「チーム友達」の季節に廣野翔一『weathercocks』を想うということ
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このノートを書いたら観てるとおもう動画
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4月27日(土)は文京区の全労連会館で『悪友』『koro』(共に、榊原紘)と『weathercocks』(廣野翔一)の歌集批評会で、自分は『weathercocks』の部から見にいきました。
当初は『悪友』『koro』の部から見る予定だったのですが、当日の朝3時まで宿題が終わらなかった。事務局の方々にはお手数をかけてしまった。こんなことではだめだ。本当に申し訳ありませんでした。
登壇者の話を聞きたかったのは勿論、『悪友』『koro』のトークセッションに出ていた新上達也さんは『ねむらない樹』という短歌のムック本の1号の100首選・アンソロジー企画で
の短歌を引かしてもらったことがあり、どのような方なのかを見たかったのに、その機会を自分はワヤにしてしまったのだ。落ち込む一方で、この「どういう人なのかが見たい」という態度は、榊原紘と廣野翔一、両名で言うと廣野さんの歌集を読む際に熱源となる態度に近いのかなと思う。
『weathercocks』の読書中に思うほどは、『悪友』や『koro』では「この作者と中学のとき同じクラスだったら、どんな風に接してたかな」みたいなことを思わない。
いや。
正しい言い方じゃぜんぜんこれは無くて、そんなことを思うとなんか、なんていうの、「空中にいる誰か」から怒られそうだから思わないようにしている、というのに実情は近い。そのかわり「この作者は人生で何を喜び、何を憎むんだろうか」みたいな、もっと骨芯(こっしん)付近にあるようなテーゼが考え事の中心になるし、でもこれだって人間中心主義的な考え方から自由ではないね、と思う。
たとえば、ランダムに開いた『koro』の134頁にはこの歌があるんだけど、こういう場面がかつてこの世に存在したこと……が無くたって自分は読解のための集中力を下げるべきではないと思うし、「登場人物のそれとは裏腹に、作者はこういうことが内心に浮かびすらしたことがな」くても、「なんだよそれ!」「ズルじゃん」とはならない。
むしろ「自分では思わないことや未体験なことを書けるのはすごい」的に緊張すると思う。
『悪友』と『koro』、そして短歌入門書『推し短歌入門』をごりごりに楽しみ読んでる人は、榊原さんの書くもののこの自由さ、そして、そのために要る抑制と作歌信条に惹かれてるのかなという認識でいて、それで言うと僕はまだ榊原紘という歌人に〈ここにひとつの「領域」があるんだな〉くらいのところで行き止まっている。
「領域」。
まだ「作者」として目視・鑑賞・没頭・やがて相対化・するところまで持って行けてないというか。眼科で覗く機械のなかに浮いてる気球で言えば、気球の色だけがドットで見えてる段階っていうか。
同じくこの『ねむらない樹』のなかの座談会で自分は
「いろんな短歌を全部楽しめるようになりたい」という発言をしているんだけど、言うほどこれはもちろん〈菓子を食う〉ようには楽しいだけでは行えないんだなと思っている。
2024年は、僕にとっては7年目で、なんのかと言うと斉藤斎藤さんとうしおさんのツイッター上でのやりとりで
「写生以外の神学が練り上がる」という言葉を見かけてからの7年目で、頭のなかの斉藤さんに「そろそろ、練り上がってきてないですか」 「どう思いますか」的にぶつけてみる歌集として『koro』や『Lilith』(川野芽生)が思い浮かぶ。『Lilith』×斉藤斎藤、についてはちょっと前の「短歌研究」内の連載・連作でひとつ動きがありましたね。こういうものが読めるから短歌やってると嬉しい。
『Koro』で僕が好きなのは
