ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」2.あんたって、ほんっとーに人の話を聞いていないのな
ああ、神様。
俺は確かに、「空から女の子が降ってきますように」と、あなたにお願いしました。
しかし、第一話をよく読み直してください。俺は、「可愛い女の子」と条件付きで、あなたに祈ったはずです。
それはたぶん、頭にこうして松ぼっくりをくっつけた、妙ちきりんな女の子のことじゃなくて————
「Perché mi stai fissando così tanto i capelli?」
鳶色の柔らかな髪と、同じく鳶色の瞳を持ったその女性は、不思議そうに自分の頭に手をやり——すぐに、気恥ずかしい表情で松ぼっくりを投げ捨てる。
「あれ。髪飾りのつもりじゃなかったのか?」
「あら、英語ね。全然知らない言語を話していたらどうしようかと思った」
小首を傾げ、流暢に言語を切り替えてみせた目の前の女性——ラテン系の血が流れているのだろう——シニョンに結いあげた巻き髪の下で、つんとした鼻筋と、食い込むほどにふくらかな頬を押しあげている、唇の生き生きとした赤らみが目立つ。美人とまでは言えないが、その佇まいには、気品と愛嬌があふれていた。思わず心を許してしまうとは、こういう雰囲気を指すのだろう。目が合うと、にっこりと微笑みを返してくれて。口からこぼれ落ちるのは、まるで、聖女のように神聖な一言。
「————アナタは、神を、信じますか?」
「は?」
「一神教と多神教って、どうやったら折り合いがつくのかしら? そりゃまあ、確かに私は、キリスト教徒だけれど。でもでも、たまには古代の神々に縋ってみたい気持ちだって、それなりに受け入れられたっていいんじゃないかしら?
念のため、クロノス(注、時の神)と、ラー・ホルアクティ(注、太陽神)のブロンズ像を持ってきたのだけれど。やたらと薦められた割に、現地のお土産品以上の意味は持たなかったわね。押し売りというのはいつだって、購入者にいい結果を約束するものではないわ」
デイビスが口を開く前に、彼女はふと自分の顎に手をやり、取り憑かれたようにぶつぶつと呟き出した。
「まったく、十七世紀のヴェネチアを目指したのに、ここに広がっているのはどう見ても未来——まだまだ試作が足りないというの? 年代が異なるのは許容するとしても、過去か未来かさえ誤るのは、流石に前提から間違っていたのね。時の流れは一方向なのではなくて? 多孔質の説も取り入れるべきかしら。あるいは、現実の時流に押し流され、エネルギーの負荷も手伝って、反動として未来にワープしたのかもしれない——やっぱり、アレッタの機嫌が悪い時にフライトするべきではないわ。生肉で誤魔化せるかと思ったけど、浅はかなことをするんじゃなかった」
言いながら、彼女は砂浜にしゃがみ込むと、そばにあった小石で、素早く地面に公式を書き込んでゆく。デイビスの靴の周りだけを几帳面に避け、瞬く間に意味不明の文字が羅列されていった。それも、誰かに操られているようなスピードで。
やべえ女だ、こいつ。
思わず、後ろに飛びすさるデイビス。数式の障害物が動いた——ということで、それが彼女の我に返るきっかけになったらしい。ぱちり、と音の出そうなほど大きな目を瞬かせて、彼女は覆い被さってくるデイビスの影を見上げる。
「ああ——失礼。私、夢中になると、すぐに周囲が見えなくなってしまうの」
「だろうな。出会って一分で、そのことが分かったよ」
「別に、年がら年中数式を書いているわけじゃないわ」
ムッとした顔で、彼女は反論した。
「インスピレーションって、野性の栗鼠みたいに、すぐにいなくなってしまうでしょう? 思いついた瞬間に書き留めておかなくちゃ」
「ほー。藝術家みたいなことを言うんだな」
「科学も藝術も、出発点は同じよ。ただアプローチの方法が違うだけ。自然は寛容だから、人間が発見したあらゆる研究様式を許容してくれるのね」
立ち上がって、砂を払う。数式の方は、もう気が済んだようだった。持っていた石を海に投げると、二回ほど跳ねて、きららかな波の底に沈む。
「ところで、あの凶器みたいな隼は、あんたの友達か?」
「アレッタのこと? そうよ、私のパートナーなの。でも——今日は機嫌が悪そう。当分、地上には帰ってこないわね」
「へえ。猛禽類を飼うって、大変なんだな」
「私が悪かったんだわ」
唐突に、彼女は涙ぐんだ。ぎょっとして、デイビスは思わず肩を抱いたが、両頬にははらはらと涙が降りかかるばかり。どうやら、感情の起伏が激しい性格らしい。普段はスコットやベースの沈着さを目にしているだけに、どうも調子が狂う。
「アレッタは——あんなに私に警告しようとしてくれたのに——それを無視して——私、主人失格だわ!」
「落ち着けよ。あんた、さっきからちょっとしたヒステリーを起こしているみたいだぜ」
「アレッタが私のことを嫌いになったら、どうしよう——」
「だから、俺の反応しづらい話題で泣くのはやめてくれないか? えーと、」
「カメリアよ。カメリア・ファルコ」
「ああ、そう——カメリア。とにかく、今は鼻をかんでくれ。このシャツは、俺がまだ洗濯機に放り込まなくていい、最後の貴重な一枚なんだ」
デイビスはポケットからハンカチを出し、カメリアの鼻に押し当てた。ちーん、とそのまま鼻をかむカメリア。なんで俺がこんなことをしなくてはならないんだ、と大きな疑問符を浮かべたデイビスは、鼻の頭を赤くしている目の前の女性の姿を見つめる。彼より二つか三つ、歳下だろうか? 成人はしているように思うが、見た目だけではよく分からない。
「ありがとう。これ、お借りしていい? 今度、洗って返すわ」
「どうも。俺はデイビスだ」
「デイビス。ヘブライ語で、”友”という意味ね。いい名だわ」
さらりと教養が覗くところを見る限り、頭の回転は悪くないようだった。それにポート・ディスカバリーの科学者たちのせいで、変人の存在には慣れている。あたり構わず自分の世界に没入する性癖——ここまでの変わり者にはそうそう遭遇したことはないが、ひょっとしたらポート・ディスカバリーの科学者たちとは馬が合うのかもしれない。
「ところで、カメリア。これは?」
