TDL二次創作「A twinkle of Mouse」8.ピノキオの冒険旅行②/星に願いを
"Our greatest natural resource is the minds of our children.” - Walt Disney
南イタリアは美しい土地である。婦人が長くブーツを海の底へと下ろしてゆくように優雅なつま先の地方は、とりわけ、古代から内面に燃える生命の如く紺青の地中海を誇りとしているのだが、作者は哀れにも訪問の機会を欠いており、それを表現する文を持たない。作家の塩野七生のエッセイを引くなら、「水にふれたとたんに、落日は、金色の光をあたり一面に投げ散らす。おだやかな海が、一瞬、金色の延べ板に変るのはその時だ。速力を増した私たちの船は、その金色の延べ板の真中を突き進んだ。割って、それを左右に切るようにしながら」「静かに眺めて楽しむのではない。全身でそれにひたって、それにすべてを投げこんではじめて得られる、恍惚の境地とでもいおうか。それは、絵画の持つ美しさではなかった。肉体のすみずみにふれ、それを愛撫、やがて通りすぎていく、交響詩のような美しさだった」。
こくりと誰もが首を傾けて眠る、静まり返った午睡の時間、強烈な陽光にさらされて真っ青に澄み渡る地中海気候の下、純白の漆喰に装われ、端の方の崩れかかった中世風の家々の壁が目に眩しく、その輝き渡る白壁に鉄枠を渡して、サクラソウ、セントポーリア、ロマンティック・ピンクのベゴニアが彩を添える。潮風は吹くだけで肌には綾に、耳に鮮やかに、その下で音もなく震える花々は、根無草の楽天的な女の如く揺れ動く。派手な観光物はないが、その分、素朴な自然との調和が余計に贅を凝らして映るのが、南欧の旧市街の目に明らかな特徴である。一歩踏み入ると、その明るい路地裏は、真白い迷宮と見紛うほどに入り組んでおり、大きな螺貝を縦に昇り詰めてゆくようなあちこちの階段は、老体には厳しいまでの急勾配である。所狭しと空の合間を縫う洗濯物の影を通りすぎながら、きいきいと揺れる縄の軋みを聞いて、伝統的な職人が手掛けたであろう、柔らかな曲線の煉瓦のひとつ、終端を丸めて鉄細工を施した手すりのひとつ、木枠に描かれた質素な草花模様に至るまで、すべてが粗雑なたくましさに満ちている。住人たちは声を張りあげて階段を上り下りしたり、珈琲豆を焙煎する匂いを嗅いだり、子どもたちが縄跳びをする溌剌とした笑い声に響かせながら、薄いブルーの空を翔ける鷹の羽を、油彩絵の具にしたためるのである。
この田舎町の子どもを熱狂させる数少ない娯楽は、鮮やかな色のちらしを前ぶれにやってくる。ある朝、それまでなかった紙が街のあちらこちらに貼られているのを見つけると、この素焼きの壺に溢れた街は、突如として輝く金貨を投じたような騒ぎとなる。噂が噂を呼び、子どもたちの興奮は頂点に達する。ストロンボリ一座だ! 今宵はどんな人形劇を演じるのだろう? 見たことのある演目か? それともまったく新しい、ローマで流行っている脚本か? どんな人形が出るのだろう? 衣裳は宝石できらきらしていて、色とりどりか? 化粧は愛らしく、完璧か? それに——あのマリオネットを操る技術ときたら! 本当に生きているみたいだ。こんな素晴らしい物語が、世界のどこかに存在したというのか? こんな偉大なる冒険が、いつか遠いどこかで、本当に繰り広げられたというのか? そして、子どもたちは想像と現の見分けをつけずに信じ込み、こう考えるのだ——ああ、僕らはみんな、海に囲まれた、このちっぽけな田舎町しか知らないのだ。僕たちの生きているところが、こんなにも夢と魔法に溢れた世界だったとは!
大切な硬貨を握り締めた全員が、野次に囲まれながら、街角の暗闇の底で幕開けを待つ。整理もきかないほどの大人数、渋滞を起こしたロバの群れのよう、押し合いへし合いである。ちょっとでも身じろぎすると、ブーブー文句が飛ぶ。タックルを喰らわされる。ピーナッツの殼が投げられる。焦げたカラメルのような輝きを投げかける街灯には、数匹の蛾がたかって、忙しなく影を飛び交わせている。目の前には、連続旗や、金ぴかの柱で飾られたワゴンが紅い垂れ幕を降ろし、その四角く切り取られた橙色の光が、彼らの魂を煌々と眩ませている。まだだろうか? もう十五分も遅れているぞ! いや、待て——赤ら顔のストロンボリが、肥った腹を揺すりながら、ワゴンの前にやってくる。おい、静かにしろ! 前座だ! フィリッポ! お前が一番うるさいんだ。親分の口上を聞き逃したら、海に叩き込んで、殺してやるからな!
「紳士淑女のみなさん!」ストロンボリ親方が怒鳴り、唾が飛ぶ。その大声に、石畳がびりびり震え、海賊のような黒髭は、口臭混じりの吐息でぱっと二つに割れた。「今宵お見せしますのは、偉大なるショー! 特に最後の演目は、本邦初公開。地上初めてお目にかける、見たことも聞いたこともない、まったく不可思議な劇であります。この一座の親方——つまり我輩ですが——西から東まで、津々浦々を駆けめぐって、ようやく手に入れた人形でございます。が、お楽しみは、この後で。まずはみなさまお馴染み、こちらのお話から参りましょう」
観客から、早くも方言のきつい野次が飛んだ。勤勉さよりも大の娯楽好きで、口の悪い田舎者のことだ、さっと真っ赤な垂れ幕があがる、途端に見えてきた薔薇色の頬の人形は、もう三度も見たことのあるものだったからである。やい、ストロンボリも落ち目だぜ! 白雪姫なんて、もう懲り懲りだ。もっと面白いのを持ってきな!
「騒ぐ奴には出ていってもらうよ!」とストロンボリ。
ケチケチするな、禿げ親父、一番の傑作から寄越しやがれ!
「鼻垂れの悪童ども、囀り声ばかりデカくなりやがって!」とストロンボリ。
ストロンボリ、言うことを聞かなかったら、もうこの街のパンを売ってやらねえぞ!
舌戦激しいワゴンの裏側で、ミッキーはか細いランプのそばに座り込み、煎りつくように震えていた。ほつれかかった燕尾服に、簡易なピンでぶら下げた蝶ネクタイ——薄暗い控え室では、その衣裳が、果たして観客の目にどう映るのか、委細を把握しかねた。ストロンボリは相変わらず、喧々囂々たる観客と、凄まじい怒号を飛ばしてやり合っている。自分が、もし舞台でヘマをしでかしたとしたら、あの激しい罵声がくるりと向きを変え、一斉にこちらへ襲い掛かってくるのだろうか?
「ミッキー、そんなにぶるぶるして、どうしたの?」
とうに準備を済ませたピノキオが、不思議そうに顔を覗き込んできた。純朴な木の顔に描かれた、絵の具のブルーの瞳は、いかなる恐れも知らずに活々と輝いている。
「大丈夫だよ! ファウルフェローが言ってたもの、ミッキーはとっても凄い役者だから、観客が大喜びで沸くに違いないって!」
「彼の言うことは、鵜呑みにできないよ——」
「どうして?」
ミッキーはそれには答えず、弟に接するような瞳で、彼の蝶ネクタイの形を整えてやりながら、沼の底のように低い声で囁いた。
「でも、今はここが、僕の立てる最後の舞台だと思う。僕がちゃんとここで役目を果たせるのか——君に、見届けてほしいんだ」
ピノキオは、木の瞼をパチパチと鳴らすと、随分嬉しそうに飛び跳ねた。
「うん! 僕のことも見ていてね、拍手いっぱいにしてみせるからね」
表舞台の怒号の投げ合いは、ストロンボリが折れる形でまとまった。パッと、円形にくり抜かれたスポットライトが当たり、階段の頂きに立つピノキオを照らし出す。彼は、初舞台の活躍に胸をときめかせて、垂れ下がる操り糸を振り払うと、拳を固めて、歌い出した。
♪I've got no strings to hold me down...
しかし歩くことに慣れない人形の身は、すぐに躓いて転げ落ち、顔面をしたたかに打った。拍手喝采だった。床材の穴に鼻が埋まり、顔を持ちあげようとすると、板が割れた。戸惑ったようにピノキオは瞬き、汚い床板を、しばらく鼻下へぶら下げていた。ミッキーは蒼白になって、舞台袖から馬の如く駆け寄った。
「ピノキオ!」
「やーあ、ミッキー、僕の演技を見た?」
「大丈夫かい? 怪我は? どこか、痛いところは?」
「そんなことより見てよ、みんながあんなに笑ってるよ! 僕って、凄い役者でしょ!」
ピノキオは得意になり、腕を振り回した。違う、これは嗤われているのだと、ミッキーは直感で理解した。そして、辺りから舐め回す視線が、同じように自分の上へ這ってゆくのを感じ、次は何をするのだろう、どんなおかしなことが起こるのだろう、と観客の私語が高まって、眼差しは尋常でない熱を帯びた。ストロンボリは慌てて、突貫の口上を付け足した。
「紳士淑女のみなさん! お待たせいたしました、これが世にも珍しい、喋る鼠でございます!」
爆発するようなざわめきが生まれた。口々に生まれる声は、膨れあがった熱狂とは正反対の、生理的嫌悪感に染まっていた。子も、親も、喉を鳴らした。彼らは逆上せていた。
いやだあ、汚い!
待て、お仕着せを着てるよ、いっちょまえに!
ありゃ、人間の子ども用の一張羅だよ!
なんだい、ちっとも喋らないじゃないか!
ドブネズミが、こんなところにいるよ!
彼は、化石になったように立ちすくんだ。胸の中の血の袋が不自然に鼓動し、脇の下から、じわりと、気味の悪い汗が染み渡った。何とかしなければ、と自己に命じるのが理由か、全身はぼわぼわとした半覚醒の無能感に包まれ、耳だけが、霧のように冴えていた。
「ストロンボリさん、あんた、嘘をついたね」
客の中の一人が立ちあがり、まくしたてるように言い切った。
「こんなネズミが演し物だっていうなら、もう二度とうちの息子を、こんな不潔な詐欺集団のワゴンにはやらせないからね!」
ストロンボリは癇癪を起こして、この世のどんな者も聞き取れないイタリア語で喚き散らし、鼠の首根っこを掴んだ。途端、引っ張られた衣裳が破けた。観客は大笑いして、黒い、棒っきれのように細い足が丸見えとなったミッキー・マウスを囃し立てた。慌てて、尻尾で服の切れ端を掻き集める彼を見て、下品な口笛と手が叩かれた。
もしも魔法を使えたなら———
その時彼は、この人形劇の舞台から逃げ出して、一目散に人々の眼を遠ざけ、厭世しようとしただろう。だが、眼差しは炙るようにそそがれ続け、しかもその多くが、闇夜の灯火の下に、絵の具でも塗ったようにニタニタとした、同じ薄笑いを浮かべていた。
「い、生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ!」
辛うじて、過去のショーを思い起こして、台詞が漏れた。蜂の巣をつついたように、爆笑の渦が膨れあがった。喜劇だと解釈されたようだった。
今までの舞台で、彼はずっと、台本に書かれた言葉しか語ることを許されていなかった。しかし、なぜその言葉が出てきたのかは分からなかった。ショーの始まりなど、多くの場合は、元気な挨拶をすればそれで済んだ——難しいことではない。
————みなさーん! こんにちはー!
なぜ、その一言が口に出せないのだろう。目の奥が痛んで、熱いものが込みあげるのを感じた。棒立ちになった彼を、心配そうに、ピノキオがつついた。
「早く踊ってみせろ、でくの棒!」
野次が飛んだ。幾つかの腐った卵も。凍りついたような彼の手が、不意に掴まれると、彼はたたらを踏んだ。指を差し、大笑いする声が多くなった。
「ねえ、ミッキー、踊ろうよ!」
ピノキオはミッキーの手を取り、この針の筵のような舞台で、大きくステップを踏んで、踊り出した。
♪I've got no strings to hold me down
もう糸なんていらないよ
To make me fret, or make me frown
イライラもしょんぼりもさようなら
I had strings, but now I'm free
昔はあったけど、今は自由さ
There are no strings on me
糸なんてちっともありはしないんだ!
Hi-ho the merry-o
ハイ・ホー、メリー・オー
That's the only way to be
それがたったひとつの生き方さ
I want the world to know
ほらね、みんな分かるでしょ
Nothing ever worries me
何も心配することはないんだよ
I've got no strings so I have fun
糸がないってなんて楽しいんだ
I'm not tied up to anyone
誰にも縛られたりなんかしないよ
They've got strings, but you can see
彼らには糸があるけど、ほら、見てごらんよ
There are no strings on me
僕には糸がないんだよ!
ピノキオが一歩歩くたびに、機関銃のように笑いが破裂した。昨日生まれたばかりの人形が踏み出すその一歩は、拙劣で、滑稽で、観客の目には鮮烈だった。これ以上、この無邪気な子どもを笑いものにするのは、耐えられない、とミッキーは思った。しかし目の前に、コサックの人形集団が現れると、彼らの逃げ道を立ち塞いだ。その黒くぼうぼうとした髭、そして力強い掛け声に目を煌めかせ、ピノキオはしばらく、しゃがみながら行う素早い足さばきに見惚れていたが、やがて、おもむろに腕を組むと、胸に湧きあがる不思議さのままに、懸命に真似をし出そうとした。その間にも、嵐のように激しく回転するコサックたちは、もはや輪郭も溶けて、赤と黒の渦と化していた。ピノキオも足をあげて勢いをつけると、遠心力で手のつけられないほどに回り、ミッキーやコサックたちを巻き込んで、その糸でぐるぐると縛られた。木の肌を持つピノキオならいざ知らず、柔らかなミッキーの肌に、糸は鋭く食い込んだ。衣装が切り裂かれ、ますます強く圧迫され、ミッキーは息を詰まらせながらピノキオの顔を見た。彼はきょとんとして、瞬きを繰り返していたが、音楽の続いていることに気づいて、最後の節に歌を載せた。
♪There are no strings on me!
糸なんてちっともありはしないんだ!
雨あられとコインが飛んだ。安っぽい衣装を煌めかせ、よろめきながら、ほうほうの体で拘束を解かれたミッキーは、ピノキオを庇うようにして、舞台袖に向かった。じりじりと、上から照りつける照明の光が、眩しく脳に残った。演し物と言うにはおこがましい内容に、大人たちは憤慨しかかっていたが、衣装の破れた瞬間を何度も楽しげに真似する子どもたちに閉口し、それ以上、何も語ることはなかった。
その夜、馬車の中では、すこぶる豪勢な御馳走が振る舞われ、テーブルの上にはたんまりと小銭が載っていた。小さな人形と鼠は、テーブルの上に腰掛けていたが、一方は物思いに沈み、しくしくと涙に濡れていた。
「やい、いつまで泣いていやがるんだ!」
どん、とストロンボリがテーブルを打ち、コインが宙に飛び散った。
「おい、鼠、おめえときたら、なんで『ハムレット』なんか演りやがった? ああいった深刻なのが、ゲストにウケるわけがねえ。もっと楽しくて、気楽に観られるのをやれ」
「僕としても、どうして今さら、あの黒歴史を思い出したのか分からない」
「次、同じヘマをしでかしたら、しこたま殴りつけてやるからな。さあ、これが分け前だ」
ストロンボリは、ミッキーとピノキオのそれぞれに対して、目の眩む金貨に混じった、鈍い座金を握らせた。
「観客はみんな、僕らを気に入ってくれたんだよ。だって、あんなに大勢笑っていたんだもの!」
「そうだ、おめえらにはコメディアンの才能があるんだ。嘆くことじゃねえ、貴重な役者だよ」
「僕のことを見て、みんなが笑ってくれるの?」
ようやく、ミッキーは顔をあげた。ストロンボリは、山賊が使いそうなほど大きいナイフを振り下ろして、テーブルの上の玉ねぎをつらぬき、丸齧りしながら、そのかけらを飛び散らすように笑った。声を合わせて、ミッキーは笑った。つん、と刺してくる玉ねぎの口臭が、彼の目に、大粒の涙を催させた。
「自信をつけてゆくことさ——」とストロンボリ。
「とにかく毎日、ショーに出ることさ。観客の喝采を経て、スタアへの階段を駆け登ってゆくんだ。そうすりゃ、おめえらもいつか、世界を席巻して、ディズニーランドを貸し切れるほど大金持ちになれるかもしれねえぜ」
ところがピノキオは、つまみあげた座金の光を熱心に見つめながら、平然として言った。
「ううん。さっきミッキーと話し合って、ここは離れようって約束したんだよ」
「なんだと?」
「ピノキオ! 駄目だよ!」
ミッキーの制止にも構わず、ピノキオは晴れあがるほどに無垢な声で叫んだ。
「僕たち、家に帰るんだ!」
「家に帰る、だと?」
「そうだよ。お父さんに、僕の稼いだお給料を見せに行かなくちゃ!」
危険な沈黙がさしてきた。分厚く、妙に艶めかしい唇が唾に濡れ、側頭のもじゃもじゃとした髪が逆立ってゆき、その大きな顔が一気に赤くなると、突然ストロンボリは、稲妻のようなイタリア語で子どもたちを怒鳴りつけ、そのまま金貨が吹っ飛ぶほど猛烈な勢いで、数十秒間、訳の分からぬことをどやし始めた。その物凄い剣幕に、ミッキーは驚いてその大きな耳を寝かせ、ピノキオは黄色い三角帽を引っ張り、木製の耳を覆った。しかしストロンボリは、狂気じみて荒れ狂う馬のような息の中から、いきなり、ふっと優しい瞬きを繰り返すと、その巨大にめくれあがったピンク色の唇を近づけて、太い人差し指で、とんとん、とミッキーの胸を突いた。
「なあ、坊やたち、よーく考え直してみろよ。帰ったところで、おめえらに何が残るっていうんだ。もっともっと金を稼げる役者にならなけりゃ、奴らは、おめえらを歓迎しちゃくれねえ。おめえらは王国を助けたくて、この一座までやってきたんだ、そうだろう?」
「そうだけど……」
「違うよ!」
軽やかな否定の声に、ミッキーは呆気に取られて振り返った。
「……ま、まさか君、何も考えずに、ここまで来たっていうの?」
「うん。僕、ただ楽しそうだから、ここへ来たんだよ!」
ぽかーんと口を開けるミッキーをよそに、ピノキオはポンと弾けるようにテーブルの上に立ちあがり、木製の手足を、無闇にがちゃつかせる。
「じゃあ、明日また来るね!」
「明日また来る?(ストロンボリはまたもや、人が変わったように急変して、何かを喚き散らしたが、ミッキーとピノキオのどちらにも、その言葉を聞き取ることはできなかった)つまり……家に帰るっちゅうわけか! こりゃ傑作だ! アハハハハ!」
ストロンボリは腹を揺さぶり、鞭のような音のうちに額を叩いて、大笑いを轟かせた。ピノキオも一緒になって、けたたましく笑いを絞った。まだ幼い彼は、目の前の様相を真似することで、何でも新しい体験を吸収しようと試みていたのである。
ストロンボリは、ピノキオとミッキーの首根っこを掴みながら、まだ床板を震えさせる濁声で笑った。外は土砂降りの雨が降りそそぎ、馬の脚はぬかるみに取られ、中は大きく揺さぶられた。窓の外を、眩ゆい雷光が迸るとともに、遅れて、激しい雷鳴がつんざき、車内のランプがぶらぶらと揺れ、その薄黄色く濁った光芒が、右に左に、生きたマリオネットと、鼠と、金貨と、その小部屋の主人とを照らし出した。舞台を終える人形たちは、天井から吊られて、その粧われた木製の顔を微笑ませ、隅に転がる、斧で叩き割られた残骸が、震動で爪の合わさるように鳴った。そして、馬車を支配する笑い声が、ふっと止んだかと思うと、いきなりストロンボリは、ひとしお大きい鳥籠を掴んで、叩きつけるように彼らを投げ入れた。吊り下がる檻は重そうに揺れて、無気味な影を往復させている間に、無慈悲な鍵の音が、ばしりと響き渡った。
「ここが貴様らの家だ!」
ミッキーも、ピノキオも、呆然としながら、その黒髭に包まれた人間を見つめた。ストロンボリは、その瞳にどす黒くぎらつく輝きを滾らせ、ぐっと顔を近づけると、つんと玉葱の臭いのする吐息で囁いた。
「逃げようったって、そうはいかねえからな。俺には——金のなる木だ」
ソーセージでも舐めるように、ストロンボリはゆっくりと、実に緩慢に舌なめずりをした。テーブルの上にじりつくランプや、馬車馬たちを脅かす稲光を浴びて、その贅肉のついた巨体は、壁に、何倍もの大きさの影を描き、主人とともに、嬉しそうにぶるぶると踊り始めた。
「いずれ世界を回る。パリや、ロンドン、モンテカルロ、コンスタンティノープル!」
「やだ、出して! ねえ、出してよ! 僕んちへ——」
「黙れ、喋るな! 叩き割るぞ、静かにしねえと!」
どんと、テーブルを殴りつけたストロンボリは、いきなり、その髭にまみれた口唇を、裂けんばかりにゆっくりと横へ広げていって、
「では、寝な。可愛い金のなる木サマサマよ」
言い残すなり、がなり立てる笑い声とともに、ぴしゃりと扉を閉め、馬車を出発させた。
ミッキーも、ピノキオも、急いで格子に飛びついた。鳥籠はしっかりとした作りで、いかなる綻びも、拙いところも見受けられない。ミッキーは念を込めた。しかし、いつもなら漲る熱や泡立ちが、少しも指からは漏れてはこない。まるきり力の枯渇した小さな指へ、氷のような錠前の温度が、手袋越しに染み透ってきた。
(どうして?)
