TDL二次創作「A twinkle of Mouse」1.ミッキーの家とミート・ミッキー
JOLLY TROLLEY。
直訳すると、"ご機嫌な路面電車"といったところか。なるほど、確かに遠目から見ていると、そのユラユラと運行する様は、子どもが、あちこちのものに気を取られながら楽しそうに歩く姿に似ている。ワッキー・レディオ・トゥーンタウンでもコマーシャルを打っており、宣伝文句は、「いい旅したけりゃジョリートロリー、ちょっとそこまでジョリートロリー、いつでもどこでもジョリートロリー、乗るならやっぱりジョリートロリー」。
ただし、それは遠目から見ていたらの話。むろん、乗車していてもその揺らめきはのんびりと愉快であり、アンケートによると、五人中六人までもが支持しているようだが、ある種の人間たちにとっては、地獄のような乗り心地を与えていた。
「酒酔いから話が始まんのかよ……」
ゾンビのような声を出して蒼白になっているデイビス。横には、同様に顔色の悪いスコットが、彼と背中合わせにぐったりと凭れていた。
ジョリートロリー運行以前、トゥーンタウンには、ロケットや大砲、パチンコ、殺人レベルの腕前のキャブなど、イカれた移動手段しか存在しなかったため、対多人数用として新たに採用されたのが、この路面電車である。陽気な赤と白の縞模様の車体に、どこか微笑ましい、ゆったりした動きが特徴的だが、なんと動力はぜんまい仕掛けで、揺らめくような乗り心地とともに、屋根に取り付けられた黄金のそれがキリキリと回る。さらには、つまらないことを嫌うトゥーンの仕業で、トロリーの通るレールも無駄にぐねぐねとうねっており、長い墜落の後にやってきたその眩暈に、滅多に酔わないデイビスとスコットも、おえー、と車の外に顔を突き出し、吐き気と格闘し続ける。
「俺——もう、死にそう——」
「奇遇だな、私もだ」
二人のぼやくそばから、チーン、と信号機から生えた手が、単線の行き先を示す。灯す光が赤から青になり、ジョリートロリーは意気揚々と前進した。
常の乗客がトゥーンなら、やはり運転手もトゥーンである。深夜の客にハイテンションになったのか、やたらとチンチンと鐘を鳴らしながら、大声で話しかけてくる。
「ハロー? お元気ぃ、酔っ払いさんたち? 吐くゥ? 吐くゥ? 残念ね、エチケット袋は品切れ中なの。アッヒャヒャヒャ!」
クソうぜえ。怒鳴り返す元気もないまま、終着駅の停留所に着いた二人は、なんとか、よろよろと外に転がり出た。
停留所の目印となっているのは、トゥーンタウン承認の日、大洪水のトラブルの中で行われた、嵐の演奏会の記念碑である。指揮者をメインに建築された噴水からは、ぴふー、ぶぴー、ぴろろろろ、という奇怪な楽器の呻きとともに、あちこちの顔のついた管楽器から、水が噴射されている。
もう夜も遅く、闇に沈んでいる街並みだが、その輪郭はぐにゃぐにゃとしていて、色彩も突拍子もなく、まるでアニメのように表情豊かに思える。白い柵に沿ってぐるりと歩いてゆくと、大きな黄色い壁の一軒家が、手入れされた美しい庭とともに、彼らの前に現れた。
スコットは、その玄関先に家の主を見つけ、
「デイビス」
と肘でつっついて教えた。
するとそこには、正面アプローチ階段にちょこんと座り、頬杖をついている、大きな耳のついたシルエットがひとつ。
● ●
(´・ω・`)
( ∩∩ )〜
「……アレじゃないのか?」
「やる気ねえ顔文字だなあ」
「暗闇にポツンといると、なんだか怖いぞ」
家の主は、ポットの注ぎ口にも似た鼻を下に向けて、どうもなにか悩んでいたようだったが、スコットの引きずるスーツケースの、ゴロゴロという音に、ぱっと顔をあげた。