彼女が睫毛の涙を拭っている間、必然的に手持ち無沙汰になり——なんとなくデイビスは、車輪を半分砂に埋めたまま、大きく翼を張り出した、巨大な飛行装置を指差した。近くで見ると、おおよそ車一台分くらいの大きさはある。なかなかの存在感だ。
「それは、フライヤーよ。試作品なの。基本的な枠組みはできているんだけれど、まだ制御がうまく効かないわ——完成した時には、正式な名前を考えようと思っているの」
「へええ。あんたが発明したのか、これ。凄いな」
取り付けられている庇の下から、中を覗き込んでみた。ふわっ——と海の香りのような、いい匂いがする。ちょっとした秘密基地みたいだ。一見すると、二つの座席を庇の下に配した、大きな鳥の骨格を模しているようだが、梁の一本一本の絶妙なカーヴ、翼にくぐらせている骨の配置や、ビスを使用せずに実現する固定、僅かばかり弛ませた天井布の縫い目まで、緻密に計算された結果なのだということは伝わってきた。試作品とは言っていたものの、適当な作りは見られず、開発者の意図が光っていないところはどこにもない。一切の狂いもなく、妥協もなく——機械で大量生産していないのだとすれば、相当な設計技術が必要だろう。何より、美しい。無骨な金属製の機体にこそロマンを感じる彼も、人間工学を追求したそのフライヤーの心地よさには、感心するばかりだった。
理論の積み重ねによって導き出された完全性を、例えばストームライダーは、雄々しさと威圧感という印象に昇華させていた。しかし同じ性質からでも、この飛行装置が発展させた方向は、それとは正反対、つまりは優雅さと、芸術的な調和こそを主題としたのだ。まるでローマ時代のバルコニーのよう——翼の形は、蝙蝠にも、鷲にも似ているし、柔らかに目張りされた座席の革は、撫でさする手にとてもよく馴染み、太陽の光を適度に吸い込んで、生き物のような温かさを実現する。庇は、風と明るさを妥当な具合まで調整してくれるし、身を乗り出せば、岩山の窪みから雛鳥が顔を出すように、くっきりと青い空を拝むことができた。美術館に置いてあっても、違和感はないかもしれない。硬派な世界が馴染む彼にも、そう考えられる程度には、その装置は見事な造りだったのだ。
「座ってみてもいいのか?」
「もちろん。ご自由にどうぞ」
「ダ・ヴィンチのオーニソプターに似ているな、これ。さて、翼に連動しているチェーンは——あれ、ペダルがない」
「ええ、羽ばたく動作はないわ。風に乗るだけ」
「ふうん」
「それに、時空を超えるんだけど——」
「待ってくれ。突然SFの世界観をぶち込まれても、まったく頭が追いつかないんだが」
「ああ——ごめんなさい。それについては、補足が必要だったわね」
はたと思いついたようにカメリアは手を打ち、真剣な——やや深刻すぎると言ってもいい表情で——説明を付け加える。
「信じなくてもいいけれど、私はこの時代よりずっと過去からやってきたの。それに、信じないのは自由だけど、きっと地理的にも違う国に来てしまったのね。私の故郷はイタリア半島の北西の方で、本当はヴェネチアに行こうとしていたのよ。信じようとしなくていいけれど、過去に南下しようとした時に、着地点がずれてしまったみたい。無理に信じなくてもいいんだけれど」
「……えーと、どこから突っ込んだらいいんだか。とりあえず、不信を前提として人間関係を構築しようとするのはやめてくれないか?」
頭が痛かった。この説明のどこをどう益とすればよいのだろう。くだらないと切り捨てようにも、こうまで先回りをされては、こちらも立つ瀬がない。
「……………………でも、私が同じことを言われたら、絶対に信じないし」
「冷静な感想だなあ。まあ、そうなるんだろうけれど」
「過去から来たという証拠は、どこにもないんだけれど——私のドレス、きっとあなたからしたら、古めかしいでしょう? ああ、あとポケットに、元の時代で使っている紙幣があったなー」
「分かった。金はいいから、あんたの話を続けてくれ」
埒が明かないと判断したデイビスは、手を振って、話を先に進めるよう促す。
「とにかく、私はフライヤーに乗って飛んできただけの訪問客で、この時代の人間じゃないの。あなたの時代のお邪魔はしないわ。ただちょっと、ほんのちょっとだけ、散策してみたかったりするだけなのよ。悪いことではないでしょう? カガクシャノコウキシン、というやつよ」
「散策。そんなことをしていて、いいのか?」
「そうねえ。ついでなら観光とカフェめぐりと、ウインドー・ショッピングもしたいところだけれど——」
「そうじゃなくて。さっさと元の世界に帰らなくても、大丈夫なのか?」
パニックに陥ることもなく、呑気に今後の計画を練り始めるカメリアに、むしろデイビスの方が心配を寄せた。彼女には向こうの生活があるし、待っている人間もいるだろうに。とはいえ、過去からきた、という彼女の説明を、真に受けるならの話だが。
カメリアはそれを聞いても、曖昧に濁した返事を返すだけだった。うっすらと口だけで苦笑を浮かべた彼女の顔を、一瞬、憂いの影がよぎる。それから彼女は、聞き取りにくいほどのちいさな声で、元の時代には、あんまり居場所がないの、と短く理由を呟いた。
なんとなく事情を察したデイビスは、それにはあえて何も言わず——製作者である彼女から"フライヤー"と呼ばれる、その飛行機に目を戻す。
「説明を聞いたけど、どう見ても、時空を超えそうな装置には見えないな。丁寧に造られてはいるけれど、支えているのは結局、アナログの技術じゃないか?」
そう。
彼の価値観からしてみれば、フライヤーは非常に精巧には造られているが、驚くべき新技術が張り巡らされている、とまではいかない、原始的なモノ。飛ぶということだけで、奇蹟的。それ以上の仕掛けはありえないはずである。カメリアの方でも、尤もな指摘だと思っているらしく、せっかくシニョンに結い上げていた髪を、無造作にぐしゃぐしゃと掻き回した。
「私も、うまく風の力で滑空できれば、それで充分だと思っていたのよ。でもある日——南風が吹いていて、とってもぽかぽか陽気だったから、乗り込んでいたら眠くなってしまって——」
「すげえ危ねえな、それ。寝返り打っていたら、真っ逆さまだったんじゃ?」
