い永遠に囚われた気がした。

 彼女は背伸びして、デイビスの頬に冷たい唇を押し当てると、その耳元へ、身体の芯に響くような声で言った。

「……先に始めてて。すぐ、追いつくから」

 伝言は、それきりだった。腕を解かれた時、微かにほつれていた巻き髪が彼の頬を掠め、乾いた感触が過ぎ去った。カメリアはもう、風に飛ばされた設計書を拾いあげ、机に向かって、清書を再開させていた。

「じゃあ、また。ミゲルズでね」

「……わ、分かった」

 何が分かった、のだろうか。何気ない声で別れを告げる彼女に返事をして、ふら、と傾き、半ば夢心地なのか、風に揺られる案山子のような危うさで歩いてゆく。カメリアは、一度も振り返りはしなかった。

 ミゲルズ・エルドラド・キャンティーナへの道中は、すでに一日のうちで、最も豊饒な時間帯を迎えていた。斜陽が艶のある道を照らし、川面は無数の太陽の反射を散らして、虚空までもが薄明るい橙色に染まっていた。その温い大気の中で、埃が羽虫のように瞬いて、ゆっくりと舞いあがる。灼けるような暑さは角が取れ、淀んだ川風に薄められていった。

 道端には、多くの木箱が積みあげられ、壁に大蒜を吊るした粗末なアトリエも建てられていた。中には、描きかけのタイルや、星の形をしたブリキ細工などの民芸品が飾られており、その隅には、明日市場に運ぶ予定の野菜や果物も、乱雑に積まれていた。夕暮れ時だからか、路肩に置かれた缶のランプが、その穿たれた穴の奥から、蝋燭の濁った光芒をちらつかせている。現地の子どもたちが蜻蛉を追って、無邪気な笑い声を響かせながら、彼の横を駆け抜け、大きく跫音を立てて橋を渡ってゆく。

 そこで彼の諸々は限界を迎え、彼方へ沈んでゆく夕陽に向かって、めちゃくちゃな雄叫びをあげながらダッシュした。





「……というわけで。デイビスとカメリアは、明日をもって、ロストリバー・デルタを去ることになりました」

 ミニーのしんしんとしたナレーションが入ると、ミゲルズの椅子に腰掛けていたキャラクター全員が、歔欷に肩を震わせる。

「サミシイワ-、オハナシシタイコトガタクサンアルノニ!」

「あっという間だったよねえ」

「もってょもってょ、ろしゅとりばーでぃえりゅたにいてゃりゃあ?」

「いや、そうしたくはあるけど。俺にも仕事ってもんがあってだな……」

 ぐおんぐおん、とドナルドが体を揺さぶってくるのに身を任せながら、デイビスが遠い目を送った。ドナルドの舌足らずな濁声にも大分慣れてきて、他のキャラクターたちとほぼ遜色なく聞き取れる。

「ねーえ、デイビス。もうひとりの主役のカメリアは、どこにいったのよ?」

 どきん、と飢餓のように心臓が重く高鳴るのを感じて、一瞬、戦慄とともに時が止まった。

「……せ、設計書を清書するから、後から行くって」

「んもう、真面目なんだから。そんなの、後回しでいいのに」

 歯痒そうに呟くデイジーに、カメリアが囁いていた言葉を思い出す。なぜ、フライヤー完成の喜びに浸ることもなく、ずっと清書に取り掛かっているのか。


(これで、私がいついなくなったとしても、あなたをポート・ディスカバリーに帰すことができる)


 思い浮かぶのは、暮れてゆく暗い外に、一人きりで設計書に向かっている彼女の姿。なぜか、河風の肌寒さに、震えているような気がした。手許のグラスを見つめて考えに浸っていたデイビスだったが、周囲に気取られないように、そっと席を立ちあがりかけた、ちょうどその時。

「お待たせ。ごめんなさい、ようやく終わったわ」

 カッと、全身が熱くなった。声を聞くだけで、そこにいると意識するだけで、ひとりでに鼓動が早くなる。けして顔には出さないようにと、絶対に目をそちらには向けないようにした。なのに、深い毒を飲んだように動悸が激しく体を貫通する。

「手が冷たくなっているわ。どれだけ外にいたの?」

「大丈夫、このくらい平気よ。心配してくれてありがとう」

 ミニーと話し合いつつ、完成したらしい書類を大切そうに荷物に仕舞うと、カメリアはようやく席の端に座った。酒は断って、アップルジュースだけをそそいでいる。

(……あ、)

 潤したはずの喉が、ふたたびカラカラになってゆく。
 何かを話したい気がした。でも、何を話したら良いか分からなかった。

 気のせいか、カメリアは疲れが溜まっていて、あまり彼とも目を合わせず、幾分かよそよそしいくらいだった。深夜から一人で作業を始めていたのだ、疲れていないはずはない。けれども、話しかけられれば必ず笑顔で答えて、宴に水を差さないようにと気を遣っていた。

「……何?」

 デイビスの眼差しに気がついたカメリアは、曖昧に微笑を浮かべた。

「……ね、寝れば。疲れているんだったら」

「あら、みんなの方が疲れているんじゃない? 私、ピシピシとコキ使ってしまったし」

「そんなことないよお、まだまだ、元気いっぱいだからねえ」

「というより、興奮でいっぱいだわ! 本当に空を飛べるなんて」

 口々に返される言葉を聞いて、カメリアは安堵したように、ふたたび手許のグラスに口をつける。周囲から聞こえてくるそれらの言葉を、ほとんど自分の心が傷つけられるくらいの思いで、デイビスは聞いていた。