血の気の引くような思いで、ミッキーは胸に叫んだ。
(僕は魔法使いだ。ファンタズミックの時は、あんなに——それに、Celebrate! Tokyo Disneylandだって、ファンティリュージョンだって、エレクトリカルパレードだって。休園前は、あんなに自由に、魔法を使えていたはずなのに)
記憶は、沼の底から湧く水泡のようで、よすがにするにはあまりに頼りがない。それまで、あれこれと頭を働かせていた彼であろうと、こうなっては、世に埒の明く試しがなかった。
(どうして、何の役にも立たないんだよ?)
逼迫した呼吸が、彼の肺と気道を占めた。
(どうして僕は、馬鹿なことしかできないんだよ!)
そのうちにミッキーは、恐ろしい何事かの閃きが、毛の末端にまで行き交い、全身ががたがたと震え出した。知らぬ間に、すべての未来の道が折り畳まれて、一直線で暗黒の方向へとひた走るように思われた。
(全部僕の妄想だ。明日になれば、全部忘れられる。僕は単なる鼠に戻るんだ。こんな檻やストロンボリなんか、全部掻き消える。みんなみんな、なくなるはずなんだ)
現実は、目の前にぐたりと横たわったまま、それでいて忙しなく闇をめぐり、まるで宙へ盛んに狂い出す羽虫のようであった。そしてそれは、ぐるぐると独楽のように落ち、凄まじい勢いで地面に叩きつける通り雨の底へと吸い込まれていった。
で、その頃、エディ&ジミニー組といえば。
「や、やっと見つけたー!」
街の壁に貼られたチラシに、「人形劇の新たなるスター——生きた人形、喋るネズミ」の書かれているのを見つけ、夜空に向けて、プラ◯ーンのポーズを取っているところであった。
「これって間違いなく、ミッキーとピノキオのことだろ! でなければ、まるで心当たりなんかねえぞ!」
「ああ、よかった、場所もすぐそばじゃないか。ちょうど、そこの隅の街角で開演予定、とあるね」
サッと懐から眼鏡を取り出し、チラシを熱心に読み耽るジミニー。エディが振り返ってみると、街灯に照らし出されたその街角は、先ほどまで大人数が集まっていた形跡が残され、無惨に踏み潰されたチラシや、菓子の包み紙が虚しく夜風に揺れている。しかしそれ以外には、人っ子ひとつ見当たらず、すっかりもぬけの殻だった。
「うおーい! もう人形劇はとっくに終わっちまってんぞ!」
「こりゃ、参ったね。それじゃピノキオたちは、どこに行ってしまったんだろう」
「まーた、一から出直しか? ここで手がかりがなくなるのはキツイなあ」
そう言って首を捻っている二人の後ろを、そそくさと通り過ぎてゆくのは、四つん這いになった二つの影。
♪き〜れいな〜
きれい〜な夜〜
こ〜よい〜は ベラ・ノッテ〜
エディとジミニーは、雑種であろう、灰色がかったぼさぼさの雄犬と、きちんと毛並みの手入れがされたコッカー・スパニエルが仲良くてってけ歩いてゆく姿を、穴が空くほど見つめた。軽い足取りに、耳はふわふわと揺れ、微かにトマトソースとミートボールの匂いがした。エディと、彼の肩に乗ったジミニーは、顔を見合わせた。
「おい、わんころ。腹減ってねえか」
エディが夜陰から話しかけると、二匹ともぎょっとして飛びあがり、慌てて同時に首を振った。
「おめえら、鼻が利くか? この毛の匂いを、追っかけてほしいんだが」
たまたま、自分の背広についていた毛をつまみあげ、灰色の犬に嗅がせるエディ。犬は、困ったように片割れのスパニエル犬を見つめ、何やら会話をし始めた。
「ばうっ(この人間はいったい、何を言ってるんだろう?)」
「わんっ(捕獲員じゃないのかしら?)」
「ばうばう(いいや、こんなスタッフは見たことがないね)」
「うーむ。警戒されているなあ」
犬の会話内容を薄々感じ取り、エディは居心地悪いように肩をすぼめた。
「ばうっ(人間のことは人間に任せて、僕たちはデートに集中しようよ。赤ちゃんの世話をしなくていい日なんて、今夜くらいしかないんだし)」
「わんわん(さっき、私たちに奢ってくれた夫婦がいたわよね。彼らだったら親切そうだし、代わりに引き受けてくれるんじゃないかしら)」
「明らかに、一言では賄えないはずの情報量の会話が交わされているなあ」
「動物の世界は複雑なんだろうよ」
と、突然、犬たちは連れ添って走り出し、エディたちも慌てて後を追いかけた。遠くから聞こえてくる吠え声に、路上でゴロゴロとスーツケースを転がしていた男女二人組は、はたと立ち止まった。
「あら。ねえナヴィーン、さっきの犬たちだわ。私たちに懐いてしまったのかしら」
「おやおや、まだミートボールがほしいのかい? ははっ、悪いけど、もうディナータイムは終わりだよ」
あははうふふ、と微笑み合う、異常なまでにベタベタした仲睦まじさから察するに、恐らくは結婚したばかりであろう。一人はベスト姿にハンチ帽を被った、白い歯の眩ゆい、気障っぽい若人——いかにもエディの苦手なタイプ——そしてもう一人は、豊かな黒い巻毛を無造作に後ろで一括りにした、ヘーゼルカラーの勝気そうな眼が印象的な娘である。居心地の悪さをむず痒く思いつつ、エディは二人の前に頭を下げ、話しかけた。
「突然すまねえ。人探しをしているんだがよ、毛の匂いを嗅がせた犬が、なんでか、あんたがたの方へ……」
「あらあら。何か、私たちに言いたいことがあるのかしら」
「参ったな、カエルの姿じゃないと——言いたいことが、伝わらない」
男は、キラーンとでも効果音を放ちそうなほど整った完璧な歯並びを見せ、何かを思いついたように、隣の細君を見た。
「目には目を、歯には歯を。動物キャラには、動物を、だ」
「使い方、違くない?」
「おーい、ルイス!」
すると背後から、ペタリペタリ、と足音を踏み鳴らして、どう見てもメタボ体型と言うべき、丸々と太ったワニが出てきた。ぎょっと飛びあがるエディやジミニーには構わず、灰色の犬は一歩進み出て、ワニに向かって、一言ですべてを解説した。
「ばうっ」
「えーっとね! 本物のファンタジーランドには到底収まるはずもない大きな海の方角に、微かに探している匂いが残っている気がするから、後はオレたちに全部託した。人間の世界のことは、人間たちで解決してくれ、ってさ!」
「おいおい、やたら異常な翻訳精度だな」
「ばうばう」
「それじゃ、僕らはここで失礼するよ。ミートソーススパゲッティをどうもありがとう、だってさー!」
任務をワニの懐へ託した犬たちは、すたこらと踵を返し、ロマンチックな街灯の燈る夜の街へと尻尾を振っていった。
「行っちまった……」
「ま、乗りかかった船だわ、自己紹介しましょ。私、ティアナよ」
「僕はナヴィーン。僕ら二人は新婚で、美食の旅から帰るところなんだよ」
「オレ、ルイス!」
「ま、コブが一匹、ついてきたけどね」
肩をすくめるナヴィーンの後ろで、ルイスは、その鋭い歯を覗かせた口をすぼめて、上機嫌にトランペットのスキャットを吹いた。なかなか上手かった——インク・ペンキクラブで演奏できるだけの腕前はある。
「エディ・バリアントに、ジミニー・クリケットだ。悪いな、こんな夜半によ」
「思わぬことは、旅行の醍醐味だもの。気にしないで」
気を害した風もなく微笑むのを見る限り、若い夫人の方は、なかなか気立ての良い娘のようだった。黒い睫毛をぱちぱちと瞬かせると、そのヘーゼルブラウンの瞳を柔和に細め、とん、とスーツケースの持ち手に肘を預け、勿体ぶるように腰に手を当てた。
「それで? あなたがたの探し人って、いったい、どんな人なの?」
「ええと。ピノキオといって、生きた操り人形の男の子と、ミッキーという、喋る鼠なんだが——」
たちまち、ティアナとナヴィーンは頭を抱え、眉間に皺を寄せて重い思案に耽った。ルイスは曇りのない目で彼らを見つめ、如才なさそうに、鉤爪のついた指をいじくっていた。
「……いや、人がカエルになったり、ワニがトランペットを吹いたりする世界線なのよ。鼠が喋ったり、人形が生きていたって、何も文句言えないわ」
「世界には、ママ・オーディレベルのブードゥー教徒が、いっぱいいるんだね」
「あのお、これって、オレが聞いててもいい話? もっと裏側の、センシティブな話題?」
小首を傾げるルイスはよそに、ジミニーはパッと蝙蝠傘を広げ、肩に支柱の部分を引っ掛けながら、横槍を入れる。
「ブードゥーの魔法じゃないとも。星に願いをかけたら、お優しいブルー・フェアリー様が、可愛い木の人形に、命を吹き込んでくれたのさ」
「だけど、願ったからって、叶うわけじゃないでしょ?」
「ところがどっこい、彼の場合は叶った。まあ、生まれた命は、物の分別が欠けていたがね」
「分別?」
「とにかく、楽をしたり、怠けようとしたりする癖がある。だから私のような良心が、彼に教えてあげるんだ。善悪というものをさ」
ティアナは、ふっ、と緩くウェーブした前髪を息で吹き散らして、呆れた、とでもいうように肩をすくめた。
「星に願ったから悪かったのよ。夢を叶えたかったら、努力して働くしかないのに」
「働く? あの子はまだ子どもだぞ!」
「残念だけど、他人に頼っても、魔法みたいに叶えてもらえるわけじゃないのよ」
言いながら、向日葵色のワンピースの上に巻いたエプロンのリボンを、腰の後ろできゅっと結び直すティアナ。
「そりゃ、私たちは努力が必要さ。でも、子どもたちは——」
ジミニーは、蝙蝠傘の黄金の柄を光らせて、思い切り胸を反らし、突っ張った声で言い切った。
「特別なんだ」
肯定も否定もせずに、ティアナは、チョコレート色の瞳でじっと、このコオロギを見た。その濃褐色の中には、あらゆる犠牲が、忍耐が、そして慈愛と暖かみが、小宇宙のように漂って見えた。
「辛いことや悲しいことを考えずに、好きなだけ夢を見る、それが大人から子どもに与えられる、一番の権利じゃないか。子どもたちは毎日、この世には素敵なことがあるって学んでゆく。そうして初めて、そこに辿り着くための努力の価値を知るんだ。子どもの頃に宿った夢は、きっと星のように光り輝いて、彼らが困難の中でも、善い方向へと導いてくれる。
願いは必ず叶う、なんて。確かに——現実は、すべてそうじゃない。でも子どもたちに、夢を見ることは素晴らしいんだと伝え続けるのは、必ず意味のあることなんだ。
生まれてきてよかったんだと、そう信じられるようなものを……僕たち大人が、彼らに見せてやらなくちゃ」
ティアナはじっとして、コオロギの美しい声に耳を傾けていたが、やがて、小さく溜め息をつくと、ポケットに手を入れて、かさ、と古ぼけた紙を広げた。それが何だか分かる前に、ティアナはすぐに紙を畳んでしまったが、エディの目には、シャンデリアの煌びやかな、どこかの明るい世界が透けて描かれていたように見えた。
その畳む手に、そっと、ナヴィーンの指が絡まったかと思うと、甘いカフェオレのような顔に微笑が浮かび、静かに、額へ垂れかかっている前髪を掻きあげた。
「君のパパは、愛に溢れてた。そうだろう?」
ティアナは少しばかり、深い沼のような思慮を湛えて瞳を揺らめかせたが、やがてゆっくりと悪戯らしい微笑みを返して、ジミニーへと向き直った。
「いいわ。手伝ってあげる」
「なんと! それは本当かい?」
「頼むぜ、嬢ちゃん、兄ちゃん。力を貸してくれ」
「おおっと、僕らじゃないよ。実際に頑張ってもらうのは、こっち」
ナヴィーンが後ろへ腕を伸ばすと、でぷんとメタボリックな腹を揺らして、巨大なアリゲーターがエディたちの前に突き出された。本人もキョトンとして、辺りを忙しなく見回していたが、最後に、残った自分を指さした。
「頼んだよ、ルイス。レイの代わりに、海の方角へ案内してくれよ」
「えっ、いいの! でもオレ、すっごく方向音痴だよ?」
「だから、レイの代わり、って言っただろ? 彼がいない今、彼らを引き寄せられるのは、君しかいないんだから」
「彼らって? あっ、そういうこと!」
ルイスは、愛用のトランペットを丁寧に脇の下で磨くと、おもむろに口に当て、遠吠えのような爆音を轟かせた。たちまち、周囲は耳元を押さえ、あまりのうるささに、森の中から、バサバサと梟が飛び去つ。ウォーミングアップはそれで充分だったのだろう、ルイスは、小さな指でトランペットを回転させると、ふたたび、黄金に光るそれをぴたりと構え、今度は陽気な大声で呼びかける。
「蛍たちー! 数少ない出番だよ、例の歌で、海の方角へと連れていってくれよ!」
ルイスが軽やかにトランペットを吹き鳴らすと、どこに隠れていたのかと思うほどの蛍が舞いあがり、芋虫のアコーディオンに、葉っぱのヴァイオリン、バンジョーにギロが、心臓に響くようにアップ・ビートを刻み始めた。ぽかん、と口を開けるエディとジミニー。それにしても、宙に集まった昆虫たちといえば、いったいどれほどの数だったろう。めくるめく夜を包み込む闇を払い、明滅し、飛び回り、燐光の洪水は瞬く間に流れを生み出した。まるで緩やかな流れのバイユーの如く——そして立体的な座標を描き出すその集合体は、陽気な歌を口ずさみつつ、凝集したり散開したりしながら、ただひとつの方角へと向かって、ずんずんとリズムを刻んで進み続けてゆく。察するに、この道しるべについてゆけ、ということであろう。
♪We're gonna take you down, we're gonna take you down
連れてゆくよ 連れてゆくよ
We're gonna take you all the way down
遙か彼方まで連れていってやるよ
We're gonna take you down, we're gonna take you down
連れてゆくよ 連れてゆくよ
We're gonna take you all the way
オレたちが送ってやるとも
Goin' down the bayou, goin' down the bayou
沼地をくだり 沼地をくだり
Goin' down the bayou, takin' you all the way!
沼地をくだり 連れてゆくのさ!
ジャズ・ミュージシャンのワニが牽引しているからか、それとも蛍たちの趣味なのか、スウィングの効いた音楽がわらわらと宙に溢れかえった。トランペットのマウスピースから口を離したルイスは、大きな割には短い腕を広げると、光の乱舞の中で叫んだ。
「レイの親戚がみいんな集まってる! あれはミミ、従兄弟のブドロー。お、婆ちゃん! 消えてるよう!」
ルイスの明るい声を聞いて、弱々しく空を飛んでいた老耄の蛍が、ぽんぽんと自分の尻を叩く。すると、電球の点滅するような音がして、ようやく、その尻にも朦朧とした蛍光色が瞬いた。
「やっぱディズニーといやあ、ミュージカルなんだなあ。俺はまだこのノリに慣れねえぜ」とエディ。
「おや、君の作品では、歌はなかったの?」
「ま、ロジャー夫妻がそれぞれ、酒場で歌ってたくらいだな。俺はそれを、横目で眺めていただけなんだよ」
夜を照らし出す蛍の輝きは今や、どんなプラネタリウムでも敵わないほどの夥しさまで膨れあがっていた。森の隅に金剛石の如く冷え切る、無数のたんぽぽの綿毛に引っかかった夜露は、幾つもの互いの宇宙を反射しあい、恍惚とした溜め息の如く震えていた。
♪We all gon' pool together, down here that's how we do
力を合わせるのがオレたちのやり方ってもんだ
Me for them, and them for me, we all be there for you
一人はみんなの、みんなは一人のために、ここにいる全員が君たちの味方さ
We're gonna take ya, we're gonna take ya
連れてゆくよ 連れてゆくよ
We're gonna take ya all the way down
遙か彼方まで連れていってやるよ
We know where you're going and we're going witchoo
行きたいところへ一緒に行くぜ
Takin' you all the way
最後まで送ってやるさ
Goin' down the bayou, goin' down the bayou
沼地をくだり 沼地をくだり
Goin' down the bayou, takin' you all...