で、「その歌人の最初の一首にも、最後の一首にも見える」というかの言挙げっぽい歌が自分の趣味だというのもあるけど、(例: 雪が降るといえば冗談になる土地でわたしは冗談が好きだった/濱田友郎『そこにいるための技法』)、 でもたぶんこの歌が自分にきっちりと気球を見せてくるのは「そうするように・たくしあげつつ」という写生、それを動かすリアリズムのおかげなんだと思う。
べつに別じゃなく、「技」とリアリズムは手を取り合ってることもあるだろとも、書きつつ思う。
リアリズムは、汚い言い方をすれば「おならのときに床から上げるおしり」のことだと思う。
僕には、朝起きて3秒後に読めるのが廣野翔一であり、リアリズムが駆動させている読みものである。この本をじゅうぶんに目視するには、自分の今の生活から変えないといけないのじゃないか、くらいに思う歌集として『悪友』『koro』や『Lilith』はある。『ずぶ濡れのクリスマスツリーを』(瀬戸夏子)をどうして自分は買いそびれているのか。こういう言い方は、結局生活を変えない人間の時間稼ぎとしての発言になりがちだけど、生活、変えます、変えてます。変えていきたいです、と「空中」に向かって言う。
「はい」は一回でいい、という声がする。
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この歌も好きです。
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この動画はまだ観れない。
なに喋ってんだろうなー
『チーム友達』というのは、活動を休止していたラッパーのKOHHが名義を「千葉雄喜」に変えてとつぜんyoutubeにあげた楽曲のことで、このままだと今年はチーム友達の年になるのかなぁと思う。そういう曲です。
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「男ばっかりが映りすぎてる」がまだマシなほうのバージョン
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ちょっと日記を書くと、『現代短歌』の2024年5月号を読んでから、批評会の日をあわせてで自分は短歌の人に3度会う機会があったんだけど、そのすべての場で同号の乾遥香さんが言っていた
「協力しないと名歌は生まれないけど、みんな協力しないので、もう無理だと思う。」(『名歌や秀歌はもう生まれない』 「現代短歌」2024.5月号)
についての話題があがっていた。
それぞれが、この言葉(&、言葉が前提とする我々の目の前の風景)についての考えを育ててる段階なのかな、と素朴に今を信じてみる一方で、自分には、短歌における「チーム友達」みたいな歌は増えているような体感がある。
これはちょっと言い方がむずかしいし恐ろしいけどーーーー頭を一瞬あほにして楽しむ、のような領域にある短歌は、タイムラインには尽きたことがないのじゃないか。
今だと
が浮かぶし、ちょっと前だと(ということはたぶん実質「けっこう前」だと)
なんかは〈タイムラインのみんな〉で有名にしていった歌に感じる。
技や普遍性や美学というよりは、一瞬 頭をあほにできる広場を「チーム友達」的に提供することで残る歌。
あほ、とはちょっと違うかもだけど、なんというか、休日の脳みそで読める
のような歌は「名歌」な気がするし、この歌の「ビール」や「犬」といった、〈この世にファンがそもそも多いもの〉魅力の増幅装置みたく短歌を使える岡本さんや岡野大嗣は引き続きシーンにおける強者でありつづけるのだろうなと感じている。今思い浮かべたこの二人を頭の中で消さないよう……にしながらそれなら青松輝はどう思おう、みたいにも思うと楽しい。奥歯がぎりぎり言っている。
これは廣野さんの批評会についてのnoteなので、雑(ざつ)く接続すると、関西弁を用いた短歌や、歌集中に挟まれている写真についての話題が壇上でおこる際に生じた、ふっと息がつけるようなテンションや、その逆に、司会の平出さんが「廣野さんを全く知らない状態でこの歌集を読んだらどう思うのかは気になった」と発言した際にあぁ、チーム友達、と思ったわけですね。