「そうね。でも私、寝相はいいから」
「とてつもなく呑気な発言だな」
「そうしたら、夢を見たの。それが、ちょっと説明しにくいのだけれど、古代の宇宙観を表す夢だったのよ。それが鮮烈にすぎて、今でもはっきりと覚えているわ」
カメリアは、ちょっと眉根を寄せると、おもむろに語り始めた。
まるで伝説を語るように——厳粛な、神秘を孕んだ口調で。
———昔々、世界に四大文明が栄え、人々が深く自然にぬかずく意義を知っていた頃。不毛な砂の続くさなかで、椰子とイチジクが生い茂る肥沃な地に、黄金の神の国は隆盛を極めた。
東から陽が昇り、西へと沈むように、増水季に訪れるナイル河の定期的な氾濫は、時の永遠の回転の中で、豊かな作物を実らせる。人々の名誉の死は、ナイルの鰐に貪り食われることで、日々麻布を纏い、ヒエログリフを刻み、愛する者が亡くなれば、顔に泥を塗って徘徊する。世界を支配するのは、今となっては、私たちの共感をことごとく拒絶する理。しかし、微かに手さぐりすると、我々の精神を古代と繋ぎ合わせる楽器に触れることができる。それは何よりも高く飛び立ちながら、翼を広げ、美しい歌を奏でるのだ。
隼の、声———
砂の国において、くっきりと濃度を増す空は遥かまで青く、その頭上を制していた隼の存在は、人々の激しい崇拝を集めた。やがてその鳥の声は、憧憬をさらに高く、宇宙の彼方まで押しあげる。
人はなぜ生まれ、なぜ生きるのか。
宗教とは、自身が持つ長い長い物語によって、その根源的な問いに答えを出そうとするものだ。
なぜ宇宙は無秩序のまま終わりはせず、なぜ人は死に、胎から子を産み落とすか。
何も与えられず、何も説明を受けず、不条理の命じるがままにこの地上に目覚めた人々は、照りつく太陽に射抜かれ、苦しみの原を流離いながら、その問いを考え続けた。やがてエジプト神話は少しずつ渦巻き、口をつき、語り始める。
それは壮大な天体を舞台に、生命の螺旋を記す物語。無辺の広がりを湛える原初の渾沌から、最初の創造神アトゥムが生まれ、自慰によって大気と湿気が立ちあがり、その交わりによって、大地と天空とが生を授かり、互いに熱烈な恋心を抱く。子をなした妹は、死、豊穣、力、葬祭、それぞれを司る神を産み落とし、彼らはさらなるドラマを繰り広げる。
創造と破壊。君主と対立。愛、嘆き、賛美、謳歌、殺戮。何度となく続く葬礼と旅路を経て、神々を乗せた盤は劇を繰り返す。
隼の翔ける姿を見た人々は思う。なぜ、あんなに声を限りと鳴くのだろう?
雄大な空で、彼らは彼らの巨大な物語を紡いでいる。鳥の支配する世界。あれは、神の世界だ。
———神とは、空を飛ぶものなのだ———
そこは、生者たちの悲喜劇を引き受け、永遠の法を歌い続ける神々で満ちていた。頂点には、万物に分け隔てなく光を降りそそぐ、慈悲と過酷さの象徴、あの輝かしい太陽がある。古代エジプトに生きる人々は、日が昇り、日が沈むという現象に、大いなる関心を寄せた。毎年、決まった時期に氾濫し、豊穣を齎すナイルの動き。種を撒けば、収穫期には実りが授けられる。さらにはまた、人々の生と死。どれほど許しを求めても、けして抜けられないこの巨大な生命の輪。エジプトの民は、ナイルを渡る船に思いを託して、このように考えた。それは、繰り返される大空の航海なのだと。
朝、船は発ち、昼の蒼穹を抜けて、夜、地平線の彼方に没する。
それは繰り返される死と再生の、永遠の旅路。太陽はその船の王として航路を操り、隼の姿となって天空を支配し、安寧と秩序をもたらすのだ。
そして、カメリアは考える。
今、ここにいない人たち——何かを夢見ながら、それを果たせなかった人たち、亡くなった人たち。さらには、まだ生まれてはいない人々、いずれ未来に胸を震わせ、同じ苦闘に挑戦してゆくであろう人々。そうした、数えきれない人間たちの魂——それらが船に乗り込み、輝く星となって、この偉大なる太陽神を守護することを。かくして数多の魂を引き連れた船は、めぐる天体の動きに則して、壮大な航海へと旅立つだろう。
それは生命を超える冒険の旅。
生まれる前から、そして死んだ後でも。
この永遠の動きは、休むことなく繰り返される。
宇宙の片隅に、星がめぐる意味を求めて。その物語には、今も民の心に生きる勇気を育み、高らかに石碑に刻まれている。
——太陽の光を浴びてきららしく輝く、不思議な生と死の船よ。陽が沈めば生命は絶え尽くし、太陽が昇ると同時に再生する。昼の船に乗り、出航せよ。死の暗黒から、生命の支配する世界に踏み至れ。王よ、汝が目覚めた時、現世には朝がくる。立って、始まりの歌を告げよ。人々に、誕生のしるしを通告せよ。
王よ、ファラオよ、愛する者から引きはがされ、泣きながら手を伸ばす女神ヌトの暗き股より、砂から這い出るスカラベの如く、黎明の大気へと生誕し、その尊き姿を民にさらせ。妻を乞うゲブをまばゆい光で照らし、天高く昇れ、王よ、我らに新しい船出を知らしめよ。我らを見下ろし、偉大な輝きでケメトを満たせば、誰しもがみな、汝の名を崇めよう。隼の姿となりて、青い大空を航海せよ。風を切り、飛び続けよ、王よ、あまねく神の声を轟かせよ。ケメトの民よ、慈悲深きファラオを誉め讃えよ。貴族に、奴隷に、赤子に、老人に、男に、女に、その輝かしい威光を知らしめよ。育て、樹々よ、柘榴よ、麦よ、鵞鳥よ、椰子よ、牛よ、唸る蜜蜂よ。河馬よ、蠍よ、ナイルの魚よ、燦然たる太陽の抱擁を受けよ。ファラオの照らすケメトに実りあれ、栄光あれ。人々の生きる現世を、汝の果てしなきその寵愛で満たせ。地平線の隼よ、時を超えて、あまねく生命の繁栄の歌に唱和せよ。
いかなる主君も、死は避け難い。大地神ゲブの胸元は赤らみ、日は没する。王よ、嘆くな、老いた姿を見つめ、けして頭を垂れてはならぬ。夜の船に乗り込み、雄羊へ身を変えた汝は、星を従えて死の底へ。怪物にあふれ、敵と戦い、自らの罪業と対峙する、試練の冥界ドゥアトを経験せよ。うねる毒蛇は、そのとぐろによって、我らが太陽の光を覆い尽くす。闇は深く、濃く、我々の街を呑み込み、籾殻は落ち、家々は破壊され、川は荒れ狂う。王よ、汝は不滅の存在。姿は変わり、苦難を舐めようとも、ふたたびその光は、我らの世界に再生する。魔法の縄よ、王の名を守れ。あらゆる夜の苦しみを抜けて、ふたたび、息を吹き返せ。物語は語られ続け、そして名は生き残り、命は鼓動する。ファラオよ、死した人の魂を導き、女神ヌフの星空を渡れ。夜の中の光は、かつて我らの礎であった人々。生きる者たちからの愛を、冥王オシリスに届けておくれ。悪しき心に裁きを、善き魂に永遠を。どうか愛するあの人が、無事に死者の裁きを終えて、楽園に迎え入れられますように。記憶よ、思い出よ、永遠の命とともによみがえれ。彼らの魂に栄光あれ。
