ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」20.彼を死に追いやるのは、ポート・ディスカバリーの人間だ
「————ドクター・コミネ!」
背後から駆け寄ってくる跫音とともに投げかけられた呼び声に、コミネはコツ、と靴音を鳴らし、緩慢に振り向いた。
「やあ。久しぶりだね」
一拍置いて、やや高い響きを帯びた独特の声が、リノリウム張りの床に微かに響き、首まで流れた艶のある黒髪が、驚くほど穏やかな微笑を縁取る。そして何より特徴的な、歯車で装飾されているあの銀縁の丸眼鏡が、廊下の明かりを反射して薄青く光った。
「今、お時間はありますか? お話ししたいことがあるのですが」
「ああ——そうだね、少しだけなら」
「この後は、風力発電所へ?」
「うん、蜂の巣を突いたような騒ぎになっているだろうからね。でも、君の話の方が重要なんだろう。優先して聞くよ」
言いながら、コミネは白衣の袖を引き上げ、無遠慮に腕時計を一瞥した。
「三十分で済ませよう。人に聞かれちゃまずい話? 五番の、小会議室で良いかな」
「助かります」
「いや、良いんだ。僕も君と話したかったからね」
コミネは、複雑なCWC内を、まるで道順を誤ることなく悠々と歩き、会議室のドアを開けると、先に彼女を中へと引き入れた。すれ違いざま、ちらりと目の端に入った彼の顔は、いつまで経っても若々しい——確かに年齢不詳だの、胡散臭いだのと騒がれる訳だ——もう四十代であるというのに皺ひとつなく、背筋はしなやかに伸びて、立ち居振る舞いや発言を見て取っても、とても中年だとは思えない。
コミネは、書類やらペットボトルやらをテーブルの上に置くと、溜め息を吐きつつ、彼女の真向かいのソファに座った。ぎし、と軋むスプリングに体重をかけ、微かに鬱陶しげに首を一閃させて、長い黒髪を後ろへ流す。
「勝手知ったるCWCの中。おお、懐かしい」
「数年振りでしょう。あなたは、前回の会議も欠席しましたし」
「うん、なるべくここには近寄らないようにしているからね。で、僕に何の用だい、アイリス?」
彼女が口を開きかける前に、間が悪く、無線が入ってきた。常にヘッドセットを装備している彼女は、コミネに軽く手を挙げてやりとりを制し、通信に応答する。
《ベース。今、お時間よろしいですか》
「後にして頂戴。今、お客様がお見えなの」
《では、簡単な状況報告のみで構いません。キャプテン・スコットには概要を伝達済み。依然として、キャプテン・デイビスには連絡を試みています。揃い次第、直ちにブリーフィングを開始します》
「了解。引き続き、よろしく」
短い言葉でもって部下をいなすと、コミネはきょとんとした顔で彼女を見ていたが、やがて会得がいったように声をあげて笑い出した。
「ああ、そっか——君、今はベースって呼ばれているんだっけ? そうかあ、変なあだ名だな」
「あなたがCWCからいなくなって、この組織の基盤は私一人となりましたので」
「もう、誰も君のことを名前で呼ばないの? 勿体ないな。アイリスって、良い名前だと思うんだけどなあ」
言いながらコミネは、テーブルの上に置いていた小さなペットボトルを開け、口に緑茶を流し込んだ。先ほどまで対策会議を行なっていたので、喉が乾いていたのだろう、ぬるくなった液体が、音を立てながら、食道を滑り落ちてゆく。
「ドクター・コミネ。あなたをここに呼んだのは——あなたの口から聞きたかったためです。率直に言って、どう思いますか?」
「ん。何が」
「今回のストームに対する、ミッション成功率」
「ああ。僕はストームライダーの専門家じゃないけどさ、君のその動揺具合を見て確信したよ。ほぼ、ゼロなんだろう?」
至極、簡潔に。
軽く擦れる音を立てて、ペットボトルの蓋を閉めながら、コミネは短い答えを口にした。
「まだ夏にも入っていないこの時期に、900hPaを切るなんて、異常中の異常だろう。しかもまだ発達を続けている。このまま870hPaを下回れば、世界の気象観測史上、最強の勢力となるね。前回の中心気圧は、何hPaだっけ?」
「最終的には、922hPaまで発達しました」
「じゃ、あれよりさらに50hPa近く低いわけだね。前回の惨状を知っている者なら、誰でも結果は予測できるんじゃないのかい? そもそも、試作品段階で、今回ほど強力なストームを想定された作りになっていなかったと思うけど。ねえ、まだやるつもり?」
「……CWCは、そのために存在する機関ですから」
「あっ、ふぅん、そうなんだ。へえ、まだやるんだ」
コミネは意外そうに目を丸くした後で、その顔からふっと表情を掻き消すと、一瞬、妖しいまでに真率な眼差しを閃かせ、可哀想に、と胸の中で呟いた。
「まあ、それがCWCの決定なら、口出しはしないけど。いいんじゃない? どうせもう、後戻りできないんだろう。残された選択肢は、進むしかない」
「ええ」
ベースは言葉を切り、一瞬、灰色の未来を見晴るかすように遠くを見た後、そっと目蓋を伏せた。
「発進させます、明日の夜。——恐らく、キャプテン・デイビスは帰ってこれないでしょう」
コミネは静かに、ゆっくりと瞬きをした。彼女の窮地に立たされている具合を汲むには、それで充分だった。
「了解。風力発電所も無論、最大限の協力をするよ。所長は僕だし、研究員たちも、今回の件はみんな理解してくれている。何と言っても、これほどの大型ストームが相手だと、データが命だからね。僕の発明したツールがあれば、研究員たちは何とか所内に隔離させたままで、各地の風のデータを君たちにも共有できると思うよ」
「ありがとうございます。あなたの発明品——カザミスティック、でしたっけ? もう実用段階に入っているんですね」
ベースはふと、数年前に見かけたその発明品の名を、脳内から引っ張りあげた。
