穂村弘 × 夏の海 ×「僕にだけ見えている時間の帯」という配合
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この「ヴィヴィッド」のせいで、しばらくヴィヴィッドと思いながら暮らしました。 じきにだんだん考え事は穂村さんの過去作『熱い犬』への一本道になっていき、それはこの連作が夏の短歌群だからで、今が夏だからですね。
今の穂村さんにもヴィヴィッドなときがある。それは例えば、夏の海×「僕にだけ見えている時間の帯」という配合のときの穂村さんだ。
そんなときの穂村さんがもう、ヴィヴィッド!
ヴィヴィッド!
ヴィヴィッド!
ヴィヴィッド炸裂しまくり。
『熱い犬』(「短歌」2016年11月号)が自分は、斉藤斎藤の『なれますともさ』くらい好きですね。
ヴィヴィッドなのに「濡れている」からです。
2017年ごろ、すげぇ局所的にですが、貴方は穂村さんの近作だと『ふりかけの町』派ですか『熱い犬』派ですか、という雑談の場面がところどころであり、自分は常に『熱い犬』派でした。
というかは、自分は『熱い犬』について話したいのに、世界は『ふりかけの町』の話ばっかりだったので、「渋谷の駅前もいいけど、そろそろ海も見たいだろ」的にわめいてしまう形になったわけですね。一人で。
うん。
こっちの連作もいいですね。おそろしいイメージの連打だ。
こういう歌が「戦死」「軍隊」「国」のような重金属ワードの頻出する連作内において登場することであげてる効果は絶大で、
【炎天下】が思い起こさせる「8月」、【だあれもいない】ほど総動員されたみんなたちを幻視させた後、そのBGMではあのシンガーの歌が鳴ってることでの、ちょっとひっくり返しようがない絶望感にプラスして【だあれも】みたいな呑気さの口調、【行ったのか】みたいな事態への関われなさの口調、それらが隙なく、しかし隙のあるトーンで一首に格納されている。
穂村さんには
という有名な歌がかつてにあって、この歌が記憶に根強い人ほど連作『ふりかけの町』に対してはバッカゲン的に何かを言いたさが再想起後(さいそうきご)、あのときに言い足りてなかったこもごもが再刺激(さいしげき)されるみたいなことが起こるのかもしれない。
電車のなかでも~ の歌はでも、なんだろう、なんか自分的にはグッとこない。
言われてることの意味で背筋を冷やすことはできるけど、なんとなく「お題が変わろうとしているので、慌ててフリップに書いて出した大喜利回答」っぽさがないですか?
『熱い犬』はそうじゃないのかよ、と言われると要検証だけど、でも、っていうか、【電車のなかでも~】の歌においての一筆書きっぽさに感じたササっと調(ちょう)は、『熱い犬』においては同じ手つきでもってそのままラフ・スケッチの涼しさとして効いてると思うんですね。ラフ・スケッチによる、
歌のなかに映ってるものの少なさっていうかですね。
『ふりかけの町』の基本背景が渋谷、に対してこっちの連作は「海」とその道中(灯台が傍に見えるような下り坂)、紗がかかった画素での記憶(「記憶」がそもそも、そういう画素のものなのかな)を背景画像に持つ感じ。
沖縄の人間が、「渋谷」の連作・「夏の海」の連作で言うと「夏の海」のほうにぐっときているっていう、なんか実に穏当、なことが起きてるだけかもしれないなこれ。
【からっととへくとぱすかる】とか、本当にいい。
こんなことをしてくるのかよ。
『熱い犬』は2016年の穂村さんの新作31首。
この連作の形で読むには現時点、この「短歌」を買うしかない。
何年かぶりに読むと、『熱い犬』は夏の海の連作である一方で、〈残り時間〉についてを見つめた一連であるとも思います。
この【減ってゆく】に直接的だし、おそらく軍事演習中の【褌で立ち泳ぎ】の祖父を幻視した
の手前にあるのは
の歌です。【岡井さん】で【祖父】を連想しましたよね、ってなラフな流れかたで生じる、読感の涼しさ。
で、この【岡井さん】はその後の
こちらに繋がって、連作内で時間が「経つ」。
かつて一緒に歌会をしたときの思い出の歌をこんなにラフに、【からっととへくとぱすかる】みたいな歌がある連作へ、さらっと、置く。記憶の歌、の置かれ方がまた、小憎い。
なのに連作のなかにおいては「これらが思い出されている」ように書かれているため、紗がかかった画素の記憶が、連作内でずるずる動けば動くほど、それらを思い出してる作者の〈その場を動かずにこれらを思い出してる感〉が強く読み手に浮かべられる……とでもいうかですね。
で〈その場を動かない〉感は、「何か」を待っているような体勢を、読者の思い浮かべる作者像に付与させてしまう。
何か、って「終わり」ですね。これはかなりたぶん。
終わりが来るのを、白く立つ波や、日差しやセミの鳴き声のなか待っている作者像が、紗のかかった風景のなか浮かぶ。
他にこの連作で詠まれている歌人・及び短歌ワードの歌には
等があり、
……なんでしょうね、
短歌をしててあったこと、がこう思い出されてるときの「短歌の総括」っぽさも、総括って一旦の終わりだからやっぱり強く「残り時間」の「終わり」を強く意識させられる。
また【未来】です。【祖父の未来】としての僕、【僕の未来】にいる【君】、君が現在、ふつう~に食べている【ふわふわのかき氷】、「ふるいことばでいえばたましい」……
……時間が、時間が、どんどん経っていく……しかし「渋谷」的な早さではなくの「海」の、熱線と、何もなさの早さで、ぼんやりと「終わり」に向かっていく紗がかかったすべて……こりゃあたまらんぜ……
この【電車】も、
の【電車】と結果的に響き合ってて、そこが【がらがら】な車内であることでの響き合い方が意味する、【未来】がまったく補充されて行ってない感じが、予兆としての「終わり」に、暗い笑い声をこっちにあげさせてくれる……
残り時間×(歌人・個人としての)記憶×「からっととへくとぱすかる」的なヴィヴィッド修辞×ほのかな「戦争」っぽさ×………
それらに「×夏の海」がされることで、映画『渚にて』的世界に背景画像が生成されるから、世界崩壊後の甘美さをこんなに持ち得てるのかもしれないですね。
崩壊の予兆、を書いた『ふりかけの町』に対して、もう「終わってる」っぽさの海辺で待たれる、「『終わり』の終わり」。
そんななか、「連作カメラ」とでも言うかが、謎に執拗に撮りつづけている【ホットドッグ】が、最後、最後の31首目(ここには引きません)で、連作内における時間に「記憶」や「未来」や「おしまい」ではないヴィヴィッドな「今・ここ」の時間を発生させます。
させてます。
これはもうほんとに……角川「短歌」2016年11月号で連作を読んで自分で最後、僕がしびれつづけてる「この感じ」をつかんでほしいですね。もしかしたらめっちゃ有名な一首に、どこかではなってるかもしれないですけど。
でも正直、一首だけ引いてもしょうがない感じのする歌で、でもこれが決して出来を悪く言ってのこの言い方なんじゃない、ってのが伝わるといいです。
瞬間を永遠とするこころざし(©️岡井隆)が達成されてる歌が、引用、という「瞬間」においては「永遠」になってくれないっていうのはすごく歯がゆい。
でも最後の一首で起きてることは、僕にはそれなんですよね。
『熱い犬』、ぜひ!
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