「よお、あんたがミッキー・マウス? ようやく対面できたな。俺がストームライダーパイロットの、キャプテン・デイビスだ」
「やあ、デイビス! それに——君は、キャプテン・スコットだね」
「ああ、どうぞよろしく」
ブラックコーヒーのように渋い挨拶とともに、スコットが手を差し出すと、ミッキーも嬉しそうに耳を羽ばたかせて握手を交わした。燕尾服に黄色い蝶ネクタイを合わせて、その尻尾はクルクルと絶え間なく動いている。
「お会いできて、光栄だよ。遠くからよく来てくれたね」
「ところで、なんでこんな秋の夜中に、ひとりで外に出ているんだよ。寒いだろ?」
「ミニーに、追い出されちゃったんだ」
「まーた、尻に敷かれているのかよ? 本当に立場弱いんだなあ、お前」
しょぼん、と落ち込むミッキーに、デイビスは背中を叩いてやりながら発破をかける。
「ほらほら、自分の家なんだろ? 入れねえ方がおかしいじゃん。
よーし、分かった。俺が代わりに、ミニーに文句を言ってやる」
袖をめくりあげてドアノブに手をかけるデイビスに、慌てて、ミッキーは立ちあがって、彼のシャツを掴んだ。
「違うんだ、僕がちょっと失敗しちゃって、ミニーは今、お掃除をしてくれているんだよ」
「失敗? あー、なんか牛乳でもこぼしたのか?」
「それが……」
浮かない顔をしているミッキーに構わず、デイビスは何気なくドアを開けて———
「…………」
ぱたむ。と閉めた。そして背後にいるミッキーに向かって、後光を浴びながら、天使のような微笑みを浮かべるデイビス。
「えっと、ひとつ確認なんだが。この家って、ホーンテッド・マンションじゃねえんだよな?」
「うん、そのはずだよ」
「なんだって、天井にソファが突き刺さっていたんだ?」
訝しむデイビスに対して、ミッキーはてへ、とでもいうように、頭をコンと叩いて。
「いやあ、ちょっぴり失敗しちゃってね。ハハッ」
「どう見てもちょっぴりってレベルじゃなかったんだが?」
「ミッキー、床はだいたい、お掃除し終わったわよ。……あら」
ぱかり、とふたたび玄関のドアを開けられた先に、懐かしの丸く大きな耳、ぱっちりとした目、それに愛らしい長い睫毛。今はカジュアルな秋の服装で、紫色のざっくりとしたニットに、南瓜色のスカートとベレー帽、それにタータンチェック柄のストールを巻いていた。
「まあ、デイビス、お久しぶりね。お元気だった?」
「よお、ミニー、ロストリバー・デルタ以来だな。あ、こっちは俺の相棒で、スコットっていうんだ」
「よろしく、お嬢さん」
「まあ、ハードボイルドなお客様ねえ。ちょうどいいわ、みんな、どうぞ入ってちょうだい」
「お邪魔しまーす。しっかし、ミッキー、広い家に住んでるんだなあ」
家主の代わりに歓迎するミニーの後に続いて、デイビス、スコット、ミッキーの順にぞろぞろと上がった。
入ってすぐ目に入ってくるのは、慌てて掃除したらしい、釣竿やトランクケース、服などを詰め込んだ物置を携えた、木製の階段。二階へと続いてゆくその壁には、たくさんのスナップがかけられていて、そのうちの大きな一つは、口髭の生えたハンサムな中年男性が、ミッキーに笑いかけているところだった。デイビスが不思議そうにそれを見ているうちに、背の高いスコットは、居間の天井に突き刺さったソファを何とか引っこ抜き、どしん、と重い音を立てて、それを暖炉のそばに設置した。