「ねえ、カメリア? フライヤーは完成したけれど、この次は何をするの?」

 彼女の隣にいるマックスが、無邪気に質問を投げた。カメリアは、まるで足元にじゃれつく子どもに目を送るように、口元だけで微笑んで答えた。

「そうねえ……ドリームフライヤーで様々な国を訪れて、同じように大空を目指す人たちと、未来を語り合って。人種や国境を超えて、人々をひとつにするための旅に出かけようかなって思っているの」

「世界平和の旅かあ」とマックス。

「ええ、あの飛行機があれば、世界を繋ぐ架け橋になれるから。どんな状況に置かれていても、人は夢を見ることができるはず。様々な人からそれを教えてもらえば、きっと私にできることが、見えてくると思うの」

 それを聞いて、もう次の夢を見始めているのか、とデイビスは胸を衝かれた。薄々、世界をめぐりたいのだというのは分かっていたが、そんな目的で冒険したがるとは。カメリアらしいな、と思う反面、どこか信じたくない思いでいる。

 せっかく一緒にドリームフライヤーを完成させたのに、また離れ離れになってしまう。世界平和、というのは、彼女の生きる時代の国際情勢に対立するものではないのか。今よりますます孤立することは免れないだろうし、ダカールのように、訪問者に対して反発する動きも少なくないだろう。それでも、まだ夢を見るというのだろうか。彼女はどこまで遠くへ行くつもりだろう? いつになったら自分は、彼女と同じ場所に辿り着けるというのだろう。

 カメリアは疲弊しているせいか、どこか物思いに沈むような眼差しが多かった。酒は横に置いて、水の入ったグラスばかりを傾け、食べ物もあまりつつくことなく、物憂げに頬杖を突いている。デイビスは何も言わずに、彼女の姿を見つめていた。

 彼の眼の中で、カメリアは美しかった。けれどもそれは、出口のない、超越的な美しさであり、そしてその美しさを、他の誰にも伝えることはできなかった。もしかしたら、自分以外の者は、それに気づいたことはないのかもしれない。だって、誰も彼と同じように彼女を見つめはしないし、それを語ろうともしないのだから。

 何、やってんだ、俺は?

 それ以上見つめるのも苦しくなってきて、ふら、と二階の離れにある手洗い場に立つ。外に出ると、鈴の滲むように虫の音がぶわりと広がり、銀河のようだった。もしも二人でいたなら、きっと黙って寄り添って、しばらく耳を澄まして聞いていたに違いないのに、今はその玲瓏とさんざめく鈴のような声音に、一人で包まれるだけ。深い夜の中に流れる風は、彼の髪を揺さぶり、息苦しくなるほどの植物——サボテンだろうか——の青い匂いがした。先ほど、夕日の中でちらついていた缶のランプは、より一層、穴で描いた拙い絵を鮮明にしながら、闇の底で暖かな灯火を漏らしている。それがほつほつと道を照らし出し、揺れ動く川の音のそばで、人間の生きるべき世界を示していた。

 旅も終わり、か。
 長かったような、短かったような。けれども着実に胸に降り募る、異国の記憶。
 ここにも現地の人間が住んで、慎ましやかな、それでいて彼の知らない発見と喜びに包まれながら、同じ日々を生きている。そういえば、ここはペコの故郷だったな、と不意にデイビスは思い出す。きっと、彼も幼い頃には、母親と手を繋ぎながら、この降るような星空の下、緩やかな家路についたに違いない。

 そしてふと、店の面している通りの方角から、鮮やかなシグナルレッドの塊が目を奪う。顔をあげると、深藍色の空と満月の下で、El río perdidoを隔てる手すりに乗り上げたパンチートが、その背を小屋の壁に預けたまま、皎々と照り輝く月を眺めているのが目に入った。その横顔は切々として、いつになくやるせなさを孕んでいるように見える。ミゲルズの一階から漏れ聞こえてくる音楽も、本来なら誰よりもそれを楽しみにしてスポットライトを浴びるに違いないのに、なぜかその時は、彼の脳裏から剥がれ落ちて、夜の静けさにのみ、身を浸したがっているように思えた。

 邪魔にならないだろうか、とも思いながら近づいてゆくと、パンチートはすぐにデイビスに気づいて、あの明るく陽気な声を張ってみせた。

「よーお、紳士、良い月夜だねえ。いやあ、フライヤーが無事に完成して良かった」

「こちらこそ。協力してもらって、助かったよ」

「あのお嬢ちゃんとも、ぐっと近づけたようで、良かったなあ?」

「ば、馬鹿っ。そんなんじゃねえよ」

「ハハハー、素直じゃねえ奴だな。ま、その調子でよろしくやってくれよ。あと一歩じゃねえか」

 バーン、と手加減なしで背中を叩かれ、ふらつきながら手すりを掴む。い、痛い。ひりひりと手形に熱を持つ背中をさすりつつ、懐に手を突っ込んだ。

「なあ、吸っても大丈夫か?」

「ああ、ご自由に。ホセの葉巻で、慣れているからさ」

 相変わらず器用に手すりに座っているパンチートの下で、軽い音を立てて着火すると、デイビスの秀麗な顔立ちが僅かばかり、オレンジの眩ゆさに染められた。ぼんやりと漂う煙草の白煙が、久々に心を落ち着かせる。周囲からは健康にうんぬん、と説教されることもあるが、一生やめられない気がした。

