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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」24.ポート・ディスカバリーって、本当に変人しかいないんだな

 花が咲く。

 澄みやか、というよりは生々しい生命の匂いが、彼の鼻に漂った。
 それはどこから匂ってくるのだろう。闇の中で、しかし生命の香りは、まだそこにあり続ける。

 ゆっくりと目を見開いたデイビスは、腕を動かそうとして、その動きが衣服に引っ張られ、妨げられるのを感じた。

(天国——って。裸で向かうわけではないのか)

 よく見ると、自分はパイロット席のハーネスをつけたままだった。かちりと音を立てて、金具を外す。ストームライダーには、いかなる振動も、揺らぎもない。ビューポートは大きくひび割れて、そっと触れたコントロール・パネルは、まだ微かに熱かった。デイビスは、よく耐えてくれた、とそのガラス面を静かに撫でた。

 鼓膜をやられたのか——いや、一時的な耳鳴りのようだ。
 耳を覆うような砂嵐に顔を顰めたデイビスは、そこで初めて、足りないものがあるのに気づいた。ふわりとした、くすぐったいほどの柔らかさと、陽だまりのような温度。そばにい続けてくれた、あの生き物がいない。

「アレッタ?」

 呼び声を放つと、少し遅れて、どこからか、きゅい、と鋭い鳴き声が返ってきた。その声は、ストームライダーの内部に殷々と響き、朝を告げる雲雀の如く明瞭に聞こえた。

 押し潰されて死んではいないだろうかと危ぶんだが、どうもそうではないらしい。アレッタは、緊急ハッチの前の床に立ち、軽く鳴き声をあげて、出口のありかを彼に教えていた。障害物との激突で潰されたと思っていた開閉部の向こうから、微かな光が漏れていた。

「アレッタ、どいてろ。危ないぞ」

 デイビスは、緊急脱出用の斧を手に取って、何度か開閉部を傷つけると、ドアを蹴破り、不時着したストームライダーの中から這い出て、何とか、外へ出ることができた。コックピットの薄暗さに慣れた目に、太陽の光が差し込んでくる。それは網膜を切り刻むようで、思わず呻いた。

 満身創痍だった。外傷自体よりも、極度の疲労と憔悴の方が強い。痛ェ、と呟きながら這い出た先は、一面の花畑。背の高い橙紅色のポピーやら、黄色い星型の花を開かせるラッパズイセン、清楚な純白のマーガレットが、数万に迫る勢いで、草原の中に揺れていた。どれもヨーロッパの雑草に近い花々だが、こうも見事に咲きこぼれていては、楽園のものとしか思われなかった。その上に倒れ込むと、ふわ、となまなましい花粉の匂いが掠める。這うようにして、ストームライダーの装甲に背を凭れ、胸いっぱいに空気を吸い込みながら、ようやく息をつく。周囲には梢がざわめいて、恐ろしく高い蒼穹をくっきりと雲のうちに吸い取り、自然のさざめき以外はすべて、静かだった。

(ああ、悪くないな)

 これが冥界だというのなら、なかなかに心の落ち着く光景であると言える。つーか俺、天国に行けるほど普段の素行は善くなかった気がするが。そこはアレか、神様がオマケしてくれたのか? 一応、ストームは消滅させたはずだし、何らかの温情があってもいいもんな。

 そんなことを考えていると、さくり、さくりと、明らかに野原を駆けめぐる風とは別の意志を持った音が聞こえた。彼の膝の上に乗っていたアレッタが、身を震わせるようにして、そちらを見る。それと同時に、彼の頭上から、濃密な影が降ってきた。


「Bentornato, Aletta. E sembri avere un ospite eccellente.(お帰り、アレッタ。これはまた、とんでもないお客様を連れてきたものだね)」


 イタリア語————

 アレッタは、ふわりとその人物の前に舞い降りるなり、その砂色の翼を大きく広げ、面を大地に伏せた。
 何も無駄はなく、疑問もない。その厳粛な、完膚なきまでの服従は、カメリアへの姿勢とは根本的に違う、真の主人に忠誠を誓う奴隷のような態度である。基本的にはカメリアと行動をともにしているが、この人間との方が、ずっと付き合いは長かったのだから。

 息をするのがようやくという痛みの中で、うっすらとデイビスは目を開けた。彼を覗き込んでいるのは、壮年も過ぎつつあるかと思われる、一人の品の良い男性であった。

「やあ。君が、キャプテン・デイビスだね? それにこっちは、ストームライダーという乗り物か。立派なもんだ」

 その男は、英語で話しかけて、へらりと手をあげた。朗らかな微笑、栗色の巻き毛、そしてなぜかその髪に絡まっている、小さな松ぼっくり。

「僕は、カメリアの父親です」

 ああ、どーりで。
 彼は鳥の巣のようになっている巻き毛の中の、松ぼっくりを見つめながら、瞬時に納得した。

「ええと……シニョール・ファルコ?」

「チェッリーノさ、どうぞよろしく。チェリーでも、チリチリでも、好きなように呼びたまえ」

「はあ」

「チェリリンと呼ぶと、少し心がときめきます」

「ほーん」

 まあ、呼び方はこの際どうでもいい。彼女は、温和で穏やかな性格だ、と父親を称していたようだが、なんてことはない、彼が想像した通りの男性が、そのままそこに立っていたのだった。

「待っていなさい。タオルと、何か食べ物を持ってこよう。他に、必要なものは?」

「いえ、それだけあれば大丈夫です。食事の方は……助かります」

「分かった。アレッタ、彼についていてやりなさい。何かあったら、大声で鳴くように」

 そしてふたたび、さくり、さくりと遠ざかってゆく音が聞こえる。

 真の主人からの命により、ふたたび、デイビスの立て膝の上に留まったアレッタは、丸い黒い瞳で彼を見つめて、首を傾げた。どうも自分の体の具合を心配してくれているように見えた。

 そしてその時、デイビスはいきなり、現状を把握するためのすべての糸が繋がったように思えた。

 アレッタ、お前——か。

 ストーム消滅時、熱風に危険を察知したアレッタが、ストームライダーごと、強制的に時空を転移させたということ。だからこそ、彼はこうしてここに生きている。


 そしてここは恐らく、カメリアの生まれてきた時代なのだ————


 そこまで考えて、いきなり体の力が抜けた。ようやく、アレッタを託した本当の意図が明らかになる。カメリアは、最初からそれを見越して——アレッタを自分のところへ送り込んだということか。いざという時は、時空を超えてその場から脱出させるよう、この隼に命じ、自分は嵐の中に留まった。

 自らの親友を危険にさらし、退路を断つような手段を取ってでも、カメリアはそれに踏み切ったらしい。その事実に、馬鹿な真似をしやがって、と微笑が浮かぶとともに、目の前が滲んだ。大きく溜め息を吐くと、自分が無残にも崩れて、いなくなってしまいそうだった。