改めて見回してみると、天井に大きな穴が空いている以外は、品の良いリビングルームだった。暖かなマンダリン・オレンジの壁紙に、トゥーン調にねじ曲がってはいるが、艶のある胡桃色の石造りの暖炉、マントルピースの上には幾つかの写真立てが据えられている。どうもミッキーは、思い出の品々をあちこちに飾りたがる性質のようで、キャビネットの中にも、多くのスナップや賞状、ファーストシューズなどが置かれている。調度品は全体的に、落ち着いたシック・ブラウンかグリーンで統一されている中、ソファだけがモダンな幾何学模様で、よく見れば、その模様のひとつひとつに、ミッキーの顔の形がちりばめられているのだった。
暖炉の前のバスケットで寝そべっていた犬は、深夜の客人に、ゆくりなく顔をもたげて近寄っていった。
「プルート! さ、ご挨拶して」
「わおん」
遠慮なく顔を舐められて、デイビスは嬉しそうに笑い声をあげた。スコットは早速、お座り、お手、伏せ、と忠誠心の具合をチェックし、賢い犬だと感心していた。ミッキーは遙々やってきた二人のために、薪をくべて、暖炉の火を強くする。
「でも、知らなかったな。ミニー、あんたミッキーと一緒に住んでいたのか」
「ああ〜ら、いやあね、一緒に住んでなんていないのよ」
尻尾をくねくねさせて、ハート型にさせながら照れるミニー。しかし彼女は、お熱いねえ、と言いながらソファに腰掛けようとしたデイビスの首根っこを素早く掴むと、即座に部屋の隅に連れてゆき、彼にごにょごにょと耳打ちをした。
「ちょっと、デイビス」
「な、なんだよ?」
「もっと大きな声で言って!」
「は?」
「ミッキーったら、いつになったら私と同棲してくれるのかしら。もう九十年以上も恋人なのに、次のステップに進んでくれないの」
「そういうナイーブな相談を、開口一番、俺にしていいのか?」
ギリギリと歯噛みするミニーに、若干の恐怖を覚えながら、デイビスはなだめすかす。
「言えばいいだろうが、一緒に住みたいって」
「乙女心を分かってないわね。ミッキーの口から聞きたいの!」
「はあ、言った方が早いと思うけどなあ」
「一応、意思を伝える努力はしているのよ。フェアリーテイル・ウェディングのパンフレットを、毎日、そっとポストに入れているくらい」
「頼む、やめてやれ。物凄いプレッシャーだと思うぞ、それは」
思わず両手で顔を覆うデイビス。想像しただけで、きりきりと胃が痛む。
一方のスコットは、勧められたソファに座りながら、ポキポキと肩の骨を鳴らしつつ、大きく息を吐いた。ミッキーはいそいそと働いて、追加の椅子やテーブル、それにティーセットを運んできている。
「夜分すまないな、こんな時間に上がり込んで」
「いやいや、僕の方から呼んだんだからね。はい、紅茶」
コポポポポ、とそそぐ薄黄色の液体をティーカップで受け止めながら、静かに、それを口元に持ってゆく。
途端に、ぶほぉっと、思いきりむせるスコット。足元に伏せていたプルートが、びくりと跳ね起きて、ミッキーの周りをぐるぐると回り始めた。
「な、なんなんだこの味は!?」
「あれあれ、スコットは知らないのかい? 今巷で流行っている、チーズティーだよ。お茶っ葉の代わりに削ったチェダーチーズを入れて、お湯で三分」
「頭おかしいのか?」
「変だなあ、『THE INFORMATION CHEESE ALMANAC』のレシピ通りにしたのに」
首を傾げながら、チェダーチーズ色の分厚い本をパラパラとめくるミッキー。
「付け合わせも……チーズケーキか。マジでチーズだらけの生活なんだな」
「No cheese, no life.」
「徹底してるなー」
モグモグと口を動かすデイビス。先ほどさんざん食べたにも関わらず、早くも自分の分を食べ切りそうな勢いである。
すると、彼の足元を、みゃあ、と小さな声をあげる生き物が掠めた。
「うおっ、猫だー!」
さっそく、猫好きのデイビスはヒョイと抱きあげて、そのふわふわとした黒い仔猫と戯れながら、膝の上に乗せた。