夜が明ければ、ふたたび、王は生者たちに朝を告げる。
繰り返される生と死。愛と哀しみ。昼と夜を何度もくぐり抜け、魂の航海を歌う。頭上を翔けてやまない、鳥のように。
そしてこれらの神話は、古代エジプトの民に、ある共通の念を抱かせる。
生きることは——時を超え、神々の恩恵に目を見開くこと。
繰り返しの中に、営みの旅を見出すこと。
人の生きる限り、何度でも、何度でも——
繰り返される物語——
——————
————
—……
吟遊詩人よろしく締め括ったカメリアの、叙情的な語り口に、さしものデイビスも引き込まれて、ぱちぱち——と手を叩いた。カメリアもその拍手に礼を尽くし、ドレスの裾を持ちあげて丁寧にお辞儀する。
「なかなか、魅力的な夢の内容でしょう?」
「ああ。こうして聞くと、面白いもんだな」
「私もすっかり感動してしまって。今の夢をノートに書き留めなくちゃと、急いで目を開けたわ。そうしたら——」
「そうしたら?」
「——全然違う場所の、違う時代にいたの」
「……マジで言ってる?」
「ほら。信じていないじゃない」
カメリアは涙目になって、デイビスのシャツの裾を引っ張った。
「でもでも、一番困惑したのは私よ。だって、帰り道が分からないんだもの」
「鵜呑みにするかどうかはさておき。想像すると恐ろしいな、その状況は」
「でしょう? アレッタがそばにいてくれなかったら、どうなっていたことか。気が狂ってしまったかもしれないわ」
「アレッタ——ああ、なるほど。それで序盤の話に繋がるのか」
顎に手を乗せ、頭の中で情報を連関させるデイビス。いわく、アレッタはパートナーであり、うんぬん。隼に危険が及ぶような内容ではないとはいえ、科学実験にも連れて行くとは、よほど思い入れが深い友人なのだろう。
「アレッタは、大きく鳴き喚いていたの。不安になったんだろうと思って、急いで呼び寄せ、あの子の背中を撫でたわ。
大丈夫。何があろうと、私があなたを守ってあげる。あなたは私の、一番大切な友だちだもの。誰にもあなたを傷つけさせはしないわ——と。
アレッタは、私の頬に頭をすり寄せて、甘えているみたいだった。きっと、安心したのね。
……そして、気づいたら、元の世界の海の上を飛んでいたんだわ」
気まずい沈黙。
海の上を飛ぶ、というところを、軽い手振りつきで示してみせただけに、この沈黙は彼女の肩には漬物石のように重かった。
デイビスはデイビスで、半目になってカメリアを見ていた。コイツハナニヲイッテイルノダ? そんな感情のありありと伝わってくるような眼差しが、彼女の心臓に突き刺さる。
「…………」
「…………」
「……わ」
「わ?」
「わわわ、私だって、ついに自分の頭がおかしくなったと思ったんだものっ!!」
「なんだ、自覚があったのか?」
「むきぃっ——」
猿のように歯を剥くカメリア。ただならぬ殺気を感じて、デイビスは咄嗟に身を引いた。
「いいの、ファルコ家の娘は気が触れているんだって、みんな陰口を叩けばいいんだわ。どうせ私はじゃじゃ馬娘よ。学問漬けの、親泣かせの、前世の結婚相手はハヤブサな女よ」
「…………はぁ」
大分と、病んでいるようだった。重たい空気を引きずる彼女の頭の上を、心なしか、数羽のカラスが飛んでいるように見える。その幻想を、手で払い退けながら——
「まあ、良いんじゃないか? 部外者には言わせておけば」
「そうよね? ハヤブサが前世の恋人だって、ちっとも悪くないよね」
「俺が伝えたかったのはそういうことじゃないんだが、反発したいのがそこなら、それでもいい」
「うん、だって他は全部本当のことだもの」
「あんた、意外に冷静なんだな」
「変なことを言うのね。私は常に冷静さを失ったことはないわ」
失礼な、と目を吊り上げるカメリア。その真剣な顔つきからは、一点の曇りもない晴れやかな誇りが覗いて見え、頭の中は、常に青空同様、何の雲も漂っていないのかもしれない。体良く言っているが、とどのつまりはスカポンタン、ということだった。
「なんなんだこのカオスな状況は」
間違っている、絶対に間違っている。ボーイ・ミーツ・ガール、これからいかにもロマンティックコメディでも始まりそうなシチュエーションだというのに、この体たらく。軽々しく浅ましい欲望を神に祈ったことを後悔しながら、デイビスは思わず、頭を抱える。
ともかくとして。カメリアはこほん、と咳払いし、仕切り直した。
「さておき、私のするべきことは、私の身に起きてしまった事象を科学的に解明し、それをコントロール可能にする理論を打ち立てることよ。二度、三度とフライトを繰り返すうちに、法則が見つかると思ったけれど——まだ分かっていないわね。
毎回、どこに行くか分からないんじゃ、話にならないわ。今のままでは危険すぎて、とても他人なんて乗せられたものではないし。せっかく、座席も二人掛けにしたのに」
「ああ、そういえば。二人乗りなんだな、これ」
デイビスはそこまで聞いて、初めて、製作者の意図に気づいた。革張りのシートは二つ、つやつやと太陽を受けて光っている。
「座席数は、いずれ増やしてゆく予定よ」
「なるほど。制御の研究の方が先ってわけか」
「そうね。安全に操縦できる術が証明されたら、その暁には、世界中の人たちを乗せたいわ。そうすればきっと、みんな分かってくれるわ——世界はひとつなんだって」
せかいーじゅーうー、だれだーあって、と歌い出すカメリア。能天気の塊のような人間だと思う。歌いたい時に歌うのだ、という一点が重要なようで、やや音痴なところも、歌詞を覚え切ってはいないところも、あまり気にしてはいないようだ。
そして、彼は振り返る。そのように高邁な夢を——舌に載せるのをやめたのは、いつからだったろうか?