「なぜ、あんな奇天烈な名前にしたのですか?」
「奇天烈かな? 最高にファビュラスでエコロジーでスペクタクルな名前をつけたと思ったんだけど」
「あなたって人は、本当にネーミングセンスが……」
「誰がなんと言おうと、あのスティックはあれでいいのさ。アリアも、ドクターEKも、素敵な名前だって褒めてくれたからね」
頭を抱えるベースに向かって、にこ、と少年のようにあどけない笑顔を見せるコミネ。
「ま、ストームライダーの陰に隠れて、ほとんど注目されなかったシロモノなんだけどさ。発表する時期が悪かったかな」
「私は——興味深く拝見しました。
流体力学と生命反応の関連性。あれは、海流にも応用できますね?」
「なんだ、気づいてたの。"彼女"もすぐに発明品の意義を見てとったけど——アイリス、僕の元相棒も、やっぱり勘が良いな」
空気が変わる。体温が数度冷えてゆくような錯覚の中で、コミネは唇の端をあげて、挑戦的にベースの眼を見据えた。
彼女、と言及された人物に引っ掛かりを覚えたが、それには切り込まずに、ベースは敢然たる態度で言う。
「そのあたりの凡百な科学者たちに、あなたの功績を理解できるはずがありません」
コミネは、唇に浮かべていた冷笑を、徐々に柔らかなものへと崩してゆき、優雅ささえ感じる唇を綻ばせた。
「嬉しいよ。君がまだ、僕の才能を信じていてくれて」
ふと、ベースの胸に、懐かしい感覚がよみがえってきた。二人でいる時の手酷いまでの口の悪さも、容易につけ入らせないプライドの高さも、不意に漂う、無言の、どこか寛いだ雰囲気も。何もかもを、覚えている。
ドクター・コミネとは、一体どういう人間なのか——長年のそばにいた人間でなければ、分かるまい。奇想天外な発言で周囲を攪乱したかと思うと、冬風のように冷酷に相手の魂を突き刺す。二面性が強いという点では、キャプテン・デイビスに似ていないこともない。しかしコミネの場合はもっと恣意的で、複雑で、完全に自己を掌握し切った末の振る舞いである。
自分と、コミネ。一見すれば、水と油のような取り合わせのようにも思える。しかし、どれほど心の距離があろうとも、冷たい顔立ちへ、不意に親密さを溶け込ませてこちらを見つめる、この笑顔が好きだった。恋愛——のような甘ったるいものではなく、友情のように青臭いものでもなかろう。その感情が何かと問われれば、恐らくは、自分なりの方法をもって真理を突き詰めるこの男への、揺るぎようのない信頼。そして、この男を理解できるのは自分だけなのだという、絶対的な優越感に近いもの。
もはや人生は分かたれ、彼の一番の理解者は自分ではない。そうとは分かっていても、細胞のふしぶしに染み込んだ彼への思いは、あまりにも容易く感情を丸め込んだ。この笑みと肩を並べたいからこそ、学生時代から十数年間に渡って、行動を共にしてきたのだと。
自分は未だに、全幅の信頼を寄せているのだ、この変わり者の男に対して——その信頼の依りたつところは、自分が「ベース」としてCWCにいる間は押し殺さざるをえなかった、誰かに縋りつきたい、という思いなのかもしれないが。
コミネは、その痩せ型の体を、とす、とソファに凭れさせて、長い足を高く組み、黒髪を揺らしながら語り始めた。
「うん、あれは単体では、幼児が好みそうな阿呆らしいスティックだけどね。けれども、人工知能と組み合わせたら、面白いことになるよ。
ハードの表面全体に、あのスティックの技術を張り巡らせることで、生命体に不可欠な"肉体感覚"を生み出すことが可能になる。そうすれば、気流、海流双方と生命体との関連性が明らかになるだろう? 今は海洋生物研究所と一緒に、開発を進めているところ」
「確かに、あそこの研究所が保管する海洋データは、CWCの保持している量とは比べ物になりませんね」
「うん、おかげで、画像と音声の教師データは大分揃ってきたよ。ゆくゆくは匂いも集めたいけど、時間がかかるから後回し。これに、さっきの流体力学のデータを合わせると、何ができると思う?」
コミネは、すっと声を低めて、冷たい水滴を落とすように、静かに言った。
「————一匹の、人工魚ができる」
ベースは、長い時間、彼の目を見つめた。しかし、いくら辛抱強く待っても、続きの言葉は紡がれそうになかった。
「……それだけ、ですか?」
「あれ? 思ったより響いていないみたいだな」
コミネは不思議そうに首を傾げ、さら、と白いメッシュの入った長い黒髪を滑らせた。
「魚群探知や、海流の調査に使えるんだけど。画期的な発明だと思わない? 生命反応の教師データとハードを変えれば、どんな種類の魚だって再現できる。まさに、生きたデータ観測機そのものだ。海洋生物研究所のメンバーは、海の生物の保護や観察にも利用したいみたいだけど、それはまあ、彼らの自由だからさ」
「でもあなたは——生物学に利用するために、それを開発したのではないはず」
「だって僕の専攻は、流体力学と気象学だもの。気象の動きを観測するには、何よりもまず海からだからね。膨大な数の人工魚を泳がせれば、衛星観測では把握しきれない水温、海流の詳細とともに、もっと生存本能に即した仔細なデータを得ることができる。知ってる? ストームが発生する前には、その付近から魚が激減するんだ。海中の事象だから、温度や雲の発達だけを見ていても、そんなの分からないだろう?」
「では、ストームの発生の予知に収集データを利用すると?」
「それ以外に何に使うの? 海流と気流の両方からデータを集めれば、より的確にストームの予兆を確認できて、より多くの避難時間を稼げるからさ。そしたら、あとは簡単。みんなで一斉に逃げればいい。これでみんなハッピー、めでたしめでたし、だろ?」
ベースは、呆気に取られてコミネを見た。逃げる? ここまで多岐に渡る高度な技術とデータを駆使しながら——出てきた結論が、それなのか?