廣野さんと「チーム友達」でなかった世界で読む『weathercocks』はどういう味がしたのか、と想像する時間は自分には娯楽だ。たとえば僕は、阿波野巧也さんや平岡直子さんの「?」づかいの歌を忘れないんだけど、
それは、「?」手前まで空中にあるテキストや内容、として読んでいた/読もうと努めていた一首が、最後の「?」で阿波野さんや平岡さんの声に切り替わって聞こえるのを「もう一つ多い味」のように楽しんでいるからだ。それまでは文字だが、「?」で声化(こえか)、音化(おとか)する。
でもそういう喜びかたには危なさもある。だってそこのところって結局「内輪」の味だから。「うわ、あんたら、めっちゃ内輪じゃん」と外から言われるのは怖い。だから、テキスト部分も〈一つめの味〉としてちゃんとおもしろい必要があって、そこを確認する時間が、そうはいっても『weathercocks』批評会にあった緊張感のみなもとだったんじゃないかという感想でいる。実作者どうしがこんなに知り合いすぎる業界には、それなりに悪魔払いの時間が要るのだ。会場発言もされていた文月悠光さんには、どのように見えていた批評会だったのだろう。
付箋を貼った歌。
付箋を貼ってないけどものすごく廣野翔一な歌
かっこいいけど他の歌人(岡井隆・吉川宏志・小原奈実・小池光)もちらつく歌
主に連作「花を吐く」「泥と式場」に心を寄せていくようなレジュメと発表が田中槐さんは印象的だった。あとは時間/瞬間の捉え方。「蚊が脚で知能線を蹴った一瞬」で終わるのでなく、そのあとの蚊の時間を書くという指摘。
あと、この歌の
【私の上】によって立ち上げられる景を、「外に二時間いるというわけではなく、部屋での通話なんだけど、こうしている今も自分の頭上の空では春が過ぎているのだ」という感慨に結ぶ読みに、「こんなに怒られてるのに、頭の上では桜がきれいなのかよ」というギャップで楽しもうとするような読みをしがちな自分には、具体描写と抽象表現、の〈おもしろくなりすぎないところ〉を探りにいきながら、この一首から引き出せるぶんだけの詩情を取りにいく手つきに、俗な言い方だけど「プロっぽいな」と感じた。歌を読んで見つけて読み終えて、の動きが、おれのものくらいバタバタしてない。
「花を吐く」での傷心に寄せる同情心を含んだ評は、ふだん自分の参加するフリーの歌会における修辞の効きや素材のチョイスを言っていくノリともまた違う、オルタナティブなものに感じた。槐さんはあと、声がやっぱりいいですね。発言が場内に通る通る通る。
4人の中では、堂園さんの壇上へのいかたが、この批評会における真ん中、という感じがした。こっちもいい声だ。寺井龍哉さんと堂園さんと穂村さんの声は、欲しい気分が季節によって順繰りで変わる。機会詠・社会詠・SF詠・仕事詠・家族詠・挽歌・吟行詠、挨拶歌、こんなにほとんどのジャンルが網羅されている歌集もめずらしい、という指摘には、現代短歌社賞における北山あさひさんへの瀬戸夏子さんの評を思い出す。
あと、「短歌のなかですべることができる文体」という特長の指摘もおもしろかった。お笑いとかでも、絶対にウケをとってくる芸人と同じくらいの肌感で、すべっても悲壮感の出ない同業者、は尊敬される空気があると思う。
上本彩加さんは、今回初めて拝見したかただった。
レジュメに引用している短歌の下の数字を、ページ数でなく「この歌集での何首目」と数えた数字を置いてしまった、という出だしで会場を一気につかんでいた。おもしろいことを言ってる人の強さと、おもしろいことになっている人の強さ、みたいなことはこういう時に強く思う。
語り口も明朗で、おもしろい人なのだろうなという感想をプレーンに持った。これでうまく言えてるかは不安なんだけど、この世に短歌界隈、なんて無いかのように「短歌」をざっくりと語るスタイルに宿る強さがあり、これは「サイタマノラッパー」でいうみひろのポジションである。ちょっと田口綾子さんを思いだしたりもした。パネリストのスタイル。廣野さんを「チーム友達」としてでなく、「友達」として語るスタイルっていうか、これによって廣野さんのナルシスティックな歌の読みに出ていた鮮度があったと思う。