「あんたは、ホールに戻らないんだな」

「いやあ、そう思ったんだが、ふと月が見たくなってねえ」

「なにか物思いでも?」

「さあねえ。明日、あんたらが行っちまって、寂しいからな」

「ははっ、そいつは意外な理由だな」

「おーい、お世辞じゃねえぞ? 俺は嘘を言わない男だからな」

「ありがとう。カメリアにも、そう伝えておくよ」

 乾いた夜の風にぼんやりと鶏冠を揺らしながら、それまで夢うつつだったパンチートは、ふと、真面目な顔をして呟いた。

「綺麗だよな、あのお嬢ちゃんは」

「え?」

「身なりだとか、容姿だとかに関係なく」

 何気なく呟くパンチートが、何に言及しているのかが、彼には直感的に分かった。自分だけがカメリアを理解しているというのは、とんでもない思いあがりでしかないのかもしれない。

「…………」

「ヘーイ、何考えているんだよ?」

「な、何も考えてねえよ」

「あんたって色男のくせに、ほんと臆病者なんだな」

 ニヤニヤとクチバシを持ちあげてみせながら、パンチートはホルダーに入っていた拳銃を月明かりの下にさらすと、その銃身を冷たい銀色に光らせた。

「俺がレディのハートの撃ち抜き方を教えてやるぜ。まずは銃弾が装填されていることを確認する。そしたら、左胸に狙いを澄まして、バンバンバーン、だ」

「うんうん、それは、暗殺者アサシンの考え方だな」

「しょうがねえ、ここは伊達男に聞くっきゃないな」

 パンチートは、手すりからポンと地面に降り立つと、軽やかに指笛を吹いた。

「ホセー! 出番だよ!」

 するとメリー・ポピンズよろしく、空から黒い蝙蝠傘を広げたホセが、ふわふわと舞い降りてきた。い、今まで、いったいどこに隠れていたっていうんだよ。気取った仕草で蝙蝠傘をたたんだホセは、すかさずシガーケースから取り出した葉巻を口にし、デイビスの煙草の火に押し当てて息を吸い込むと、満足げにぽかりと煙を吐いた。

「俺をお呼びかい?」

「いよーお、ホセ。もちろん呼んだぜ」

「何のご用?」

「この腑抜け男に、口説きの手練手管を教えてやってくれよ」

 ずい、とデイビスの背中を押し出すパンチート。ホセは芝居がかった仕草で、情感たっぷりにデイビスの肩をかき抱くと、ぐっと葉巻の先を近づける。

「おお、哀れな悩める仔羊よ。心配することはない、このホセ・キャリオカが、キミに恋の秘訣を伝授してやろう」

「べ、別に、ンなもん知りたくねえよ」

「それじゃあ、いいのかい?」

「………別に、知りたくねえわけでもねえよ」

「(こいつ、面倒くせえな)」

 ホセは蝶ネクタイを整えると、長い首を伸ばして、耳の穴かっぽじって聞くんだよ、アミーゴ、と馴れ馴れしく指でつつく。

 デイビスはメモを取った。

「よく三回目のデートというが、キミたちはもうすでに、二人であっちこっち出かけている仲だからな。無駄に回数を重ねる必要はない」

「ふぅん」

「だから雰囲気をガラッと変えて、ロマンチックに、一発で決めるんだよ。今までとは全然違う、ムードのある場所に連れてゆこう。常にセニョリータの足下に注意してやれ。で、夜まで一緒にいて、良いレストランで、最高のディナーを振る舞う。分かるだろう?」

「ああ」

「そうしたら、夜景の綺麗なところへ呼び出して」

「お、おう」

「後は簡単さ。愛を告白すればいいんだ」

「!?」

 思わぬ形で飛び出してきた単語に、デイビスはワナワナと震えあがって、メモ帳を取り落とした。

「おっ、俺がっ、カメリアにっ、こくはくっ……」

「そぉーさ、気取る必要はない、素直な気持ちを相手に伝えて。クドクドと語るなよ、一言でいいんだ。後は手に手を取って、二人で夜の街に消え去り、以下省略」

と得意げに語るホセ。

「どどどどどどどどどどどどどどどどどどどんなことをあいつに言ったらいーんだよッ!!」

「何言ってるんだい、それを考えるのは、キミの役目だろう?」

「相手はカメリアだぞ」

「知ってるよ」

「分かってんのか!? あのカメリアなんだぞ! 本当にあんたは分かってんのか!!?」

「だから何だっつってんだよッ!!」

 ひょっとしてこいつ、アホなのか? ホセとパンチートは、薄々勘づいた。頭に血が昇っているせいか、途方もなくズレているぞ。

「だ、だいたいなー。俺とカメリアは、友達なんだ。そんな関係になれるわけないだろ!」

「へえ。なんで?」

 存外あっさりと打ち返された矢にサクリと刺され、う、とデイビスは肩を震わせた。

「その誰も得しない関係は、いつまで意地を張って続けるつもりなんだい?」

「…………」

 思いっきり、図星。
 サクサクッ、と爽やかな音を立てて、第二撃の矢を被弾する。

「……俺は恋なんかしてない、恋なんかしてない、恋なんかしてない」

「やれやれ、彼女も気の毒だな。こんな男を好きになっちまって」

「同情するよ、本当に」

 そうこぼされた何気ない愚痴に、デイビスの胸がずきっ、と痛んだ。

(可哀想?
 俺を好きになった人間は、可哀想なのか?)