誰も彼も幸せにしたいという、自惚れの混じった欲望が、自分にもあったはずだ。けれども、同僚たちとともに過ごしていると、「給与が高い」「パイロットは常に買い物が一割引」やらで、口先だけで積み重ねていたはずの言い訳が、次第に雪のように降り積もり、心を圧してゆくようだった。
ストームライダーのパイロットになるために、高い志をもって勤務していた頃。
あの頃の熱い感覚は、もう久しく味わっていない。
先日のフライトは、それをよみがえらせるために、随分無茶をした。もう一度、ストームライダーを目指したい。最高の飛行機乗りになりたい。けれども、謹慎を命じられた今、その挑戦も、間違いだったのではないかと思う。
「なあ。どうしてあんたは、そんなに人のために頑張ろうだなんて思うんだ?」
デイビスは、素直に胸に湧いた疑問を、彼女に向かって口にする。カメリアは不思議そうに振り返った。
「会ったこともない奴ら、どんな性格かも知らない奴ら——だろ。そいつらのために汗をかき、骨を砕いて。あんたに、一銭の得もないじゃないか」
「あら、私は、そういった人たちのためにこそ努力したいのよ。むしろ、どうして、自分のためだけに頑張れるの?」
カメリアは首を傾げた。言っている理由がよく分からない、とでもいう風だった。思いつくままを口にするように、彼女はよどみなく言葉を紡ぐ。
「私という人間はたったひとりで、どんなに頑張ったとしても、一人分の熱量しか保てない。人々の誰しもが持っている、空を飛びたいという気持ちに気づかないで——どうして、たくさんの努力を払えるかしら? 私が飛びたいと思うのは、世界中のみんなが、空を飛ぶことを願っているからではないの?」
力強い口調を使ったわけではない。しかし、その何気なさこそが、彼の精神を揺さぶった。自分と彼女を分ける、深い溝。それは魂にまで染みついて、互いの意識を天と地にまで隔てている。この日、初めてデイビスは、感心に近い感情をカメリアに抱いた。それとともに——自分の置かれている状況に対しての虚無感も。
彼女にとって、それは明日、太陽が照っているのと同じくらい自明なことなのだろう。自分は特別ではない。ただ、みんなの想いを媒介するだけなのだ、自分が精神を打ち込むのは、人々の想いを写し取っているだけなのだと。何の疑いもなく信じている——それはなんと、幸福なことなのだろう。自分の夢と人々の願望の、まばゆいまでの一致。その裏に隠されている本音に、デイビスもカメリアも、この時点ではまだ気づいてはいなかった。
「世界中のみんなが、願っている——か」
デイビスは、そう口の中で呟く。より一層、心の中の暗雲を重くしながら。
「そうよ。私の人生最大の目標は、人類への貢献なの」
冗談なのだか本気なのだか分からない主張に、えっへん、とカメリアは胸を張る。大言壮語を口にする人種は、相当な自信家か、あるいは何も考えていないかのどちらかだ。
「ところで。私にそんな変な質問をするってことは、あなたは何かお悩みのことがあるのかしら」
「ぎくり」
鋭い。
思ってもみないカメリアからの切り返しに、彼は思わず、明後日の方向へと目を逸らした。
「あら。当たりね」
「えっと、えっと。ああ、今日も青空が綺麗だなぁ、まるで君の輝く瞳のようだ。さあ一緒に連れ立って、ちょっと港の方まで出てみようじゃないか——」
「えっ、何? 上司とうまくいかなくて、お財布の中も空っぽになり、自暴自棄でくさくさしてるって?」
「化け物かよ、あんた」
涙目になるデイビス。ベタなやり方でごまかそうとしただけに、余計に虚しさと恥じらいが残った。
さしもの彼女も哀れんだのか、ぽろりと同情の涙を浮かべ、デイビスの肩をそっと叩いてやる。
「元気を出して。さすがに所持金ゼロはどうかと思うけど、日々がんばって働けば、労働はあなたを裏切らないはずよ」
「給料日は、当分先なんだよ。残念ながら」
「大変ね。お仕事は、何を?」
「職業はパイロットだ」
「ぱいろっと? って、何かしら?」
「ええと、そうだな。分かりやすく言うと、飛行機を操縦する人間のことだ」
「まあ、あなたも飛行機乗りなの? それじゃあ——私の心からのお友だちじゃない!」
途端にカメリアはぱあっと顔を明るくして、劇的に態度を変えた。そしてデイビスの右手を力強く掴むと、ずるり、と彼の肩から上着が滑り落ちるのも気にせず、勢いよく握手を振り続ける。
「あなたも、あの素晴らしい大空に心を奪われてしまったひとりなのね! よかったわ、やっぱり未来にも、同じ夢を見る同志はいるんだわ——」
「ちょっと待て。掌返しが早すぎやしないか?」
「そんなことないわ。すべて航空史に関わる人間については、例外なく敬えというのが、お父様の高貴なる教えよ。さあ、デイビス。今までのお互いの非礼はすべて水に流して、ともに輝かしい未来に向かって歩みましょう!」
うっとり、と擬音でもつけられそうなほど陶酔した彼女は、隣に佇むデイビスをよそに、両手を胸の前で組み合わせ、神に感謝でもするかのように眼差しを天に捧げた。気のせいか、ちいさな天使の羽がぱたぱたと背中で羽ばたいている幻想すら見える。お分かりの通り、カメリアは喜怒哀楽を読み取るのが大変に容易な人間だった。それこそ、シッポを振っている犬並みに。