「ほら。飲みなさい」

 チェッリーノが、必要なものをバスケットに入れて帰ってきた。最初に彼から渡された瓶の中の水を、喉を鳴らして、浴びるように飲む。一瞬、目の眩むように冷たい液体が、肺の横を通り抜けて胸に道をつくり、そのまま胃袋に流れ落ちていった。

 パン。むしって、無言で口に入れる。美味いのか不味いのかすら、よく分からなかった。それに、鳥の煮込みの入ったスープ。今度ははっきりと分かる、旨かった。鳥の複雑な滋味と、食欲をそそるハーブの香りがする。湯気が直接、内臓をくすぐるようで、ガツガツと火傷しそうなそれを胃袋に詰め込んでいるうちに、なぜか涙が滲んできた。ただ、生きるためにそれらを喰い、摂取しようとしていた。

 チェッリーノは、まるで息子を見つめるかのように、静かにそれを見守っていた。不思議な眼差しだった。憐んでいるようでも、観察しているようでもなく、ただ物寂しい、根拠の知れぬ愛情が籠もっていた。さやさやと、海からの風が吹いてきた。

「おっと。大丈夫かい?」

 腹を満たし、ようやく立ちあがろうとしてよろけるデイビスを見て、チェッリーノが手を伸ばす。ストームライダーの壁に寄りかかりながら、助けを借りて、なんとか立ちあがる。空がぐっと近くなり、自分を支えてくれる男性の顔も、面前にまで迫ってきた。

「ありがとうございまし……た。すみません、引ったくるように頂いてしまって」

「せっかく来たんだから、ゆっくりしていきなさい。何か、大変な仕事を終えてきたんだろう?」

「え、ええ。本当に、終えてきたばかりです。ずっと気を張り詰めていたから、疲れが酷くて」

「生きていて、良かったね」

 デイビスは、静かにチェッリーノを見つめ、この人が、カメリアの父親なのか——と改めて感銘を受ける。

 よく——似ている。巻き毛も、吊り上がった口角も、心を映し出すような素直な瞳も、確かに彼女に生き写しと言えた。違うことと言えば、全身から滲み出ている、その雰囲気。カメリアが、無防備なほどに生命の歓喜を咲かせる一方で、チェッリーノは人徳の高さや、頼もしさを感じる分、どこか疲弊した陰りをも纏わせている。そして、何も彼女がこの場にいる訳ではないのに、チェッリーノがどれほど深く娘を尊重してきたのか、そしてカメリアがどれほど深く父親を尊敬してきたのかということが、その空気や佇まいからあまりにも克明に察せられて、大きく心を揺すぶられた。

 まるで光と影のように心を通わせて生きてきた、父と娘。

 愛し合うとはこのことをいうのだろう。そして、まさにこの人物から、カメリアの生命は始まったのかと考えると、目の前の壮年の男性こそは、無性に懐かしく、神秘的な偉大性を秘めた人間であるかに思われた。

「煙草、持っているかい?」

「ああ。どうぞ」

「どうも。最近めっきり、煙草なしでは生きていかれないようになってね」

 デイビスから手渡された箱から一本引き抜き、銃を思わせる火縄式ライターを懐から取り出すと、慣れた様子で着火した。ふう、と煙が舞いあがる。太陽の光を反射する髪のうちには、白髪が目立っている。

「……君、こんな不味い煙草吸ってるの?」

「嫌なら、返してくれても構わないんですが?」

「はい」

本当に返す奴がありますかッ!?!?

「いやあ、僕と間接キスしたいのかと思って、ドキドキしちゃった。僕ももうアラフィフだけど、まだまだ魔性っぷりは捨てたもんじゃないねえ」

「……あんた、ほんっっっっとに、カメリアの父親なんですね」

 頭が痛い。いや、物理的ではなく、精神的に。なるほど、カメリアがああいう風に育つわけである。

「で、なんでファルコ家の人々は毎回、髪に松ぼっくりをくっつけているんですか?」

「ああ、僕の勤め先の中庭に松の木があってさ、暇な時は木登りしてるんだよね、僕もカメリアも。まあ、最近はほぼ日課になりつつあるんだけど」

「……それじゃあ、今、客入りは」

「閑古鳥が鳴いてるねえ。まあ、別に良いんじゃない? 儲けるために造ったわけじゃないし、世の中、一番大事なのは、お金じゃないから」

 ふー、と大袈裟に煙を吐いて、チェッリーノは思わせぶりに、ゆっくりと首を振った。

「お金が、世の中で一番大切じゃない。いやあ、実に胸に染みる言葉だよねえ、デイビス君?」

「……なぜ、そんな意味深長に話しかけてくるんですか?」

「カメリアから色々聞いてるよ。万年すかんぴんだとか、貧乏神だとか、女性のヒモだとか——」

(かっ、カメリアのやろおおおおおおおお——)

 なぜ、なぜ、なぜ、一番触れて欲しくないところを強調して父親に伝えているのだ。第一印象が大事だというのに、会う前から、すでに俺の印象が最悪じゃないか。

「あと、独りにすると心配な人だって。だからあの子はあんなにも、君の時代を頻繁に訪れていたんだよ」

「え?」

 一瞬、虚を突かれたデイビスに対して、チェッリーノはニヤニヤとしながら言葉を続けた。

「娘がいつもお世話になっています、デイビス君?」

「……いえ……」

 微かに頰を紅潮させながら、デイビスは小さな声で呟いた。

 改めて、周囲を見つめる。
 潮風は静かに、一面に咲きこぼれたポピーやスイセンの花びらを揺すっていた。まさに花々の海と言って良かった。溺れるように鼻腔を擦る匂いが、この高所の花畑へと立ち込めてゆく。
 何の虫の音だろう。高さの違う鈴の響き渡るように、切々と連なる美しい鳴き声が、湧き起こるようにこの静謐の底を満たしている。人間は、彼ら以外に一人も見当たらず、まるで俗世たちからは隔絶されたかのような場所である。

 これほどまでに美しい土地に彼女は生まれ、空への愛を育んでいたのかと思うと、感情を抑え切れなかった。

 それはまるで、魂を覗き込んだような——
 心の、一番大切な聖域に触れたような——

 そんな、自然の花園。

 降りそそぐ日の光に誘われ、アレッタが急に飛び立った。
 砂漠色の翼を広げながら、真っ青な空へと舞いあがり、太陽を囲むように旋回しながら、遠く、美しい鳴き声を響かせた。二人とも、その声に惹かれるように顔をあげた。空は果てしなく、その完璧な紺青を透き通らせていた。チェッリーノはまぶしそうに、天上を飛び回る隼を見あげ、ゆっくりとデイビスに語りかける。

「アレッタは見ての通り、賢い鳥でね。我々よりも数段、人の魂をよく見透かせるし、誇り高さはその上をいく。なぜだか分かるかい?」

 デイビスは、太陽の眩しさに魂を照らし出されるように思いながら、首を振る。

「いえ……でもアレッタは確かに、人の言葉も、その裏にある心までもを理解しているようです。普通は、そんなことあり得ない」

「そう、そうなんだよ。アレッタは普通・・の鳥じゃない。もう何十年も前、私がエジプト遠征に向かった折に、偶然拾ったんだ。流れ弾に当たって死にかけていて……水をやり、翼が治るまで世話をした。それ以来、アレッタはファルコ家に忠誠を誓ってくれている。