「名前は? ——フィガロ! 可愛いなあ、お前」
「フィガロは、私の飼い猫よ。たまに、ミッキーの家に連れていって、プルートと一緒に遊ばせてあげているの」
「?」
スコットは一瞬混乱したようで、深く皺を刻み込んで眉根を寄せた。
「ネズミが猫を飼ってネズミが犬を飼っているのか?」
「ネズミが、猫や犬を飼っちゃいけないという法律でもあるのかい?」
何を妙なことを、とでも言いたげなミッキー。思考と直結しているのか、彼の尻尾は?の形になっていた。
「スコット、あんた、ディズニーへの耐性がなさすぎるぞ? いちいちツッコんでたら、体力なくなるからなー」
「お前はなぜ、そうも馴染んでいる?」
スコットの素朴な質問に、デイビスは軽く肩をすくめるだけに留まる。
「一応、ミッキーとは今日が初対面なんだけどな。でも、初めての気がしねえや」
「何回かは、すでに無線機越しに会話していたからね」
「そうそう、前作では、最後まで"声だけの怪しい奴"だったよなあ。まあ、会った後でも、これっぽっちも印象は変わらねえが」
なるべく味を気にしないように、ずずー、とチーズティーを飲み干しつつ、デイビスはミッキーとミニーを見比べる。つーか、お前ら二人、本当にそっくりだな。並んでいるところを見ると、片手に収まるほどの差分しか見当たらない。
「それじゃあ、そろそろ本題に入ろうか。僕が、君たちをここに呼び出した理由」
「おー。よろしく頼むぜ」
答えついでに、げふ、と息をつくデイビスに、汚ねえなあ、とスコットは批難の目を送る。
じじ、と暖炉の炎がじりついた。その奥深く封じ込められたような熾火に、美しい曲線を描く横顔を照らし出されながら、ミッキーは静かに語り始める。
「二〇二〇年二月二十九日。東京ディズニーランド、および東京ディズニーシーは、およそ四ヶ月にわたる臨時休園に入りました」
「まさかの時事ネタかよ」
「はじめの方は、来たるべき再開の日までに、万全の準備を整えようと、張り切っていたんだけど。そのうちに、なんだか、魔法が使えなくなってきたことに気づいたんだ」
「え?」
「正確には、使えるんだけど、なんだかおかしなことになってしまうんだ。そうだな、例えば——」
ミッキーはゆっくりと立ちあがると、
「デイビス、煙草の火はいる?」
「お? 吸っていいのか? じゃ、遠慮なく」
デイビスは嬉しそうに懐から煙草を引き出すと、慣れた素振りで口に咥えて、ミッキーの近づける指に、穂先を寄せて思いきり息を吸う。
その瞬間————
バウンッッッッッッッッッ
と妙な音を轟かせて、ミッキーの家の煙突から、キノコの形をした爆風が、トゥーンタウンの夜空へと舞いあがった。
「こんな風に、暴走してしまう」
「やる前に、一言言ってくれるか?」
デイビスも、スコットも、チリチリと爆発したアフロヘアになっていた。焦げた匂いに嗅覚をやられたのか、くしゅん、とプルートがくしゃみをする。
「ソファが天井に突き刺さったのも、それが原因なんだ。ミニーが転びかけていたのを、思わず、助けようとして」
「あー、それじゃ、前回の無線の叫び声はそれか」
ま、何事もなくて良かったけど、とデイビスは安堵する。あれほど大声を出して劇的に切れたので、誘拐でもされたのかと思ったが、そんなことはなかったようだ。
「この状態じゃあ、とてもゲストの前で、ショーはできなくて。表向きは、当面の間は休止、ってことにしているけれど——再開は、僕がいつ、元通り魔法を使えるようになるのかにかかっているんだ」
なるほど、プレッシャーになるわけだな——と考えて、デイビスは考えの行き詰まった時の癖で、自分の髪を掻き回した。