最後に発言するパネリストって、言うこと掘りつくされてる大変さがありますよね。今回は司会も兼(けん)だったし・・・・・平出奔さんの「主体に社会性があると思う」という発言の「社会性」は、でもたしかここで初めて現れた言葉だったと思う。
そんな思い出。
廣野さんをどう言うか、は、自分でやってみると難しい。
知り合った時期の自分の職場がそうだったからってだけかもだけど自分は、廣野さんの短歌を読むと「日野自動車工場の社員食堂の、ルーが黒すぎるカレー」を食べたくなる。これはあるいは『weathercocks』内の「作業員」や「泥」という語句が呼んでくる食欲&粘り気のせいかもしれない。
廣野翔一の短歌は社員食堂のようだ、とだんだん思っていくことができる。これはほんとうに怖い言い方。
でも思っていくことができる。社員食堂。社員食堂の味。
今日もまた社員食堂か、と自分で思うことはあるくせに、「お前のとこの社員食堂マズいよな」ともし言われたら「うちの廣野翔一の何を知ってるんだよ」となってくる。この、いつのまにか「うちの」をつけさせているようなところが、廣野翔一の短歌の強さなんだと思う。
こちらの暮らしに入り込むことに成功した文体とでもいうか。これにより自ずと、『weathercocks』でナンバーワンの歌は?みたいに決めるのが難しくなってくる。「寒気団」かな? でも巻頭歌をナンバーワンに言う、ってどうも「社の公式声明」っぽくない? 「蛇口」の歌も好きだ。でも小原奈実っぽさもある。どのメニューが一番好きかはもう、そこの会社を辞めて数年後、どのメニューが最初に懐かしくなるかでやってみるしかない。でも辞めたら、そもそも社員食堂には入れない。そういう味の連打という感じがする。
壇上で挙がらなかった歌でいうと、
が自分は好きです。
自分よりたくましそうな後輩の人、自分のできるようなことは全部できそうな人っぽさとしての成海璃子を、この言い方で言えている気がする。この歌の同級生的な作品としては
が思い出されるし、その佐原さんには
的に、
廣野翔一・藪内亮輔のY字路をこういうふうに進みましたか、なんて思うと一人の夜に盛り上がる。ここへ郡司さんの「広瀬すず」の歌を立たせてみてもいいし、(地下鉄のドアに貼られた広告の小さな広瀬すずを撫でまくる/郡司和斗『遠い感』)、その郡司さんのあずにゃんのフィギュアを買いに行くときの心まみれの心のことを や みっくみくにされてしまった人たちが(みっくみく?)蟹を黙って食べる の「あずにゃん」や『初音ミク』には一つの「移行」のような態度を見れるかもしれない。同時代の有名な顔を言う、ことが後に残していくものは、いま挙げたすべての歌の初読時に予想したものよりも存外に多かった。
この歌の「カントリーマアム」と
この「ハッピーターン」の哀しさを兄弟のようだと思う。人は、結局なんにもくれなかった人よりも、「あのときハッピーターンをくれた人」に哀しみを持つことが、ほんとにめちゃくちゃな話だけどあると思う。廣野さんの「カントリーマアム」はこの「ハッピーターン」へと育っていく萌芽をそのうちに湛えていて、読んでてジクジクとうずく傷が僕にもある。
こっちも急いでなるべく早く、「ロッテのチョコパイ」で哀しくなる短歌を存在させないといけないと焦る気持ちがあり、そうこうしてるうちに中澤系『uta 0001.txt』解説における「ポケットティッシュはもらえない」的日常(斉藤斎藤)がこの国には訪れると思うとやりきれない。定型を考えてたら、すごい速さで経済に割り込まれる。もう何年もそんなふうだ。
「哀しさ」で他に言えることに、途中に挟まれてる写真のページの件がある。
答え合わせはひとまず、当日会場にいた人だけが持ち帰れたお土産に留めておくとして、僕はこれ、万に一つだけど、AIの画像生成ソフトに「斜陽 国家」みたいなお題を与えて作らせたものの可能性もあるなと思っていた。
