ベトナム語と中国語の文法を比べる
この記事は「言語学な人々 Advent Calendar 2023」の12月15日に当たる記事です。面白い記事がたくさんあるので、ぜひ見に行ってみてください。
https://adventar.org/calendars/9134
今学期は博士課程の演習授業がおもしろい。
博士後期課程(博士課程)を担当するようになってから三年経つのだが、院生の総数がそもそも少ないうえに自分の指導院生であっても同一授業を二年以上連続して履修することができないので、演習授業を開講しても履修者ゼロの年も多い。例年シラバスを作成する時も「どんな授業をしようかな」と考える前に「そもそも来年は履修者がいるのかな」と冷ややかな気持ちが先に湧いてきてしまう。
学部教育では中国語を教えてばかりの外国語教師だが、専門は言語学だし8年前にベトナム語を始めてからは噛めば噛むほど味が出るスルメみたいな魅力にハマりつつある。近年は中国語とベトナム語の文法対照の研究に熱中しており、そちらの課題で科研費も取っている。しかし、この狭い日本の中で中国語とベトナム語の両方をアカデミックレベルで理解できる人なんて片手で数えるくらいしかおらず、研究の知見を深く共有してくれる人なんて身の回りにはまず見当たらない。「中越文法対照の授業を開講したらさぞ楽しいだろうな」と考えることはあっても、両言語を理解できる学生なんて私の母校の東京外国語大学でも見つけるのはきっと難しい。
そんなこんなで中越文法対照の授業なんて遠い夢の話だと思っていたのだが、なんと今年あっさり実現してしまった。きっかけは文化人類学を専攻するベトナム人院生が私の授業に興味を持ってくれたことだ。言語人類学や日本語教育など言語系の知識も豊富なだけではなく中国語もそれなりに理解できる非常に聡明な方で、中越文法の対照について延々と議論しても楽しめるだけの知的基盤がある。しかも、私の指導院生には中国語母語者(しかも潮州語と広東語もできる!)がいるので中国語サポートも万全だ。「院生は同じ授業を二回履修できない」という規制のことを考えると、今年を逃したら二度とチャンスは来ないかもしれない。だったら乗るしかない、このビッグウェーブに。
言語類型論を越えた発見を求めて
中越文法対照を学問としてアプローチする場合、スケールを大きくして大陸部東南アジア言語類型論という視点で進めるのが一般言語学としては定石の一つだ。特に最近はNick Enfieldがこの地域の類型論テキストを二冊も書いており、そこそこ流行っている分野と言ってもいい(日本ではさっぱりだが)。
Enfieldの本は私も当然読んだのだが、なんというか、どちらの本もあんまり面白くなかった。言語類型論の視点というのは文法類型(例えばSVOとSOVの語順など)の基準に従って言語をグループ分けしていくのが基本なのだけど、正直に言って目の粗い基準なので「中国語とベトナム語はどちらもSVO言語だけど名詞(N)と形容詞(A)の順番は逆になって、中国語は形容詞+名詞(AN)、ベトナム語は名詞+形容詞(NA)だよ!」みたいな大まかな輪郭をなぞることしかできない。
中国語を二十年以上勉強した後にベトナム語の勉強を始めた私にとって、両言語の差異はもっと驚天動地なものだったはずだ。中国語による思考方法はよく理解できるのにベトナム語の文を正確に読むのは今でも四苦八苦しているのはなぜか…こんなことを考えていると表面的な文法類型では手が届かない、もっと複雑な言語世界が隠れている気がする。ということで、授業では類型論のテキストを見るのはほどほどにして「中国人が書いた中国語文献」と「ベトナム人が書いたベトナム語文献」に比重を置くことにした。
類別詞・量詞の分類から見る中越言語の違い
授業が始まってから既に2ヶ月経ったが授業のある毎週水曜日が待ち遠しくてたまらない。
今扱っているのは類別詞・量詞の問題だ。「名詞を数えるときに使う語」のことでベトナム語では類別詞、中国語では量詞と呼び分けられている。ちなみに日本語の数量詞もこれに当たる。英語の言語学用語だと"classifier"とまとめて呼ばれている。
ベトナム語の類別詞と中国語の量詞は表面的には同じような機能を持つのだが、人間および動物を数える際に不思議な非対称が起こる。
人間を表す名詞につける類別詞:ベトナム語はめちゃ豊富!