沼地をくだり 連れてゆくのさ……
波打つ光のページェントは、勝手気ままに踊り狂う冷光を、何十メートルにも渡って引き連れながら、時にレースの如く、時に天の川のように揺れ動いて、彼らを先導した。その光の群集は、雨あがりの石畳に映り込み、滑らかな舗石をカナリヤン・イエローに煌めかせながら、大空と、空中と、大地の次元のそれぞれに、数え切れない星を撒き散らし、道を生み出した。
「いいぞ、みんな急げ! 列になってどんどん進め! 明かりを消すなよお!」
夢中になって叫び散らすルイスを微笑ましく見つめながら、ジミニーは、自分を肩に乗せてくれているエディのそばで、幻想的な燐光のヴェールを瞳いっぱいに煌めかせているティアナへ、爽やかなテノールを放って話しかけた。
「ちょいと、お嬢さん。あのワニが言ってるレイっていうのは、どなたのことなんだい?」
「レイは、沼地に棲んでいた蛍で、私たちのお友だちよ。今は愛する人と一緒になって——そうね——あそこで輝いているわ」
ティアナは迷いながらも、しかし真っ直ぐに、空の一点を指し示した。エディが眩しさで目を細めながら空を仰ぐと、隙間に、一際青白く輝く星と、そのそばに寄り添うようにして、少し和らげたように優しく燃える星があった。彼は少し中折れ帽を傾け、ぼそりと言った。
「ありゃあ、星だ。遠いガスの塊だよ」
「いいえ。あれはエヴァンジェリーンという、この世の中で一番優しい蛍よ。そしてレイもまた、あそこに生きているの」
ティアナは、銀河のように無数の蛍火に囲まれながら、夕食の葡萄酒のように深い色をした唇をうごめかせて、ゆっくりと呟いた。
「もうずっと昔の話ね。思い出は遠ざかるばかりで、ところどころに悼みが光るでしょう。あれが私たちの願いをかける星。孤独と慰めの星」
「なんとも綺麗だね——これほど遠くても、あの二つの星だけは、本物の蛍のようじゃないか」
「あの二人は、地上の私たちを見守っていてくれるのよ」
感じ入ったように答えるジミニーとは裏腹に、エディは黙って俯き、その言葉に返事をしなかった。例えおざなりな相槌であっても、それを肯定することは、彼の思想に反することだった。
彼はこれまで、身内の死を受け入れられず、幻想でもって孤独を慰撫する人間たちを、数多く見てきた。とりわけ、ロス警察に在籍していた頃には、様々な遺族が、彼の目の前で啜り泣き、死者たちへの未練を垂れ流した。しかし彼らは、ある時になると、急に前を向き始めるのだった。現実を捻じ曲げ、ありもしない話を滔々と語り、微笑みすら頬に浮かべて。
かつてはそれを、唾棄するように軽蔑してきたものだった。故人を生きているかのように扱うことは、彼らを貶め、抗いえない暴力を振るっているのと同じに聞こえた。しかし時が経つごとに、その角も取れて、そうして納得させなければ、哀しみを受け入れられない奴らもいるのだな、と自らに言い聞かせる。幸福そうに虚構を語る彼らの裏には、死によって胸が張り裂け、ずたずたにされた魂が透けて見えた。そしてその愛情が、奔流のように彼の身に迫るたびに、彼は心を閉ざした。それが溢れ返れば、自分はもう、生きてゆけない気がした。
するとジミニーが、傘の柄でエディの頬を突つき、緑がかった黄色い星影に照らされながら、両手を広げた。
「なあ、良い歌を教えてあげるよ、エディ。我々が道に迷った時、自分の本当の心を教えてくれる歌」
「おう。いきなりなんでえ、コオロギ」
「それはね。『星に願いを』、というんだ。アカデミー賞を受賞した曲で、映画の開幕後、この私が歌うんだよ」
ジミニーは誇らしげに、シルクハットのつばを少しあげて、うっとりと言った。
「星に願いをかければ、なんだって叶う。君が誰だって、何を祈ったって、関係ない。——ま、こんな歌詞だね」
「へえ、そりゃまた、誇大妄想な歌だな」
「どうして?」
「願いをかければ叶うってんなら、ミッキーはすぐにでも、魔法の力を取り戻せていたはずじゃねえか。でも現実はそうじゃない。あいつはひとりで悩み続けた挙句、あの詐欺師の狐どもに連れていかれちまった。これをどう説明したら良い?」
ジミニーは戸惑った様子で、エディのオリーヴグリーンの瞳を見ていたが、その時、背後からナヴィーンが、濃い眉を跳ねあげ、指に数匹の蛍を休ませながら訊いた。
「ミッキー、といったね。彼に必要なものは、何なんだい?」
「必要なもの? そりゃ……魔法だろうが」
「望みは、魔法を使えるようになること。でも何が必要かは見えてない」
静かに、だが判然とした口調で言い切り、ナヴィーンは首を振った。
「それが分からない限り、残念だけど、魔法の力は取り戻せないと思うよ。
河の流れに身を任せていても、望みは泡のように浮かんでくるけど、何が必要かが分かるには、沼の底まで錨を下ろさなきゃいけない」
「まだまだ、時間がかかるってことか」
「そう——それまでは、ずっとそばで、待っていてあげなくちゃ」
ナヴィーンは、求愛の光を放ちながら乱舞する蛍の様を、どこか寂しげに、焦れるように眺めていた。
「待つことは、決断することと同じくらい大切だ。そして待つことの方が、数倍怖くて、難しい」
黒々とした睫毛が樫色の肌に映えるナヴィーンの前で、幾つもの蛍の描く残像が、筋のように目に残る。少しばかりなよやかな媚態、雄々しく、かつ甘い眉に彩られて、なるほど、十のうち九人が、見目麗しい男だと騒ぐことだろう。しかしその背中には、嵐を通り過ぎてきたばかりのような虚しさが漂っていた。
これほどに美麗な男だったのならば、待つという行為は確かに、禁欲にしかならぬだろうな、とエディは判断する。背格好の冴えない自分にとって、時間とは、唯一の味方であった。注意深い人物の張り込みも、両親との死別も、酒を煽った酔いも、時間だけが解決してくれた。時間は、一切の嘘を押し挟まずに、すべてを零の状態へと漸近させるものである。時の経過によって失うものを持たない彼には、その辛抱強さが、一種の鎧となってくれていた。
(待つ、か)
その言葉を聞くと、いつも冬風のような痛みが走った。そして脳裏には、濃いブルネットの巻き毛に囲われ、骨の浮き出そうなまでに痩せこけた、あのガラス玉じみた女の目が浮かんだ。
出会った頃は、場末のホステスだった。彼はまだロス警察に勤めていて、店の古びたバーチェアに身を預けると、窓から降りそそぐ街灯が、滑らかに落ちてゆく栗色の巻き毛を、燃えるように輝かせていた。そして、猫のようなあの目。男たちの金の腕時計をものともせずに反射し、強い意思を持って底光りするような目が、こちらを見た。肝の据わったしっかり者で、随分くだらぬ喧嘩もした——彼女の薬指には、すでに指輪が光っていたが、却ってそれが、二人の距離を忌憚なく近づけさせた。吸いもしないのに、煙草の匂いのする女だと思った。いつもブルネットの髪を綺麗に巻いて、忙しそうに動き回り、痩せろと口酸っぱく小言ばかり言って、横顔は、どこか物憂げだった。ろくでもねえ野郎に惚れてるんだな、とちょっかいを出すと、あんたよりはよっぽどましだわ、と引っ叩かれた。結局、酔うと殴りつけるだとかで、彼女は呆気なく離婚した。あんな男、と気を張っていたのを、兄弟だけじゃ人員が足りない、手を貸せ、と無理に探偵事務所へ引っ張ってきて、同じ職場で、軽口を叩き合いながら一日を過ごすのは楽しかった——仕事が軌道に乗るまでは、テディを連れて、がむしゃらに働いた。これで足りるか? と月給を渡すと、さっと顔色を変え、何枚かの紙幣を突き返すドロレスに対して、また水商売に戻って、他の男の相手なんかされたら困るからな、と笑いながら立ちあがろうとした時、不意に、腕を引き留める手の重みを感じた。おかしいじゃないの、と押し殺すような声が漏れた。灰皿にある吸い殻が崩れた。彼は何も答えなかった。
幾つかの難事件を解決し、徐々にトゥーンタウンでの探偵としての名声が確立されてゆくのにつれて、ドロレスが、何か切実な響きを帯びて自分に突っかかるのも、テディと話し込む姿を見かけるのも、何が理由であるのかは分かっていた。それを言い出さないのは、自分と同じように、彼女もまた、後戻りできなくなるのを恐れているからだろうと思った。二度目の結婚をしたと告げられた時、そうか、幸せになれよ。今度、旦那も交えて飯でも食いに行こう、と呟いた瞬間に、初めて、平手打ちが飛んできた。ドロレスは泣いていた。言えば良いじゃねえか、と叫び返す自分の頬にも、熱く流れ落ちてゆくものを感じた。テディが飛んできて、彼女は今月末で、事務所を辞めるそうだ、と告げた。テディには言うのかよ、と彼は叫んだ。お前にとって俺は、そんなに信用のならねえ男なのかよ。泣きながら崩れ落ち、テディに宥められるドロレスには一言も声をかけずに、夜、静まり返った事務所で、退職の手続きにサインをしていると、何かが終わる、という思いが、胸を焦がした。崩れて、消えて、全部終わる。瑣末な口喧嘩も、触れられない距離も、照明を浴びて光る指輪も、全部渦に飲まれて、掻き消えてしまえばいい、と思った。
二度目の夫は、先の世界大戦で大空へと飛び立ち、肉片ひとつ残らなかった。今度こそ、ドロレスは立ち直れなくなった——ベッドに寄り臥す彼女の家へ、亡夫の後追いをするのを恐れて、毎日テディと交代で、世話をしに行った。良く夕陽の射してくるアパートで、荒れ果てた家の中に滑り入ると、寝ていろと言い渡し、花瓶に花を活け、くしゃくしゃに潰れた髪に、櫛を通して、整えてやった。ドロレスは人形のように大人しく俯き、一房ずつ、絡まった髪がほぐされ、ゆっくりと櫛の目のうちに梳かされてゆくのを、身じろぎもせずに受け入れていた。水がなくなっていることに気づき、彼は立ちあがった。ナイトテーブルに載っていた水差しの取っ手を、太く短い指で持ちあげようとした時、すっ、と細い手が伸びて、動きを差し止めた。エディは彼女を見た。ドロレスも、彼を見た。揺れ動く彼女の瞳が、か細いまでに稚拙に、それ以上の温度を拒絶していた。
慰めるのとは別の形で、なぜ、そばにいることができないのだろうか。憔悴したドロレスが、ガラス玉のような目で見つめ、微かに弱々しく潤んだ光が射してきたあの時、彼女に言えば良かったのだろう、愛していると。けれども、抱え切れない。死の上に架けられた橋も、この胸に広がる泥濘のような蓄積も、自分たちをどこへ連れてゆくか分からない。あまりに長い年月、すべての傷が取り払われる日を待ちすぎた——そして今、口火を切れば、縋りつく手のままに、もう戻れない海の底へと沈んでゆくようで、果たしてそれが正しいと、誰が言えるのだろう。獲物を罠にかけるぺてん師の如く、自分の求める方向へと引きずり込むことに、堪えられるのだろうか。
(兄さんは、臆病者だね)
テディは笑って、眼鏡を襤褸布で拭いた。
(なんでえ、藪から棒に)
(口説くのに絶好の機会が、人生に何度もあったのに、全部みすみす、取り逃してしまったじゃないか)
苦み走った口調で、付け足した。
(俺ぁ、人の離縁だとか死だとかにつけ込むやり方はしねえ。虫唾が走るんだ、そういうのは)
(それじゃ、待ち続けるつもりなんだね。彼女の傷が癒えるまで)
(ああ、待つことにゃ慣れてる。その間に他の男がかっさらっていっても、それがあいつの選んだことなら、俺は構わねえ)
ブラインドの向こうに目を投げ、ぼんやりと考え事をしているエディに、テディはふと真面目な顔を作って呟いた。
(でも彼女の方は、慣れていないよ。誰であっても、何年も何年も待たされ続けたら、きっと折れてしまうはずだ。ずっと前から、兄さんは彼女の心を知りながら、傷つけてきた。そうだろ?)
その台詞は聞こえなかった振りをして、固く封じられたウイスキーの栓を、奥歯で引き抜くと、カットの美しいロックグラスに、琥珀色の液体をそそいだ。泡の立つようなこそばゆい音とともに、鼻に、きつい匂いが広がった。夕陽を溶かしたようだった。
誰に色目を使ったこともないし、誰を欲しいと思ったこともない。両親が亡くなってからは、テディさえ無事に守り切れれば、それで良かった。今や、小さいとはいえ事務所を構えた、一国一城の主でもある。これ以上、自分は何を欲すれば良いのか? 何かを求める権利など、あるのだろうか? ロスの派手な看板にでも貼り出されない限り、自分の分不相応な思いなど、気づけない、と思った。
(兄さんは、あまりに、……)
(俺が、なんだ)
エディが顔をあげ、眇めるようにテディを見た。言葉は尽きて、夕暮れの中に、透き通るウイスキーの瓶の落とす、薄灰色の影が落ちていた。その上を、雲の影が通り、また過ぎ去った。
一枚一枚、デスクの上に散らばっている書類を拾いあげ、その文章を見つめていると、すべては、この白紙の中に書かれている気がした。確かに、そこには探偵の鼻先に浮かびあがる、トゥーンタウンに繰り広げられてきたドラマがあった。人は悩み、盗み、堕落し、喜び、怒り狂い、絶望し、助けを求めていた。人を救うこと、それが自分の選んだ職だった。
(仕事は、いいな。……全部忘れられる)
エディは静かに呟いた。ブラインドの縞模様に切り刻まれたロサンゼルスの夕空を、数羽の鳩の影が、羽ばたいて過ぎていった。
あの時、僕は兄さんの味方だよ、と笑っていたテディも、夢のようにいなくなってしまった。こうして順番に、人は亡くなってゆくのか——自死、他殺、事故、戦死、様々なラベルを付されて、人は消えてゆく。そしてそのあわいに立ち続け、手を伸ばすこともできず、生の岸辺に足を置いたまま、互いの解放を待ち続ける私立探偵と未亡人。結論を出せず、好転するという確証もなく、ただじりじりと苦しみだけを支払い続けなければならない、あの時間。微かな期待と迷蒙に照らされて、忘れることも許されない、あの時間。いつまで、何を待ち続ければ良いのだろう、生きている者たちは? 死は、生者にも許されない時間だった。亡くなったこの世に、太陽が昇り、太陽が落ちてゆくのを、ただ、絶望的な眼差しで見つめ続けるしかない。
そしてそれとは別に、まったく不意のタイミングで、エディは出会う。そうした太陽の照りつける地面の上に立って、自分を見あげ、くるくると尻尾を動かす、ちっぽけな鼠。そのあまりの小ささに、低い身長を冷やかされ続けた自分でさえ、胸を衝かれた。まだ、人生の苦さも、卑怯な選択も味わっていない——その純粋さが、眩しいほどに目に飛び込んでくる。王国は、その純粋さを原動力として動いていた。何か耐えられないものを前にして、心を汚すことも、逃げ出すことも許されない。まだ子どもの小さな鼠は、そのような世界で、必死に生きようとしていた。
自らの真意を理解できる者など、誰もない。もう中年に差しかかった自分でさえ、本心に目を背け続けてきて、それが生き抜く唯一の術だったというのに、なぜ子どもには許されないのだろうな、と思う。正直であること、善であること、それらはそれほどまでに偉大なのだろうか。少なくとも、本心から逃げ続けてきた自分の人生と比較すれば、なぜ魔法が使えないのか分からない、と嘆く彼に教えられることなど、何もありはしなかった。
「あいつは可哀想だな。いっつも、誰かのために魔法を使い続けて、当然のように責を負わされて。でもいざって時には、誰も代わりになれない、誰にも庇っちゃもらえない。——まだ、子どもなのに」
ぽつりと、エディは言った。
「そんなことはないよ。確かに大変な道のりだと思うけど、でも彼はけして、可哀想なんかじゃない」
「なんで、そんなことが言えるんだ。おめえはあいつに会ったことが一度もねえだろうが」
「だって、君のような仲間がいるじゃないか。そうだろう?」
今度、答えに窮するのは、エディの方だった。ナヴィーンの顔からは気障が消えて、慈悲深い表情で、微笑んでいた。そばを過ぎる蛍が、眩ゆいばかりに尻を光らせ、彼の瞳の奥底を、若草色に照らし出した。その時、列の前方から、無遠慮なトランペットのソロが飛び込んできた。
「ヘイヘイヘーイ、後続組! オレのトランペット、聞こえてるー!?」
「ルイス。静かな夜なんだ、充分に聞こえてるよ」
「それじゃ、ナヴィーン、ウクレレもよろしくう! 弦が足りないよう!」
彼は大袈裟に肩をすくめたが、やがてチャームポイントらしい白い歯をこぼして、くるりと一回転しつつ、荷にまとめていたウクレレを弾き鳴らした。アメリカ南部にこうした光景は、ありふれたものだった。蛍の舞い踊る河の畔で、ロッキングチェアに腰掛け、ギターを掻き鳴らす——ここには、目の前にバイユーは存在しなかったけれども、音楽から流れ出る長い風習の積み重ねの香りが、ふと、人間の最も素朴な心のかたちに触れるような気がした。それは確かに、頑なだった視野を、湖水の如く磨いた。
「大丈夫。エバンジェリーンは、いつも夜空にあり続けるわ。それに——レイとの思い出も。善き人がこの世にいたという事実は、生きている私たちに、勇気をもたらすの」
一匹、二匹、と天に向かって蛍が泳いだ。それを見つめるティアナの唇から、微かに、鎮魂のように小さな溜め息が漏れた。
「だめだ。とても脱出できそうにないよ」
鳥籠の格子の根本を、一通り調べ終わったミッキーが座り込んで、暗い調子で呟いた。
「ごめんね。君を助けられなくてごめん」
「ううん。僕が言うことを聞かなかったからだよ——」
ピノキオの青い透き通った目を曇らせて、涙がきらきらと溢れ、檻の床に弾けた。
「ぐすん。お父さんとはもうこれっきり、会えないのかなあ」