「はー。つまるところ、スランプだなあ。簡単に直るとは思わねえ方がいいぞ」
「どうしよう、デイビス?」
「どうすればいいんだ、スコット?」
「肝心なところは、全部私に丸投げか……」
スコットは溜め息を吐きながらも、自身の経験を振り返る。以前、自分が軍隊に所属していた頃は、確かにスランプを味わったともいえる——あれはもっと精神的な問題も抱えていたが——CWCに勤めている現在と比べると、そのパフォーマンスの差は、歴然としたものだった。
あの時は理由が明白で、その環境から逃げ出せば、すべてが解決されるものだったが、しかし今回の件は、そんな訳にもいくまい。なるべく言葉を慎重に選びながらも、スコットはゆっくりと語りかけた。
「一般論しか言えないが、まずは、魔法を使えないという事実を直視すること。そこからは、色々だな。環境を変えたり、気分転換をしたり、自分の心を振り返ってみたりするんだが——いかんせん、どれが効くかは分からない」
お手あげ、というポーズを取るスコット。
「それに、原因はなかなか複雑そうだしな。早く治そうと考えると、却って長引くかも」
「え? 原因は簡単じゃん、休園のストレスだろ?」
「お前は単細胞だから、そんな風に楽観的に考えられるんだろ」
ずけずけと言い合うスコットとデイビスのやりとりを、ミッキーは俯いたまま、黙って耳を傾けていた。
「なるほどー、じゃまずは手近なところで、気分転換でもしてみるか? ええっと、東京ディズニーランド、か。ここにはいったい、何があるんだ」
「はい、マップとTODAY」
デイビスは八つ折りになっているマップを広げて、最も落ち着けそうなエリアを探した。スコットも身を乗り出して、興味深そうに見つめている。
「おー、ワールドバザールってのがあるな。買い物しようぜ、買い物。あと、旨いもんでも食って、大道芸でも見て、ぼーっと日向ぼっこでもするか」
途端に、ミッキーは目を輝かせて、夢でも見ているかのように陶然とした。しかし何かを思い出したのか、ふたたびその表情は曇り、尻尾の先を切なく指でいじり始める。
「行きたいけど……でも、僕……僕……お仕事が……」
「んー? じゃ、シルエット・スタジオで、おじさんに影を切り取ってもらってさ。そいつを影武者にしたらどうだ? そうしたら、仕事に穴は空かねえだろ」
それを聞いて、ようやくミッキーの胸にも、実現性の希望が灯ったようだった。彼は忙しなくデイビスたちの顔を順繰りに見つめながら、何かの決定的な許しを得ようと試みる。
「大丈夫かな? 行ってもいいのかな?」
「おうおう、行っちまえー。たまにはサボるのも、立派な仕事だぜ」
けらけらと明るく笑うデイビス。またお前は適当なことを、とスコットは口を開きかけたが、ミッキーの心の内を慮って、やめた。彼は、今やぱたぱたと尻尾を振って、椅子に小さな音を小刻みに叩きつけているのだった。
「ありがとう!」
「ははっ、いいっていいって。友達だろ? 焦らずに一歩一歩、前向きになろうぜ」
友達———
何気なく発せられた言葉だったが、ミッキーは気づかれないように、そっと嬉しそうな微笑を綻ばせた。
「まあ、ワールドバザールに行くの? それは素敵ね」
浮き足立ってミニーに報告しに行くと、彼女もまた、外出に喜んで賛同してくれた。
「ここのところ、あなた、ずっと思い詰めていたようだったもの。きっと良い気分転換になるわ」
「明日一日、僕がいなくても大丈夫かな?」
「ええ、ゆっくり楽しんできてちょうだいね」