 胸を燻るその懸念が、次第に黒く、冷たくなってゆく。振り切ろうにも、次々と過去に思い当たる節を見出して、思い出したくない数々の記憶も連れてくるようだった。

 ホセもパンチートも知らない、その言葉がどれほどの重みを持っているのか。彼らは軽く尻尾を左右に振りながら、デイビスの肩に手を載せた。

「ま、デートには誘いなよ。彼女も喜ぶからさ」

「カメリアは、喜ぶのか?」

「キミから花を貰っただけであんなに有頂天だったんだ、今度は完璧に昇天しちまうだろうよ」

「……なんで、そんなに。俺なんかからの誘いで」

「そりゃ、あの娘は、あんたのことが好きだからだよ」

 デイビスは俯き、じっと黙り込んだ。ホセもパンチートも、何考えてんだろうなー、と左右から彼の顔を見つめていたが、どうもその答えは、安堵に近い嬉しさだったらしい。あー、良かった、と二人とも、ほっと息をつく。これで表れるのが疑心や卑屈さだったら、もう手に負えないところだった。

「……カメリアが喜んでくれるなら、誘おうと思う」

「うん、いいだろ。それじゃ、行ってこい」

 もういい加減に突っ込むのにも飽きて、パンチートがぽん、とデイビスの背中を叩いた。ぷかぷかとホセの葉巻の煙を漂う中、二人はじっと遠ざかってゆく青年の後ろ姿を見守る。

「うまくいくかねえ?」

「勝ち確は見えているはずなんだがな」

「何をどうやったら、あんなに不安になるんだか」

 月明かりの下、二人はそう言うと、黙って肩をすくめてみせた。



 トントン、と階段を降りてゆくと、階下のホールに、椅子に座ったままの彼女の姿が見えた。なんとはなしに、そのまま自分の席にまで帰り着くのは気が引けて、階段のそばの、エレベーターの陰に身を隠す。

(後は簡単さ。愛を告白すればいいんだ)

 うああああ、なんで思い出しそうになるんだ。デイビスはぐるぐると目を回した。そんなこと、簡単にできるわけないだろ。

 デート。
 今まで、好きな女とも、興味のない女とも、さんざん数を重ねてきただろ。それと同じことをすれば良い。適当に相手の格好や持ち物を褒めて、話を合わせて、夕食に連れて行って。そう、手順は理解できる。
 けれども、今まで重ねてきたそれにカメリアを当てはめることがまったくできない。彼女が相手だと思うと、今まで囁いてきた言葉のすべてが、歯の浮くような台詞に聞こえてきた。何を話せば良い? いっつも、何を話してきた? レストランの選択もよく分からない。第一、夕食の前はどこを回れば良いんだ。あいつの趣味が皆目分からない。映画とか、興味あるのか? 美術館とか、博物館か? そっち方面は、俺の方が詳しくない。もういっそ、フライヤーで恐竜の時代へピクニックとか、突拍子もないところに行った方が良いんじゃないか。

 デイビスは、くしゃ、と前髪を乱して、手の中に顔を埋めた。

(俺はカメリアのことが好きなんじゃない。友達として、ただ一緒に遊びに行くだけだ。絶対に好きになるわけがない。あんなふざけた奴なんか、好きになる要素がないだろ)

 そう念じていると、じわじわと、鳩尾のあたりが捻れるように苦しくなった。誰かに対する罪悪感が物凄い。でも、けして認めるわけにはいかなかった。

(好きになったら、終わりだ。けして好きになるな。俺とあいつなんかで、この先、絶対にうまくいくはずがない)

 そう言い聞かせている彼の元に———

「デイビス?」

「わあ!」

「さっきからいないなあと思っていたら、ここにいたのね」

 心臓が飛び出すかと思った。カメリアは単に、部屋の奥の水道から水を汲みにきて、隠れている彼を発見したらしい。瞳に映る彼女の姿が、柔らかに目に馴染む。

「こんな物陰で、何やってるの?」

「え、えーっと……俺は」

「うん」

「ふ、フローリングの木目の数を、数えてて」

本当に何やってるの!?

 相当に不審がられたデイビスは、わたわたと奇妙な舞を披露し、慌てて弁解した。

「ち、違うんだ。少し気分が悪くて、それで」

「大丈夫? 私、お水汲んでこようか?」

 カメリアが様子を窺うように手を伸ばしてくる。その瞬間、ぱっと目の前が白く破裂したようで、急いで身を引いた。微かにカメリアが泣きそうな表情をしているのが目に入り、あ、と思ったが、時間を戻すことはできない。それに、少しでも彼女に触れられでもしたら、さっきの全身に押しつけられた体温が蘇ってきて、あの瞬間に引き戻されてしまう気がしたから。

