ベトナム語の品詞分類1:Lê Văn Lý(1968)
現代の言語学は西欧が発祥地のため、必然的に英語・フランス語・ドイツ語などを基礎とした学問体系として成り立っている。19世紀になると西欧の国々が東アジアにまで進出しベトナムのように植民地となる地域も出てくるが、それに伴って言語学の概念も東アジアに浸透していく。しかし東アジアの言語は西欧の言語とは明らかに特徴が異なっているため、言語学の概念の中にはうまく落とし込むことができないまま21世紀の現代まで至ってしまったものがいくつかある。
そのような「消化不良な基礎概念」の一つが品詞分類である。古典ギリシア語やラテン語における単語の分類を源流としているが、今では世界中の多くの言語に品詞分類が適用されている。西欧の言語では語形変化のパタンと品詞の区別が対応していたり、英語の"-ness"(名詞)、"-ly"(副詞)のように品詞を明示する接辞があるため「いくら品詞を調べてもスッキリしない単語」というのがほぼ存在しない。
一方、活用などで単語(word)の形が変わることがない中国語やベトナム語では品詞分類という「言語学の基礎作業」だけで何十年間も苦労を続けている。例えば、中国語学では2000年代以降に「動詞は名詞の一部である」という、かなりセンセーショナルなアイデアが沈家煊という研究者によって提案されて何年間も真剣に議論されているのだが、英語やフランス語などの西欧の言語で「動詞は実は名詞でした(テヘ)」みたいな突飛な主張が今さら出てくることは想像すらできない。名詞と動詞という基本的な品詞にも動揺があることを踏まえると、中国語の品詞分類が如何に難しい作業なのかが垣間見えてくるだろう。
(「動詞 = 名詞」に興味のある方は《汉语词类问题》をぜひ読んでみてください)
中国語と同じことはベトナム語にも当てはまる。しかもベトナム語は「研究の流派が多岐に渡る」という中国語にも無い特徴があるため問題がさらに複雑で難しい。どういうことかというと、ベトナム語の研究は現代史における激動と対応しており植民地時代のフランス・南北分裂時代の南ベトナム・統一を達成した北ベトナム・言語普遍的な観点を一貫して持っているアメリカと研究の流派が多様に存在しており、品詞分類一つを取ってみても流派間での互換性は高くない。「全体像がなんだかサッパリよく分からない」というのがベトナム語学に対する私の率直な印象である。
そんな困難の中で、私が興味を持っているのは「ベトナム人研究者がベトナム語の品詞分類に挑む際にどのような問題に悩んできたのか」であり、さらに「その悩みは中国語における品詞分類の悩みとどのような共通性や相違点があるのか」である。
ベトナム語の文献は入手することがまず難しいので手元にある文献からとにかく読みまくっているのだが、自分の備忘録のためにもこれまで読んできた研究者のアイデアを整理するシリーズ記事を不定期でこれから書いていくことにした。初回はベトナム統一までの期間に南ベトナムで活躍したLê Văn Lýである。
Lê Văn Lý (1968) 『ベトナム文法初稿』
Nguyễn Văn Hiệp (2009)によると、ベトナム語の文法研究は「フランス語文法の劣化コピー」の段階から始まる。初期の研究については別の機会で論じたいが、そのような「フランス語のコピー文法」から脱したのがPhan Khôiと Lê Văn Lýという2人の学者であるとHiệpは指摘する。
とりわけLê Văn Lýには「ベトナム語の文法を記述するために構造言語学の手法を初めて適用した研究者」(the first author to apply some methods of structural linguistics to describing the syntax of the Vietnamese language)という高い評価をHiệpは与えている。
このように現代のベトナム語研究者からも高い評価を得ている Lê Văn Lýの品詞分類について原典に沿いながら要約していこう。底本とするのは 1968年にサイゴンで出版された"Sơ -thảo ngư pháp tiếng Việt"『ベトナム文法初稿』である。
Lê Văn Lyの品詞分類は名詞・動詞・形容詞・機能語という大分類があり、それとは別に類別詞やTAM&格要素、虚詞について1章ずつ使って詳しく論じている。「どの語がどの品詞に分類されるのか」を具体的に追っていくと瑣末な話が多くなるしキリがないので、以下では彼の品詞分類を特徴づける概念"chứng tự(証字)"に焦点を当てて掘り下げてみたい。
品詞の分類基準としての "chứng tự(証字)"
ベトナム語の品詞分類に臨むに当たって、Lê Văn Lýはまず"khả năng phối hợp của các tự ngữ"「各単語の組み合わせ能力」に注目する。これはどういうことかというと、ある単語の品詞を判断する際にはその単語だけを取り出して眺めていてもダメで他のどのような単語と組み合わせて句や文を作ることができるのかを調べることが重要だと考えるのである。
このような考え方はベトナム語以外の言語でもよく提案されているので決して珍しい観点とは言えない。Lê Văn Lýが独特なのは「一部の頻出する語を基準として選び出し、それらの基準となる語と隣接可能か」を品詞の判断基準としたことである。彼はこの基準となる少数の語を"chứng tự(証字)"と呼んだ。彼自身の説明を引用しよう。
具体的な品詞の分析例を見てみよう。
名詞 = 以下のような数量を示す語に後続できる語:những, mấy, lắm, nhiều, đông, đầy, các, mọi, cả
動詞 = 代名詞に後続できる語 例) Tôi viết, mày học, nó chơi
形容詞 = 以下のような副詞に後続できる語:rất, khá, hơi, khí
ある語の品詞を決めたい際にその語だけを見るのではなく隣接可能な語を基準とするというのは、語形変化のない単音節言語であるベトナム語では確かに効果的だし、紛れもなくベトナム語学における新たな構造主義的なアプローチである。
現代の言語学では"chứng tự"と同じアプローチを使う局面も一部にはあるのだが、それ以上に「その語がどのような句を形成するのか」という句構造の観点と「その語が文においてどのような役割を果たせるのか」という文法機能の観点が品詞分類において何よりも重要である。Lê Văn Lýは句構造や文法機能を前面に押し出すところまでには至らなかったが、構造主義的なベトナム語研究を新たに開拓したという点では「構造言語学の手法を初めて適用した研究者」というNguyễn Văn Hiệpの評価に相応しい、歴史に残る文法家であることは間違いない。
参考文献
Nguyễn Văn Hiệp (2009)"The History of Approaches in Describing Vietnamese Syntax"『大阪大学世界言語研究センター論集 第1号』 p.19-34.