というわけで、朝一番にシルエット・スタジオで影武者を作ってもらった後は、ミッキーに任せて、自由時間となる。ワールドバザールは、目玉となるようなアトラクションは少ないのだが、十を超えるショップに、七つのレストラン(注、クラブ33は除く)と、充実した店揃えを誇っており、散策者たちが退屈することはない。ウォルト・ディズニーの幼少時代のあたる二十世紀初頭、大衆が「未来への希望」という美徳を持っていた時代で、とりわけ朝の光が射し込む時、ヴィクトリア朝時代をイメージしたアーケード(これは雨量の多い東京の気候を憂慮して取りつけたもので、ミラノのガッレリアを参考にしている)が、そのブルーイッシュ・グリーンの鉄骨に張り巡らされたガラスを一面にきらめかせ、まるで古き良き時代に全身を守られているかのように感じられるであろう。弾むようなラグタイムを聴きながら、通行人は季節ごとの飾り付けがなされたショーウィンドウを覗き込み、溢れるお喋りをガラスのドームに響かせ、早くも流れてくるポップコーンの香りに鼻をうごめかしたり、輝かしい黄金のサックス隊を前に集まったり、微笑ましいところでは、子供が手を離してしまった結果だろう、遙かアーケードの屋根に引っかかって、所在のないように揺れている風船も見えた。メインエントランスを通過したゲストは、この美しいアーケードを通り、その日一日への期待に心を弾ませながら、必ずシンデレラ城を正面に臨むのである。
「どうしよう。どうしよう。何を持っていこう」
ソワソワとし始めたミッキーは、さっそく、キッチンでサンドイッチを作り始めていた。細い尻尾がちょろちょろと動いて、輪を描くように宙を漂っている。
「ははっ、そーんな楽しみなのかよ? でもさ、もう夜中だし、明日疲れないようにベッドに入ろうぜ」
「でもせっかく、デイビスとスコットが連れて行ってくれるのに——」
「いいさ、これからも、好きなだけ遊びに行こうぜ。この先いくらでも、機会はあるよ」
「そうだな。子どもは、もう寝る時間だ」
スコットの厚い掌が頭を撫でてきて、自分を子ども扱いすることに、驚くミッキー。今まで、スーパースタアだとか、市長だとか、そんな大きな立場にしか見られてこなかった——しかし、さらりと告げられた彼の言葉で、自分は今、甘えても良い大人とともにいるのだ、という実感が湧いてくる。
「デイビス、スコット」
「どうした?」
「これからも、時々でいいから、僕と一緒に遊んでくれるかい?」
デイビスはぱちくりと瞬きをしたが、やがて、顔を赤らめて訊ねるミッキーへ、何かを察したように、優しい微笑みを浮かべる。
「もちろんさ。お前が行きたいだけ、何度でも遊びに連れていってやるよ。約束だ」
デイビスがそう言い切ると、ミッキーは嬉しそうに顔を輝かせて、彼の腰に抱きついた。
「こいつの遊び場は不埒な場所が多いぞ。ミッキー、気をつけろ」
「フラチ?」
「あーっ、変な単語を教えんなよ、スコット!」
「フラチなところも、行ってみたい!」
「あーあ、インプット完了しちまった」
できれば記憶してほしくなかった単語だが、ミッキーは構わず、元気に拳を振り回して、高らかに二人に呼びかける。
「たくさんのところに行こう! 時間は、たっぷりあるんだから!」
「ははっ。なあミッキー、お前のガールフレンドが、後ろから凄え顔して見てるんだけど、俺はいったいどうすればいいのかな?」
ボーイフレンドを誘惑する不穏な単語を察知したのか、遠くから、物凄い殺気とオーラを感じる。俺、このまま殺されるんじゃないか、という恐怖が背筋を駆け登り、デイビスは必死でミニーと目を合わせまいと目線を避けた。
「ミニー、君も、僕らと一緒に行こうよ!」
「ありがとう。でも、スタイルスタジオの準備があるから、私は少し難しいかしら」