「自然災害の被害は、食い止められるよね? 被害が出なきゃ、ストームがこようが何も怖くないだろう」
「でも避難は、莫大なコストが……その間、経済活動も止まることになりますし……街や家々は、どうするのですか? 災害自体の防止、では——」
「防止なんて無理だよ。だって馬鹿げているじゃないか、自然現象を掌握するだなんて。ストームは海を攪拌し、海水温度を平均化し、二酸化炭素を溶かし込んで、海洋全体を冷却させる効果を生む。そのストームを消滅させたら、海水温度はさらに二極化して、表面付近の水温が上昇し、より発達した積乱雲を生むということは、三歳の子どもでも分かることだよね」
「ええ。……だからストームライダーは、マリーナに接近したストームのみを消滅させます」
「本当に? 漁船が巻き込まれないようにと、市長の決定で、ストームライダーの発進決意範囲が沖合一五〇キロにまで広がったんだろう? フローティングシティの空中建設が始まっている今では、マリーナの安全を求めて、今後、より早期での発進が求められるはずだよ。それに、ストームライダーのおかげで特需景気に沸いているマリーナは、さらに発進数を増やして、諸外国に宣伝したがるだろうね。そもそも、ストームを消滅すると、より強いストームが発生するからなんて理由で、人々は発進の抑制に納得するのかな? 彼らは、この次のストームも、またストームライダーが消滅させることを能天気に夢見ていればいいんだもんね。だってストームライダーって、そのために造られたんだからね。
マリーナが自然災害から守られて、さらに経済活動が活発化するなら、確かにストームライダーは素晴らしい飛行機だね。でもたった数人、それの割りを食う人間がいるよね。君はそれを、必要な犠牲だと切り捨てて、見なかったことにしているんだよね」
今まで誰も言及してこなかったことを、こうまで冷笑混じりに、淡々と語られるなどと——
知っている。コミネは聡すぎる。
だからこそエキセントリックな皮を被って、自らの残酷なまでの怜悧さを隠そうとしているのだと。ベースは遙か以前から、その事実を知悉していた。
それは研ぎ澄まされた刃物で事物を抉るような聡明さだった。あまりに人を選ぶ。あまりに人から疎まれやすい。けれどもベースにとっては、その冷たさこそが、彼の何よりの誠実さの証なのだと信じていた。彼はどれほど人からなじられようが、不利な立場に追いやられようが、けして嘘はつかない。どんな処世術で道化ぶった振る舞いをしようとも、彼女は彼の本質を、けして見誤りはしなかった。
「だから自然現象が発生したら、生命維持に最適な対策だけ取るようにすればいいんだよ。中途半端に経済だなんだのと、余計な事項が絡むからおかしなことになるのさ——そこから、泥まみれのチキンレースが発生するからね。
でも、ストームライダーは見事にその坩堝に嵌まったよね。開発費用でも支出してもらった? その見返りに、宣伝広告塔として利用することを許可した? 最大の危険を伴うパイロット職は、嵐に向かって飛び立つヒーローなんだっけ? そのヒーローを絶やさないために、性別、年齢、国籍を問わず、すべての人々に門戸を開いているんだよね? パイロットの技術さえあれば、十歳の子どもでもコックピットに乗せるつもり? 必ず二機同時発進させるのは、パイロットの使い捨てを前提としているから? それがCWCの語る、自由という言葉の本当の意味だよね?」
「あなたは……あなたは、どうしてそこまで分かっていながら、」
「じわじわと経済のために活動範囲を広げて、さまざまな言い訳を並び立てて、それを理由に別の領域から資源を搾取して、人を駆り立てて。あれ、それって、何かを思い出すなあ。……ああ、そうだ、"あの人"の生きていた時代の、欧州列強に似ているんだ」
しらじらしく声をあげるコミネに、ベースは酷く悲痛な衝撃を受けて目を見開いた。
その人物には。
言及してほしくなかった。彼女の心の急所だった。
ベースとコミネの繋がりは、まさしくその人物に端を発していたのだから。
「懐かしいなあ、学生時代、大学の中庭で昼食をとりながら、"あの人"の当時の周辺人物について、さんざん悪態をついたよね。君はもう忘れてしまったみたいだけど、僕にはとっても良い思い出なんだ。僕は全然友人がいなくてさ、でも君が話しかけてくれて、初めて、夢を語り合う友達ができたんだよね」
「……私は……私は、違います。あんな風に、人間を追い詰めたりしない。それにパイロットがストームライダーに搭乗するのは、当人の意志です」
「"あの人"だって、研究は自分の意志だったよ? それを妨害するか、強要するかの違いだけで、結局、一人の人間の運命に対して権力を行使している点は変わらないよね?」
「違います! 私は入所前に——彼らにちゃんと説明しました——」
「でも今やポート・ディスカバリーの人間は、誰も失敗の可能性なんて言及しないじゃない。ストームライダーはまるで、ひとつの渦だよね。発生すればたちまち辺りの空気を巻き込み、誰にも文句を言わせない奈落へと引きずり込む。その真相に気づくのは、たった数人、目の中に閉じ込められた中心人物だけ」
「だって、それは——違います。あなたは全然、的外れなことを言っている……」
「本当にそんなことが言えるの?
君は、正義のヒーローになろうとして、ストームライダーの安全神話を確立した立役者だよね。正義を叶えるために、目の前に見えている問題に目を瞑ったんだよね」
「私は、私は——」
「誰が責任を取る? もはや、誰も。誰も、責任など取れはしないんだよ。その事実から、逃げるというの?」
だめだ。
この男と一緒にいると、掻き立てられる。良くない方向へ。
操られる。
引きずり込む。
見まいと努めてきた、自分の罪について。
「人類は進歩しました。気象は、今や私たちの手で制御できるのです」
「自然は、支配できないよ。なにを言っているんだい?」
CWCの活動自体を否定し、あっさりと白旗をあげるコミネ。耳を疑うほど簡潔に言ってのける彼は、大学で気象学を学ぶため、自然災害がおびただしい極東の国から渡航してきたのだと、今さらながら思い出す。
地震、洪水、噴火、津波、土砂崩れ。それらはすべて、環太平洋造山帯に存在する島国であることが原因なのだと、かつてのコミネの呟いていた言葉が、数十年の時を超えて蘇ってきた。
しかし火山は、湧水や温泉、それに貴重な鉱物資源をもたらすと、彼は言っていた。人間が自然を評価するのではない。自然が人間を包含しているだけだ——一面を全面として捉えるのは、愚かで傲慢なことだ、と。
彼は風を愛していた。ひとりぼっちで落ち込んでいると、風がやってきて、僕を慰めてくれるようだ、と彼は言う。しかし同時に、繰り返しやってくる台風の脅威も知っていた。それでも、台風は水不足を解消し、夏の陽射しが照りつけるその東洋の国に雨を与える。世界の事象は、自分の意志とは関係のないところで動いている。僕たちのできることは、それをできうる限り理解し、その繊細さに敬意を払うこと、いかにそれと調和して生きてゆくかを考えること、それだけなのだと。
そんなことは分かっている。
だがそれなら、目先のストームはどう対処すれば良い?