「嬉しい。話の通じる人に出会えるなんて。それもこの時代に降り立って、まだ半時間しか経っていないのに。ああ、デイビス、あなたって私の運命の人ね。そうだわ、その運命力を信じて、ちょこっとだけ、ほんのちょこっとだけでいいから、哀れな仔羊のお願いを聞いていただきたいの——」
「一応確認しておきたいんだが、俺に断る余地は残されているのか?」
「もちろん。Nonと言うのは、人間に与えられた基本的な権利ですもの。ステファン・G・タレンタイアは、ヴォルテールについて、自著の中でこんなことを言っていて——」
「話をややこしくしないでくれ。また話題が脱線するから」
デイビスは片手をあげて、カメリアのお喋りを制した。やりとりをしているうちに、自然と彼女のいなし方が身についてきたらしい。
「で、あんたの願いっていうのは、何なんだ?」
「簡単よ。私を、あなたの飛行機に乗せてほしいの」
「俺の?」
ぱちくりと瞬きをするデイビス。その確認を肯定するために、カメリアはにっこりと愛らしく微笑み、彼の手を自身の両手で握り締めた。今こそが自分の見せ場だと判断したのだろう、ヒロインよろしく、カメリアは全身に堂々と自然の太陽の光を浴びながら、彼にひとつの契約を持ちかける。
「取り引きをしましょう。あなたが私の願いを叶える代わりに、私があなたの金銭的な悩みを解決する。いい条件だと思わない? 何か障害があるなら、私、それを解決してくれそうな人に向けて、張り切ってお手紙を書くわ」
「何かあるならって、ざっと百個くらいは障害が思い浮かぶんだが」
「百個? ツイているわ。早く未来の乗り物の搭乗体験記を書きたいものね」
「もはや、訊き返すのは愚行とは分かり切っているんだが——何をどうやったら、そんな解釈に辿り着いた?」
呆れ返るデイビスをよそに、彼女は開き切った目を輝かせ、その背景に、眠れる美女のように煌びやかな薔薇のトーンを纏った。
「百個——なんてラッキーなの。現実の問題を具体的な数字に落とし込めたなら、あとはひとつひとつ潰してゆけばいいだけだもの。世界中の発明家が、そうして新しい技術を世に送り出していったのよ、アルキメデスも、ガリレオ・ガリレイも、エイブラハム・ダービー一族も。千も万もの問題の山を乗り越えるのを覚悟していたけど、たった百個しかないだなんて——ぷぷぷ。この勝負、貰ったも同然ね」
カメリアは手を口元に当てて不気味に笑うと、くるりとデイビスに向き直る。今の独白は、彼には聞こえていないとでも思っているらしい。夢見る乙女は、どんな生き物よりも馬鹿だ、とデイビスはこの瞬間に確信した。
「アレッタの機嫌が直るまで、私は元の時代に帰ることはできないの。でも時の流れは早く、人生は短い。その間に、ひとつでも多くの夢を叶えた方が、楽しいでしょう?」
「それじゃあ、ほっといていいのか、隼の方は?」
「ええ、あの子は賢いから、人間に関係するものに危害は与えないわ。でも、へそを曲げている間は、絶対に地上に降りてこないの。隼って、とっても誇り高いのよ」
「でも、鳥頭って言葉もあるじゃないか。餌でも与えたら、頭がカラッポになって、怒っていたことを忘れてしまうんじゃ?」
「あ——そういうことは言わない方が——」
「……おや」
まずい、と顔色を変えたカメリアをよそに、デイビスは顔を上げた。空からの影——翼をいっぱいに開いていた隼が、彼に向かって近づいてきたのだ。ちょうどいい、とばかりにデイビスは笑みを浮かべる。
「ああ、ほら、噂をすれば。奴もようやく、機嫌を直したみたいだぜ——」
音もなく天から滑り下りてくる隼を、デイビスは爽やかに親指で示した。だからあの鳥を連れて、君のフライヤーで、とっとと帰りたまえよ。と——言語外にそんなニュアンスを含めたつもりだったのだが。
何やら醸し出されているただならぬ気配に、彼の動物としての本能が、背筋に冷や汗を伝わせる。まるで——頭の中に危険の鐘を鳴らす、警告のような。
その理由が分かったのは、隼があと数メートルまで近づいてきた頃だった。
能ある鷹は爪を隠す、というが、この場合はまるで反対だ。
ギラリ、と爪を覗かせる——その瞬間、もう逃げる間が残されていないことを察して、デイビスは短く息を飲む。
まさしく、災害の襲来。
竜の尾を踏むどころか、せーので尻尾の上に飛び乗ったに等しいピエロの末路に向かって、アーメン、と呟きながら、カメリアは静かに十字を切った。
「忠告が遅かったわ。こういうのを、後の祭りって言うのね」
「……………………なるほど、本当にカシコイ鳥のようで」
壊れかかった電子機器のように五体を投地し、気味悪くピクついているデイビス。その皮肉を耳にして、カメリアはばつの悪いようについ、と視線を外す。
「あんな高いところから俺の声を聞き取れるなんて。あの鳥、どんな地獄耳を持っていやがる」
「どうかしら。あの子って、人語を理解できないし……」
「嘘をつけー。絶対に理解していただろ、今のはッ!!」
ダメージをモロに受け、ズタボロになったままわななくデイビスの姿は、死に際のゴキブリそっくりだった。さすがに責任を感じたのだろう、カメリアがぺたぺたと膏薬を塗ってやる。熱を持った傷口に、ひんやりとした彼女の指は気持ちよかった。
「人間に危害は加えないんじゃなかったのか?」
「こんなことは初めてだわ。きっと、よほどあなたのことが嫌いなのね」
「そういうセンシティブなことは、せめてオブラートに包んでくれよ」