 長命な隼だ。何十年も生きている。本当に"隼"なのか、疑わしいほどにね……しかしカメリアが死んだ後は、アレッタは、ふたたび別の地へ飛び去ってゆくだろう」

「なぜ?」

「カメリアは、一生結婚しないと決めているからさ」

 告げられたその意味を一瞬で理解して、デイビスは、心臓の潰れるような思いがした。チェッリーノは軽やかに笑って、静かに首を傾げる。

「彼女は君に、そんなことを打ち明けたりしなかっただろ?」

「え……ええ」

「さもありなん、といったところかな。墓場まで持って行くみたいだったしね」

「…………それは」

「気になるなら、本人に聞いてみたらどう? 十中八九、笑って答えないだろうけど」

 軽やかに微笑んで肩をすくめるチェッリーノ。そんなやり方で彼女の意志を茶化そうとする彼の意図が、デイビスには理解できなかった。

「本当に、良いんですか。彼女は、貴族なんでしょう。俺は庶民だけど、あなたたちの時代の貴族にとって、家名がどれほど大事なのかは、何となく予想がつきます」

「彼女は、ファルコ家のカメリアじゃない。ただの、カメリアだ。デイビス君、僕と妻の望みは、カメリアがいかに高くまで飛翔できるかということ、ただそれだけなんだよ」

「でも、あいつは——」

「結婚や、子どもをなすことが、人間の掴むべきただひとつの幸せなのではないと、君も分かっているんだろう」

 デイビスは顔をあげて、その揺らめく瞳にチェッリーノを映し、この穏和な雰囲気を纏う男の中に、いかに硬い意志が根を下ろしているのかということに気づいた。チェッリーノは一歩、草を踏み縛りながら続けた。

「代々続いたファルコ家の血が、ここで途絶えるのは寂しいが、後世に伝えてゆくべきは、何も血縁だけじゃない。カメリアは、すでに数え切れないほどの功績を残しているし、これからももっともっと、偉大なものを探究し続けるだろう。

 あの子の才能は、人類に貢献すべきものだ。私たち両親に捧げるべきではないし、積み重ねてきた過去を守るためでもない。あの子はまだ、そのように割り切れていないようだがね。しかし必ず、彼女は夢を叶えるだろう。世界中の人々と、飛行の精神を分かち合いたいという夢を。

 ———そう、そしてその途上で、君に出会った」

 チェッリーノはデイビスに向き直ると、カメリアそっくりの無邪気さで、にっこりと微笑んで、

「ところで、君って、ガールフレンドはいる?」

「は?」

「女の子と付き合ったことは?」

「ええ、そりゃまあ、何人かは」

 頰を掻いて呟くデイビスに、チェッリーノは軽く片眉をあげてみせる。内容が内容だけに、なんとなく言葉にするのが憚られたデイビスは、ごにょごにょとチェッリーノに耳打ちをした。

 途端に、すざっと音を立ててチェッリーノは飛びすさる。

「うわーっ! うわーっ!」

「……そんな、危険人物みたいに」

「僕たちの社会通念じゃありえないよ。凄い時代になったものだなぁ。やるじゃないか、このこの、せいよくまじん。夜のストームライダー」

「変なあだ名をつけないでもらえますか?」

 あぁ、このノリ、懐かしいな——と感じて、デイビスは遠い目になった。あいつの妙なテンションの高さは、父親譲りだったんかい。

「……えっと、当のカメリアは」

「先ほど、フライヤーで出かけたはずだがね。君の時代に来てはいないのかい?」

「いると思うんですが、直接会ってはいなくて……アレッタがいるのを見つけて、もしかしたら、あいつは俺のところに来ているんじゃないかと、気づいたんです」

「そうか、入れ違いになってしまったのか。君も不運だなあ」

「そうですね。……でも、アレッタを送ってくれなかったら、きっと俺は生き延びられませんでした」

「うんうん、カメリアに感謝してあげてよ。それだけで、あの子はたぶん、リゾット十杯くらいはいけそうだから」

「それはまずいですね」

「うん、やっぱり胃袋のことを考えると、伝えない方がいいかも」

 ふう、と長い煙を吹き散らしながら、潮風に乗せて、チェッリーノが小さく問いかける。

「これであの子の願いは、報われたのかな?」

 何気なくチェッリーノを見て、その目とぶつかった。彼女と同じ、鳶色の瞳だった。その奥底に彼女が棲みついているようで、心が揺らめいた。

「…………わからない」

 デイビスは、正直な思いを口にする。柔らかな潮風は、彼の足下に咲く花から、花粉の香りを噴きあげて、肺を隅々まで満たした。

「ふーん」

「ふーん……って」

「いや、あまり他人の青い悩みには興味なくてさ。君、幾つ?」

「二十六です」

「あ、僕がカメリアの父親になった歳だ」

 ぽこっと笑窪を浮かばせてそう言うチェッリーノに、全力で噴き出すデイビス。なぜか凄まじいショックを受けた——妙になまなましい。というか、俺と同い年でもう父親だったのか。自分なら、少なくとも今のまま誰かの親になれる自信など、絶対にない。

「可愛かったなぁ、カメリア。こんなちっさくてね。ブーブー言いながら、僕の頬っぺたを蹴飛ばしてね。あれは痛かったなあ」

「は……はぁ——」

「うんうん、でもね、デイビス君。僕も彼女も、いつか死ぬよ」

 淡々と紡がれたその言葉に、びく、と体が震えた。
 チェッリーノは、腰をかがめて小枝を拾いあげると、小さな音を立ててそれを割る。粉々になって砕けた枝を、煙草の煙の棚引く中、チェッリーノは何の感情もない目で眺めていた。

「……あなたがたは、死の覚悟までしなければならないんですか。ファルコ家は今、そんなに追い詰められているんですか」

「いやあ、何も僕らに限った話じゃないし、今に始まったことでもないんだけどね。僕の方は、どうせエジプト遠征で死ぬんだろうと思ったけど、なぜかうっかり生き残ってしまってね。カメリアは、ナポレオンからの申し出を断る時に、死んでもいい、と言っていたよ。まさか十歳の自分の子どもに、そんなことを言わせることになるとは、まったく思ってもいなかったがね。

 できる限り守ってやるつもりではいるけれど、このご時世、いつ戦争に駆り出されるか分からなくてね。あの子にも敵が多いし、明日にでも暴徒に暗殺されかねない。そうでなくとも、人はいつか死ぬ。当たり前の話だろう?」