それが——コミネの思想に対する、学会からの評価だった。
このポート・ディスカバリーでは、画期的な学説を発表するならともかく、発明品という実質的な形を伴っていなければ、ほとんどその内容を顧みられない。彼は、半ば孤立していた。そして、コミネの頭脳を信奉し続けてきたベースだったが、いつのまにか、その立場を変えていたことに気づく。自分が、最も彼を孤立へと追いやるような人間になり果てていたのだと。
自分は、コミネからの危険信号を無視して、結果を追い求めた。解決しなければならない、ストームの問題を。そう、それを「問題」と捉えた。すでにこの時点で、コミネとの道は分かたれていた。
ポート・ディスカバリーは進み続ける。
ゆえに——立ち止まらない。立ち止まれない。
発展を著しく推進してきたがために、進んではいけない道が何なのか、分からない。それは止まらない、火のついた人間たちの行進。
ストームライダーは進む。
進み続ける、すべての住人を導きながら、輝かしい未来へと。
——————破滅に向かう、未来へと。
「マリーナの人々は、すぐにでも解決を求めていた。それにあなたの描く青写真は壮大にすぎて、莫大な費用が必要です」
「うん、でもそれって、資本主義とマントをつけたヒーローへの憧憬が入り混じった、いかにもアメリカらしい解決策じゃない? 僕は東洋人だから、あんまりそういうのわからなくって。そもそも、ポート・ディスカバリーの思想って、そんなものだったっけ? 自然との調和や人間の大志は、どこに行っちゃったの?」
「ストームライダーのパイロットは高潔です。邪な欲望になど——ましてや資本になど、汚されていません」
「だから、アメコミのヒーローなんでしょ? 知ってるよ、ヒーローはいつだって正義を信じているものだからね。ヒーローは目の前の悪役を倒せとしか言われない。そしてさんざん使い回された挙句、悲劇的な死に見舞われて、街の記念碑になるんだよね。なにが本当の悪なのか、彼らには最後まで通達されずにね」
淡々と語るベースに返して、痛烈な言い回しで返すコミネ。
二人の議論は、いつまでも平行線でいた。
「でも君の言い分も分かるなあ、それがベストプラクティスだよね。うんうん。いっつも効率を追い求める、君らしいと思って」
「私らしい、とは」
「ストームライダー。つまりは耳触りの良い、奴隷制の復活さ」
何かがテーブルにぶつかるような、耳障りな音がした。コミネは冷たい目で、向かい側の人間を見た。顔を蒼白にしたベースが、怒りに燃える眼で彼を見下ろしていた。けれどもコミネは、どこ吹く風というような顔で、悠然と彼女を見返している。
「撤回してください。私はストームライダーのパイロットを、奴隷にしたつもりはありません」
「奴隷、って言い方がおかしいのかな? そうだなあ、それなら"生贄"でどう?」
「ドクター・コミネ、私はパイロットの安全を誰よりも考えています」
「それでこの結果じゃ、よほど君の頭は錆びついたらしいね。僕と一緒に研究していた頃の君はどこに行ったの? 僕がいつも君を尊敬していたのは、そんな風に嘘に嘘を重ねて妥協してゆく人間を、手酷く嫌っていたからだよ、そうだろう?」
「ドクター・コミネ、ストームライダーはポート・ディスカバリー唯一の——!」
「そうだろうっ!?」
コミネが大声で叫び返した。彼は、許せなかったのだ。自らの自由の象徴である大空が、目くらましの旗印として利用されたことに。かつてともに夢を膨らませた同僚が、死の危険と隣り合わせの職を発案し、それを元に巨額の経済効果を生み出して、マリーナの行く末を握っていることに。
ストームライダーが生まれて、ポート・ディスカバリーは変貌した。街の中心は、ストームライダーとなった。そこに光と闇が生まれた。多くの人々が、ストームライダーに希望をもたらした——それは夢だ。光だ。嵐に苦しむ沿岸の人々にとって、どれほど素晴らしい未知の科学技術に映ったことだろう。
その裏側で、じりじりと、パイロットを志望した人間の退路は削られてゆく。もう、引き返すことはできない。CWCの中も外も、完璧な理論に塗り潰され、人をヒーローという名の道具として食い潰すことに、何の疑問も持たなかった。
だから、決別した。彼はCWCを去った。風力発電所で、毎日現場で風の観測をしているという噂を聞いて、彼女の胸はざわめいた。コミネは変わっていない。奇妙奇天烈に笑っているようで、その実、誰よりも真摯にマリーナの抱える問題に取り組む。変わったのは、自分なのだと。
ウインドライダーを楽しそうに乗り回すパイロットたちは、いずれ自分が設計したストームライダーに搭乗する。誰も言わない。それは、死の宣告の始まりなのだ。高給を受け取り、ヒーローだと祀りあげられ、最も欺瞞に満ちたやり方で彼らの視界を奪う。それをコミネは唾棄し、憎しみに燃えていたのだ。
「空の覇者、ストームライダー? 死の棺桶の間違いだ。何度も何度も、パイロットは激しい嵐に立ち向かってゆく。命を賭けて出発し、やがて自然の脅威に完全敗北するまで。人類対自然の戦争を、君が彼らに肩代わりさせたんだ。立ち向かって良い相手じゃない、常に自然とは、脅威だ。人間のような矮小な存在では、支配できないものなんだ。例え破壊できなかったとしても、彼らのせいじゃない。なぜなら、彼らは一介の人間にしかすぎないからだ。
それなのに——どうして彼に、あんな責任を持たせた? キャプテン・デイビスはまだ若い。空を語る時、あんなに目をきらきらさせて話す青年だ。彼は人類の代表者なんかじゃない、ちっぽけな、空を飛ぶのが大好きな、人を救うことを夢見ている若者にすぎない。彼には、幾らだって他の未来があった。けれどもマリーナの人間たちは、もう彼に英雄以外の存在意義を認めない。そうだよ、素晴らしく民主主義的なシステムだ。マリーナ中が、あの青年に、死ぬまで立ち向かえ、と命じているようなものだからね。もう彼はどこにも逃げ出せない、社会に処刑されるまで酷使される犠牲者だ。彼を死に追いやるのは、ストームなんかじゃない、僕たちポート・ディスカバリーの人間だ!