「よしなよ、泣いちゃだめだ。さ、笑って。僕みたいに」
と言いながらも、にかっと笑いを浮かべたミッキーもまた、大粒の涙を浮かべていた。彼は、自分の衣装の端をピノキオの鼻にあて、ちんとかませた。それでも、小さな人形は、頬に水の滴るのを絶やすことはなく、心は焦るばかりだった。
「雨があがったね。ようやく、星も見える」
「女神様が、僕たちを探しにきてくれないかなあ。最初に、あの星が女神になって、僕に魔法をかけてくれたんだ」
「魔法を? それじゃ——僕たちの声も、聞いてくれるかもしれない」
最後の賭けだ、と言わんばかりに、ミッキーは鳥籠の格子を引っ掴み、力の限り叫んだ。
「神様。誰か、助けてくれよ!」
夜風はざわざわと流れて、馬の闊歩の音に絡み、必死の救いを呼ぶ声を、南伊の土に紛らせるばかりだった。
「小さな男の子が、ここに閉じ込められているんだ! ピノキオのことを、どうか助けて。彼をここから、出してあげてよ——!」
ピノキオは、その純粋なブルーの目を見開いて、ミッキーを見つめた。止まり木に座った彼から見下ろされる、そのちいさな鼠は、格子を掴んだまま、ぽたぽたと涙をしたたらせていた。
四角く切り取られた窓の向こうに、ようやく、雨の降り止んだ外が見えた。なだらかにうねる高原の彼方に、真っ白に凍りついた雪山の尾根が、険しい襞を寄せながら広がってゆき、雨水で空中の塵をすべて洗い流されたように、夜空は果てしなく黒洞々として、満天の星々は青く瞬き、その輝きは、地上のいかなるものにも妨げられることはなかった。圧倒的な迫力でばら撒かれた彰々の青たちは、目を眩ませるほどに遠く、そしてそれらは、音もなく頭上の宇宙をめぐりながら、哀しいまでに明るい光条を囁かせた。そして地上は、青白い星影に勇気を見出し、暗い夜道にも、けして皓々たる光を絶やすことはなかった。
(僕は、誰かのためを思って、星に願いをかけたことがあったろうか)
夜の底にも映える大自然の山々を見つめながら、ピノキオは自問自答した。しんとした夜の静寂が、耳にうるさいほどに迫った。
「誰か、助けてよ——」
ミッキーは涙を流しながら、一際鋭い星の輝きに訴えた。
宇宙はあるがままに静まり返り、青い銀河の星々は、その冴え冴えとした光を、凍れる風の中にまじろがせるだけだった。そして静寂は、彼らに必死の想像を駆けめぐらせるのだった。逃げるために。ここではない道を探すために。
その時、初めて———
初めてピノキオは、木でできた胸のうちに、想像力を膨らませる。それはけして、蝶や鳥の飛ぶ、幸せな夢なのではなかった。ほとんど走馬灯のようにか細い、脂汗の滲む、最後の幻のような何かだった。父、ゼペットの、あの長年の孤独を裏づけるような喜びよう。彼を見つめてくるフィガロの、愛の籠もった上目遣い。錦絵のように優雅なクレオの、橙色の微笑みの美しさ。闇の中に光が射してくるようであった。からくり時計は鳴り響き、彼がここにあることの祝福を合奏し、生きる最初の喜びを、ピノキオの魂に染み込ませた。
それらはないまぜになって、彼を酷く混乱させる苦しみを生んだ。幻は、苦しみであった。しかし、こうして鳥籠の中にいれば、思い浮かべない訳にはいかなかった。それは何か、自分が他人の悪夢の中にいて、もがきながら地獄へと沈みつつあり、その絶対的な鎖から解き放たれるために、虚しい幻を描くかのようであった。したがって、苦しみは、鎖を変容させる苦しみでしかなかった。しかしピノキオは自ら、後者の苦しみを選んだのである。
(僕は、お父さんを傷つけた)
ゆっくりと、ピノキオは思考を始めた。過去を辿り、初めてこの世で瞬きをした、あの魔法の夜を思い浮かべた。
(あんなにも、人形の僕に愛をくれたのに。僕が与えたのは、苦しみだけだった)
あの喜びは、彼がこの世に生を享けたことをことほぐ、最初の声であった。そして、それほどまでに子を慈しもうとするゼペットの弱さが、優しさが、息を奪うように彼の背にのしかかる。
(僕は、生まれてこなければよかった。お父さんを苦しませるくらいなら)
寂しさは———
初めて、彼の胸を締めつけた。硬い木で造られ、この世に生まれたばかりの彼には、その洪水から逃れる術も、和らげる手段も知らなかった。ピノキオは戸惑い、しがみつくように、胸許の服をかき寄せた。
やがて、ミッキーの手から一瞬、ぽう、と柔らかな燐光が漏れた。しかし、その光のありかに気付かぬうちに、新たな訪問客が、彼らの意識を引きつけた。
「ばあ!」
静寂が破られた。馬車の窓の下から顔を出したのは、赤毛の狐に、山猫——見覚えのあるその顔は、確かに、昼間に出会ったものである。
「ファウルフェロー!」
「ちょっとした手違いがあったようだよ、坊やたち。おやまあ、なんたることだ——何が起こったんだい? こんな粗末な檻の中に閉じ込められるなんて!」
「ファウルフェロー。僕、僕——」
「おーお、みなまで言わなくていいんだよ、可哀想に。安心したまえ、すぐに出してやるからね」
緊張の糸が切れたのか、わっと、大粒の涙を流すミッキーの頭を、窓から忍び込んできたファウルフェローが、格子の間から丁寧に撫でて、ふさふさと赤毛の尻尾を振った。
「女神様が、君たちを僕らのところへ送ってくれたんだ!」とピノキオ。
「ありがとう、助けにきてくれたんだね」とミッキー。
「アフターサービスも充実しているのが、良い商売ってもんさ。どれどれ、鍵は、と……旧式だね。いったい、君たちはどんな冒険を繰り広げてきたというんだね、こんなお仕置き部屋に入れられるなんて? それに——それに、魔法の件は?」
針金を折り曲げ、即席の鍵を作りながら、それとなく問いかけるファウルフェローの目は、しかし素早く彼らの表情を見やり、刺激しないように慎重に、震えそうなほどに躍りあがる思いを押さえつけ、眼差しをそそぐのだった。
「魔法どころじゃなかった。昨日までは、暴走しながらも、魔力はあったのに。今はもう、空っぽになった気しかしないんだ」
先ほどから、顔をあげられないままのミッキーは、ほとんど冷えた鉛を吐くような思いで言った。
「舞台にあがれば、もう一度、使えるようになると思ったのに。今度こそ、もう何も——!」
「ほほう、なるほど。だが魔法を使えなくなったって、何を困ることがある?」
すかさず、ファウルフェローは素早く切り返しながら、かちり、と音を立てて、針金の鍵を回した。まごついて息を呑むミッキーに向き直り、その口をずる賢くにやりと歪ませて、
「この世には、魔法を使えない奴が、星の数ほどいるじゃあないか。そいつらは才能も根性も何もない、影のような有象無象なのだよ。彼らのために、なんでまたわざわざ、君が魔法を使わなくっちゃいけないんだい?」
そのようなことは、考えたこともなかった。いや、はなから、彼には思いつく可能性すらなかった。
「批評家ぶったゲストたちがぶつけてくるのは、嘲笑と要求ばかりで、与えられるものをただ待ち続けるばかり、自分たちでは何も生みはしない。そんなに必死になって魔法を取り戻したところで、彼らは君に、どんなことを返してくれる? どんなやり方で報いてくれる?」
人差し指を彼の鼻の前で振って、ファウルフェローは弁舌爽やかに諭し続け、ミッキーは背後の鳥籠の格子に突き当たり、ぺたんと座り込んだ。
「報いる、って——彼らが喜んでくれれば、それだけで、僕は」
「殊勝だねえ、それじゃあゲストが、喜んでくれたかい? この未曾有の災害で、ディズニーランドが長らくの休園を経て、再開してからの彼らの言い分はどうだい? あっさり、別の遊園地に鞍替えしたり、経営に文句を言ったりして——我々の努力や赤字なんか、少しも顧みちゃくれない。これが、君の望んだこと?」
ファウルフェローの顔が、ずい、と詰め寄った。
「分かるだろ、少しでも自分に不利なことがあれば、ゲストは一瞬で離れてゆくんだ、それこそ、蜘蛛の子を散らすように。例え彼らを何年にも渡って励ましてきたとしても、彼らは危機に陥った君を、応援してくれるわけじゃあない。君は彼らのことを考えているけど、彼らは君のことなど、ちっとも考えちゃいないのだよ。それもそのはず、君は商品で、彼らは、それを品評する消費者だからだ。君がいなくても、別の商品で心の穴を埋めて、満足そうに——笑ってる」
「わ——分かってるよ、そんなこと。だけど僕たちは、サービスを対価にしてお金をもらっているんだもの。だからその分、僕たちは……」
「ゲストが憎いだろ?」
初めて、ミッキーが顔をあげた。
「自分を見捨ててゆくゲストが、憎いだろ? まだ分からないのかい? 魔法とは、搾取されるものだ。君の情熱もサービス精神も、全部全部、利用されているだけなんだよ」
ミッキーの胸の内が、さっと怒りで黒くなった。震える声は、しかし眩暈じみた恐怖を堪えるかのようでもあった。
「違う……違う! ゲストのことをそんな風に言わないでよ! 彼らは悪いことなんか、ひとつもしちゃいないじゃないか!」
「そうさ、善悪じゃない、単なる気分の問題だよ。その点では、見限って離れてゆくゲストの方が、数倍賢いようだねえ。魔法なんぞも使えない君に、消費者たちは、金を落とし続ける義理なんか、毛筋の先ほども感じちゃいないさ」
「そんな——僕たちは、そんな冷たい関係じゃなかった!」
「君は夢と魔法に群がる消費者たちに——」
「君の言うことはいつも——」
「毎日、奉仕してきた。君は偶像であると同時に、商品でしかないのだよ」
「どうしていつも、他人を道具だとしか考えないんだよ!?」
ミッキーはほとんど必死になって叫んだ。
「なぜ、すべてを図式化しようとするんだ。目の前に人がいたら、その人を喜ばせたいと思うじゃないか! 幸せにしたいと思うじゃないか! それが——それが人間同士の関わり合いだよ。それをすべて切り捨てて型に当て嵌めて、語ったつもりにならないでくれよ!」
「ほほう、ご立派な訓示だ、それじゃ、どこにいるというんだね? 君の大切な大切なゲストは、君が鳥籠の中にいる間、どこにいた?」
「僕は……」
「逃げろ、ミッキー・マウス。逃げるんだ」
裁判官が告げるかの如く、ファウルフェローはそれを、厳かに言った。
「魔法が使えなくなった以上、残りのゲストたちもやがて、もうここには用がないってことに気づき出すよ。手品はおしまい、王国は空っぽ。何もかも、さよならだ」
誰一人、身じろぎする者はいなかった。ギデオンでさえも——たまさかに、宙から吊られた操り人形が、地面の凹凸に揺さぶられて、馬車の中に、カタコトと乾いた音をこぼすだけだった。
「帰らないの、ミッキー?」
ピノキオが不思議そうに訊ねた。ファウルフェローは優雅にマントを翻して振り向いた。
「君はどうするんだね、ピノキオ? 自分の家に帰るのかい?
まあ、君がどうしようと、勝手だがね——しかしね、この世に生まれて、たった一日で、悪い座長に騙されて鳥籠の牢に入れられていたなんて、もしお父さんが聞いたら、どんなに怒るだろう」
「お父さんは、僕のことを嫌いになる?」
「もちろんだとも。こんな悪い子は生まれない方がずっとましだったと、酷くお嘆きになるに違いない」
ピノキオはじっと黙り込み、考えている振りをした。しかし実のところ、その木の頭は、考えているのではなかった。ただ、決まった答えをぐるぐる見回し、それを口に出すまでに最適な沈黙を、捻り出そうとしているだけなのだった。
「僕、帰らない!」
「おやまあ、驚いた! 君ときたら、なんて悪い子なんだ!」
「いいんだよ、僕、最初からそうだったんだもん。それに、お父さんのことなんか、大っ嫌いだったんだ!」
「おお、そうかね? そうこなくっちゃ!」
「アハハハハ!」
ストロンボリから学んだやり方で、ピノキオは大声をあげて笑い、そして少しばかり、冷たい涙をこぼした。するとその鼻が、ぐんといきなり前に伸びた。ピノキオはぱちくりとして、その涙ぐんだ目のままで、不思議そうに葉の生えた鼻をさすった。
「おーやおや、こいつは、どうしたことだ!」
ファウルフェローは、わざとらしく目を丸くして、コンコンと鼻を拳で叩いた。
「これって——病気?」
「ああ、可哀想な子だ、どうやらノイローゼらしい。確かに、神経がメタメタ! 今すぐ診察してみないと——ぶるる、さあ助手、カルテ!」
ファウルフェローは懐から眼鏡を取り出すと、大真面目に口を引き結んで、手首の脈拍を測り始めた。
「こいつはおかしい——やれやれ、思った通りだ。流行性三角熱に肺臓ブルブル症とガタガタ症を併発しておるぞ!」
ファウルフェローは、これ見よがしに眼鏡を取り出すと、それでピノキオの舌を押さえつけ、居丈高に言った。
「ぱぴぷへぽと言え」
「はひふへほ」
「やっぱりだ! 鼻腔カタルと口内炎に侵されている上、神経異常症まで進行中! はあはあ、やはり心臓だ。おお、これは——大変だあ! 心臓ドキドキすごい音、あんまり早くって目がまわる! 助手、カルテを早く!」
ファウルフェローは手帳を取り上げると、字の書けないギデオンが、ぐしゃぐしゃに落書きをしたメモを見て、目を丸くした。
「おお——これですべてがはっきりしたぞ、我が友よ。君の病気は、アレルギー、なーのだ!」
「アレルギー?」
「そーお、しかも治す道はひとつだ。バケーション、島の遊園地で!」
「島の遊園地?」
「そうとも! 仲間が大勢いて楽しさいっぱい、毎日が日曜日だ!」
ファウルフェローも華麗なるバレリーノの如く、架空の花を撒き散らしながら、馬車の中を大跳躍で駆け回った。ピッコロの吹き真似をするギデオンが、愉快に後に続いた。
「私は思うんだがねーえ、世の中の人々はもっと、本心をさらけ出して、自分に素直になった方がいい。土台、遊園地というのは、疲れ切った都市労働者のストレス解消のために、鉄道会社がこぞって発展させていった施設なんだよ。言わば、疲れ切った者たちの——病院だ。
働きすぎ! こいつは現代社会の、大いなる病原菌だ。労働、労働でキリキリ絞めあげちゃ、人間、魂まで病んで、大切なものを見失っちまうもんだよ。そうは思わないかい?」
「ピノキオ! 騙されちゃだめだよ!」
「おっと、もう一匹残っていたね、奴隷労働者の典型だ! 君はずっとやりがいで搾取されてきて、自分の懐に何も入ってこないのを、疑問にすら思わない。
どーおして、君はいつもいつも、ウォルト・ディズニー・カンパニーの操り人形にしかなれないんだい?」
「あ、操られてなんか、いないよ——」
「そおーか! だったら一緒に、プレジャーアイランドに行こう!」
上機嫌に口を窄めて叫びつつ、カンカンカン、と杖の先を足元の箱に打ちつけ、その衝撃に飛びあがるように、横たわった人形が、ピクピクと音に合わせて起きあがった。
「なあに、簡単なことだよ、君。別の遊園地で思う存分遊び回って、ここであった何もかも、忘れちまうのさ。君はもう充分、商品として働いた、ほんとーおに、よく頑張った。今度は君が消費者になるんだよ。バケーション! 働き者の君にも、せめてそのくらいの権利は授けられるべきじゃないか、そうだろう?」
遊園地で遊ぶ? 少なからず、ミッキーの胸にもたげるものがあった。遊びたい。僕だって、気分転換したいし、辛いことを忘れたい。しかし、ミニーを誘拐されてしまっている今、現実逃避をしている場合なのだろうか?
「僕——僕に、そんなことは許されない気がする……」
「なーにを、許されないことがあるものかね! 君に辛いことだけを吹き込む輩は、無視して然るべきだよ。それに君には、お父さんがいない。お母さんもいない。君を心配する家族なんて、どこにもいないんじゃあないか? 好き放題して、何が悪い!」
押し黙ったミッキーの頭に、一瞬、プルートが浮かんだ。けれども彼のことは、トゥーンタウンを出る前に、グーフィーに預けてきたはずだった。同じ犬であるがゆえに、気の合うはずだ——それに、魔法の使えない自分よりも、毎日、おかしな発明をして陽気に生きているグーフィーと一緒の方が、彼にとってはずっと幸せなのかもしれなかった。
けれども——ミニーは?
ミニーのことは、どうしよう?
「ぐずぐずしちゃいられない、出発しよう! 善は急げ、さらばだ、ストロンボリの親方!」
ぐい、とミッキーの腕を掴んで、ファウルフェローは馬車から飛び降りた。ストロンボリは相変わらず、馬に熾烈な鞭をくれてやり、頭上には降るように満天の星が、ぐるりと地球を取り囲んでいた。
「さあ、隠れろ! 親方に気づかれないうちに、早く!」
「でも、どこに行くの?」とピノキオ。
「黙って、この私についてくるんだよ。すぐに、新しい馬車がやってくるから!」
僕はディズニーランドから逃げようとしている、とミッキーは思った。でも、どこへ? あまりにその顔を知られているがゆえに、プレジャーアイランド以外のどんなテーマパークも、彼を受け入れてくれるはずがなかった。それに、残してきた王国はどうなる? 本の中に閉じ込められたままのデイビスたちは? 何万人もいるキャストや、ゲストのことは? それに——ウォルトの遺志は?
何もかもがぐるぐると、彼の脳裏に渦巻いた。その渦は、次第に胸を締めつけてきて、パークの音や匂いが、よみがえってきた。ミッキーはそばの木につかまり、鳩尾に堰き止められていた吐瀉物を吐いた。ぼたぼた、と地面に黄色い粘液が垂れた。ファウルフェローはハンカチを取り出し、これ見よがしに鼻を覆った。胃液で荒れた食道が、燃えるように焼きついた。
(僕は、どうすればいいんだろう?)