 パキリ、パキリ、と手持ち無沙汰のように、チェッリーノは枝を折り続けた。

「そんなに、この時代は危ないんですか。あいつは、あまりそういったことを俺に話したがらないから」

「さあねえ、僕たちの国だけの問題ではないから。状況は、刻一刻と深刻化しているよ。このまま征服と国粋主義が広がれば、世界大戦くらいにはなるんじゃないか? それまで身動きの取れなかった植民地も、この機に次々と独立戦争へ乗り出すだろうね。いつそれがくるか分からないけど、少なくともヨーロッパは地獄絵図になりそうだ。ま、今までのツケの結果だろうね」

 言って、チェッリーノは、手元に残った枝を放り投げ、煙草の灰を軽く地面に落とした。そして、表情を暗くしているデイビスに気づくと、困ったように頰を掻く。

「……あ、そうだ。一緒に、四つ葉のクローバーでも探す?」

「は?」

「なんだか、しょんぼりしているからさ」

「いえ。今ちょっと、真面目な話をしているんで」

「ふふ。真面目な話というよりは、きっと君が真面目なんだろうさ」

 そう言って背をのけぞらせ、大きく細く、すべての肺の息を絞り出すと、チェッリーノはふたたび煙草をくわえて空を見あげた。ふと、その疲れて寂しそうな横顔が、なぜか奇妙に官能的に見えた。

 空の光は、降り続ける。

 デイビスの上にも。
 チェッリーノの上にも。

「僕たちが幸福でいられるのは、今だけだと、分かっていたから。僕は彼女に、何でもやらせてあげた。あの子はその自由を、他人のために使いたいと言った。

 アレッタが人の心を見るように、あの子は人の夢を見る。未来を見る。国が違っても、人が未来を望み、夢を語ることは自由だからさ。

 僕たちの行く末は、後はもう、神の手に委ねられている。結末がどうあれ、道は僕たちが選んだ。だから僕は、フランス皇帝に、交渉決裂の手紙を送ったんだ」

 そう呟いたチェッリーノは、大きく煙草の煙を吐くと、現実離れした広大な花畑の中で、真正面からデイビスの瞳を見つめて言った。

「君がカメリアを愛していようが、愛していまいが、そんなことはどうでもいい。僕が君に言いたいのは、たったひとつだ」




「———君の夢はなんだい、キャプテン・デイビス?」




 ふわ、と潮風が彼らの髪を舞いあがらせる。遅れて、花が揺れて、潮騒のように満ち足りた音がした。胸を締めつけるような匂いが、香った。
 
「俺は……俺の夢は、」

 デイビスは、胸を衝くような思いを口にしかけ、しかし、途中で言い淀んだ。この世で最初に口にすることになるそれは、彼女に向かって、一番に言いたいことだった。

 その秘かな葛藤を察したらしいチェッリーノは、ゆっくりと微笑した。そして煙草を左手に持ち替えると、空いた右手で、短い指笛を吹いた。今までの緩い口調とはまるで違う、鋭い音色だった。

「アレッタ!」

 すると、それまで天井の世界を謳歌していたアレッタは、たちまち降下してきて、羽ばたきながらチェッリーノの腕に舞い降り、主人の鳶色の瞳を見つめる。
 ゆっくりと、悠然たる手つきでその美しい自然の藝術を撫でている姿を見る限り、この男も、アレッタのことを心から愛しているのであろう。そこには、カメリアとは別の関係、鋼の如く断ち切れることのない、絶対的な信頼関係が構築されていた。

「カメリアと再会するまで、彼と一緒にいなさい。お前が、彼のことを守るんだよ」

 アレッタは頷くと、すぐにデイビスの肩に留まった。盛んに嘴を鳴らして甘えるようで、デイビスはくすぐったい笑い声をこぼして、それに応えた。

「デイビス君、もう、行ってしまうかい? そう大きくはないが、ファルコ家の館でも来ないか。あの子の私室を見ていってもいいし」

「いえ、いいんです。あいつを待たせているから。それにこれ以上、彼女の世界を踏み荒らしたくない」

 ストームライダーのハッチに近寄りながら、自宅へと誘ってくれるチェッリーノに、デイビスは静かに首を振った。

 ————ここは、彼女の世界だから。

 どの景色にも、眼に染み入るような健気さと誇りが満ちている。そこで彼の肉体は、草原として踏まれ、花々として花粉を舞わせ、蒼穹として透きとおり、何よりこの時代を吹き荒れる真新しい風にはためくようで、ただ彼女を培い、彼女たらしめようとする莫大な匂いのうちに、己れとして生きる意味をなくしてしまいそうになった。

 帰ろう、ポート・ディスカバリーに。
 嵐から守り抜いた、あの無限の未来が、彼を待っている。

「それじゃ。本当に、お世話になりました」

「待ちたまえ、デイビス君」

 彼の手を掴み、自分の手の内にあるものを握らせた。

「お土産に、この松ぼっくりをあげよう」

「いや、遠慮します。というより、正直にいうと要らないです。あなたの白髪が絡まってますよ、コレ」

「まあまあ、人の好意は素直に受け取っておくものだよ。煙草を分けてくれたお礼さ」

「……はあ。どーも」

 デイビスはしぶしぶ、絡まった髪をつまんで風に流すと、植物の種を握り締めた。

「君たちの時代は、平和かい」

 不意に投げかけられた言葉に、胸の中を新緑の風が吹き抜けるような感覚を抱き、顔をあげた。

 彼女に受け継がれた、その鳶色の瞳。

 デイビスはしっかりと目を見張って、そのチェッリーノの瞳を見つめ返し、言った。

「ええ。過去にあなたがたのような人々が、命を賭けて歴史を積み重ねてくださったおかげで」

 チェッリーノは、薄く笑みを引いた。

「そうか、それはよかった。君の植えた松ぼっくりが、やがて風に揺れ、大きな松の木になる頃には、きっと争い事は少なくなってる。そうは思わないか?」

「ええ。きっと」

 そう言って、デイビスは手許の松ぼっくりを見つめた。
 ポート・ディスカバリーにも、空を飛ぶこの植物の種を植えたならば、いつかは、海沿いの一面が柔らかな松のさざめきで埋め尽くされ、人々はその中で未来を夢見るようになるのだろうか。

 チェッリーノは、そっと手を伸ばして、松ぼっくりを握り締めるデイビスの手に重ねた。乾き切った壮年の男の手に、彼の若い手が包み込まれたその時、これはひとつの挨拶なのだ、と思った。人と人がすれ違い、その微かな人生の光を受け渡す、そんな類い稀な行為なのであると。


「僕らの時代は、確かに苦難に満ちている。革命が起き、たくさんの人が死んだ。戦争が起き、多くの人が殺し合った。
 それでも我々は、時代を飛び超えることはできない。ここが、僕らに与えられた場所だから。

 何のために戦うのか? 未来のため。過去のため。何より、僕たち自身のため。そうしたら、歴史は変わる。行き先は分岐し、何も行動しなかったそれよりも、良い世界に変わっているんだ。苦難の多い時代だけど——きっと、明日は今日よりも自由に近い。僕たちは、そう信じている。