「包んだところで、事実じゃない?」
「ううう、人の精神の繊細さを理解してくれない人物が、ここに」
————閑話休題。
彼女の持ちかけてきた依頼の方に、議題を戻す。
「飛行機ったって、今はあちこちで飛ばしたがっているせいで、飛行計画はガチガチに統制されているんだぜ。気軽にフライトできるわけじゃない」
「分かったわ。うまく制度の網の目を掻い潜れば、大成功というわけね」
「物凄い翻訳をしてくれたようだが、有り体に言えば、そうだ」
「なるほど、問題は技術的な方ではなく、政治的な方にあるのね。困ったわ。あなたを悩ませている制度について、私はまるで知らないんだもの」
二人は砂浜の上に正座し、うーん、と腕を組みながら、仲良く同じ方向に首をひねって考える。
「大人しく、隼の機嫌が直るのを待つのがいいんじゃないか?」
「そうねえ、正直、私も実験の失敗でムシャクシャしていて。気晴らしでもしないとやっていられないというのが、本音よね」
「ほほう。それで、ムシャクシャしている天才科学者さんは、何かまともな案は思い浮かばんのか」
こつん、とデイビスが手の甲でカメリアのおでこを小突く。万有引力の法則に従い、腕組みしたままのカメリアの体が、やや左に傾いた。
「発明家なんだろ? 難題を発想力で解決するのが、あんたの本分じゃないか」
「そもそも、技術と政治では、問題解決に必要なファクターが違うのよ。技術の解決に必要なのは、忍耐力と、試行回数と、インスピレーションなんだから。
でも政治的な場合は、正しさは二の次で、敵にも味方にも足下を掬われないことが大事。求められるのは、出来事を見たい方向に捻じ曲げてみせる、ほんのちょっとのアイディアなの」
「抽象的すぎて、ピンとこないな。具体的に言うと?」
「基本は、言質を取って、拡大解釈して、出し抜く、よ。ピンチの場面で役立つ知識だから、覚えておいた方がいいわ」
「……あんた、本当に人類貢献が最大の目標なのかよ」
「きれいは汚い、汚いはきれい。シェイクスピアによる、この世の本質を的確に表した格言ね——」
「そうやって、自分の言動を誤魔化す方向に持っていくよなぁ」
斜め上の方向を見てふっと微笑んだカメリアに、外野(デイビス)からの冷静な野次が飛んだ。
とはいえ——カメリアの主張することは、間違ってはいなかった。世紀の発明の成果は、動かしようもなく、イチゼロだ。結局、発明品を完成させた者がすべての名誉をかっさらうのであって、そこでは意味ある試行の回数と、発想がものを言う。「九十九パーセントの努力と、一パーセントの閃き」という、世に膾炙されたトーマス・エジソンの発言。あれは一読すると、努力で才能は賄えるだの、結局成功の鍵はインスピレーション次第だの、いやいや努力できること自体がすでに天才だなどと、どちらか一方に振り切って解釈されてしまう場合が多い。重要なのは、成功するためにはまったく質の違う二要素が必要とされている、しかも、才能という一パーセントは、九十九パーセントの努力を終えた後にこそ要求される——ということなのに。それは暗に、いかに人間は成果に対応する原因が分散されていることに堪え難いか、という真実を、皮肉にも証明していることになるだろう。
どれほど九十九を極めようとも、残るひとかけらがない限り、無為も同じ。最後に立ちはだかるこの関門に、歴史上の何人が涙を呑んだことだろう。なお、そもそも九十九の努力を怠る者は、一の霊感を期待する資格さえない。最初から、階の最後の一段をあてにしている者が、階段の彼方の扉に触れられるはずもなく。
この徹底した第三者依存、つまり自然法則という理から下される厳密さは、ある意味ではまったく公平ともいえた。なお、最後に必要とされるひとかけら。その偶然の思いつきを、もっと本人の資質に寄せるなら、俗にセレンディピティ能力、などと言ったりする。
対して、政治において重要なのは、たった一度の華々しい成功ではなく、安定性と継続性である。野球で言えば、安定した打率を保つことが、政治家に求められることだ。そして、何がヒットであるかのジャッジは人間が行うだけに、手練手管次第でどうとでもブラせる。要は、ケチをつけられなければいい。さすがに、無理矢理な解釈は反感を買うだけだから、その布石として、誰かの揚げ足を取れ——というのが、カメリアの唱える持説である。
「あんたの言う、飛行機だけどさ。俺の愛機はストームライダーなんだが、今は禁止されているんだ。飛行計画以前に、そもそも、あんたを乗せてやる手段がないんだよ」
「禁止? それって、何かやらかしたから?」
「……えっと。ふー、ふー」
「デイビス。さっきから思っていたんだけど、あなたって古典的な方法ではぐらかそうとするんだね」
掠れた息で口笛を吹こうとするデイビスの努力を見て、カメリアはなぜか、深い哀しみを覚えた。「分かりやすい」としばしば称される彼女だが、彼もまた、考えていることがモロ分かりの男だったのである。
体を動かさないことに飽きたか、気分転換か。カメリアは石に別の石をぶつける遊びに熱中していた。目標から外れた石が、腑抜けた音を立てて泡立つ波に呑まれてゆくのを、彼も頭を空っぽにして見つめる。
制度の網の目の、裏をかく。
彼の謹慎処分は、ベースからくだされたものだ。彼女はあの時、なんと言っていただろう?