 また抱きつかれて。
 また心臓が止まる。

 もう体力も、気力も残っていない。そんなことを思い出したら、今度こそ呼吸ができなくて、本当に死んでしまいそうだった。

 二人で話すには微妙な距離。けれども立ち去ることもできずに、間が持たない。

「……あんたさ、」

「うん?」

「その。どんな奴だったら、好きになるんだよ?」

 言った後で、カーッと顔が熱くなった。あ、あんなことがあった後で、こんな馬鹿なこと聞いていたら、まるで俺が、めっちゃその先を意識してるみたいじゃねえか。

「ちがっ! 俺は単に、情報収集としてっ、」

「うんうん、分かったから。とりあえず落ち着いて」

 あまりに挙動不審なのを見かねたのか、カメリアがデイビスの両肩を押さえてクールダウンさせる。頬が火照ってゆくのを感じた。

「好きになる人かー。うーん」

 この人、いっつも質問が唐突だなー、と首を傾げつつも、カメリアは顎に手を当てて思いをめぐらせる。かたやデイビスの方はといえば、何事にも動じない人が好きなの、とか、最低でも二十は歳が離れていなきゃ、とか言われたらどうしよう、と内心ハラハラとしているのを悟られないように、汗の滲む拳を固く握り締めていた。

「そうだなあ。辛い時、私のことを励ましてくれて」

 よ、よし、当てはまる。

「ノリが合って」

 これも当てはまる。

「夢に向かって、キラキラしてて」

 あ、それは心当たりないです。


「神様みたいに深く、人のことを愛することのできるヒーロー——かしらね」


 ————そんな人には。
 俺は、なれない。
 きっと、一生。そんな人間になる資格なんてない。

 カメリアは嬉しそうににこにことして、彼に向かって話しかけてくる。

「でもデイビスも、ようやく私に興味を持ってきてくれたのね。さてさて、いつ結婚式を挙げようかしら」

「ば、馬鹿っ! お前、お前本っ当に、そういうところが、お前の一番アホな……!!」

「あ、そんな本気にしなくていいんだけど」

「何なんだよぉいったいッッッ!!!!」

「うん、デイビス、それはこっちの台詞だよ」

 奇声をあげるデイビスを、なんだコイツ、と不審な目で見ているカメリア。夜道で会ったら、思いっきり遠回りして回避するほどの怪しさである。

「デイビス、昨日から本当におかしいね?」

「ち、違う。こんなのは俺じゃない」

「はいはい、また拗らせているんだね。とにかく、一度深呼吸でもした方がいいよ」

「俺じゃないんだ。一時期の錯乱なだけなんだ」

「ああ、もう、酔いすぎなんじゃないの? とりあえず、掴まりなよ」

「いらない。一人でも、大丈夫だから」

「本当に?」

 軽く屈み込みながら、からかうようにして彼の顔を覗き込むカメリア。その時、彼女があまり見せることのない類いの擦り寄り方に、不意に、じわ、と滲み出るような思いが湧いた。それは子どもめいた仕返しの思いだったのかもしれないし、あるいは、犬がじゃれつくような、睦み合いに近いものだったのかもしれない。そして、彼の取ったその次の行動は、確かに突飛ではあったのかもしれないが、しかしカメリアの想像を超える数少ない例で。それと同時に、その一日において築かれてきた力関係を、容易く逆転させる出来事だったと言って良いだろう。

 デイビスは覆い被さるようにしてカメリアの身体を引き寄せると、そのまま彼女の頬にかかっていた髪をそっと掻きあげ、露わになった頬へ、掠めるように唇を落とした。温度のない粉雪にも似た感触が触れ、脳にこびりつくほど深く小さな水音を残し、こそばゆく擦りつけられる。それとともに、彼女の手からすり抜けた紙コップが、とん、と床を跳ね、円を描きながら部屋の隅へと転がっていった。その頬の上へ微かな湿り気を移した以外は、すぐに口づけの瞬間は終わる。けれども、抱き寄せている腕の力が緩められることはなく、間近からこぼれる生暖かい吐息で、彼女の耳許の髪が、ふわりと揺れる。まるで穏やかな夜風を、鼓膜に直接吹き込まれているかのようだった。

「————本当だよ」

 低く耳許で漏らされた囁き声は、遠く、背後で尾を引くように響く、トランジット・スチーマーラインの汽笛に掻き消されて、まもなく蒸気の立てる音と川を掻き分ける気配、そして彼の肩越しから漏れる薄明るい船内の光が、彼らの横顔を煌びやかに照らし、瞳に複雑な反射を残して、ふたたび夜の暗さの中へ翳らせていった。彼は離れようとしかかって、最後にもう一度、カメリアの頬に静かに口づけると、それきり身を翻して、テラスの方へと去って行ってしまった。

 時間にして僅か、瞬きと瞬きをする間くらい。
 そのためにデイビスは、数秒後、カメリアが真っ赤になって崩れ落ちたことなど、知る由もなかっただろう。
 そしてその間、ディズニーキャラクターたちが、彼らの一部始終をガン見していたことも。

「……ええっと。この番組は、夢が叶う場所、東京ディズニーリゾートがお送りしました」

「まさしく、夢の通り道だったねえ」

 艶すら感じさせる成人男女のやりとりに、主に家族向けを標榜するディズニーキャラクターたちは、一同に下を向いた。で、誰がどうするんだ、この空気。

「てょりあえず、パンチート、ひてょつ、うてゃってみよーか」

「俺が露払いの立場なのかよ!?」




 で、パンチートとクラリスのデュエットが響き渡る中。

 まあ、送別会で繰り広げられたのは、だいたい壮行会と同じようなことである。いつの世も、酒を飲みつつ語り合う様相は、それほどバリエーションがあるわけじゃない。なのでここでも、必要以上の事柄は割愛し、ダイジェストでお送りする。