それを聞いて、薔薇の萎れたようにミッキーの尻尾が地面に落ちたが、またすぐにピンと立って、思案を示すようにくるくると回り始める。
「お土産。お土産は、何にしよう?」
「そうねえ。元気にここに帰ってきて、ただいまのキスをしてくれたら、それでいいわ」
「それじゃあ、キスと、ぬいぐるみと、山ほどのお菓子!」
「素敵ね。楽しみにしているわ」
微笑ましいなー。まだ幼いが、とはいえ九十年以上の間柄を保つ相思相愛のカップルを、デイビスは暖かい笑みを浮かべて見守っていた。
遠く、シンデレラ城の鐘が鳴った。もう、深夜の一時だ。それじゃあ、と手を振り、ミニーは玄関を出て、自宅に帰る。
フィガロと離れて、デイビスは名残惜しそうだったが、近寄ってきたプルートに慰められ、その首元を優しく撫でてやる。プルートは体をもたれさせ、気持ちよさそうに目を閉じた。
「ベッドが二つしかないんだ。悪いけど——」
「スコットと同じベッドなんて、絶対に嫌だ!」
「こいつと一緒に寝るなどと、何の拷問だ」
さっそく、二人とも身の毛をよだたせて拒否したので、必然的に、どちらかがミッキーと同じベッドで寝ることになる。スコットは、とん、とデイビスの肩を叩いた。
「お前がミッキーと一緒に寝ろ。私では、寝返りを打った途端、彼を押し潰してしまいそうだからな」
「筋肉の塊だもんなー、あんた。パイロットに、そんなに筋トレっているのか?」
「ま、軍にいた頃の習慣みたいなものだ」
デイビスは、ひょいとミッキーを抱きあげると、その子どものようなネズミと目を合わせた。
「よーし、じゃミッキー、俺と一緒に寝るか?」
「うん!」
そこで三人とも、しゃかしゃかとたっぷりの泡で歯を磨き、ぶくぶくと顔を洗い、三角形のおそろいのナイトキャップを被って、おもむろにベッドの中に入った(ナイトキャップはミッキー提供)。明かりを消す。トゥーンタウンは、最後の電気を消して、ようやく夜の帳に閉ざされた。ミッキーは、しばらくは大人しく布団に入っていたようだが、まもなく、暗闇の中で嬉しそうにデイビスを振り返り、にこにことして言った。
「明日は僕が、ゲストになるんだ!」
「あはは、よかったなあ。日頃の羽を伸ばして、思いっきり楽しめよ」
デイビスは腕を伸ばして、ナイトキャップの上から、くしゃくしゃに頭を撫でた。くすぐったそうに笑うミッキー。しかし興奮は少しも収まらない様子である。
「ポップコーンを買って、ペニーアーケードでゲームをして、メインストリート・シネマで映画を観よう!」
「よしよし、そうだな」
「どこに行ってもいいのかい?」
「ああ、どこに行ってもいいんだぞ」
ミッキーはときめきが止まらず、ワッフルが食べたい、だとか、バイシクルピアノを聴こう、だとか、しばらくの間は、胸がはち切れるほどに明日のプランを思い描いているようだったが、そのうちに、デイビスと手を繋いだまま、すやすやと夢の中に入り込んでしまった。
(無邪気だねえ、出かけるってだけで、そんなに嬉しいのか。明日は、楽しんでくれるといいんだが)
デイビスは、寝顔を見つめながら、そっと布団をかけ直してやる。よく磨かれたその真っ黒な鼻には、小さな街燈の明かりが反射していた。
一方の隣では、家に帰り着いたミニーもまた、スキンケアを終えて、ベッドの中にもぐり込むところだった。フィガロはすでに体を丸めて、バスケットの中で、小さな寝息に髭を揺らしている。ミニーは手を伸ばして、そっと、カーテンの向こうに輝く三日月を見つめながら、寂しげな声で呟いた。
「デイビス、スコット。——ミッキーを、お願いね」
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