 やがて、僕たちの世界は逝く。長年の葛藤は去り、君たちの時代がくる。それまで、大切なものを守ってやってくれ。そして君の最後の夢を、未来に残すんだ」


 デイビスは、力強く頷くと、ほとんど残骸と化した、愛機であるストームライダーIIに乗り込んだ。

 ひら、と手を振るチェッリーノ。

 この男もまた、時代の狭間に息衝く、偉大な人間だった。膨大にすぎる生命史の中で、その小さな名は、歴史書には残らないのかもしれない。もしかしたら、世界の動乱に揉まれて、明日には亡くなってしまう運命なのかもしれない。
 けれども、誰よりも深く家族を愛し、心を捧げてきた一人の人間なのだと。それはきっと、武勲や功績にも劣ることのない、かけがえのない価値であろう。

 一人の人間がここに生きていたという事実を、忘れない。

 瞬きをひとつすると、その光景は夢のように消え去って、ストームライダーの下に波打つうねりを感じた。いつのまにか、ストームライダーIIは微かな水音に囲まれ、船のように絶え間なく揺れ動いていた。

 空が白んで、黎明が闇を洗い、太陽がほんの少しばかり頭を出している。輝かしい雲の切れ目から、光芒が降りそそぎ、海面を照らし抜いていた。

 朝焼けだ。新しい一日が始まる。

 そして、まだ淡い天空から、ばらばらと音を撒く救助隊のヘリコプターの影が落ちてきた。何かアナウンスが聞こえているようだったが、その言葉は脳をすり抜け、まるで明晰な意味をなさなかった。

『ベース・コントロールへ、ストームライダーIIを把捉、搭乗者の状態は不明。現在地点、ホライズン・ベイ沖合い、北緯——度、西経は——』

 ヘリコプターの巨大な旋回音は、徐々に近づいてくる。やがて、自分が旭に照らし出された故郷の海に浮かんでいることに気づくと、デイビスはゆっくりと微笑を浮かべ、その蒼いたゆたいの中に意識を手放した。













 泥のように眠る中で、誰かの声がする。


 ———しかし、なんであんな離れたところにぷかぷかと浮いていたんだ?

 ———分かりません。海に流されたとしか……

 ———あの金属製の巨体で、それほど遠くに漂流するわけがないのだがな。海流の関係なのかもしれないが。

 ———とにかく、一度調査してみるしかありませんよ。海洋生物研究所に協力を要請しましょう……


 張り詰めたバリトンに、穏やかなアルト。
 よく知っている。スコットと、ベースの声だ。

 ふと自分を見ると、真っ白な世界の中に、洗いたての糊の利いたパイロット・スーツを着ていて、その襟のついたカーキ色の作業服は、まるで新人の頃のように彼の心を昂揚させた。確かにそれは、自分のトレードマークになるものだ。

 デイビスは走っていった。

 早く追いつかなければ、スコットも、ベースも、自分を置いてどんどんと先に行ってしまう。でも、彼らを呼び止めて追いつくのは、違うと思った。もっと速く、自分自身が走らなければ意味がない。しかし今日の足取りは、まるで羽が生えたように軽やかだった。これなら、二人に追いつける。同じ場所に、肩を並べられる。

 やがてどんどんと二人の背中が迫ってきて、デイビスは嬉しくて、泣きそうになった。手を伸ばせば、もう少しで届きそうだ。くそっ、スコットの奴、大股すぎるんだよ。ベース、ちょっとくらい、こっちを振り返ってくれてもいいだろ。


 なあ、俺の方を、向いてくれよ。


 そしてついに、彼の両手が、二人の背中を叩いた。二人ともよろめくようにたたらを踏んで、その背にじんじんと走る痛みに戸惑いながら、振り返った。デイビスは満面に輝く笑みを浮かべて、彼らに追いついたことを自慢するかのように、思いきり胸を張って、その言葉を堂々と放った。


(こちらストームライダーII、キャプテン・デイビス、Over! ははっ、大変だったー、ようやくミッション完了だぜ。
 なー、二人揃って、なにボソボソと話してるんだよ? 俺も仲間に入れてくれたって良いだろ? 同じチームメイトなんだからさー)


 あまりにも浮薄なその物言いに、唖然としている二人の顔が見えた。
 デイビスは浮き浮きとして、賑やかに、その先を続ける。

(なあ! 俺、よくやったよな!? ちょーっと機体が大破したりはしたけど、これで給料アップ、間違いないよな? まさか、また謹慎処分なんて、残酷な真似したりはしねえだろ?)

 二人は、ちょっと顔を見合わせて、互いに首をすくめたようだった。それから、

(見事なダイビングだったな、デイビス)

(お帰りなさい。お陰で、ストームは消えたわ)

(ほーら、見直した?)

(キャプテン・デイビス!)

 とまあ、それほど話はうまく転がらないわけで。毎度お馴染み、ベースの猛り狂った怒鳴り声を聞いて、まーたいつもの司令室呼び出しか、とデイビスは降参したように諸手をあげた。誰にも自分を認めてはくれない日常も、ミッションの終わった今なら、どれほど恵まれた日々であるのかということが、分かっていたのだから。ま、そのことに贅沢を言ったって仕方がない。また、これまで通りの生活を続けてゆくだけだ。

 そんな彼に対して、ベースは肩を怒らせて詰め寄ると、突然、ふわりと両腕を伸ばして、胸の中に彼の頭を引き寄せた。倒れるようにして柔らかい体温に包み込まれ、体が強張る。そして彼女はそのまま、彼に縋りつくように抱擁しながら、静かに囁いた。




(————よく、頑張ってくれたわね)




 その言葉に———

 デイビスは、魂をなくしたように目を見開いた。

 彼を抱き締めるベースの背中は、力の入り切らないように震えていた。
 よく見ると、スコットも、硬く引き締まった頬に一縷の涙を滴らせ、その唇のわななきを押し殺すように、目を見張りながら彼の顔を見つめていた。

 今までに漂ったことのないしめやかな雰囲気に、デイビスは微かに後退りながら瞬きをする。

(なんだよ……あんたたちが還ってこいって命令するから、仕方なしに還ってきただけだ。ストームライダーは、不滅だろ? そんなに心配しなくても、良かったじゃないか)

 諭すように囁きかけながら、立ち尽くすデイビス。けれども二人とも、何も言わずに、ただ黙って涙を流し続けるだけだった。デイビスは狼狽しながら、泣き崩れそうなベースを支えてやり、遠慮がちに、そっとその背中を撫でてやった。

 大の大人が泣いているところなんて、初めて見た。大人なんて、強くて、一人前で、けして泣かない存在だと思っていた。特にこの二人は、ずっと彼のことを導き、見守り、叱り続けてきてくれた人間なのだから。

 一体、どこからどこまでが夢なのだろう。
 ただ、彼の姿を見つめながら、啜り泣くベースとスコット。もしかしたら、それこそがずっと、彼らに言ってほしかった言葉なのかもしれない。それだけが、彼らに求めていた愛情なのかもしれない。

 すると、ポケットの中の無線機が、何かを受信して震えたような気がした。おや、発進前に置いてきたはずだったのだが。デイビスは無造作に、ポケットの中に手を突っ込んだ。

(……あれ)