 恋バナとか。

「あれはバイーアの路地裏、蠱惑的な夕暮れのことだった……」

「みゃーた、はじみゃった」

「お嬢ちゃん、こいつの話はまったく聞かなくていいから」

「はぁ」

「あらミニー、ミッキーからLINEがきているわよ」

「デイジー、既読無視しておいて」


 愚痴とか。

「マジでなんっっっでストームライダーだけクローズなんだよ!? 俺の勇姿を見たくねーのかよ! 緑のチカチカ、もう一回やりてーんだよッ!」

「ここまで酔っていると、もうこの小説の設定が何がなんだか分からなくなってくるわね」

「ソアリンは良いよなー、オープンしたばっかで、当分はクローズの憂き目にも遭わねえしよ。チクショー」

「暗い未来の話をしないでくれる?」

「ツギニビクビクシテイルノハ、スプラッシュマウンテンアタリダトオモウワ!」


 株取引とか。

「あ、オリエンタルランドの株が、きゅうじょおしょおしてるねえ」

「再園決定で? わあ、すっごい上がってきてるね。父さん、塩漬けにしないで売っておいた方がいいよ」

「こてょしのかぶぬししょーかいは、どんにゃしつぎおーとーがあったのかにゃー」

「ねえ、もっと、夢のある話題を……」


 そして夜は更けてゆき、深夜である。

「結局、このメンバーだけしか起きてねえんだよなあ」

「ボクたち、お酒に慣れてるもんねえ」

 少し照明を落とした一階で、デイビスとグーフィーは、互いに向き合って杯を傾けていた。周囲には死屍累々の面々が横たわっている。ティーンエイジャーは単に寝落ちしただけだったが、成人済みの者たちは、みな見事に酔い潰れていた。

 膝枕を借りてぐっすりと眠り込むカメリアの寝顔を見つめながら、デイビスはそっと、彼女の柔らかに波打つ髪を撫でた。すよすよと安らかに寝息を立てているのは、酒気で赤らんでいる頰以外、本当に子どものようである。

「デイビスってえ、いっつも、飲みに行く時は誰と行くの?」

「あー、たまに仲の良い上司と。それ以外はだいたい、一人でかな」

「へええ、おっとなだねえ」

「はは、そんなことねえよ。邪なことを考えて行くわけだし」

「どおして、ひとりで飲みに行くの?」

 その問いに、少し眉をあげたデイビスは、そのひび割れた表情の奥から、まるで少年のように心細そうな顔を覗かせた。


「————寂しいから、だよ」


 ぽつりと呟いた言葉を、意外そうにグーフィーは聞き取り、無邪気に質問を重ねた。

「そおなの? バアに行くと、寂しくなくなるの?」

「別に、何かが変わる訳じゃないよ。でも、他に行くところがないから」

「ボクには、よく分からないなあ。寂しい時って、あんまり、ないもの」

 柔らかに抑えた笑い声を漏らしながらも、デイビスは一瞬、強い尊敬と羨望の眼差しで見つめた。手許にある、水の入ったグラスを取りながら、薄暗闇の中で静かに波打つ水面を見つめる。歪んだ自分の顔しか映っていなかった。

「……俺は、弱いから。周りのどんな奴よりもポンコツで、精神薄弱で、バケツの水をひっ被ったみたいにみっともない野郎だ。でも、そんな俺でも、一人前の男の振りをして、せめて外面だけで誰かと会話する場が欲しいから。だから、バーに行くんだよ」

 彼が視線を外しながら浮かべた微笑みは、他のどんな微笑よりも過敏さを湛えて、暗い家の中に独り取り残された、幼い子どもに似ていた。
 彼からの答えは、グーフィーには難解に過ぎた。彼にとってはそれは、虚勢よりももっと逼迫して、深刻な、まるで自己の尊厳を取り戻す儀式のようだったのだが、しかしそのような機会を欲しない者には、永遠に理解できない。

「だけども今は、カメリアがいるから、寂しくないよねえ」

 その言葉を聞いて、一瞬、痺れるような哀しみが湧いた。
 目を見開いていたデイビスは、数秒の間、言葉を失っていたが、やがて水を干すと、肩をすくめて、軽薄に笑ってみせた。

「いや、こいつとはバーになんか行かねえよ。すぐに酔っ払うし、店でそのまま寝ちまいそうだし」

「そうじゃなくって。分かってるんでしょお、彼女は君が心を開いてくれるのを、ずっと隣で待ち続けて——」

「グーフィー!」

 突然の荒げた声に、グーフィーはびくりと肩を震わせると、悲しそうに彼を見つめた。


「——————よしてくれ」


 俯いたまま、静かに告げる声。
 薄暗い深夜の静寂の中で、ゆっくりと空になったグラスを置く。その手もまた、微かに震えていた。

「ごめんね、デイビス」

「……いや、良いんだ。
 こいつにはもっと、まともな人間が似合う。それだけなんだ」

 グーフィーは、注意深く相手の様子を窺う。そして目の前の彼が、顔には出ていないが、思ったより深酒しているのを見て取った。

「デイビス。チェイサー、いる?」

「……ああ。ありがとう」

「お水、持ってくるねえ」

 それきり、いつもの通りベストの裾を翻して、ホールの隅へと消えてゆく後ろ姿。寝静まっている周囲を気遣って、ドタ靴から起こる足音はひそめられている。浮かべられたボートが、夜の川に揺られる軋みに紛れて、遠くから微かながらも、揺れ動く水の反射や、微かに飛び散る水しぶきや、水道から押し出されてゆく清廉な流水音が聞こえた。