アイリス、僕は散々言ったよね。多のために一を犠牲にする時は、問題を切り取る構図から間違っているのだと。でもアイリス、君は持論を曲げなかった。君にとって、パイロットとはヒーローだから、彼らには降りかかる責任に恐怖したり、涙を流したり、逃げ出したりする余地は考えなくて良いわけだね。彼らは自分でそれを望んだ、だからその意志を尊重すればいい。そうして、その事実に苦しむのは、発案した自分一人で、自分だけが呑み込めば済むのだと、そう信じ切っていたわけだね。
僕は、君よりも強い人間だよ。でもなぜ強いかというと、僕は人間の心の弱さを知っているからだ。僕が毎日悩むのと同じように、みんな怖いし、逃げ出したい。それを解決するために、科学を学んでいるんだ。科学は、人の精神を追い込むためなんかじゃない、人を自由へと解放するために存在するものだからだ。
君が弱いのは、この世で脆い心を持つのが、自分ただ一人だと信じ切っているためだ。君の父親は、とても勇気のある人だった。彼が亡くなった時、君は自分の心の中にある弱さに気づいた。けれども、パイロットである父親には、一度たりとも弱さを認めようとはしなかった。そうして、弱いのは自分だと、泣いてはならないと、ずっとそう言い聞かせてきたんだね。
君が深く嘆き、傷ついていたのを、僕は知っているよ。けれどもそこから得た知識が、人を追い詰めるシステムと結託するのを、僕は許さない。君はふたたび心の傷を克服し、パイロットという存在が、ヒーローへ返り咲くことを夢見た。それと引き換えに、自らの技術の孕む危険性には、目を瞑ったわけだね。君は科学者なんかじゃない、ただのちっぽけな、弱虫な子どもでしかないんだ。科学者としての精神は、どこにいったんだ。この発明で、君はいったい、何を実現したかったんだ? ——人を救えよ! 死に、追いやるなよ! これが科学を学んだ君の結論なのか!? 君がこのマリーナの科学者だなんて、僕は認めない! 君がこのポート・ディスカバリーの未来を語る資格なんて、ひとかけらだってないんだ!」
すべて正論だ。ベースは、コミネがいかに深く自分の精神を理解していたのか、それこそ、自分の見たくない暗黙裡まで、手に取るように理解していたのだという事実に、完膚なきまでに打ちのめされれた。
だからこそ、互いに傷つけ合わねばならない。一方が一方を否定し、妥協することはない。ストームライダーは光だ。ストームライダーは闇だ。パイロットは英雄だ。パイロットは生贄だ。分かっている、この不毛なやりとりは、けして真実に肉薄することなどないし、どちらかが折れない限り、けして倫理的な解決はされないのだと。
「あの人だったら、それを望んだのかな」
コミネは、静かに問うた。脅えるように、ベースの肩が震えた。
「あの人だったら、そんなやり方で解決したのかな」
言葉が、食い入る。その痛みは、滲むように胸の内に広がった。
「ドクター・コミネ。……もう、やめてください」
「君は忘れていたようだから、思い出させてあげたのさ。"あの人"は、最後までそういった卑劣さとは手を組まなかった。学生だった僕らは、無責任にその生涯を絶賛していたね。彼女は堂々と生き、孤立し、そして死んでいった」
「お願い、やめて! あの人は、私と関係ないでしょう!」
「関係ない、だって? どうしてそんなことが言えるんだ?
彼女はいる。ついこの前も、フローティングシティにやってきたんだ。驚いたよ、僕らが思い描いていた人物そのままの人間が、そこに立っていたんだ。目を輝かせてこのポート・ディスカバリーを見つめ、美しい街だと感嘆し、涙していた。泣いていたんだ、僕らの築きあげた——彼女が死ぬほど夢見た、この未来の、平和なマリーナを見て。
彼女の精神は、遠く離れたこの街の、このCWCにすら息づいている。僕と君とで、そうしたんだ。楽しかったよね、あの時は。夢を追いかけていれば良い——ただそれだけの、身の程知らずの、馬鹿な若者だったから。僕は大人になっても馬鹿なままだけど、君はいつのまにか世間慣れして、賢くなったようだね」
「私は——この街の人々を、救いたかった」
「知っているよ。君はいつだって、変人だと笑われる僕に優しくしてくれたから。そうやって僕と君は、同じ夢を見てきたんだもの。君の願いは、世界で一番、この僕が分かってる」
コミネもまた、哀しげに瞳を揺らめかせていた。彼を傷つけることが、何より彼女の精神に罅を入れるのだと、ベースは理解していた。それでもベースは、何も言えなかった。だって、ストームはもう目の前に迫ってきていて——パイロットはストームライダーに乗り込み、発進しなくてはならない。
「僕だったら、キャプテン・デイビス一人に、こんな重責を負わせるようなことはしなかった。
彼は死ぬだろう。ストームに巻き込まれるか、例え生還したとしても、人々からの誹謗に追い詰められて。あれほど天才的な若者が、世間の期待を背負って、逃げ場をなくして、生贄にされたんだ。もう手遅れだ。この構図を描いたのは、君の責任だ。
風力発電所は、このマリーナの危機を最小限に食い止めるために、可能な限り協力する。けれども僕にできるのは、そこまでだ。明日がくれば、絶望が幕を開ける。街は壊滅的な被害を受けるだろうが、誰にも、どうすることもできない。パイロットの生命も、ポート・ディスカバリーの罪過も、僕にはどうしようもない。自然に立ち向かおうとした人間たちの、これが末路だ。僕たちはいつのまにか、見ている方向が違ったようだね。残念だよ——本当に」
固い靴音を立てて部屋を去ってゆくコミネの背中も追うことができずに、ベースはただ目を見開いたまま、じっと足下を見つめていた。外の気配は、湿り気を帯びて、間もなく雨が降り出しそうだった。実際、これから嵐になるはずだった——レーダー観測では、すでに凄まじい烈風が海上に姿を現している。あれが上陸し、まもなく、ここにやってくる。すべての家々を呑み込んで。
(しっかり、しなくては)
妙に耳元に鳴り響く鼓動を押し潰すように、ベースは静かに呟いた。
(今、司令官は私しかいない。諦めたら終わりなの。
大丈夫よ。正しいことをしていれば、きっと最後には、全部報われるから)
それは、本当のことだろうか?