 けれども、その指に当たったのは、もっとごつごつとしていて、乾いた突起に覆われている感触。そのまま、ゆっくりと引き出してみると、彼の掌の中に握られていたのは、無線機ではない。

 小さな、松ぼっくりだった。







 やがて眼に射るような青い光が、彼の顔に投げかけられて瞼に染み込み、ふっと目を開けた。半身も、ベッドシーツも、天井も、蒼穹から降りそそぐ反射に照らし出されて、ぼんやりと青みがかり、部屋の中は涼しいほどに明るかった。記憶が断絶された中、突然のその光景に、戸惑うしかないデイビス。硬直した背筋が、静かな痛みを伝え、それに腕には、あちこち包帯が巻かれている。違和感のある頬に触れると、大きな絆創膏が貼ってあった。薬品らしい臭いがした。

「あら、起きましたか? 意外に早かったわ」

 流眄を送ると、見覚えのある看護師長——訓練生時代、何度かCWCの医務室に世話になったことはあるが、わざわざ師長に介護されるといった経験はなかった。自分は、それほどの重傷だったのだろうか?

「キャプテン・デイビス、おめでとうございます。マリーナは、風でゴミが散乱したくらいで、経済的な打撃は何も出ていませんのよ。もちろん、死傷者もゼロ。あなたがミッションを成功させたおかげです」

「……CWC側の、被害は」

「ストームライダーI、II、ともに使い物にならなくなったとか。まあ良いのです、人に被害が出ていなかったのですから」

「スコットも、ドクター・コミネも、無事なのか」

「ええ。唯一の負傷者はあなただけです、マリーナの英雄さん。早く良くなるように、頑張って治療しますわね」

 デイビスは、ぼやけた頭の中でその言葉を聞いていたが、やがて、ふーっと大きな溜め息を漏らした。

 次第に、状況が染み込むように思い出されてくる。最後の光景は、朝陽に包まれた海だった。時間の流れはあやふやだが、あちこちにガーゼや火傷の手当てがされているのを見る限り、少なくない時が流れているのであろう。

「……あれから、何時間経った。ストーム消滅から」

「消滅はだいたい、二十二時半頃でしたか? 今は十一時半ですから、だいたい半日強ですね」

「十一時半!?」

 デイビスは跳ね起きて、布団をめくった。

(やばいっ——)

 彼女がこの時代にきて、軽く十二時間は経っている。上陸する前に消滅させたとはいえ、あの激しい嵐を野外で耐えただけでなく、その後の夜までもたったひとりで越えていることになろう。くそ、鍵でも渡して、俺の家で待たせておくんだった、と思ったが、そんな猶予など残されていなかったのは明らかだった。果たして無事でいるのだろうか?

「あらあら、いけませんよ、処置が終わるまでは、ここでじっとしていなくちゃ」

「しょ、処置って。あとどのくらいかかるんだよ」

「検査もありますから、二時間というところかしら?」

「検査は後でいい。用事があるんだ、超特急で終わらせてくれ」

「ご家族への連絡なら、済んでいますから。安心して休んでくださいな」

 うふふ、と音符でもつきそうなほど上機嫌に、看護師長は消毒液に浸したガーゼをピンセットでつまみ、魔法のステッキのように軽く振って笑ってみせた。
 それから彼の鼻先に、ぺちり、と冷たいそのガーゼを押し当てて。

「キャプテン・デイビス。治療の終わるまでが、ミッションです」

「そんな、餓鬼の遠足みたいに……」

「隅から隅まで、検査しますわね。あなたの骨格、とおっても良い形をしていそう。レントゲンを撮るのが楽しみですわ」

 オホホホホ、と上品に笑う看護師長は、ポート・ディスカバリーには毎度お馴染みの変人に間違いない。どうして揃いも揃って、この街には変な奴しかいないのか、と途方に暮れるデイビスの耳許で、きゅい、と聞き慣れた声がした。

「……あ、アレッタ」

 小さな隼は、ヘッドボードに爪を絡ませながら、その黒すぐりのように丸い目に彼の姿を映していた。

「あなたが大切そうに抱き締めていたものですから、そばに留まらせてやったんですよ」

と看護師長。窓からの陽を浴びて、その翼はつやつやと健康そうに光っていた。

「……アレッタ。お前も、俺になんてついていなくていいから、主人のところへ行ってやれ」

 アレッタは頷き、ぱたぱたと僅かに翼をはためかせようとしたが、その場によろめいて、それ以上の飛行は不可能そうだった。まさか、羽を傷つけたか? と蒼白になったが、痛そうというよりは哀しそうな顔が彼の目をじっと見あげ、甘えるように一声鳴いた。

「あ、ああ。腹が減ってるのか。……ごめん、誰か、生肉をやってくれないか」

「エリーちゃん、生肉ですって。配膳室に頼んで、貰ってきてくださる?」

「はーい」

 恐らくは師長の部下であろう女性に声をかけ、ぱたぱたと走り去ってゆく音が聞こえた。まもなく、これで良いですか、と小さく切られた鶏肉が、ボウルに入って、水と一緒に出てきた。何を食べる生態なのかは分からなかったが、アレッタはそれで問題ないようだった。えずくように懸命に肉を呑み込み、一緒に出された水皿に口をつける。それをじっと見守っていると、機敏に彼の方を振り向いたアレッタが、まるで親でも見あげるかのように頻りに首を傾げる。

「はは。ようやく、俺にも慣れてきてくれたか。なあ、アレッタ。お前、ちっちゃな頃から、ずっとあいつを見守ってきたんだものな」

 その柔らかに手に馴染む、虎目石を削りあげたような羽根を撫でながら、デイビスはそっと目を伏せた。

(そうか。お前、俺よりずっと、カメリアのことを知っているんだな)

 きっと、あの一面の花畑で、一緒に戯れて。
 同じ空を仰いで。
 アレッタは、まだ幼い彼女が語る、夢にあふれた舌足らずな物語や、想像に満ちた冒険譚を受け止めていたはずだ。そしてそれと同じだけの愛情を、この隼は、忠誠という形で主人に返し続けたのだろう。きっと、誰かのために、と願い続ける彼女の夢は、彼女を愛する者から受け継いだ、最良の贈り物でもあったのだ。そしてカメリア自身もまた、その想いをドリームフライヤーに託して、後世に繋いでゆく。まるで、小さな架け橋のように。

 その時、ノックの音とともに、医務室の戸口へ、二つの人影が現れた。

「起きたか、デイビス」

「……おー、」

 スコットとベースだった。真っ白な光に溢れた医務室の中へ、あまりに自然に入ってくるので、さっきのことは、夢だったのだろうか、と思った。
 けれども、確かにベースの背中をこの手で撫でてやったような気がする。まさかこの俺が? 相手は、あの鬼のベースだぜ? 考えてみると、彼らの涙を、自分だけが秘密裏に垣間見てしまったような気がして、気恥ずかしさに目を逸らした。