 ぱたたっ、と膝の上に重い雫が跳ねた。スラックスに染みを作ったそれだけが、熱く、大粒にしたたってゆく。カメリアは相変わらず、彼の腿に凭れて、小さな寝息を立てていた。その頭上で、自分がどのように思われているかも知らず、少しも起きる気配がない。

(また、馬鹿なことしたんだなあ。お前)

 ふと、門限を破って宿舎から締め出され、窓からスコットの部屋へ入れてもらった時の、呆れた声が蘇ってきた。

 あの時も深夜だった。自分の窓ガラスを叩く音に起こされたのだろうが、スコットは何も言わなかった。酒の臭いを漂わせたまま、終わらせてきた、とだけ呟く自分を見守り、黙ってコーヒーを淹れてくれた。

 きっともうこの先、あんなに心が麻痺したような虚しさも、誰かに慰撫された静けさも、経験することはないのだろう。膝の上に広がる重みを感じながら、今、スコットに会いたい、と思った。






 翌朝。

 出発の準備を整えたデイビスとカメリアは、勢揃いしてハンカチで頬を拭うディズニーキャラクターたちに、挨拶を告げた。

「みんな、本当にありがとう。あなたたちと過ごした時間は、一生忘れない宝物だわ」

「な、涙がちょちょ切れるねえ」←グーフィー

(´・ω・、)」←マックス

「カメリア——がいつもいるかは分からないけど、俺はポート・ディスカバリーにいるから。ぜひ、遊びに来てくれ」

 グーフィーは、ピンピンと自分の髭を弾きながら、遠い眼差しで、何やら考え事をしていた。

「ボク、今回の件で、科学にきょおみが出てきちゃった。デイビスもいるんだったら、ポオト・ディスカバリイに研究所でも作ろおかなあ」

 ぽつりと呟くグーフィー。マックスは肩を震わせる。父親の道楽により、また我が家に多額のローンが組まれることになるのではないかと。

「おぉーマジで!? そうしたら俺たち、毎日一緒に酒が飲めるな!」

「うんうん。そおしたらデイビス、寂しくないもんねえ」

「ありがとな、グーフィー。また会えるのを楽しみにしてるぜ!」

 そんなマックスの心も露知らず、HAHAHAと笑い合うアメリカンな二人は、互いの肩をばしばし叩きながら、固い握手を交わしていた。

 なお、トボけているように見えるが、グーフィーは基本的に有言実行の男である。この後、ポート・ディスカバリーに本当に研究所を構えてデイビスを驚愕させ、二人は生涯に渡った親友となるのだが、それはまた別のお話。

「カメリア、ちょっとこっちに来て」

「?」

 ミニーはカメリアに手招きすると、物陰でそっと、彼女に囁いた。

「あきらめないで、それが夢を叶える秘訣。あなたの夢は、この先、遙か遠くまで続いているから。何があっても、あなたがきっと頑張れるように、お祈りしているわ」

「ミニー、ありがとう。あなたに出会えて、本当によかった」

 カメリアとミニーは、強く抱擁し合って、互いの幸せを願った。
 彼らと同じ時代を生きているデイビスと違って、カメリアは、たやすく再会を約束することなどできない。だから、胸いっぱいの想いを託して、言葉に変えた。

「見ていて、ミニー。私があなたたちへ届けようとした贈り物を、未来から見ていて」

 カメリアが別れを惜しみ終わるのを待っていると、不意に、デイビスのポケットの中の無線機が震えた。ボタンを押して応答すると、あの親しみに溢れた甲高い鼻声が、スピーカーの奥から聞こえてくる。

《やあ、キャプテン・デイビス。こんにちは!》

「毎度お馴染み、あんたか。行き違ったなあ、今回こそ、あんたに会えるかと思ったけど」

《うん。あの後、ミニーに死ぬほど叱られたよ……》

「…………」

 悲しきかな、尻に敷かれた関係。いかに機嫌を宥め賺してきたかが、まざまざと目に見えるかのようである。

《フライヤー開発のお手伝いができなくて、ごめんね。ちょっと大発見をしてしまって、なかなか帰れなかったんだ》

「いや、良いよ。そもそもあんたには、すでに色んなところで助けて貰ってるしな」

《君に紹介したかったんだけどね。僕の友だち、プルートも》

《わおーん!》

 突然入ってくる、犬の声。あまりのうるささに、デイビスは少し無線機を離して、その遠吠えを聞いていた。

《君たちはこれから、ファンタスティック・フライトに出かけるんだね》

 不意に真剣さを湛える、ミッキー・マウスの声。それは、青い空を切り裂いて、どこまでも響いてゆく始まりの言葉のようで。

《僕はね、この世界がとっても好きなんだ。生きるって、とってもワクワクしないかい。この世界は、そんな僕たちの心に魔法をかけて、もっともっとドキドキさせてくれる、そんな魅力に満ち溢れていないかい》