本当に、自分は正しい道を歩んできたのだろうか?
ならばなぜ——私は、泣いているのだろう?
「……ぅ……ッ」
ぽた、ぽた、と膝に垂れる雫を乱暴に拭い取りながら、声を押し殺し、ベースは一人、その場にうずくまるしかなかった。
誰も助けてくれない。自分のことなど。
コミネは、自分の研究を肯定なんてしてくれない。彼のことは、ずっと前に切り捨てた。だから、縋ってはだめ。いつか、胸を張って和解できる時がくると言い聞かせていたから。それが今ではないだけ。大丈夫。ポート・ディスカバリーはこの危機を乗り越えて、きっとふたたび、彼と一緒に、昔と同じように研究できる時がくる。
それなら————自分が長年、ずっと追い続けてきた、"あの人"は?
(人類が真の自由に辿り着くための階として、大空は我々をひとつの情熱のもとに繋げ、永遠の高みへ導く)
———私はそんな風に、世界に対して言える?
ゆっくりと、それを行うのは怖くもあったが、胸ポケットの中からロケットを引っ張り出して、チャームを開いた。安っぽい額縁に嵌め込まれている、小さく切り取られた絵。
そこに描かれているのは、栗色の巻き髪を棚引かせた女性。美しくも醜くもない、ラテン系の顔立ち——その右腕には、生涯に渡って愛し続けた隼を止まらせ、堂々たる表情で微笑んでいた。
父親は死ぬ直前まで、その人間を崇拝していた。見ろ、彼女は飛行士の鑑だ。彼女は科学技術とともに、自由の象徴である空を野望から守り抜いたのだ——と。
それは、ベースではなく、一人の女性——アイリス・サッカレーが抱いた、初めての夢。空に憧れ、空に魅せられた彼女が幼い頃に出会った、遠い昔の物語だった。
十九世紀初頭に生まれ落ちた、一人の発明家——カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコが最初に対立することになった敵対者は、未曾有の権力により、イギリス、スウェーデン以外のヨーロッパ全土を勢力下に置いた、天才的軍人にして史上初のフランス皇帝、ナポレオン・ボナパルトであった。
まだ子ども、それも幼女も抜け出ぬばかりという齢にして、すでに異常な科学の才能を花開かせていたカメリアは、一連のナポレオン戦争の裏で、世界各国の科学者と文通を交わしていた。複数の言語を操りながら、"飛行機"たる新しい概念について語る少女の名は、社交界にも知れ渡っていた。変わり者の父親の薫陶を受け、ルッカ公国の自然に溢れた館に匿われながらも、ダ・ヴィンチを思わせる勢いで発明品を生み出す神童がいると。人類史上、最も多くの才能に恵まれ、万能の天才とも謳われた芸術家を彷彿とさせるその娘は、ダ・ヴィンチが遺したオーニソプターを空に飛翔させることを夢見て、研究を続けているのだと。少女の存在は、イタリア侵攻を果たした皇帝ナポレオンへの熱狂から、あまりに早すぎるその専制政治への幻滅、そしてフランスの従属国として圧政を強いられた人々の強烈な愛国心を煽り、ルッカの誇りとして祀りあげられていた。
すでにベルリン勅令によって欧米諸国が困窮し、フランス産業すらも危機的状況に陥っていた中、ナポレオンは、当時英国との貿易を再開したロシアを討つため、北国との戦争を控えていた。これを前哨戦として、さらに後続する英国侵略までを視野に入れていたナポレオンは、彼女と交流のあったブランシャール夫人を通じて、フォンテーヌブロー宮殿で少女と面会の約束をし、幾つかの意地の悪い質問を重ね、会話に挟まれる機転の早さと凄まじい発想力、論理能力を読み取る。この風変わりな娘をルッカの田舎に帰した後、ナポレオンは、公式の気球操縦士、ブランシャール夫人と同等の肩書きを授けるという、うやうやしくも遠回しな手紙を送った。しかしこの役職は偵察の密命を含むと、一読で正確に理解したカメリアは、ナポレオンの申し出を拒絶し、皇帝の逆鱗に触れる。僅か十歳にして、ヨーロッパ全土を掌中に収めていた男と対立したカメリアは、こうして文字通り、世界を敵にした。これが彼女の苦難の始まりとなった。
ナポレオンの失脚によって、その活動は一時的に回復したかに思えたが、今度はウィーン体制下における秘密結社の疑いを受け、ナポレオン支配下よりもさらに壊滅的に、すべての科学者や芸術家が彼女の元を離れざるを得なかった。十代にして世界中から孤立した彼女が、いかに苦境に立たされていたのかは、想像に難くない。社交界から断交され、科学界からはほとんど追いやられ。その後、イタリアの権力を握る革命組織、カルボナリには、外国人との交流を理由に目の敵にされ、弾圧の憂き目に遭う。終始、彼女の人生は翻弄され続けていた。