 何も知らないスコットは、その逞しい腕を伸ばすと、くしゃ、とデイビスの髪を掻き回す。

「この、悪戯な問題児の若造が。人に心配ばかりかけさせおって」

「お、おい。何かもっと、他に言うことあるだろ」

 しかしスコットは、深い愛情の籠もった眼で彼を見つめ、

「一番伝えたいことが、いつも言葉になるとは限らないよ」

と呟いたきり、腕を組んで病室の壁に凭れかかり、ほかに何も言わなかった。

「デイビス。あなたという人は、本当に……」

 ベースは何かを言いさして、ぐっと言葉に詰まったかのように、それ以上何も言えなくなった。デイビスは得意になって、ニヤニヤとしながら自分の顎を撫で回し、

「いいって、いいって。俺のために、さめざめと泣いてくれたんだろ? いやあ、あのベースがねえ。俺としては、それでじゅーぶん……」

 すかさずスコットが、パカン、とデイビスの頭を叩く。

「いってー! 何すんだよ、スコット!」

「お前には配慮というものが足りない」

「怪我人の俺への配慮は!?」

「いいかデイビス、いつまでも私たちに甘えているな。そろそろ大人になれ」

 相変わらずストイックなスコットの厳しさを見かねたのか、ベースは仲裁に入って、

「まあまあ、彼は実際、本当に偉大なことを成し遂げましたよ。ストームライダーIIがレーダーから消えた時は、肝が潰れるかと思いましたが」

「あー、あれ? ちょっとしたマジックだよ。偉大なミッションにはサプライズがつきもの、だろ?」

「もう、馬鹿なことばかりポンポン言って」

と笑い混じりに呟きながら、ベースはそっと、睫毛に浮いた涙を拭った。それを見つめながら、今までにない二人への純粋な愛おしさが、デイビスの胸の中に込みあげてきた。

 たぶん自分は、彼らの期待に応えるために、ずっとここで気を張って演技してきた。
 明るくて、お調子者で、規則を破ってばかり。そういう人物になり切ることで、自分の居場所を必死に守ろうとしてきた。

 本当は、嫌われたくなかった。彼らに愛されているという証がほしかった。
 誰もいない大空に飛び立つばかりでなく、この地上で、多くの人たちに受け入れてもらいたくて。
 でもきっと、そんな無意識下の夢は役目を終えて、空に消えてしまったのだろう。
 今はただ、青空を吹き抜けるような風が、胸を染めるばかり。

 俺は、守れたのだろうか?
 この二人へ密かに捧げ続けてきた、けして尽きることのない愛を。

 スコットはそこで、デイビスの膝に乗って、彼を守るように立っているアレッタの存在に気づいたようだった。

「この隼は、何だ? 医務室に動物なんぞ連れてきて良いのか」

「あー。アレッタだ。俺の友達」

「お前、鳥なんぞを友人にしているのか。変わった奴だな」

「ええっと——そういうことは言わない方が——」

 鳥なんぞ扱いされたアレッタは、明らかにスコットに対して剣呑な目を向けていた。しかしベースは、キラリと眼鏡を青く光らせて、

「……写真を撮っても、いいかしら?」

「え?」

と不審に思ったデイビスが止める間もなく、

「こっ、これが、あの人のパートナー。いつも離れず、世界中に連れて回ったという。なんて美しいの。本当に目の周りに青い模様があるわ。あの人は、こんな生き物を肩に乗せて歩いていたのね。ああ、目に浮かぶようだわ……あの人が風の中で、この美しい鳥と同じ方向を見据える凛とした姿」

 一応、個人名は出さないように配慮しているようだが、主にそれ以外の部分がダダ漏れだった。どこから取り出したのか、バズーカのようなカメラを構え、バシバシとシャッター音を響かせている。相当に迷惑そうだが、威嚇まではしないアレッタの心がけを褒めてやりたい。

「ス、スコット。これは本当に、ベースなのか」

「にわかには俺にも信じ難いが、本当に思い入れの深いものを見ると、人は豹変するといったところだろう」

「ポート・ディスカバリーって、本当に変人しかいないんだな。貴重な常識人はあんただけだよ、スコット」

 途方に暮れたデイビスに、スコットはどうだかな、とでもいうように肩をすくめた。

「しばらくは、私もお前も、ストームライダーには乗れはしないな」

「ああ、乗っては大破して、お預けになって。その繰り返しばっかりだ。損な稼業だよなー、本当に」

「……また、フローティングシティのバーに行って、呑むか」

 デイビスは、毒気を抜かれたように彼の方を振り向いたが、スコットが物静かに表情を緩ませているのを見ると、ニッと不良少年のように笑った。

 一時期は門限を破って夜遊びばかり繰り返し、自暴自棄にも見えたデイビス。仕事で鬱憤を晴らしているかに見えたが、明るい表情にもどこか深い翳りがあり、時々、苦しいまでに自虐的な顔を浮かべていた。

 けれども今は、胸のつかえがとれたように、穏やかな表情に変わっている。今回のフライトこそが、彼の成功体験となったのだろうか。その特徴的な翠緑の瞳は、大空とも見紛うほどに堂々と光り輝いていた。

「もっちろん、あんたの奢りだよなぁ、スコット? 可愛い部下が立派に指揮官を務めたんだ、ドンペリを開けてお祝いしてくれてもいいよな」

「馬鹿言え、今回のフライトでお前も昇進するんだ。私にたかる立場じゃないだろう」

 デイビスは、きょとんとしてスコットの顔を見あげた。冗談を言っている——訳ではないらしい。いくら待っても、それを打ち消すような言葉は重ねられなかった。

 そして、医務室に舞う埃を煌めかせるような陽射しの中で、初めてスコットが、悪戯に成功した大きな子どものように、くしゃくしゃな笑顔を花開かせた。


「部下じゃない。上官でもない。ようやく私に追いついたな、デイビス」


 デイビスは、少し驚いたように、その無邪気な笑いを見つめていたが、やがて深い輝きに満ちた、挑戦的な緑の眼を細めて、彼の笑顔に明るく応えた。


「———ああ。俺はあんたの、最高の相棒だからな」


 面会時間を終えて、そこからが闘いだった。どうにかしようとして病室を脱け出そうとするデイビスを、鉄壁の守護ディフェンスを誇る看護師が、ことごとく立ち塞がったのである。

「安静にしてください」

「待っている奴がいるんだよ。ずっと昨日から待たせてる。一秒でも無駄にしていられない」

「では連絡を取って、待ち合わせを先送りにしてください。お医者様の指示に背いたら、僕が叱られます」

 ぐぬぬ、とデイビスは口をつぐんだ。並みに闘っては、この鉄壁に負けるほかはない。

「こ」

「こ?」

「告白しに行くんだよっ、これからっ! 待たせて振られたら、あんたのせいだぞ」

 ブラフだったが、思いの外響いたようである。看護師は顎に手をやって、少し考えると、

「それは、いけませんね」

「な? そうだろ」

「手土産ならここにたくさんあります。ささ。遅刻の謝罪として、赤い薔薇の花束を」

「は? ……いらねえよ」

 ていうかここの花は全部、見舞客から貰ったやつだろ。どうなんだ、それって。

「さあ、髭を剃りましょう。こんなパジャマではいけません、ネクタイを締めて、モーニングコートを着なくては。これは、僕の愛用している香水です。あ、シュッ、と。おお、立ちのぼる優雅な薔薇の匂い。胸の奥底に眠っている、官能的な愛を掻き立てます」