 風が吹き、ゆっくりと雲の影を押し流してゆく。その彼方に輝く太陽を見あげながら、デイビスは彼の言葉に耳を傾けていた。

《七つの海に浮かぶ、数え切れないほどの不思議な国々。楽しい旅行の準備、しおりだらけの本、たくさんの空想。潮風を浴びて、水飛沫をあげて、人々は素晴らしい大海原に出かける。カモメの声、輝かしい鐘の音、真新しい地図、重い手応えの舵。孤独も、恐怖も、ときめきも、きらめきも、きっと君の人生を彩る魔法になるよ。

 壮大な歴史やロマンに触れて、出会いと別れを繰り返し、思い出を宝物にして、お土産を選んで、また新しい旅に出て。地球上には、誰も見たことのない未知が息衝き、航海の扉が開かれ、すべては旅立ちの瞬間を告げている。すべては無限に広がり、君に触れられるのを待っている。だから人類は、この美しい水の惑星アクア・スフィアの上で、永遠にワクワクし続けるんだ。

 この世界にやってくる人々は、誰もが冒険家になれる資格を持っているのさ。深く、暗い宇宙の孤独の中、このまばゆい水があふれる地球上で、彼らはなんと色とりどりの夢を描くことだろう。抑え切れない冒険心と勇気を奮い立たせ、出航してゆく彼らのことが、僕は大好きだ。ここは、冒険とイマジネーションの海。青空の下で、限りない未知への憧れを育んで、それぞれのかけがえのない物語を紡いでゆく、そんな選ばれた人たちだけが生きてゆける世界なのさ。

 デイビス、カメリア、君たちは特にそうさ。流れる時間の中で、誰よりも自分たちの情熱を追い続ける。たくさんの住人たちを見てきたけど、二人の輝きは特別だね。君たちは、どんなヒーローやヒロインにも負けない、素晴らしい夢の海の冒険家さ。

 ここから先を導くのは、僕じゃない。カメリアは、僕よりもずっと、この世界がいかに美しいかを知っている。僕にできるのは、この夢の海の住人たちの思い描く、無限の物語を見守ることだけ。さあ、今こそ新しい世界へ、出発してごらん》

 そうして、無線の彼方の声は、最後に、あの不思議に耳に残る、特徴的な笑い声を残した。


《Buon viaggio, カメリア、デイビス! Ha-ha!》


「いってきまーす!」

 カメリアが大きく手を振り、ミゲルズ・エルドラド・キャンティーナの前で並んで見送る彼らに、別れを告げた。出発の時間だ。色とりどりの蝶が舞うのは、まるでこの先の航海を祝福するようで。

 デイビスとカメリアは、互いに顔を見合わせ、にやり、と微笑んだ。

「行くぜ、カメリア。準備はできているよな」

「望むところよ」

「よし、どんな奴らが邪魔してきても、足を止めるんじゃねえぞ。さあ、一緒に飛ぼうぜ!」

 あの日と同じように、真っ直ぐ差し伸べられた彼の手を、躊躇うことなくカメリアは握ると、彼らは一気に前へと駆け出した。その途端に、ぐん、とまばゆい陽が明るくなって、雲間から太陽が顔を出し、彼らの頭上を照らし出した。射し込む光に、鮮やかな緑の瞳を透き通らせながら笑うデイビスは、誰にも伝えられない美しさを放っていた。この人の輝きに、追いつきたい、とカメリアは思った。それは今でも、けして変わることがない。ドレスの裾をはためかせながら、彼女はデイビスの広い背中を見つめ続ける。

 デイビス、あなたがあなたとして、この新しい時代を生きてゆくために。
 私は私の時代の影を打ち払い、闘い続けるよ。

「ほら、一番乗りだ!」

 デイビスは、繋いでいた手を前へ伸ばして、彼女の手をフライヤーに触れさせる。カメリアが鈴のような笑い声を零した。柔らかな木材の手触り。削りたての木の匂い。思い出に強く抱き締められるように、深い懐かしさが込みあげてくる。
 船の帆に風が漲るかの如く、フライヤーの翼ははたはたと革をはためかせ、この先、空を切り、風の中を飛翔してゆくのが待ち切れない様子だった。今日も、青い空が広がっていて。見つめていると、吸い込まれそうなほどである。

 ときめく胸を震わせているカメリアを見て、秘かに息をつく。嬉しそうでよかった。いよいよ旅立てる、という思いは、昂揚感を量り知れぬほどに駆り立て、大空で繋がった二人の心を、否応なしに、空へと舞いあがらせるのだった。

「デイビス。私の夢が何なのか、覚えてる?」

「ああ」

 風の中で問いかけるカメリアに、デイビスは頷いた。鮮やかな羽音を響かせながら、アレッタが舞い降りてくる。その翼は、流線を描きながら、強い信念を携えて彼と向かい合う、彼女の肩に降り立った。

「最初にあんたは、人類貢献だと言った。次にあんたは、科学は人殺しの道具でないと証明するためだと言った。そして最後に——友達がほしい、って」

「うん、そうだよ。
 空を飛ぶことが、どうしてそれらのことに繋がるんだろうって。あなたはそのたびに、不思議そうな顔をしてみせたよね」

 カメリアは、靴底で車輪の固定具を外した。そしてその根元に足を乗せ、フライヤーの柱を掴む。アレッタが、まばゆい鳴き声を地上に響かせた。

 大空のさなかに昂然として立つカメリア。激しい太陽の光を浴びた彼女は、日差しの中で振り返り、彼に語りかけた。



「デイビス、行こう、世界を見に。私と、壮大な空の冒険に出かけよう」





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