後世の科学史研究家は、彼女についてこう触れている。
「カメリア・ファルコは、人類の夢を奪い去り、尊厳を破壊する科学を否定した。立脚すべきは、自由への梯子であり、人々を奴隷化する権力ではないと主張して、世界中を飛び回ったのである。血と野望の渦巻く当時の西欧において、これがいかに危険な選択であったのかは、筆舌に尽くし難い」
————と。
しかしこれは、正確には誤りである。実際のカメリアは、膨大な研究手記と演説記録、数多くの手紙以外、自らの主張をほとんど残しはしなかった。特に当時の政治情勢やそれを取り巻く科学界の趨勢については、奇妙なまでに痕跡を欠いている。彼女は主張も、否定もしなかった。それは戦略的な沈黙なのではなく——渦巻く陰謀の向こう側にこそ、彼女の本心はあったから。ジャン=バティスト・ラマルクを鼓舞し、チャールズ・ロバート・ダーウィンを導き、フランシス・ウェナムらによる英国航空協会の設立にも甚大な影響を与えたこの人間は、徹頭徹尾、その精神を澄明に保ち続けたままでいた。
あまりに有名な——軍人ナポレオンの元へと届けられた手紙。これこそが、カメリア・ファルコが後世に伝承されることになる、最初の業績と言ってもいいだろう。
芸術品のような綴り文字が並び、最後に、その年齢にしては異様に流麗な、カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコの署名がしたためられている。それを読んだ時、ベースの背筋に戦慄が走った。衝撃、とはこのことを言うのだろう。今後の彼女の人生を決定づけてしまった——そんな、震えるほどの手紙。過去に、こんな人間が存在していたのだという震撼。
妄想でもなく、達観でもなく。なぜ気が削がれないのだろうと、何度も読み返す。何か、ひとかけらでも真理を掴みたくて。
なぜ、こんなことが。
なぜ、こんな言葉を、この状況で。
そこには————
怒りも、絶望もない。最初から、そんなものはどこにもなかったかのように。
徹底的に——真っ直ぐ。影も曇りもない、芯からの、彼女の心が綴っている文章だった。
何の言い訳もない。説得しようとすら——考えていないのかもしれない。手紙のどこをどう読んでも、ナポレオンへの懇願はなかった。代わりに綴られているのは、誇らしげに宝物を披露するような。詩と言っても過言ではない、別次元の抒情の数々。息せききって教師に思いの丈を披露し、高邁な夢に恍惚とする、幼い少女そのもののようであった。
正義でもなく、論拠でもなく、釈明でも、挑戦でも、皮肉でも、虚飾でも、媚びへつらいでも、後世への啓示でも、同情を誘うための悲嘆でも、あるいは単に決別でもない。ただ、呆れるほど美しい、"夢"を語っていた。
その文章には、彼女の大志以外には何も書かれていなかった。一人の君主によって、すべてが封鎖され、深慮遠謀が渦巻いていた時代に、それは宝石のように稀な輝きを放っていたのである。
———あなたの夢は何ですか、カメリア?
まるで人生の師から、そう尋ねられた時のように。いや、彼女は本当に、彼女自身の人生から、生涯に渡って、そのように問われ続けていたのだろう。そして彼女は昂然として、それに答え続けた。目を輝かせ、誰よりも生き生きとして、懸命に。
彼女にとって、それは息をするのと同じくらい、自明なことなのかもしれない。そしてそれは、誰しもが持っているものだと、心の底から信じていたのかもしれない。
ヨーロッパのほぼ全土を掌握した男を前にして、彼女は一歩も引くことなくその正面に立ち、夢を口にしたのだ。それは立場と立場の対峙ではなく、人間と人間の、夢の天才と野望の天才との、歴史的な対峙を象徴していた。
手紙は語る。
まるで、物語の一節のように。
詩集から抜き出した一編のように。
『ああ、空を飛ぶとは、なんと素敵なことでしょうか。
過去の人間も、未来の人間も、様々に喜び、憧れ、苦悩しながら、少しずつ、あの素晴らしい舞台へと近づいてゆくのです。何よりも、あの空の下で自由になることを願って。
人間は美しく、素晴らしいものです。そしてその尊厳に対する確信を、人は、大空から眺めることによって、初めて得ることができるのです。これほど素敵なことが、世にありましょうか?