ベトナム語では人を表す名詞には非常に多様な類別詞が用意されており「尊敬するべき人」や「蔑むべき人」のようなニュアンスを加えることができる。下の画像にいくつか例を挙げたが偉い人に向けた類別詞も目下の人に向けた類別詞も選り取りみどりだ。王子(chàng hoàng tử)と王女(nàng công chúa)で類別詞を使い分けるというのも面白い。
人間を表す名詞につける類別詞:中国語は意外とシンプル
ベトナム語と比較すると、中国語で人を表す名詞に使える量詞の数はかなり限られていることに気がつく。「人の集団」に関する量詞を別にすると、せいぜい「个(個)」「位」「名」の3種類しかない。王子も王女も「位」を使って「一位皇子」「一位公主」と呼んで両者に差をつけることもない。中国語だけを学んでいると気がつかないのだが、先ほどのベトナム語の豊富な類別詞と比べるとかなりシンプルだ。
動物を表す名詞につける類別詞:中国語には複数の選択肢あり
その一方で、中国語では動物を表す名詞には複数の量詞が用意されている。下の画像では5種類を紹介しており、なんとなく体形との対応が見えてくる。面白いのはイヌとネコの違いで、イヌ(狗)が細長い動物に使われる「条」を用いるのにネコは汎用性の高い「只」が使われている。中国語の世界ではイヌってヘビや龍と同じような「細長い生き物」なんですね。
動物を表す名詞につける類別詞:ベトナム語はなんと一つ!!
さっき見たようにベトナム語は人間を表す名詞に使える類別詞があんなに豊富なのだから動物についてもさぞかし複雑なんだろな…と予想を立てたくなるが、なんと動物にはたった一つの類別詞しか使わない。しかも、この唯一の類別詞"con"は日本語の「一個」や「一つ」に当たるような汎用性が最も高いものだ。なんというか、動物を細かく分類する意図が全く見えてこない。
授業ではこのような題材を提供しながら「なぜこんな非対称的な分類の差が生じるのか」を敢えて問うようにしている。構造主義を基盤にしている現代の言語学にとって「異なる言語の間で語彙の豊富さに差が出るのはなぜか」というのは実は攻めにくい問題なのだが、ベトナム人院生の専攻は文化人類学なので言語学とは違った視点からキラッと光る洞察がどんどん出てくるのが本当に面白い。今回の問題についても「ベトナム語話者は人と動物をどのような価値観で見ているのか」を教えてくれたし、文化的な背景から「中国語の見方」と「ベトナム語の見方」の差を垣間見るような議論が展開できている。
一方、先ほどのEnfieldのような言語類型論的なアプローチではスケールが大きいこともあって、類別詞・量詞の問題は「類別詞を持つ言語かどうか」や「名詞に対して類別詞は前につくか後ろにつくのか」くらいで議論が大体終わってしまう。でも、この程度の情報では私がベトナム語学習に四苦八苦している理由が全然分からないし、中国やベトナムの歴史文化や価値観の違いが言語に差異を生み出している可能性に近づくことすらできない。
最近は言語類型論やAIのようにやたらとスケールを大きくした研究が流行り出していて、みんなが「それに乗り遅れたら大変だ」と焦っているように見えるのだけど、私としては自分自身が不思議だと思う問題を自力で見つけてとことん考えていきたいし、言語学の方法論に自分の考え方を縛られたくないとも感じている。
既にお分かりだと思うが、今回の授業で一番学びを得ているのは間違いなく私だ。この授業を成立させてくれた院生たちにはすごく感謝している。