夜陰から車輪のがたつく音とともに、コーチマンが現れ、たちまち、ミッキーの脇に手を差し入れると、子どもで溢れかえった馬車にあげた。そして、夜の闇に黒く翳る何頭ものロバは、鞭の衝撃にいななき、疾風の如く駆け抜けるのだった。
「出発だ! 出発だ!」
全員が口を丸く開き、夜の中に大声で叫んだ。まるで機関車に詰め込まれた囚人の如く。そして、そうとも知れず、彼らは喜びと娯楽を確信し、誰へというわけでもなく、盛んに自由の手を振った。
(例えディズニーランドがなくなったとしても、みんなには、帰る家がある。でも僕には、王国以外、どこにも居場所がない)
また、鞭が打たれた。コーチマンの側頭にわだかまる白髪が、一層激しく、風に揺れた。次第に、それまでの路地は彼方へと遠ざかってゆき、家も、街燈も、石畳も、どこにも見えなくなった。夜の森の匂いがした。白い花の匂いがした。そばを駆けるだけで、冷たい露をしたたらせる下草を蹴り飛ばし、谷川の上に渡された、今にも崩れ落ちそうな丸太橋を渡り、蝙蝠の気配だけが漂う、不気味な岩場の洞窟をくぐり抜け、風はどこまでも夜更かしの興奮を湛え、ついに、海の上に浮かんだ蒸気船へと辿り着いた。
(違う。僕はそんな場所に行きたくない。でも本当に行きたい場所なんて、どこにもない。
どうして、何も動かないんだ。心も体も、石になったみたいだ。どうして僕は、ディズニーランドを恐れているんだろう? まるで、まるで夜逃げするみたいに。誰にも言わずに、こんな形で———)
子どもたちは諸手をあげて、豪華な蒸気船に飛び乗った。汽笛が鳴った。船は、夜の大海原に曳航を揺らめかせ、かもめと、はためく連続旗と、幾千もの星を引き連れながら、地球上のあらゆる星を白波の中へと乱し続けた。
(もう、僕を縛りつけるのはやめてよ。いつだって、完璧な魔法使いでいられるわけない。僕は、僕は——王様になんて、なれないよ!)
海面を揺るがす汽笛が鳴った。槌で叩いた金属板の表面が輝くように、小さく波を上げ下げするばかりの海が、掻き分けられてゆく航跡を償った。
「うおぉーいッッ! もう出港しちまってんじゃねーか!」
「あちゃー。一歩遅かったねえ」
水平線の彼方に消えゆく船を見届け、ぴしゃりと自分の額を叩くルイスの傍らで、ぜーはーぜーはーと息を荒らしながら、エディは桟橋の上でよろめき、ちゃぷちゃぷとへばりついたフジツボを洗う、微かに夜光虫に輝く漣を見つめた。
「どどどどどどどどど、どうしよう? 彼らがプレジャーアイランドに行ってしまったら、取り返しがつかないことになってしまうぞ!」
「おい、落ち着け、ジミニー。何とかして渡る方法を考えるんでえ」
「何も良いアイディアが出ないから、弱っているんだよ!」
困り果てたエディは、ちらりとティアナとナヴィーンに眼差しを送るものの、返事は芳しいものではなかった。
「ここはニューオーリンズじゃないもの。蒸気船がそう頻繁に交通しているわけじゃないし——」
「ルイスはさすがに、海水には弱いだろう?」
「オレ、だめ! 皮膚が痒くなっちゃうもん! ワニの肌はデリケートだから!」
途方に暮れたエディは、腕を組んで思案した。
「どーすればいいんでえ。ビーバー兄弟から、カヌーでも借りるか?」
「いや、しかし私の小ささじゃ、カヌーなんてものは漕げないし——」
その時、ざぱっ、と水飛沫をあげて、真っ暗な夜の水面へ、黄色と青の縞模様の丸っこい魚が顔を出した。
「大丈夫! 僕がいるよ!」
「ああっ、海の底からおもむろに現れたお前は——」
「出、出〜! 人間になったアリエルを泳いで船へ運び奴〜!」
「フランダーだよ!」
「嘘つけ! 『リトル・マーメイド』の世界線では、魚介類は人間と会話できなかったはずだぞ!」
「それは科学の力で、なんとかしたんだよ!」
フランダーは、サッと鰭の下から、電話機のようなものを取り出した。
「クラッシュから、ハイドロフォンを借りたんだ!」
「それじゃ今、TDSのタートル・トークは、いったいどうなっているんだ!?」
「ええい、いちいちうるさいな! ぐずぐずしちゃいられない、すぐにミッキーとピノキオを助けに行こう!」
エディは、桟橋の上の樽を蹴落とすと、自分もざぶんと海へ飛び込んだ。途端に、凍りつくような塩水が、背広にじわじわと染み込んでくる。
「寒ーッ!!」
「秋の夜の海だ、はっきり言っちゃ自殺行為だろうねえ」
「おめえは気楽そうでいいな、ぷかぷか浮かびやがってよ」
エディの言う通り、ジミニーはうつ伏せに広げた傘の上に優雅に腰掛け、クラゲのように海面を漂っていた。それを震える手でつまみあげると、歯の根をかち鳴らしながら、自分の中折れ帽のつばの間に引っ掛け、潮に流されてしまわないようにした。
「それじゃ、出発するよ! 樽に掴まって!」
「よおし、頼むぜえ、フランダー!」
「ここまでありがとうよ、ティアナ、ナヴィーン、ルイス、それに蛍諸君!」
「ニューオーリンズで出会ったら、よろしくねー!」
波音に紛れて、遠くから高らかにパッセージを響かせる、別れのトランペットの音が聞こえた。ざわざわと揺れ動く蛍の集団が、巨大な手の形に群れて、幸運を祈るように、左右に振られていた。
ピノキオたちを乗せた蒸気船は、不可思議な島へと停留した。桟橋に鈍い靴音を立てて降り立ち、一目散に、明かりの方角へと駆け出していった。
ゆっくりと、ミッキーは、島の門を見あげた。その横顔を煌々と照らして、夜を払う激しいイルミネーションは、まさに今、目の前にあった。
「どおーだい、ミッキー・マウス君! これが、ゲストの求めている"遊園地"のあり方さ。見なよ、子どもたちの、あの溌剌とした顔! 遊園地は、消費者を元気にしてこそ、存在価値があるってもんだよ」
まばゆい光で照らされて、派手なペンキで塗られた遊具の数々が、いっそう鮮やかに映った。通りという通りが賑やかで、始終、鼓膜を切り裂くようにけたたましい声とともに、馬鹿騒ぎが繰り広げられている。天に向かってライトが揺れる中、悪戯な子どもが走り回ってごった返し、我先へ、いかに新鮮な遊びに没頭できるか、取り憑かれていた。
とにかく、仰々しい、というのが、一目見た印象だった。夜の底で、ぎんぎんと鼓膜に突き刺さるオルゴールやマーチが鳴り響き、ネオンは目を白黒させるほどにまばゆく、蛍光の激しい、極彩色の世界を照らし出してきた。見えるのは、超弩級の遊び場ばかりだ。蒼い顔をしたびっくり箱、お手玉をするピエロ、おもちゃの兵隊、キャンディケイン(注、縞模様の杖状の飴)で組みあげられた観覧車、暗所で光るメリーゴーランド、絶え間ない花火の爆発、フルーツやお菓子の家、巨大な気球、ぷかぷかと浮かぶバルーン、とんでもない速さで落ちてゆくジェットコースター、ロシア風のサーカス小屋、秘密のビリヤード場。考えてもみてほしい、これだけのものを目の前にして、心臓がドキドキしてこない子どもが、いったいどこにいるというのだろう? ギデオンは真っ先にハンマーゴングの前に駆け寄り、木槌を握ると、ターゲットを叩きのめした。鉄球が跳ねあがり、高らかに鐘が鳴ると、それに惹かれた子どもたちが、わあわあと群がった。
夢中にさせるのは、何も施設だけではない。彼らの目を奪い、雨あられと降りそそぐのは、子どもたちの大好きなものだった。りんご飴や、クッキー、カップケーキ、ゼリービーンズ、ウエハース、ポップコーン、ロリポップ、ドロドロに溶けた原色のアイスクリーム。頬っぺたのずり落ちるほどにうまかったが、その上から、さらに無料の煙草を撒き散らすので、地面のぐずぐずになった甘い沼や屑に、ヤニの臭いが加わり、胸の悪くなるような悪臭に満ちていた。
「さあ来た、さあ来た、ここは煙草ロードだよ! 葉巻に、紙巻きに、噛み煙草! 何でもあるし、いくら吸っても怒られない! さあどうぞ!」
「さあさあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。ケーキに、パイに、アイスクリームだよ、よりどりみどりだ! いくら食べても、みーんな、タダだ。タダより安いものはない! さあみんな、急いで急いで!」
「喧嘩小屋だよ、喧嘩小屋! さあおいで、殴って蹴飛ばしゃスーッとする! さあ殴り放題だよ!」
こうした騒々しさに恐れをなしたミッキーは、ピノキオ、と呼びかけようとして、ふっと、足場を失った気分になった。彼のそばには、見知らぬ少年が立っていて、まるで相棒のように馴れ馴れしく肩を抱き合っているではないか。ピノキオは、馬車に乗っていた間中、塞ぎ込んでばかりの鼠を放って、この前歯の突き出た、ランプウィックと名乗る赤毛の少年と、すっかり仲良くなっていたのだ。
僕はなんなのだろう? とミッキーは感じた。ファウルフェローは、役目を演じられない役者はいらない、と言った。けれども本当は、役目以前に、誰も僕を必要としていなかったのではないか? 僕の悩みを聞きたがる人や、励ましてくれるような人など、誰もいなかったのではないか?
「すげえ、喧嘩だとよ! 中へ入って一発、ブッ飛ばすか!」
「なぜ?」
「だって面白えぜ!」
「行こう、ランピー!」
ピノキオとランプウィックは、それまで自分たちの齧っていた食べ物を放り出して、明かりに惹かれていった。カストーディアルは、ここには誰もいなかった。粉々に踏み潰されたアイスクリームコーンや、吐き捨てた吸い殻や、溶けた飴のべとつく包み紙が、足の踏み場もないほどに散らばっていた。
「ピノキオ! 人を殴るなんて、そんなの、よした方がいい——」
「どうして? どうして、人を殴ってはいけないの?」
「おーい。この鼠、なんだ?」
声変わりしたばかりの、喉に馴染んでいない、がさがさとした低い声を漏らして、少年はミッキーの尻尾を掴んだ。じたばたと暴れて、その手を払おうとすると、慌ててピノキオが二人を止めた。
「落ち着いてよ、ミッキー。彼は親友だよ!」
「彼が親友? それじゃ、僕は?」
「うるせえ、黙れ。ほざきやがって、友達じゃねえよ、こんな奴!」
その言葉を聞いて、ミッキーはさっと顔色を変えた。しかし、彼が最も寂しさを感じたのは、ランプウィックの乱暴な物言いよりも、ピノキオがにこにことして、次のような言葉を続けた時だった。
「うん、ランピーがそう言うなら、そうかもね!」
「だろ? 楽しませてくれる奴と一緒にいねえと、人生の無駄だよ!」
「ああ、それじゃ、君たち二人は行ってきなさい。彼のことは、私が見ているから」
ファウルフェローが割って入って、急にミッキーの肩を引き寄せると、もう片方の手で小屋を指し示した。二人は頭を突き合わせ、くすくす笑って、長い影を引き、光の漏れる喧嘩小屋に吸い込まれていった。小屋からは、ガラスの割れる音や、テーブルのひっくり返る音が、ひっきりなしに続いていた。まもなく、彼らが戻ってきた時には、すっかり服が破れていたが、何やら盛んに、二人にしか通じないことを言いながら、肩を組み合い、頬を紫色に腫れあがらせて帰ってきた。何かを本気でやるというのが、嬉しくてたまらない様子だった。
「ミッキーも来ればよかったのに! 凄いんだ、床一面、血だらけだったよ!」
「ほっとけよ、話しかけんな! それより、もっと別のところに行こうぜ!」
次の遊び場へと向かうピノキオたちの後ろについてゆきながら、心の中で、何かがパチンと、ハサミ虫を踏んだように弾ける音がした。前を行く二人のそばに、ミッキーが駆け寄ろうとすると、ランプウィックは大袈裟に身を捩って、彼から離れてしまう。そこで、取られた距離を壊さぬように、とぼとぼと足取りを積み重ねるしかなかった。そのさらに後ろを、ファウルフェローがついていった。
なぜファウルフェローは、僕の挙動にじっと眼差しをそそぐのだろう? とミッキーは思った。こんな姿は誰にも見られたくないのに、まるで見張っているかの如く——なぜじっと、僕の後ろについて回るのだろう?
「ほらほらほらほらほらほら、綺麗な家だろう? だが壊していいんだぜ! みんなの自由だ、好きにしろ! ぶっ壊せーい!」
威勢の良い宣伝文句とともに喧伝されたその真っ白な邸宅は、大理石だろうか、素晴らしく高価な建材を利用しており、恐らくは、破壊を念頭に置かれたものではなかったのだろう。夜目にも、遠目にも佇まいは美しく、全体の調和は完璧で、後はその景観に嘆息してくれる住人を待つばかりだった。そこへ、子どもたちは火をつけ回り、グランドピアノをバラバラにし、あらゆる窓ガラスに向かって、石材を投げた。七色の光を振り撒き、窓は粉々に割れ、燦爛たる残像を飛び散らせた。ピアノは物も言わずに、どんどんと手足をもがれてゆくのを受け入れていた。観葉植物は鉢から引き抜かれ、椅子は火炙りに遭い、天使像は突き飛ばされて転落し、コリント式の柱頭は、無惨に自らの石片を降りそそがせた。
しかしミッキーは知っていた。それはイマジニアたちが会議し、調査し、細部までデザインし尽くして、建築を主導したものだった。左胸にバッヂをつけて、朝晩と働き、完成の暁には、記念に一枚だけスマホで写真を撮って、グランドオープンのゲストの反応を楽しみにし続ける——元より、そうでない建築物を壊す行為など、子どもたちには価値がなかった。大人によって真剣に創られたものでなければ、大いに破壊したとしても、彼らに何の楽しみも齎さなかったのである。
完成が待ち切れなかったミッキーは、時には、彼らの荷物のそばに座って、イマジニアにもらったアイスクリームを舐めながら、できあがってゆく様を一緒に見守ることもあった。何層にも塗る壁や、床や、藝術的に生まれ変わるコンクリート、スプレーを吹きつけるエイジング。理想を追い求めるイマジニアたちに一切の妥協はなく、徹底的にディテールにこだわり、時には建設業者との間に衝突もあった——けれども現場責任者たちは、度重なる意見の調整に走り回りながら、自らの未曾有の創造行為に誇りを持ち、多くの人々に迎え入れられる日を心待ちにしていたのである。
ランプウィックは、邸宅の中から運び出されたらしい、ずたずたに切り裂かれた絵画でマッチを擦って、煙草に火を点けると、得意げにピノキオを振り向いた。
「どうでえ。最高に面白えだろ」
「本当! 悪いことするのって、凄く楽しいね!」
「そうともよ。あのステンドグラスを見てな」
ランプウィックは、硬いレンガを拾いあげ、大きく振りかぶった。邸宅の二階に設置された、美しい聖書の一幕を再現したステンドグラスは、甲高い音を立てて、粉々に破壊された。
「すっごい! でも、大事なものだったんじゃないかな?」
「なんでえ。世界遺産じゃあるめえし、本当に大事なものだったら、また作り直せるだろ!」
ランピーが腕を振り回して叫んだ。また、ガラスの割れる音がした。この世に、本当に作り直せるものなどあるのだろうか? とミッキーは思った。そして、無邪気に破壊する子どもたちに対して、一瞬、毛の逆立つような憎しみが湧いた。しかし怒りは、すぐに別の感情に取って代わられた。どんな大人も見たことのない笑顔が並び、肩を揺すり、腹を抱え、煮え滾るような声を放っているのであった。同じ笑いといえども、こうも天と地ほどに意味の別々なものか、彼は気色を失った。けれどもその笑いは、全く悪意がなく、公園で遊ぶ小児と比較しても、そっくり、見分けはつかなかったろう。ピノキオは夢中になって、ガラスに石を投げ込み、ランプウィックとともに遊んでいた。
「ミッキーもやってみなよ!」
大はしゃぎで家を破壊するピノキオは、周囲の人間の子どもたちと、何も変わらないように見えた。彼らを魅するのは、ほとんど生理的な快感であり、世界に禁止などはない、すべては許されている、と囁くのだった。
「僕、ここにずっといたい! ここは夢みたいな場所だね、ランピー!」
「おうよ! この楽しみを知らねえ奴なんて、生きてる価値がねえや!」
ミッキーは、この広い遊園地に一人立ち尽くしたまま、ピノキオが、今まで見たことのないほど明るい笑顔を浮かべるのを、遠くから見守っていた。
(違うよ、ピノキオ)
ミッキーは、心の中で反駁した。
(僕たちは、もっと暖かい、焼きたてのパンを綻ばせたような笑顔を見ることだって、できるんだ。何のために、僕らが映画の中に生まれてきたのか。何のために映画から飛び出して、この地上に王国を創ったのか。みんな、忘れちゃったのかい?