偉大なる創造主は、海の獣、野の獣、すべての家畜、這うもの、翼ある鳥によって、この世を命で満たされました。自然は、驚異に満ち満ちており、そしてそれらが世界の賛美を歌うたび、私の精神には翼が生えて、空想の中で、大空高くまで魂を飛翔させることを教えるのです。これこそが、私の生きる上での最大の喜びであり、最上の使命であると、深く深く心に刻んでおります。そうです、この無限の光の中で、私は確信しているのです。
私の魂は、早く飛びたい、と申しております。
早く早く、この夢を実現し、すべての人間に汚れなき真っ白な翼を届けられるように。
誰も彼もが、重力に支配された地上から飛び立ち、色鮮やかな魂の解放を体験し、そしてそれによって、人生という素晴らしい旅路に、親しみの籠もった挨拶を告げられますように。
偉大なる我が父母、チェッリーノとジュリアナより、私が運命を授かった意味は、最初から最後までここに尽き、やがて宇宙の塵へ還るまで、自らの無知に頬を染めながら、研究を続ける礎となるでしょう。
そして私は、たゆまぬ努力と僅かばかりの知恵の蓄積により、永遠にこの夢に貢献することを、すべての人類にお約束する次第です』
————目を見張る。
たった十歳とは思えぬ、詩歌のように記された美文。そこに散りばめられた、無邪気さの満ちあふれる言葉の数々。何より、あまりに直接的な、その表現に。
「すべての人類」。各国が戦争に明け暮れ、諸外国への密偵の役回りを要請されているというのに、この単語の選択。馬鹿なのだろうか? そう、思い返してみればどの書物も、どの証言者も、能天気だのエキセントリックだのと、口を揃えて彼女の感想を残していた。頭脳明晰に生まれた彼女の、それが唯一の、能力と引き換えにした対価だったのかもしれない。そう考えれば、事態はすべて簡単だった——が。それ以上に、彼女のある天稟の性質が、このようにペンを走らせる動機となったのだろうと、ベースは思い当たる。
————彼女は夢を語る際、一切、嘘をつこうとしなかったのだ。
それは、若き日のコミネが何よりも感銘を受け、以降の彼の人生を様変わりさせた特質。彼が苦境に立たされても誠実さを守り続ける姿は、その奥に、彼女の歩んできた歴史が透けているためである。
カメリアはけして騙らない。社交界の人間や科学者であろうとも、あるいは、ヨーロッパを牛耳る皇帝が相手でも、猛り狂った国家主義者に面しても。恥じ入ることも、恐れることも何もなく、この願いは、必ずや人々を高みへと導くだろうと信じ切って。
その精神は、遥か高く、雲の上にあった。本当に、自らに翼が生えているかのように、いかなる立場に立たされたとしても、そこにい続けた。それが自らの孤絶の原因となっているのにも関わらず、憎むことも、顔も背けることもせず、心から夢を愛し続けた。
発表を黙殺され、実験作品を破壊されても。飛行実験によって怪我を負い、世間から笑い者にされても。貴族の恥だ、ルッカの敵だ、嫁の行き遅れだと、人々に後ろ指を指されたとしても。唯一にして最大の理解者であった、自身の両親が亡くなり、周囲に味方が一人もいなくなっても。
ただただ、空が大好きなのだという理由により。天上への階段を孤独に登り続けた彼女は、この世のあらゆる思惑や挫折を回避し、最期まで希望の陽射しに照らされたままでいた。
けして、幸福とは言い難い苦難の数々。しかし彼女は研究を続け、熱気球で隼とともに世界中をめぐり、対立し合う大陸や国々の架け橋となった。彼女は様々な文明の、様々な人間と対話しながら、数々の発明品を残し、その中でもドリームフライヤーは、後の航空史に決定的な影響を及ぼす。
その飛行機は、新しい翼理論に依拠して製作され、隼の翼の観察と、血の滲むような実験記録を研究し尽くして得られた精緻な構造を提示し、まだ有人グライダーも実現していない時代に、飛行機の基本形のほとんどを先取りしている。固定翼やキャンバー、最も翼性能の出る迎え角の角度、特にアスペクト比などの概念は、完全な証明に至るまでに実に百年先まで待たねばならなかったのである。まさに飛行機製作トップレベルの革命と言ってもよかった。
そして国境を超越した協会、S.E.A.に名を連ねることで、彼女は航空史に最大の栄光を残す。数百年に渡って終身会員を出さなかったこの協会が、時を超えて久方に受け入れたのは、まだ男女差別の激しい科学界において史上初の女性会員であり、その発表は多大なる驚きをもって受け入れられた。当然ながら、その事実に対する反発も多い。だが僅かながら、しかし着実に、彼女の大望に魅せられた科学者や芸術家が集い始め、人好きのする彼女は、長い迫害の仕打ちなどすっかり忘れてしまったかのように、涙を流して彼らを歓迎する。日に日に、博物館の名声は上がり、彼女が旅の中で培った友情を胸に、幾多もの遠い国の旅行者が門を叩いた。ロシア、インド、ハワイ、日本。彼女を冷遇し続けた西欧とは反対に、彼ら異国の民は、非常な礼儀正しさと懐かしさでカメリアを抱擁し、その高邁な願いを口々に讃えた。
カメリア、この世は複雑で、邪智暴虐に満ちています。
しかしあなたは、私たちの文化を賛美し、私たちの民と友情を結び、私たちの人生とともに、誇り高き自然に対して感嘆の声をあげた。あなたは知っている、我々が憂き目にあった歴史を、そして人々の心に潜む良心を。あなたは、勝利を口にしなかった。あなたは報復を求めず、ただ喜びと友情にのみ、胸のうちを開いていた。
同じように私たちも、あなたに最大級の敬礼を手向けましょう。あなたの夢は、いずれ辛抱の時を超えて、必ず花開く時がやってきます。人々への讃歌、そして世界平和というあなたの願いを、私たちは永遠に支持します——と。
カメリア・ファルコ、享年七十四歳。最大の作品、ドリームフライヤーという未曾有の業績と数々の発明を残し、最後まで人類への貢献に身を捧げる。数奇な生涯を送ったその人間の本質は、
無敵の戦士でも、
禁欲的な僧侶でも、
策略に長けた政治家でも、
慈愛をそそぐ聖女でもない。
清濁を併せ呑み、ただ静謐に摂理を説く——現世の欲を手離した、菩薩のようですらなく。彼女の湧きあがる善良さは、真っ直ぐに心根の響くところからやってきていた。それは掛け値なしの、ただ他人を愛し、自分の宝物を分かち合いたいと願う、それだけの感情。哲学でも真理でもなく、それが自分の喜びだったから、というだけの理由でしかない。
そう。あえて言うなら———
英雄、のような。
人がそういった人物をこの世に望むには、あまりに綺麗事で、都合の良いといくら言っても足りない——そんな人物評。
彼女は——まぶしすぎる。
それが、ベースからカメリア・ファルコに対して、ようやく出せた答えだった。
(カメリア。あなたは、なぜ道を誤らなかったのですか。長い苦難の道のりの中で、なぜ、美しいものだけを見続けることができたのですか。
どうしてあなたは、飛行の夢をけして堕落させることなく、信じ続けることができたのですか)
ベースは、暗雲の渦巻き始める空に向かって、そう問うた。
もう、この街の絶望は見えている。
信じるものなど何もない。
けれども自分だけは、最後まで闘わなくてはならない。
CWCは、自分の人生と情熱の結晶だ。
この研究所に所属するパイロットたちには、綺麗なものしか見てほしくない。
汚い部分は、すべて自分が請け負うから。
だからせめても、彼らが悲劇の英雄とはならないように。
彼らには——夢を見続けてほしい。
それが、自分の、たったひとつの願いだった。