なんかそういう、これは、廣野翔一があるときかかえた哀しさ、が次の瞬間には、より大きなものがまるごとくるんで持っていくような気持ちにさせられるページで、『weathercocks』に収められた短歌にはいくつもそういう〈今もどこかにいる、たくさんの廣野翔一たち〉を慰撫し、に回収される、歌が多いと思う。
この二重の哀しさを廣野さんの短歌は負っている気がする。ほんとうになにかを思って撮った写真なのに、おれなんかにAI生成なんて思われてしまうのだ。『悪友』や『koro』は、なににその歌を持っていかせないよう、こういうプロテクトをかけているのか。それが僕のこの日一日 朝から労連会館に居ればよかった、と悔やむ理由でもある。
この2首が見開きページの右端と左端に置かれることでの明(めい)と暗(あん)くっきり分かれ表現にも打たれる。
こういう歌を喜ぶ一方で、しかし推していく、ことにはなんでか気が引けるのは、「激しく廣野さん的である」歌を推していくことって、「このまま一生 ぼくの喜べるような廣野さんでいてね」というメッセージへと容易に化けるんじゃないか、というおそれが自分のなかにあるからだ。
でもそれはよく考えてみるとおかしく、
平山夢明っぽさを楽しむことも平山夢明を読む理由の一つなのだし、私たちは「ジブリにしては食事シーンがおいしそうじゃなかった」みたいな感想を平気で言ったりする。
短歌に関しては、小説や娯楽映画とは違う喜びかた、が気をつけかた、として要るような気がしてるんだけど、でもこれが、善きものに繋がっていく考えかたなのかが全くわからない。感覚で喋ってきたどん詰まりという気もする。歌集を歌集として読みつつ、たとえば・たぶん・5年前より染野太朗さんっぽさを増してる染野さんに「……。」と怖ぇ静かになりかたをする心の部分は確かにある。
こんな「もし」の立て方は態度としてチャラいですけど、もし、廣野さんがある日肩くらいまで髪を伸ばして、インナーカラーは緑色で現れたような歌を発表したときに、一瞬でも「廣野さんなのに?」と思う自分がいると思う。
でも廣野さん「なのに」なんて、無いのだ、というところの自分まで持っていきたいし、でもこの「自分」が『weathercocks』を喜んで今日 批評会に来たんだし。
なんで写真のページがあるのか?という疑問は「廣野さんなのに?」が浮かばせてる疑問なのかもしれない。『weathercocks』という英語のタイトルなのは? は、「廣野さんなのに?」が思わせているものだと、自分の「?」に対しては思うこと。(漢字で2文字の題名にすると思ってた)。そういう意味では、黒瀬さんの会場発言の「そんなにいい人じゃなくてもいいんじゃないか」がこの歌集の次のこと、なのかもしれない。短歌のなかで廣野さんがインナーカラーを緑にしたときに、そのことに驚かなくなりたい。でもそのことに驚くこと、が、鑑賞の初手に要る手順でもあるし……
考えは二周目に入る。
懇親会にはちょっとして服部さんが来てくれて、もりあがる。「服部さんといえば」の一つにある斉藤斎藤「〈なかよし〉について」が現れることになったきっかけとしての服部真里子、(の『行け広野へと』あとがきか、歌壇賞のときの「受賞者挨拶」の文章だったか)を思う。 嘘。これは帰ってきてから思った。ほんとは帰ってきてからも思わなかった。YouTubeを開いたら冒頭のこれ
が「あなたへのおすすめ」にあって、なんかがパチン、って鳴ってこのnoteになった。
チーム友達。
チームなかよし。行け廣野(ひろの)へと。はははははは。(2015年、『行け広野へと』批評会 会場発言)ははははは。友達もなかよしもいいこと。ほんとうにいいこと。ほしいもの。ひらがなで書いてるけどこれはほんとうに思うこと。でも次の瞬間には逆のことを「空中」に対し「思って見せる」こと。廣野さん、 『weathercocks』を存在させたことをおつかれさまです。そしてありがとうございます。服部はん、 フリック誤字ったけど直さない、服部はん、また短歌読ましてくれると嬉しいです。
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これ できなかった!
不意をつかれた