「え、ええっと。俺は、そこまで気合い入れるつもりはないんだが」

「申し遅れました、僕の名前はアンドレア。いつも兄がお世話になっております」

 嫌な予感がした。この、やけに気持ち悪い言葉遣い。間違った美麗キャラ。そして、一字違いのこの名前。

「お察しの通り、僕と兄は一卵性の双子でして」

「アンドレイ! 出番だぞ! 貴様の弟を、なんとかしろーーーッ!!!!」

 デイビスが大声で件の整備士を呼ばうと、突如としてスパァンと病室のドアが開き、問題の人間が、鬱々とした雰囲気をともなって現れた。

「話は聞かせてもらいましたよ、デイビスさん。僕のストームライダーに乱暴狼藉を働いたくせに、自分はランデブーですか。結婚ですか。駆け落ちですかあああああ」

「兄さん、野暮なことをしてはいけないよ。僕らは黙って、愛の逃避行を見守るだけなんだ」

 凄え血の濃さだな。どうなっているんだ、この家系のDNAは。
 身だしなみを整えるのもそこそこに、彼はCWCを飛び出した。



 階段を駆け登る。

 呻くような痛みが全身を貫いたが、もう疲れはなく、跳ねるように駆け出すことができた。潮風が、心を洗うような爽やかさで拭いて、汗ばんだ彼の肌を冷ましていった。途中、何度か息を切らして休みながら、それでも何とか頂上に辿り着く。いつもはこんな階段などなんてことのないはずなのに、今日はいやに目の前に立ちはだかるように思えた。

 草の靡く、岬の上。
 見慣れた、ドリームフライヤーのシルエット。

 どくん、と心臓が跳ね上がった。胸が震える。そのシルエットを見るたび、ああ、またやってきたんだ、と思っていたから。嵐の一夜を過ごして、その飛行機は奇蹟的に損壊を免れていた。

 ようやく本来の主人の居場所を見つけた隼は、彼の肩を蹴ると、真っ直ぐに翼を広げて舞いあがる。

 吸い込まれそうな空。
 嵐を超えたからか、洗い流されたように頭上のキャンバスは青く。

 待ち焦がれていたように、アレッタが高らかな鳴き声をあげて羽ばたき、ドリームフライヤーの背凭れに止まる。まるで一枚の絵画のようだ。羽を広げて、座席に身を横たえている人物を見守り、自らの主を傷つけようとする、あらゆる悲劇から守護しようとするかのようだった。
 たったそれだけの光景なのに、どうして胸が衝かれるのだろう。



 どうして———こんなにも、心を揺さぶられるのだろう?



(———うん、分かった。それじゃあ私と、友達になろうよ!)

 悪意のない世界に生きる人間ではなかった。
 孤独の苦しみを知らない人間でもなかった。

 それでも——心の中に強い芯を持って、自らの決めた夢に命を捧げている。それがある限り、彼女は何者にも汚されない。その魂は、いつも青空のように澄んでいて、どんな醜いことも、おぞましいことも、無限のまぶしさのうちに浄化してしまうのだった。

 それは、彼の理想の雛形だった。心の底でずっと、彼女のようになりたい、彼女に追いつきたいと望んでいた。ポート・ディスカバリーに生きる人々は、その誰しもが、ストームを消滅させた彼のことを、英雄のように思っているかもしれない。しかしデイビスにとっては、そうではなかった。自分の真実をけして見失わずに歩み続ける、彼女が、彼女こそが、英雄だったのだ。

 よろめくように近づいて、起こしてしまわぬよう、そっと音を殺しながら、ドリームフライヤーを覗き込む。酷い有様だった。座席は泥や草の切れ端で汚れ、どこもかしこも濡れていて、ドレスにも大きく土がこびりついている。水溜まりに滑って転んだのかもしれない。裾が破れていたし、流れ落ちる髪は乱れていて、靴は破れ、もはや駄目になってしまったようだ。あちこちが擦り傷だらけで、血が固まっている。暴風雨の中、たったひとりでこの岬に立ち続けることが、どれほど過酷な試練であったのか、一見して語るに及ぶまい。そんな彼女は、一晩中耐えて疲れたのか、今は少し背を丸め、微かに胸を上下させて、子どものようにちいさな寝息を漏らしていた。

 デイビスは、黙って彼女の姿を見つめていたが、やがて静かに手を伸ばして、顔に散らばっている栗色の髪を、耳にかけてやった。すると、陽射しの下に、伏せられている長い睫毛と、柔らかな頬が露わになった。現れるのは、無防備なあのあどけない顔立ち。その手には、いつか彼が贈った、金糸雀のピン・ブローチが握られ、まるで祈るように顔のそばに添えられている。何の夢を見ているのだろう——嵐の後の太陽に照らし出されて、その口許には、どこか幸せそうな微笑が浮かんでいた。デイビスの手はためらいがちに、その泥だらけになった頬をそっと拭った。




————ああ、生きていてくれた————




 その瞬間。
 胸が、張り裂けるようにざわめいた。慟哭のような感情も想いも、堰を切って全身に押し寄せてきた。自分でも信じられなかった——怒濤の安堵に襲われて、息すら満足に吐き出せないほどだったとは。

 気づいたら、景色が滲んでいた。頭上に広がる青も白も、全部が反転するように——その像を前に、色を失った。声も出せない彼を見て、違和感を覚えたらしいアレッタが、不思議そうに首を傾げる。実際、彼は崩れ落ちてゆく体を手すりで支えながら、曇りゆく視界の中で、ぼろぼろになってそこに眠っている、彼女だけを見つめていたのだった。

 自分が生きて還ってきた理由は、今度こそ、自分の本心と向き合いたかったからなのだと。

 そう悟って、心の底にずっと抱いていた気持ちに、初めて、勝てない、と白旗をあげた。本当の自分は弱いし、ずるいし、かっこ悪いし、特別でもなければ、価値のある人間でもない。けれども、本当に美しいものに憧れて、この世で何が大切で、何が価値のあるものなのかを理解することはできる。それと同時に、全身に込みあげるただ一色の感情を、やっと受け入れられた気がした。今は息をするたびに感情がめぐりめぐって、鳩尾を洗うようにすみずみにまで押し寄せてくる。

 嵐が過ぎ、雲の切れ間から降りそそぐ、柔らかな太陽の光に照らし出された海。
 爽やかな風が吹き抜ける草原を背にしながら。

 彼らを優しく包み込むドリームフライヤーの庇の下で、デイビスはようやく——その双眸から、一条の涙を流したのだった。





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