僕らは、永遠に胸に残るものを、あんなにもたくさん持っていたんだ。そして、溢れる夢を使って、何だって創りだせた)
騒音が、めくるめく光が、生温い風が、地上を満たした。それらは徐々に、頭にこびりついて離れないようになった。脳にねじ込まれ、撹乱し、凄まじい引力で笑い声をあげた。しかし、決定的な不和が、彼を内部から引き裂き、吐き気をもたらした。
そして突然に、僕はひとりぼっちなのだ、という思いが胸を掠めた。人の遊び声が、かつてないほど遠く、寂しく聞こえていた。子どもたちにとっては、この愉快な夜など、矢の如く去ってゆくだろうに、自分の周囲では、時間が、あまりにもゆっくりと過ぎてゆく。じっと、惨めな思いを隠して陰に立っていると、自分が土か、壁にでもなったかのようだった。
彼は頭上を見あげた。地上の喧騒を逃れ、遙か高くに天はあった。膨大な雲が千切れ、天球を支配し、島の何百倍も空は広く、永遠の過去から永遠の未来へ向かって、雲霞は流れていた。そしてその中を見失うこともなく、鋭い六条の眩さが、針の如く網膜を射抜いた。小さな光。ほんの街灯にも、煙草の火にも負けてしまうだろう。けれどもその光は、密度の入り乱れる空気に揺り動かされ、今にも消えそうに見えながらも、けして絶えることはない。
こっちだよ、と囁くように、星は光り輝いていた。
その時、さあっと夜風が通り過ぎ、カーテンが無限に翻るかのように、すべてが洗い流され、すべてが覆され、薄雲さえも切れて、星影を遮ることはなかった。見える世界は高く、遠かったが、何も邪魔されない原始の光景が、繰り広がっていた。魔法の力は、そこにあった。何もない夜、これから始まる夜、いくらでも想像力で書き換えられる夜。真実、未来や可能性が、透明になって、羽ばたいていた。今、ここにはないものを生み出せる力が、夜空にみなぎっていた。見えぬ笑顔や、聞こえぬ笑い声さえ、そこに漂っているかのように思われた。
夜に星があるという事実が、その時、どんなに彼に衝撃を与えたか、知れない。こんな簡単で、曇りのないことが、この世にあっていいものかどうか、彼には分からなかった。しかし、世の中にはあるのかもしれなかった。このように純粋で、何も難しいことなどない——地上の複雑な狂乱など、まるで意に介さぬものが。遠いにも関わらず、絶高の頂きでひちちかに瞬いているその青白い光を見つめるうちに、不意に、視界が潤むように霞んでゆくのを感じた。雲の流れる音も、海の波打つ音も聞こえた。潮風で冷えてゆくミッキーの頬に、涙が伝い始めた。
(僕の生きる場所は、あそこだ)
あまりに単直に、夜の底から、その星は光を埋め込んできた。そして、信じられないほどの熱量が胸に生まれ、じわり、と掌まで熱くなった。周囲をつんざく子どもたちの歓声のさなかで、もう一度、生が始まったように思えた。それは誰にも、どんな価値観にも揺すぶられることのない生だった。
(これが、本当の始まりなんだ。僕の意思は、ここから始まるんだ)
宇宙の片隅における、瑣末な呼びかけ。それは、夜の彼方から、闇の奥底から、影の向こうから、遠くそこにあり続けるものだった。今や、すべての考えが、夜の空気のように張り詰め、落ち着き払っていた。闇雲のさなかに忘れ去るよりも、真っ直ぐに、雲の上へと昇ってゆくかの如く強く。どんな別世界でも、願えば、叶えられる気がした。
「ミッキー、どこに行くの?」
頬を拭い、鼻を啜って立ち上がるミッキーを、ピノキオが素早く見咎め、不安そうに走り寄ってきた。
「僕——僕、分かったんだ。この島から、出てゆく。もう二度と、ここには戻らない」
「待ってよ! ここはこんなに面白いじゃない? どこに行くの?」
「どっか、そこらだろ! 放っておきな!」
ランプウィックは、ぴしゃりと二人の会話を跳ねつけると、それからふと、一人になるのを恐れたかのように、
「おめえ、楽しいんだろう?」
と悪友に訊ねた。
「ああ、もちろんだよ!」
「これが人生だ。そうだろう?」
「だね!」
ランプウィックは安心してにっこり笑い、ミッキーを振り向いて、勝ち誇ったように胸を反らした。
「それみろ。ピノキオは、帰らねえってさ!」
「ピノキオ! それで本当の子になれると思っているのかい?」
「僕、いいんだ! このままで充分楽しいんだもん!」
「じゃあ、ゼペット爺さんのことは、どうなっても良いっていうんだね!?」
ピノキオは、僅かに戸惑った。もう朝からずっと、家には帰っていない——今日は初めての登校日のはずで、その記念に、貧しい家計から少なくない金をはたいて、温かいご馳走を用意してくれているはずだった。ノートも教科書も、ピカピカのものだったのに、ここにくるまでの間に、いつのまにかそれらを失くしていた。そして、腕を振るったにも関わらず、誰にも口にされず、次第に冷めてゆく料理を見ながら、哀しげに食卓の前に腰掛けている父親の姿を思い浮かべた。けれども、帰って、どんなに叱られるだろうかと思うと、ここで破天荒に遊び続けた方が、よほど怖くはなかった。
「君はいつでも、自分に都合の良い他人の言葉しか従わないんだね」
とミッキー、
「自分で考えようとは思わないの? 糸がなくなったって、そんなの——そんなの、誰かの操り人形のままじゃないか!」
「こいつ、俺のババアみたいなことを言いやがる!」とランプウィック。「いい子ぶりやがって、こういうお高くとまった奴がいるだけで、ちっとも楽しくねえや!」
「僕はいい子じゃない。でも、ずっとずっと、星の光に気づかなかった。見あげればいつも、星は真上にあった。本当は、忘れてなんかいなかったのに、忘れていた振りをしてだけだったんだ。ずっとずっと——」
「でもミッキー、死んだら終わりだよ。生きているうちが花さ!」
「君がそう思うなら、そうすれば良い。僕はもう、自分を誤魔化してここにい続けるのは、たくさんだ!」
島の入り口たる門へと向かって、ミッキーが踵を返そうとすると、初めて、ファウルフェローが立ちはだかり、猫撫で声で彼に語りかけた。
「おやおや、君はふたたび、王になるっていうのかね? あんな現実逃避者ばかりが集まる、ホラ吹きばかりの王国に!」
「その王国こそが、僕の居場所なんだ。通してくれよ!」
「もはやディズニーランドに、君の王座はない。君の生きるべきは、ここだ。プレジャーアイランドだ」
「それじゃあ、僕はここで、何をすればいいんだよ!?」
「決まっているじゃないか、悠々自適、自由奔放! なんでも、自分の本当にやりたかったことを——」
「夢と魔法は、何の努力も苦しみも払われずに創られたんじゃないよ! ディズニーランドをユートピアだと勘違いしているのは、君の方じゃないか!」
何かの箍が弾けたように、ミッキーは激しい言葉を迸らせた。
「ディズニーランドは、何よりもゲストのために創られた場所だ! それは、この世に苦しみなんて存在しないと語るためじゃない、彼らに、星の光を思い出させるためだ! この世で、何が美しくて、何が大切なのかを、多くの人が生きる中ですり減らしてゆく。でもそれは、こんなにも簡単なことなんだって——いつでも希望はあるんだって、それを伝えられなきゃ、僕らの存在に何の意味もない!」
「いつまでも、道徳の教科書のようなことを——!」
「黙って聞け! ——僕は、何も考えていないんじゃない! ずっとずっと、僕は何も言っちゃだめって、そう言われてきたよ! "ミッキー・マウス"の中には何もないんだって——ゲストたちの夢を壊しちゃだめなんだって。でもそうじゃない、僕だってずっと、色んなことを考えてきた! ゲストはいつだって、僕の知らない世界に生きて、僕の言葉を必要としてくれたんだ。毎日、毎日、彼らに話したいことなんて、いくらでもあったさ。でも僕は、目の前のゲストと語り合っちゃいけない。彼らと同じ世界では、生きられない。僕が語っていいのは、いつもいつも、舞台の上。そして、魔法でだけだった———」
ミッキーは、拳を握り締め、狂おしげに叫んだ。
「魔法は、僕の言葉だ。僕が本当にゲストに語りかけられる、唯一の方法なんだ。僕が本当に彼らに伝えたいことは、この中にあるんだよ——!」
「魔法の原動力など、ヴィランズへの憎悪と、復讐心さ。胸をスカッとさせる、非現実じみた勧善懲悪こそが、君の訴えたいすべてなんだ、そうだろう?」
「違う!」
「夢なんて、いつでも現実のサンドバッグにしかならないんだ!」
「僕らは、憂さ晴らしのために、君たちヴィランズと闘うんじゃない!」
互いを切り裂くように繰り広げられる彼らの舌戦の上で、銀粉を撒き散らしたかの如く、星々が燦然と宇宙に瞬いた。青の煌めき、強烈な暗黒、何億と駆けめぐる天体、地平間際の薄灯、百万もの点滅する問い。星々の眼差しは、深淵のさなかを鋭く飛び交い、周囲と結託して星座を形作り、天に茫々たる口を開ける、恐ろしい沈黙に拮抗している。蓄積された夜の怒りは、宙空へと躍り出て、風の中に散らばっていった。何も答える者はなかった。正しいことを言える者もなかった。地上は、そういう者たちで満たされていた。そしてその中で、夜空を見あげることは、ふと、自分の姿を、宇宙の彼方から見下ろすことに似ていた。
「僕は、人々を恐怖へと追い詰めたくないし、楽観主義にも加担したくない。この世のどこにも、闘いがなかった振りはできないけれど、頑張れ、闘えと語り続けるのは、もううんざりだ! 何より——何より、物事を少しだけ語って、賢く距離を取り続けるのが、一番嫌だ。僕は、僕は」
滲むようなイルミネーションの下で、ミッキーは目を細め、まるで磔刑台の前に立つ囚人のように身を震わせた。
「ヴィランズの前に立つ、ちっぽけな僕を見て、ゲストが、何かを感じてくれればよかった。ずっと、彼らに勇気を与えるために——」
そしてミッキーは、そばにいる人形の腕を引っ張り、話しかけた。このちっぽけな友達は、どうしてこんなに怒っているのだろう、と人形は思った。僕はランピーと、楽しく時間を過ごしたいだけだ。それの何がいけないのだろう?
「帰ろうよ、ピノキオ。お父さんがずっとずっと、君のことを待っているんだよ!」
「おおっと! 帰れると思っているのかね?」
轟、とマントの翻る音が耳を包み込んだかと思うと、ファウルフェローの影が目の前に立ちはだかった。
「一度踏み込んだら、二度と出られない島。ここから引き返すには、もう遅いよ。残念だが、手遅れさ」
「なんだって?」
「まだ分からないのかね? ここは我々がこしらえた鳥籠の中だ! お前は、ロバになるんだよ!」
変化は、唐突に起こった。プレジャーアイランドの夜に罅を入れるように、ランプウィックが悲鳴をあげたのだ。誤って舌でも噛んだのだろうと、その場にいた誰もが思った——しかし、果てしなく黒々と広がる夜闇と、それを地上から一掃せんと煌めく遊園地の豆電球との間に、痙攣し、蒼白になり、脂汗の滲む顔が浮いていた。目に見えない幽霊に囲まれているかのように、その目は虚ろで、カッと見開かれていた。不自然に脈打つ動悸が、こちらまでどくどくと妖しく聞こえてきそうだった。
「ランピー?」
ピノキオが、恐る恐る問うた。返事はなかった。
「ランピー、どうしたの? ランピーったら!」
やはり、返事はなかった。その喉からは、しゅうしゅうと、声にならない叫びが漏れていた。まるで髑髏のように痩せこけたにも関わらず、その眼球はギラギラと輝いていた。その魂は、どこか曲がりくねった、暗い道へと吸い込まれ、永久に帰ってこれない旅路へと彷徨っているかのようであった。
「それ、効いてきたぞ。悪事のツケだ」
ファウルフェローはじっとりと囁いて、細く、細く、舐め回すようなその目を凝らした。
「毒が回り始めたぞ……ひとつ、ふたつ、みっつ……よっつ……」
時計の針の一秒、一秒を語るファウルフェローの前で、ランプウィックは少しずつ、しかし着実に変貌を遂げていた。尻の布が破け、尻尾が突き出した。耳が突き立ち、ぎょろぎょろと忙しなく動いた。鼻が伸びて、若いむき卵のような顔の皮膚から、髭が伸びてきた。彼の視界を、ロバの毛が遮ってきた。時間は、彼の人間的要素を奪っていった。病原体が犯してゆくかの如く、ひとつずつ、しかし着実に。
「こりゃ……こりゃなんだ!」
身の毛のよだつ感覚が襲ったかと思うと、彼の頭は、すっかり、ロバの頭に挿げ変わっていた。恐ろしいのは、そのロバが口を利き、脳を働かせ、今もなお、終わりなき恐怖を胸に刻みつけていることである。顔を触ると、硬い毛が刺さった。明らかに、人間ではない顔の形が、自分の手の温度を如実に伝えた。その瞬間、すべてを悟らざるを得なくなった。そして、恐ろしい悲鳴が、叫びが、彼の声を乗っ取った。
「いっぱい食わしやがった! 助けて! 誰か、助けてくれ! 罠だったんだ、助けて——!」
怪物へと溶かされてゆくランプウィックは、ピノキオの前に駆け寄ると、物凄まじい古代の神に跪くかの如く、懸命に手を合わせ、ひれ伏した。悪戯な彼を特徴づけていた、あの余裕たっぷりのひねたような笑いは、ランプの灯火の如く消えて、今やびっしりと浮かびあがった脂汗が、虫のように彼の顔を取り巻いているのだった。震える友人の手が、ピノキオに近づいてきていた。
「頼むよ、ピノキオ、友だちだろ!? なんとかしろ——さっきの奴を、呼んでくれ!」
頼るものもなく、涙ながらに、ランプウィックはピノキオの襟首を掴んだ。
その手が、変わってゆく。太い毛の密集した前足、そして蹄へと。
「母ちゃん! 母ちゃ——」
そして、そこから先、小屋に響き渡るのは、もはや人の声ではなかった。髪の逆立つように気味の悪い獣の声、囂々と荒れ果てた獣の嘶きが、喉から鮮血の出るように迸った。ミッキーもピノキオも、これ以上ないほどに壁に身を押しつけ、照明を浴びて黒々としたシルエットのみを浮かばせる姿を目に焼きつけた。ぴんと立った耳、ぐぐぐ、と張り裂けてゆく背中、破けてゆく衣服、その四つ脚にも、奥底から毛が生え揃い、蹄が生まれてくる。苦痛のためか、それとも恐怖なのか、その甲高い叫び声の意味を、彼らはついに図りかねた。とうとう、最後の響きも消えて、後は耳障りな、よく響く馬のいななきに乗っ取っられた。深い灰色の毛に覆われた姿は、紛れもなく、人間のものではない。
ロバだった。
ランプウィックは、あらゆるものを蹴飛ばし、泣き喚き、頭を打ちつけ、これは夢なのだと信じ込もうとした。ネオンの眩ゆいプレジャーアイランドに、悪魔のように狂った高笑いが聞こえてきたのは、この瞬間だった。誰かが止める術もないほど、それは猛烈で、野蛮で、一瞬で背筋を凍りつかせるものだった。驚くほど整ったファウルフェローの顔立ちに、みるみる残忍な表情が浮かびあがり、尖った犬歯が剥き出しになった——まるで、涎も垂らさんほどに——世間のありとあらゆる欲望が、皺としてそこに刻み込まれていた。
「さて、さて」
笑いを喉の奥で噛み殺し、これ以上ないほどに優しい猫撫で声を出しながら、狂気の光を瞳に宿らせ、ファウルフェローはにんまりと揉み手した。
「ゲスト諸君、待ちに待ったショータイムだ——もっとも、今度の演し物は、喋るネズミじゃない、なんにも喋れない動物だがね。単なるロバが注目に値するなんて、不思議じゃないか? だがしかし、普通のロバと全く代わり映えがないからこそ、実に面白いんだよ。一般人には見分けがつかないのさ、これが、元は人間だなんてのはね——そう——例えば、こんな風に」
まるでほんの娯楽を始める合図であるかのように、彼は腕を振りかぶると、杖をしならせ、強かに家畜の腰を打った。たった一分前まで、ランプウィックであったはずのロバは、骨の砕けるような痛みに、大声で叫び散らした。しかしその時、人間の悲鳴に代わって、けたたましい嘶きがその口から漏れた。ピノキオは目を見開いて、その場に立ち尽くした。ファウルフェローは大笑いして、その苦しみように満足し、娯楽を見出し、涙も流さんばかりに喜んだ。獣の絶叫を前にして、ミッキーは脅え切った表情で壁際まで後ずさり、ギデオンすらもショックで、口を覆って震えあがり、ろくに立っていることもできないようだった。すると、マントの裾を払って、ゆっくりと、ファウルフェローのぎらつく黄色い目が、こちらを見た。
「ほう、するとお前、私が怖いのかね?」
ギデオンが慌てて首を振っても、有無を言わさぬ気迫が、その哀れな山猫を縮みあがらせ、ただ震えるばかりの生き物へと追い詰めるのだった。ファウルフェローはふたたび、舌なめずりをして言った。
「私が不気味か? 私が恐ろしいか?」
背後から、稲妻のように空気を引き裂く金切り声があがった。がくがくと、立っている足もおぼつかない様子の少年は、ひたすらに、自分の毛の生えた耳を触っていた。ファウルフェローはゆっくりと一瞥すると、ニタニタと笑みを広げ、高ぶる愉悦を隠し切れないようであった。
「やあ、他の奴らも始まってきたぞ……さあギデオン、ここで一緒に、楽しいフリーク・ショーを見物しようじゃないか……ほら——ほら——ほら!」
むずむずするような感覚が、耳許をくすぐった。ばっと耳に手を当てたのは、ミッキーだけではなかった。ピノキオもまた蒼白になって、知覚を総動員させて、その耳の瘙痒感に涙を滲ませていた。ボリボリと血が出そうなほど指で掻きむしりながら、ピノキオは必死に、自分へと襲いかかる運命に抵抗しようとしていた。
「いやだ——僕、いやだよ! ロバになんか、なりたくない!」
消え入るような声で呟いた瞬間、あまりに呆気なく、全身が深い白霧のような恐怖に塗り潰されていった。すでにその声には、ロバのがあがあという喘ぎが混じり、冷たい震えに犯され、もう、変化は始まっていた。肋骨から飛び出さんばかりに鼓動が鳴り響き、心臓が躍り狂って、爆発しそうだった。そしてとうとう、ミッキーの尻尾が変わった。訳の分からないざわざわとした感覚とともに、尻が焼けるように熱くなり、ピンで刺されたような痛みに飛びあがった後、嫌が応にも、その細い黒い尾は、硬い、灰色の毛に覆われていった。ぞっとする冷気が、震える全身を溺れさせ、魂を墓場へと連れてゆくようであった。どこからか、耐え難い金切り声があがった。周囲も同じ予兆を感じて、次第に悪夢の如く、子どもたちが、その輪郭を変えていった。心臓が激しく脈打ち出した。喉が焰のように熱し始めた……耳が変わった。より高く、十センチ以上まで突き立てられたそれらが、辺りに飛び交う阿鼻叫喚を拾いあげた……五月蝿いのだか、静かなのか、それすらも分からなかった……妙に反響をともなったファウルフェローの声が、ぐるぐると駆け巡り始めた……