デイビスは今朝の記憶について、脳の底から正確に情報を引っ張り出す。
「———ああ。そういえばベースは、ウインドライダーについては言及していなかったな」
ぽん、と。
胸の前で手を打ちながら、デイビスは思いつく。ひと時はよく耳にしたが、このところ、しばらく忘れ去っていた名前——それゆえにベースも、咄嗟にその名を口にすることができなかったのだろう。こんがらがった問題を解く鍵は、思わぬところに転がっていたのだった。
ウインドライダーとは、訓練生が実際のフライトを体験するために乗り込む、トレーニング用の小型飛行機のこと。ご存知の通りストームライダーは、機体どころか、たった一度の発進にすらも多大な費用を必要とする。そこで訓練生は、まずウインドライダーを乗りこなすことで、基本的なフライトの技術を学ぶ。多くの場合、訓練生が初めて操縦することになる飛行機が、このウインドライダーである。フライト訓練の最終日には、後部座席に試験官が乗り込み、操縦者の手腕をテストする。これがそのまま、実地のフライト訓練を修了できるかの分かれ目となるのである。
多くの訓練生が興奮とともに初乗りし、やがてストームライダーの存在を前に、静かに忘れ去られてゆくことになる小型飛行機。その立ち位置に対して、感謝と愛情とちいさな揶揄を込めて、”スモールライダー”と呼ばれるのが通例だった。余談だが、ウインドライダーの方が、完成自体はストームライダーより数年早い。実は先輩なのだ。
デザインは非常に旧式である。二人乗りの、オープンコックピット型。燃料をあまり積めないため、長期間のフライトには向いていない。当然、強風にも耐えられる造りにはなっていなかった。とはいえ、ウインドライダーには、ストームライダーにはない魅力がある。後者が破壊的な力で風を掌握して飛行するのに対し、前者は、逆に風の推進力を利用する。離陸の際の加速を経て、大気と同化したように空にぽっかりと浮かぶ瞬間は、ストームライダーでは味わえない乗り心地だ。フライト訓練を修了したあとでも、デイビスは、たびたびウインドライダーを引っ張り出しては乗り込んだ。彼が思い入れを抱くのも当然だった。空を飛ぶという彼の夢を、最初に実現させてくれたのは、ウインドライダーなのだ。離陸の緊張感、風を切る感覚。青空に飛び出していった時の、吼えるような気持ちよさ。清涼な喜びも、ストームライダーへの思いも、すべての出発点は、ウインドライダーが齎してくれたといえる。
「何か名案を思いついた?」
カメリアがにこにことして身を乗り出してきた。デイビスは、自分の考えを簡潔にまとめ、ごにょごにょと目を輝かせている彼女に伝達する。
「——それだったら、あんたを乗せてやれるよ」
「凄いわ! あなたったら、天才ね」
カメリアは飛び上がるようにして率直な賛辞を口にした。自尊心をくすぐる言葉に、デイビスも当然、悪い気はしない。鼻高々といった顔でほくそ笑んだ彼は、そのまま別の示談に入ろうとする。
「ところで——わざわざ初対面のあんたに、こうまで親切に世話を焼いてあげるわけだが——」
「そうね、お礼を差し上げなくちゃ。今、まとまったお金がこのくらいしかないのだけれど、少しでも生活の足しになるかしら?」
「げ」
するりとポケットから引き出された、折り畳まれた以外に皺のないそれに、デイビスは目を疑う。
———おいおい、これ、とっくの昔に廃止された地域通貨で、統一政府の命によって、自治体が回収したやつじゃないのか。それも使用されていたうちの最高額で、最も流通量の少ない紙幣。
状態の美しいそれは、古銭コレクターの垂涎の的だった。そこに書かれている金額の、十倍の値はつくかもしれない。
頬のにやつきが抑え切れない。ぷるぷると震える表情筋を総動員して、必死に自制する。
「……本当の、本当に、貰っていいんだな、これ?」
「ええ。高潔なぱいろっとの心を買収できると思ったら、はした金よ。ぜひ取っておいていただきたいわ」
不穏な単語が混じったようだが、デイビスは聞こえなかったことにした。あ、それに——と言いながら、彼女は自分のポケットからごそごそと、二体の筋骨隆々のフィギュアを取り出す。
「今ならクロノス神と、ラー・ホルアクティのブロンズ像もついてくるんだけれど——」
「いや、別にいらねえよそれは」
「冷たいのね。いい値段したのに」
しゅん、と落ち込むカメリア。これほどに相手の言葉にたやすく一喜一憂する、カメリアの単純さを見て、デイビスは彼女の行き先が不安になる。
「——あんた、本当に大丈夫なのか? そんなにあっさり俺のことを信用して。例えば俺が誘拐犯で、あんたのことをどっかに連れ去ったりとか……」
「大丈夫よ、だって、飛行機乗りに悪い人はいないものッ! ビバ、ファンタスティック・フライト、ってところよ」
天高く拳を突き上げたカメリアを前に、デイビスはぐるぐると回りそうな頭を必死に両手で支えた。
だめだ。こいつはアホすぎる。
素直というよりは、ただ単に、頭がカラッポなだけなんだ。
全身をどっと襲う、精神的な疲れ。そしてそれとは裏腹に——先ほどは肩まで浸かっていたはずの嫌な気分が、大分と軽くなっていることに気づく。胸をつかえていた重りは、いつのまにか綺麗さっぱり無くなっていた。
「楽しみね、ウインドライダー。こんなお願いを聞いてくれるなんて、あなたはとってもいい人よ」
にこっ、とデイビスの隣に近寄ってきて、満面の笑みを浮かべるカメリア。
人間の善意が丸出し、とでも言おうか。影も曇りもない明るい笑顔には、確かに可愛げがあると言えなくもない。
ともかく、当面の生活費確保というひとつの課題は、少なくともクリアされたのだった。溺れる者を、神は見放さない、ってところか。と言っても俺は、こいつみたいに、それほど信心深い人間じゃないんだけどな。
後は——できることをやるだけ。彼は息を吸い込み、頭の中で着々と、これからの計画の算段を立てていった。
「まあ、付き合ってやるよ。いい気分転換になりそうだし、懐も温まるし」
「いやぁね、デイビス。そんなに褒め称えても、愛くるしい笑顔以外、何も出ないのよ」
「……カメリア。あんたって、ほんっとーに人の話を聞いていないのな」