「さてさてさて、お立ち会い! 世にも醜い、鼠とロバの合いの子だ! 金貨一枚、金貨一枚で見られるよ! 愚かな動物の成れの果て——こんな阿呆な生き物は、この世のどこにもいないよ!」
サーカスの興行師の如く演説したファウルフェローは、訳の分からない笑みを浮かべて歩み寄ると、ぐいとミッキーの耳を引っ張り、自らの美しい黄金の鼻を、ほとんど擦りつけんばかりに近づけた。
「ほおら、もう一回泣いてごらん、元に戻してほしいって?」
「ファウルフェロー、君を許さな——ガー、ガー!」
「アッハハハ! ついにやったぞ! ミッキー・マウスが、ヴィランズの手に落ちた! こいつはもう永遠に、私のものだ! このファウルフェローが、ミッキー・マウスを、やっつけたんだ!」
ミッキーの上にぐんぐんと、毒の如きヴィランの影が覆い被さった。そして、その脅え切った魂の底までもを見通すように、狐は、爛々と目を光らせた。
「そうそう、我が友よ、よかったじゃないか、魔法を取り戻したかったんだろ、え? これが俺たちヴィランズの使える、悪の魔法さ! ミッキー・マウス、お前は遠くの国へ売られて、永遠に鞭でどやされる運命なんだよ!」
「ミッキー! ミッキー!」
ピノキオは泣きながら、ファウルフェローの足に縋りついた。ファウルフェローは、鬱陶しげに鋭い杖で一打ちし、その木の人形を無惨に追い払った。ピノキオの頬を、涙が伝った。そんな彼の両耳もまた、ピンとそそり立つと、背筋を凍らせる暇もなく、硬く長い毛の生えた、ちくちくとする灰色のロバの耳へと変わっていった。容赦なく、ひとつの例外もなく、変身は感染病の如く、子どもたちの身に襲いかかっていた。
「さあ、コーチマン! 稼ぎ時だ、ロバたちを木箱に突っ込め! いや——この鼠だったモノを積み込むのは、後回しだ。今まで、さんざん手こずらせやがって、ヴィランズに逆らったらどんな目に遭うか、他のロバたちの脳に刻みつけてやるよ!」
「だめだよ、ファウルフェロー! お願い、もう許してよ! ミッキーは何もしていないんだ!」
「ピノキオ、こっちに来ちゃだめだ!」
「やめてよ、何もしないで! ミッキーを離せー!」
変わり果てた尻尾を掴まれて引きずり回され、鋭い小石が肌を抉った。彼はもはや物としてしか見ていなかった。彼に縋りつくピノキオには構わず、ミッキーを開けた場所へと引きずってゆき、そこで服を剥ぎ取り、秋の夜空の真下に、肌を晒した。一瞬で、千もの眼差しに貫かれるようだった。渦巻く恐怖が、恥辱が、彼の内側を塗り潰し、支配してゆく。震える体が、ピノキオの上に覆い被さった。虐待者は、腹を抱えて笑うと、抑え切れない愉悦に燃え、犠牲者を四つん這いにさせ、そこで矢継ぎ早に、拷問が始まった。
恐怖と、絶望的な好奇心を植えつけられて、ロバはその光景に釘付けになった。一瞬のことごとくが、脳にフラッシュを焚かれたように、目に焼きついた。虐待者が鋭い音を立てて一打ちを浴びせるごとに、震えあがって失禁する者、逃げ出そうとして捕らえられる者、自らコーチマンに駆け寄り、身を投げ出して降伏する者も現れた。外の世界では、世界一有名な鼠として持て囃されていたものの、今、この閉鎖された遊園地においては、罰せられるべき者の代名詞が、この小さなミッキー・マウスであった。振りかぶった鉄槌の下される瞬間、死んだ方がましだという痛みで、視界が一気に狭くなり、黒い、細い道しか、目の前には見えなくなった。全身が物凄い轟音で騒ぎ出し、血や、細胞や、内臓の蠢きが、戦火に逃げ惑う避難者の阿鼻叫喚の如く聞こえた。ぶわっと冷や汗が溢れて、たった一瞬で、服が貼りつくほどに濡れそぼった。しかし死よりも、徹底的に自分を嬲り殺そうとする悪意の感情、これの方が、よほど恐ろしかった。負の感情そのものが殴りかかってくるようで、それを前にすると、何の声も出なくなる。罰せられている、という惨めさが、包丁のように胸を切り刻み、嫌悪感と恥辱で、消え入りたくなった。ファウルフェローは、今や堂々と権威の暈に覆われ、目を奪うほどにどす黒く、舞台の上で輝かしかった。
「プレジャー・アイランドの諸君! 自分たちは子どもだから、安全だと思っていたのかね? 現実はそうじゃない、軟弱で怠け者のお前らなんぞ、我々の指先だけで簡単に捻りつぶせるんだ。いいか、この世には怖いことも、不条理なことも、気の狂っちまうようなことも、星の数ほど存在するんだ。私はお前たちの鼻先に、お前らがさんざん軽視していた"現実"を、叩きつけてやったのさ!」
「やめてよ、もう許して! お願い、何でもするから!」
「ママぁ——!」
ミッキーの下で暴れるピノキオとは別に、まだ口のきく、哀れな子ロバたちは、泣き叫んで助けを求めていた。その目には、どれほど救世主たる親を望んでいるかという事実が、血の滲むように浮かんでいた。しかし、孤児であるミッキーに、叫ぶような親はいなかった。ミニーもいなかった。最愛の親友も亡くなった。顔を伏せたまま、一切身じろぎすることもなく、彼は全身の消えてゆくような、果てしなく頼りなくなってゆく心細さを味わった。そして、魂がなくなって、どんどんと自分が小さく、抜け殻になってゆくような気がした。自分は何の価値もない、愚図で、能無しで、情けなくて、何の役にも立てない存在の気がした。それでも彼は、じっと地面にうずくまり、言葉を出さなかった。
容赦なく殴りつけられる嵐をやり過ごそうとしているうちに、次第に頭が霞んで、ぼうっと意識が遠くなり、鼻の詰まるような息苦しさとともに、口を切ったな、という考えが、ちらと脳裏を掠めた。鉄錆の味、小さな痛みが、舌の上に広がった。徐々に、自分の不甲斐なさのせいで、このような仕打ちを受けているように感じた。ずっと、自分のせいで失敗し続けてきた今、怒り狂う人々からの懲罰を浴びるのは、至極当然であるかに思える。するとこの悪夢は、いつ終わるのだろう? こんなにも胸の奥が哀しくなるのは、僕が狂ってしまったんだろうか、それとも、世界が間違っているんだろうか? しかし、劣等感や自己嫌悪よりも何よりも、ミッキーの意識を引きつけるのは、ファウルフェローが笑い混じりに吐き散らした、次の言葉だった。
「おい、性悪の鼠君、懐に何を隠しているんだね? ははあ、お友達を恐喝して、盗んだりしたのかい? それとも、本屋の親父を騙くらかして、万引きしたのかい?
おや、なんというタイトルだっけ、この本は? 『プーさんのハニーハント』か! ハハハ、お子さまじみた趣味だよ。ぬいぐるみなんぞが、生きて、動いて、口を利くものかね! アッハハハハハ!」
それを聞いた途端、ミッキーの胸に、燃える怒りの焰が湧きあがってきた。ファウルフェローがその本に手を伸ばす前に、彼は、骨を軋ませるほどにゆっくりと腕を伸ばすと、本を守るように背を丸めた。その本は、鞭打たれる彼とは関係なく、それゆえに、けして懲罰には値しないものだった。周囲に響き渡る、木箱に監禁されたロバが鳴き叫ぶ様は、もはや泣き声ともいななきとも判断のつかなくなって、わんわんと蝿の飛び交う騒ぎである。いったい、誰が分かるだろう、彼らの味わう本当の哀しみなど。家畜たちがけたたましく喚く中心で、どれほど杖で打たれようとも、ミッキーの真っ黒な眼から、けして強靭な焰が消え失せることはなかった。否、風に煽られるたびに強くなってゆく。ミッキーの瞳が、燃えるように詐欺師を仰いだ。その、刃物で切るように物凄まじい灼熱に、思わずファウルフェローも気圧され、じりりと後退る。
島の浜辺には、夜の海から岸へと上がる、ひとつの人影があった。それは、海面から顔を出している魚に手を振ると、よろめくように走り出した。彼の肩には、何か小さな黄金の柄のようなものが、星の光を浴びてぴかりと輝いた。
ミッキーは、ぎりり、と奥歯を噛み締め、ファウルフェローの顔を振り仰いだ。猫に甚振られる窮鼠ではない。喉笛を食い千切らんとする、獣のような眼だった。
「子どもは、君たちのおもちゃなんかじゃない……!」
夜の中のファウルフェローは、目許と口に静かな薄笑いを浮かべて、ミッキーを見下ろしていた。先程までの僅かな狼狽えも消えて、余裕綽々たる笑みが戻ってきていた。彼にはそれが、勝利を確信している者の笑みに見えた。
「ほおう、それで? 子どもが大人のおもちゃでないのなら、いったい、何なんだい?」
「君には、けして分からないさ……!」
「いいとも、言ってごらん、馬鹿な無分別なロバのお口で、どんな高尚な哲学を聞かせてくださるというんだろうねえ? さあ、ミッキー・マウス君! 大人となってしまった我々に、子どもの君が考え出した、その奇想天外な思想とやらを、教えてやってくれよ!」
なぜ、この狐に、銃弾のような言葉で言い返せないのだろう、とミッキーは思った。一矢報いることもできず、自分の中の怒りを、誰かに伝えるために言語化することもできない。フェローの杖が、ふたたび、鞭のようにしなる。骨の折れるような衝撃が、背中を痺れさせ、つん、と鼻の奥が痛くなった。ミッキーは、口から流れ出た血を拭い、歯を喰い縛って、片方の手で本を、もう片方の手で、涙を流しているピノキオを抱き寄せた。そして思う。自分が本当に必要なものは、いったい何なのだろう、と。
様々な思いが、湧いては消えた。まるで流星群のようだった。痛みと惨めさで、心が傷つかないように麻痺してしまう前に、胸を駆けめぐる鋼のような意志は、様々な言語をなぞりかけた。けれどもそれは、クリストファーがちいさな指でめくり続けた物語や、人形の純粋な瞳には、けして届かなかった。星のように高く、遠く、青白く輝いていた。これらは、僕とは別のものだ、とミッキーは思う。いつだって、人々の夢は、僕の命だった。彼らは、僕の目に、太陽のように眩しかった。その光に目を細めながら、考える。彼らに、僕は何ができるんだろう? 願いをかけられるなら、僕は何を願うんだろう?
星は、高く昇ってきた。誰に見つめられようが、見つめられまいが、それはそこにあった。杖や、笑い声や、泣き叫ぶロバのいななきが、雨あられと降りそそいでくるプレジャーアイランドの中心で、ミッキーの心に、凄まじい義憤が吹き荒れてきた。胸を塞ぎ、喉にせりあがってくる、酸っぱい何か。それは喘ぎ、走り、どれほど声を張って叫んでも、永遠に届かない何かだった。けれども、きっとそれを言葉にしなければ、星さえも理解することができないだろう。どうか、僕に言葉を与えてください、とミッキーは祈る。それを語るために。願いを唱え続ける勇気を、この先も奮い起こすために。ピノキオが微かに身じろぎし、全身の痛みの中に、愛おしさが溢れた。そして、震える手足に力を込めると、けして語るに尽くせぬ稚拙な言葉を、ようやく激昂の力を借りて、熱い涙とともに絞り出す。
悔しい、悔しい、悔しい、悔しい。
強くなりたい。
強くなりたい。
僕は、誰かを守れる強さが欲しい。
どんなに不条理な目に遭っても。やがて、自分たちの力で、世界を肯定できるように———
僕は、強くなりたい。
星を信じ続けるために、心の強さがほしいんだ。
ぼたり、ぼたり、と大粒の涙が地面を濡らし、溢れんばかりに頬を伝った。咳き込み、皮膚が裂け、激情に身を震わせながらも、ミッキーはふらつきながらも、真正面からファウルフェローを見据えた。燃え立つような五感が、回転する眩暈をもたらした。夜も、空も、地面もなくなり、すべてが赤く、赫々として、全身に苦痛を感じた。じりじりと、脳の裏が焦げついた。すべてが焰に乗り、火の粉を漂わせ、螺旋の運動を始めた。どこかで、駆け抜けてくる足音が、近づいてきていた。それは、さながらローマ軍が、猛る馬を疾駆させるかの如き響きだった。
「君は嘘つきだ、ファウルフェロー!」
「そうだとも、そうだとも、大人は嘘をつく生き物だ。だが、それが何なのだ? どうしてそれが悪いことなのだろう?
どうだい、ミッキー・マウス君、君だって、大人たちにこしらえてもらった様々な嘘で塗り固めて、今までさんざん、そのカリスマ性を守られてきたじゃないか? 君は嘘の世界の王様だ。嘘を振りまくのが悪いというのなら、君だって、まったく同じ罪にまみれている」
「それじゃあ、君のいう現実って、何だい? 完全無欠な現実の世界で生きてきた人など、いるのかい? 現実の中だけで生き抜くことが、本当に僕たちの理想の生き方なのかい!?」
取り憑かれたように、ミッキーはボロボロになった体を引きずりながら、悲痛な言葉を吐き散らした。
「僕たちは、ずっとこの王国でエンターテインメントを提供して、人々の喜びを願ってきたんだ。僕らは、そこに誇りがある。僕らが星の光の下で語り続ける限り、いくらだって笑顔も、幸せも生み出せる。生きる意味だって——時には、生きる意味だって、娯楽の中に生み出すことすらできたさ!
確かに僕は、現実について何も知らないよ。外の世界ではどんな闘いがあるのかも、どんな風に傷つくのかも、ゲストが心の底では何を求めてここにやってくるのかも、理解してあげられない。でも、彼らが真実のひとかけらを掴むのに、現実も、虚構も、強さも弱さも、関係ないんだ! それを外からあげへつらって馬鹿にする限り、どんな真実も掴めはしない。彼らは無力なんかじゃない。人生は、現実だけで成り立っているものじゃない!」
普段の穏やかな態度とは違う、あまりの語気の激しさに、ピノキオさえも言葉を失い、ミッキーを見つめた。歯を喰い縛り、瞳に焰を躍らせる彼の姿は、鬼気迫る熱情を孕んで見えた。
「僕は、彼らの夢を馬鹿にする奴らを、許さない。例え、どんなに現実の残酷さに傷つけられやすくても。
誰の心の中にも、生きているんだ。真新しい世界に目を輝かせる、小さな子どもが———
僕は絶対に、君たちのような闇から、彼らを守り抜かなきゃならないんだ!」
「子どもなんてのは、馬鹿で、無鉄砲で、搾取されてばかりの弱者だよ! 弱者は結句、強者に負けるんだ!」
「ファンティリュージョン!」
ミッキーは勢いよく指を突き出した。魔法は出なかった。虚しく響く声のそばから、硬い杖が飛んでくる。避けようとしたが、痛みで痺れた脇腹に当たり、顔から地面に突っ伏した。土の臭いが舞った。闘わなくちゃ、と彼は思った。
目の前の悪に勝てるか、勝てないかは問題ではない。例えここで自分が倒されたとしても、そこには勇気が残る。それを受け継ぎ、誰かが、ここで立ちあがるはずだった。それは希望の証なのだった。
それは絶えず鼓舞し、絶えず賞賛し続けても、風の前には容易く消えてしまう、蝋燭の灯火のようだった。けれども、焰は燃えたがっている。何かに真面目になり、何かに命を費やしたいと思うその欲望は、風に煽られ、摘み取られても、確かに奥底に燻っている。
ああ、神様————
これが夢だというのならば、どれほどか弱く、孤独で、不可解なものなのだろうか? この世の誰かに願いを訴えて、叶ったものよりも、叶わなかったものの方が、遙かに列をなして多いはずだった。しかし、いまだ思いは精神の底で眼醒め、神秘的な、激しい、青い焰に包まれたがっている。そしてその決意は、自分が死ぬまで、この胸のうちで生き続けるのだ、という確信が湧きあがってきた。火の鳥の如く、風を切って遠くへ進めたならば、その果てに、生命の意義すら見えてくるはずだった。
「逃げろ!」
ミッキーは子どもたちに叫んだ。
「逃げろ! 彼らに利用されるな!」
捕らえられた木箱が、蹄で蹴り飛ばされて軋んだ。怒号が飛んだ。鞭の音、脅かす台詞、汚い罵倒、そして脅迫。
ロバに変えられた姿は、解けることはない。けれども、心の中で思い描く自由だけは、まだ残っているこの自由が、星に願うかを決める。僕は、これを守らなきゃいけないんだ、と思った。
ミッキーは、それまで地面に倒れて動けなかったピノキオを抱き締め、ヴィランから庇うようにして引きずり、そばの木箱に寄りかからせると、ロバの耳の生えているその小さな頭を、そっと撫でる。このような土壇場において、自分を撫でてくれる手など、考えもしなかったピノキオは、呆然として顔をあげた。そして、激しく燃え盛るミッキーの眼と、ピノキオの美しい青い眼がかち合う。
星、どころではない。その時、なぜか彼の肩越しに、激甚たる眩ゆさを背負う、最良の太陽が照りつけているように感じた。なぜだろう? 夜の遊園地のイルミネーションが、瞳の奥を真っ直ぐに射下ろしたのだろうか? 光は揺らめき、煙草の吸い殻の匂いがのぼり、目が立ち眩む。莫大な光の嵐のなか、押し殺した息遣いが、聞こえてきた。そして、その強い閃光の中で、ミッキーは微笑んだ。
「大丈夫だよ」
深い宇宙の底で、夜の片隅で、逆光は鋭利なほどに眩しく、網膜に錐の如く撃ち込まれた。汗が滴り、星が光った。彼の言葉は簡潔で、至極明瞭であった。
「いつだって君には、僕がいるんだ」
ピノキオは、まだほんの五、六歳程度にしか見えない顔を歪め、その言葉に首を振った。
「僕は、悪い子だった。お父さんを悲しませた」
「僕にとってそれは、大きな問題じゃない」
ミッキーはそっと、ピノキオの頬を撫でた。微かに暖かい感触が、滑らかな木の上を、滑り落ちていった。
「僕が大切なのは、君だ。君が良い子か、悪い子かじゃない。君のことなんだ」
棒っきれでできたピノキオの胸に、その時、雨がたった一雫降るように、何かが染み込んできた。彼はその感情の名前を知らなかった。自分で名付けたこともなかった。どこまでも広がる夜闇のように、無知で、勉強したこともなく、しようと思ったこともなく、自らその機会を捨て、何も知らなかった。
空を見あげると、青い星があった。そして——その足下に、寄り添う星の輝きも。
その美しさは、生まれたての目に沁み、何もかも、力を失くし、無へと帰した。たった今、もう一度すべてをやり直して生まれ変わったように、ピノキオはその輝きに見入る。そして唐突に、どうして、これのために生きなかったんだろう、と思った。長い歳月をかけて、お父さんは、星への願いに辿り着くような人だった。その背中を見、愛を捧げられた今、僕も同じように、それを目指さなければならなかったのではないか?
がちゃつく木の手足を震えさせながら。
胸が命じる光のままに。
よろめきつつ、木箱に手を伝わせながら立った時、この世に目を覚まし、初めて立ちあがった時の、身の震えるような感動がよみがえってきた。血の滲むように、生まれてきた驚きが胸に沁みた。彼のこぼした笑い声が爆発し、通り過ぎた。後悔が破裂し、過ぎ去った。立つということ、その奇蹟がありありと鳩尾に響き、風の轟音で満たした。ゼペットの大声で踊り明かした歓喜がよみがえり、過ぎ去っていった。フィガロも、クレオも、過ぎ去っていった。この時、初めて明確に、ピノキオは誰のものでもない声を聞いた。胸が、焼けた鉄のように熱くなり、その真っ赤に熱せられた心臓に、全身の血が、濁流の如く流れ込むのを感じた。
「へええ、私と対決する気かね、嘘つきの、親不孝者の、ピノキオ君!」
マントが翻り、ざわざわと、不吉な風が渦巻いた。
「驚いたな。こんなに早く、操り人形に反抗心が芽生えるとはね! どうやら私は、目算を誤っていたようだよ——!」
光に照らされたこの夜の世界へ、どす黒い瘴気を吹き散らすかの如く——激しい風音にマントを靡かせて薄笑いを浮かべるファウルフェローの姿は、人々を破滅へと陥れる、魔王そのものに見える。そしてその影は、地面の上に黒々と這いつくばり、さながら得体の知れない生き物の如く、孤島に吹きなぶる海風とともに、無気味に躍動し続けていた。
「ちょうどいい、それならどちらが強いか、ここで決着をつけようじゃないか!
馬鹿な、薄鈍の、自惚れ屋な子どもたちが、世界の裏を知り尽くした大人に勝てるものかどうか——この私が、お前たち餓鬼の相手をしてやるよ!」
一歩、間合いを詰める相手を前にして、ミッキーは腕を伸ばして、ピノキオを庇った。辺りの強烈な照明が、網膜を灼く。うねるように強く、幼い、甲高い声で、ピノキオは懸命に叫んだ。
「嘘なんかじゃない。ミッキーは、魔法が使えるよ!」
「彼はかつては、魔法を使えた鼠。けれども今や、どうしようもない凋落の底。夢は終わった」
「ミッキーを馬鹿にするな! 僕は、お前の言うことなんか信じない! 何を信じるかは、自分で決める!」
ピノキオはいよいよ、青い瞳に信念を宿らせ、全身の力を費やして言い切った。
「ミッキーは、弱くなんかない! 世界で一番凄い——最強の、魔法使いなんだ!」
鼻が、伸びた。ぐうん——と青い魔法のかかった鼻の先は、一直線にファウルフェローへと伸びてゆき、強かに手にぶち当たって、思わず彼は、悲鳴をあげて杖を取り落とした。からんからん、と乾いた音が響き渡った。
「ギデオン! ギデオン!」
相棒の名を呼んでも、山猫は、恐ろしがって陰から出てこない。激昂したファウルフェローは、すぐに跪いて杖を拾いあげると、それを振り回した。避けられない——ミッキーは痛みを覚悟し、強く目を瞑る。しかしその杖の先を、風のように飛び込んでくる影とともに、力強く一瞬で掴み取る手があった。
「俺ぁ、こいつらの保護者だ。勝手に、人の子に手を出すな!」
「同じく、良心! 助太刀いたす!」
聞き慣れた声が響いた。まばゆい光の前に立ち塞がるのは、背の低い、びしょ濡れの背広姿の男——ミッキーは、涙目の奥底から叫んだ。
「エディ!」
「やっと見つけたぜ! ミッキー、こっちに来い!」
ようやく、念願の友達と再会できたジミニーは、エディの肩から身軽に飛び降りてピノキオの鼻に着地し、延々と伸びているその長さにおののいて、急いで、小さな友人の目先まで走り寄った。
「ピノキオ、いったいどうしたんだい、この鼻は! さては、嘘をついたのかい?」
「ジミニー……助けてよ!」
「早く、ピノキオ、本当のことを言うんだ!」
「じ、ジミニーが、僕を迎えにきてくれた!」
「よし、もう一丁!」
「これでお父さんのところに帰れる! 僕——僕、お父さんに、謝りに行くんだ!」
青い燐光がぱっと散るとともに、たちまち、鼻がぐんぐんと縮んで、元の顔の中心に収まった。ジミニーが喜びのあまり、小躍りした。ファウルフェローは驚いたように、しばらく黒洞々たる夜空を見あげていたが、やがて鋭く噛み合わせた歯を剥き出して、憎々しげに吐き捨てた。
「ブルー・フェアリー……!」
天の頂点に達している、青白い星の光が、きららかに瞬いた。その一瞬の隙を突いて、エディは上着の裾を跳ね除け、懐の隠しから拳銃を引き抜くと、撃鉄を叩き起こして、一息に構え、怒鳴るように発破をかける。
「みんな、今夜はノッてるかい!?」
「「「「「「YEAHHHHHH!!」」」」」」
「ヨセミテ・サム謹製の銃弾だ、喰らいやがれ——今度こそ!」
鋭い音ともに、ハンマーが雷管を叩き、火薬に点火。夜空の下に、凄まじい発砲音が鳴り響いた。流れ星の如く飛来してゆく銃弾は、ファウルフェローの耳を掠め、狙いは外した——しかし銃弾は、どこから取り出したものか、サッと巨大な斧を振りあげると、凄まじい音を立てて、そばにあった木箱を粉微塵に破壊してゆく。中から、ロバたちがわっと逃げ出し、ありとあらゆるものを蹄で蹴飛ばして、月の下に嘶いた。ふっ、と銃口から漂う硝煙を吐息で吹き散らしたエディは、ミッキーとピノキオの腕を引っ張り、一気に駆け出した。
「行くぜ、今のうちに!」
港は、上へ下への大騒ぎだった。錯乱した数百のロバが、あちこちを駆けずり回り、コーチマンたちは、蹄に蹴飛ばされないように後退して、次第に海沿いまで追い詰められていった。
「鼠を逃がすな! あいつは——あいつは、金の卵だ! あいつは私に、金をもたらすんだ!」
狐は、蒸気の漂うほどに押し寄せるロバの大群を掻き分け、必死で、ミッキーたちを探し出そうとしていた。目は血走り、口から泡を噴き、鬼のような形相に見えた。それがミッキーの見た、ファウルフェローの最後の姿だった。
海沿いへ抜け、騒ぎから遠ざかってゆくと、海が齎す偉大な波音とともに、時折り、鴎の声が聞こえた。険しい磯を少しずつ上下しながら、エディは黙ってついてくるミッキーに話しかけた。
「まったく、なんつう世話のかかる野郎でえ」
「エディ。ごめんなさい、ごめんなさい——」
「やいミッキー、舞台に立ちてえって気持ちは分かる。でもな、そうホイホイと、信用できない奴についてゆくもんじゃねえぜ」
彼の説教らしいものといえば、たったそれだけだった。もっと厳しい言葉で怒鳴られるかと思いきや、不思議にもエディは、それ以上、何も言わないのだった。
「なんとか、このプレジャーアイランドから出るっきゃねえ。まったく、悪夢のような遊園地だな」
じりり、と革靴の下に、風で飛んできた菓子の包みや、吐き捨てられた煙草の吸い殻を踏み締めながら、溜め息が漏れる。
「港の方はまずい。海岸を辿って、別の道がないかを探そう」
「おう、見つからねえように、背を低くして歩くんだぞ。立てそうか、ミッキーに、人形の坊主?」
「僕、ピノキオっていうんだ!」
「おう、ピノキオか。おめえはまだまだ元気そうだな」
「平気だよ! 僕のこと、ミッキーが庇ってくれたから——でも、ミッキーの方が、ずっと大変なんだ」
エディは、苦々しそうにミッキーの全身を見た。あちこちから血が流れ、打撲も、痣もあるはずだが、それらは黒い毛に埋もれて、ふらつく足取りだけが、彼の負傷を物語っていた。
「だ、大丈夫だよ、エディ。自業自得だから」
「んなわけあるか。何をどうしたら、こんなぼろぼろにされるようなことを、おめえがしでかせるっていうんだよ」
「ごめんなさい——僕は馬鹿だった。僕が間違っていたんだ」
「分かったから、もう謝るな。おめえはよく頑張ったよ。ただ、悪い夢を見ていただけなんだ」
エディは大声を出さぬよう、気を遣って囁いて、ふらふらとしているミッキーの肩を、そっと支えた。
「磯や崖ばかりで、足場が良くねえからな。悪いが、おめえの力で歩くんだ。荷物は、本だけか?」
「う、うん」
「気をつけて歩けよ」
潮風に吹かれてエディと会話しているうちに、喉が割れるように痛み、自分の声色が戻っていないことに気づく。それに、耳も、尻尾も。変わり果てた姿が、そこに残された。
「僕の声、ガラガラだよ。もう二度と、舞台に立てないかもしれないな——」
「ん? ……おお、随分変わっちまったな」
エディは笑うこともなく真面目に言うと、無造作にポケットを探って、
「ほれ、のど飴でも舐めてろ」
アーンと口を開けたミッキーの舌の上に、エディが龍角散ののど飴を一粒、載せてやると、軽く彼の頭を撫でてやった。夜風に混じるハーブや漢方の匂いが、すっと鼻を通り抜けるうちに、ミッキーは、何かとてつもなく静かなものが、自分の胸の奥へ流れ落ちてゆき、最も深く傷ついた箇所が、癒やされてゆくのを感じた。そして、エディと手を繋ぐと、その短く無骨な、熱の高い指が、しっかりと手袋の上から、ミッキーの手を握りしめた。中年男性にしては背は低いが、そうは言っても自分よりずっと大きな体を持ったエディは、ミッキーと繋いでいない、もう片方の手で中折れ帽を押さえ、蒼く遠い海を眺めていた。水平線は、眩ゆい夜の月にさんざめいて、そのガラス片のような煌めきで、暗闇に慣れた目を射った。
「さーて、元のファンタジーランドに帰らなくちゃな。随分遠出しちまったもんだぜ」
潮風に吹かれながら、のんびりと呟くエディ。近くの立て看板を見ると、西の方角に、《ピノキオの村》とある。
「そんな都合の良い看板があるか?」
「だって、原作アニメでもあるんだもん」
「じゃ、文句言えねえな」
ミッキーとエディは見つめ合い、同時に肩をすくめた。
「真っ直ぐ行くと、僕んちだ! これで、お父さんに会えるぞ! やったあ!」
一方のピノキオは、踊り出しそうなほど上機嫌だった。そこでジミニーは、すっかり腰の落ち着く彼の肩に座りながら、
「さあ、ピノキオ。ゼペット爺さんに会って、まず最初にやることは何かな?」
「謝って、抱きついて、お父さんの頬っぺたにキスする!」
「そーうだ! 偉いぞ、ピノキオ! さ、もう少しだけの辛抱だ」
今やピノキオは、ジミニーの言うことなら、何でも従おうと決めているようだった。人形とコオロギのほっこりとしたやり取りを見つめ、あっちは、随分教育方針が違うんだな、とエディが感心していると、
「ミッキーは、お父さんがいないの?」
と無邪気な青い目が、こちらを見た。不意をつかれて、ミッキーはまごつき、目に深い沈黙の光を浮かべた。しかしすぐにエディは、子どもの齎した空気を察して、
「そーおだ、おじさんに親父はいねえぞ。でもな、友達は少しだけいるんだ。なあ、仲良くしてくれよな、ミッキー」
と大声で肩を揺すらせて笑った。
「ピ、ピノキオ。君という人はだね、」
「僕がなーに?」
「いやはや、参った、……こいつは、教えるのが難しい」
ジミニーは弱り果てて、シルクハットの上から頭を掻いた。エディは、顔は知らぬ振りをしていたが、その手はミッキーの肩を引き寄せ、誰にも見えないように、優しく背中を叩いた。ジミニーが話題を変えるように言った。
「さあ、子どもたち、元気を出して。このあたりは、お化け鯨が出没するって聞いたことがあるよ。海に落ちたら最後だから、よくよく、足元に気をつけるんだ」
「なんでえ、不吉なことを言いやがるな、コオロギ」
「『ピノキオ』の映画では、彼がラスボス扱いなんだ。ま、これがアトラクションともなると、一瞬で現れて、一瞬で去ってゆくんだけど——」
ジミニーの言葉が言い終わるか終わらぬかのうちに、突然、海の中から怪物のような影がざばっと飛びあがって、月の光を覆わんばかりに目の前に迫ってきた。その巨大な口には、なぜか、鋭い歯がゾロリと揃っている。
「出た! 奴がおばけ鯨だ!」
「一瞬でフラグを立てて、一瞬で出てきたな!!」
「ピノキオ、危ない!」
雲の影ほどに巨大な躯体の中、一対の凍るような目がピノキオを見ていたが、ミッキーはすんでのところで、この人形を突き飛ばした。衝撃で、ピノキオは崖の奥へと跳ね飛ばされて転んだが、ミッキーはよろめき、断崖から踏み外す際の、ぶわりとした感覚が、彼の片足を襲った。
「ミッキー! お約束の展開だが、本当に危ないのは、お前の方だー!」
エディが慌てて腕を伸ばしたが、描く軌跡は、もはや一直線だった。重力の引かれるがまま、彼は白波を立てる海へと吸い込まれてゆく。そしてその一瞬、物凄い数の星が見えた。時が止まったかのようだった。不意に、ミッキーの脳裏へ、まるで走馬灯か何かのように、幼いクリストファーの声が響き渡ってきた。
(『Pooh's Hunny Hunt』っていうんだ。僕の大切な本なんだよ。汚したりしないでね)
ミッキーは歯を喰い縛り、最後の力を振り絞って、持っていた本を、頭上に向かって投げあげた。本はみるみる小さくなり、崖の彼方へと消え失せた。そしてその直後、激しい白い飛沫に全身を包まれ、背中に衝撃が来た。
どれほど大きな音が鳴り響いたのか、覚えていない。ただ、一気に苦しくなり、肺がヒュッと潰れるように感じた。彼は抵抗しなかった。泡を含んだ、柔らかな水が体を撫でてゆく。一度でいいから、息を吸いたい、と思ったが、叶わなかった。しばらくすると、おぼめく泡に取り囲まれる彼方で、澄み切るほどに穏やかに、月を透かして遠く揺れ動く、蒼い波紋の光が見えた。苦しさは引き続いていたが、幾つかの魚が、夢のように頭上を通り過ぎ、海中へ降りそそぐ光芒の柱を掻き分けている。その上には、漣に突きあたって反射する月の光が、宝石を撒いたように閃いていた。
(綺麗だな)
ミッキーには、幻想的な反射光のひとつひとつが、銀河の瞬きに見えた。そして、
(どうしたら、星に手が届くのかなあ)
という思いが込み上げた。
ミニーと一緒なら、あそこまで、届くような気がした。
ミニーと一緒でなければ、どこにも行けないような気がした。
どんな失敗も笑い飛ばして、時には叱って、誰よりも自分のことを愛してくれるパートナー。寂しい時も、嬉しい時も、双子のように同じ時間を分かち合い、もう九十年以上も、人生を歩み続けてきた。今は、ひとりぼっちになってしまった。彼女がいなければ、自分はこんなにも無力だ、という思いが、塩の味のする水の中に溶けていった。その意味では、確かにヴィランズが、ミニーを拐っていったのは正しかった。どうしたらもう一度、強い存在になれるんだろう? 彼女が僕にしてくれたように、誰かを守り、誰かを幸せにしたい。でももう、そのやり方をすっかり思い出せそうにないのだ。
二度目の鯨の影が、近づいてきていた。その怪物は、十メートルはあろうかという口を開け、恐ろしく深い喉の奥へ、獲物を吸い込み始めた。青い揺らめく光に運ばれて、ミッキーの意識は、そこでぷつんと途絶えた。
波の打ちつける崖には、呆然として海を見つめたまま座り込んでいる、エディと、ピノキオと、ジミニーが残された。潮風が、崖の上に引っかかった一冊の本をめくり、まるで星空に読ませるみたいに、最後のページが開かれた。すると、ぼうんと音がして、地上へと跳ね飛ばされる、二つの絡まった影が現れた。
「重いんだよ、スコット、どけよ!」
「貴様こそ、俺を蹴りつけているその足をどけろ!」
いつもの通り、愚にもつかぬ喧嘩をしながらじたばたともがく二人組を見て、エディはそっと濡れた目尻を拭った。
「よお、坊主、兄ちゃん。お久しぶり」
「やれやれ、やっと出られたな。ところで、ここはどこなんだ?」
濛々と立ち込める、ハチミツの匂いのする土埃を払いながら、スコットは黒糖のように美しい二重を瞬かせて立ちあがった。状況把握に努めようと辺りを見回すと、スーツを着込んだ大の大人が、足下でしくしくと泣いているのにギョッとして、若干、ヒき気味に後ずさる。
「あの野郎、ピノキオを庇って、鯨に呑み込まれちまって——」
「くじらぁ!?」
素っ頓狂な声をあげて仰天するデイビスの横で、スコットは苦虫を噛み潰したような顔で頭を抱える。
「次から次へと厄介ごとが起きるのは、なぜなんだー!」
「ミッキーの奴、今回の章では、働きすぎるほど働いたぜ。ぐすん、それに比べて俺は、俺は——」
「しょーがねーなー。じゃ、俺が迎えに行ってやるか」
「えっ。ど、どうやって?」
「そりゃ、同じように呑み込まれるっきゃねえだろ? 鯨によー」
何を言うんだとばかりに答え、両手を後頭部で組み合わせるデイビス。折りから月の光が射して、まばゆい星を撒き散らされた彼の瞳は、少女漫画の如く美麗に輝いた。
「心配すんなって、俺には主人公補正っつう、強い味方があるんだ。例えマグマの中に飛び込んだって、死にゃしねえよ」
「せ、説得力があるのは結構なことだが、呑み込まれた後はどうするんだよ」
「そこが主人公の腕の見せ所、ってことだろ? どんなピンチも、こすっからく切り抜けるのが俺の仕事。な、そうだろ、スコット?」
鼻歌混じりに立ちあがるデイビスへ、スコットは僅かに不安そうに振り向き、潮風に乗せるように囁いた。
「デイビス」
「んー?」
「叱るなよ。ミッキーのこと」
デイビスは、少し見開かれた瞳で、瞬きとともにスコットを見つめ返していたが、まもなく、挑戦的に口角を吊りあげてゆくと、ピッと親指をあげた。
「わーかってるよ、スコット。ま、ここはひとつ、キャプテン・デイビス様に任せなって。必ず、俺が連れ戻してやっからよ」
根拠もなしに明るく言い切り、その眩しいばかりに力強い笑顔とともに、髪がさらさらと煽られ、シャツの裾が夜風に舞いあがるのを見て、スコットもようやく、微笑を滲ませる。
「頼んだぞ、デイビス」
「おう! じゃあちょっくら人助けに行ってくるぜ。待ってろよ、相棒!」
と、得意げに踏み出したその瞬間———
どんがらがっしゃん、と崖から転げ落ちてゆくデイビス。舞いあがる土埃に向かって、スコットは頬杖をついてしゃがみ込みながら、たった一言、無骨に呟いた。
「……おい。大丈夫か?」
(くっ。こ、こんな時でさえ、キマらない俺って——)
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