ゼルダの伝説 Tears of the Kingdomが取り戻した「アタリマエ」だった3Dゼルダの魅力
ゼルダの伝説 Tears of the Kingdomを、100時間かけてクリアした。その時の感動は忘れがたく、プレイヤーとしての満足感とともに、一人のゲームクリエイターとして、「こんなものを見せられて、俺はこの後いったい何を作ればいいんだ?」と、打ちのめされる感覚すら覚えた初めての体験だった。
まずこの記事ではネタバレはしない。ネタバレが含まれる批評については、別記事に分けたうえでそのリンクを貼るので、未クリアの方も安心して読み進めてほしい。
ただそうなると、絶賛部分がほとんどネタバレ含む別記事に取られ、道中の体験を記す本稿においては「自分はこうじゃない方が良かった」という、いわゆるnot for meな点にも言及せざるをえない。道中で色々なモヤモヤが頭をかすめながらも、なんだかんだ発売1ヶ月で100時間も没頭し、最終的には過去の全ての作品を超える感動を味わうことができた。これらは独立した事象であり、そのどちらの可能性も持っているのがこの作品だ。
なぜ一つの作品に対してこのように屈折した感想を持つに至ったのか。
それを説明するには、私がゼルダの伝説 Tears of the Kingdom(以下TotK)に何を期待していたのかを言語化する必要があり、それには前作Breath of the Wild(以下BotW)で見直された「ゼルダのアタリマエ」、すなわち、それまでの「3Dゼルダ」が持っていた要素の魅力を見つめ直す必要がある。
3Dゼルダファンから見た前作「ブレスオブザワイルド」への気持ち
結論から述べよう。私はBotW以前の「3Dゼルダ」が大好きだったプレイヤーだ。時のオカリナに始まり、ムジュラの仮面(これだけ未クリア)、風のタクト、トワイライトプリンセス、スカイウォードソード、これらは私のゲームデザイン理論や、私のゲーム音楽に対する考え方に非常に大きな影響を与えている。
ただ、3Dゼルダシリーズはゲーム開発者をはじめニッチな層は確実に取り込んでいたものの、マリオシリーズなどと比べると一般層に浸透していたとは言えない。そうした状況を打破しようとした結果か、今や国民的ゲームと言って過言ではない名作「ブレスオブザワイルド」が生まれた。
私はかねてよりゼルダシリーズの音楽演出が大好きでそれを研究してきたが、BotWの音楽演出の分析記事を世に出すと、これまでにない大きな反響を得ることができた。インタラクティブミュージックという言葉や概念もこの作品を境に日本のユーザーの間でも大きく知れ渡ったように思われる。
もうこの記事を書いてから5年も過ぎたところだが、ここに来て白状しなければならないのは、私のBotWに対する思い入れは、他のゼルダシリーズ作品と比べたら低かった、ということだ。BotWからゼルダにハマった人は、こう言われるとショックかもしれない。しかし、それ以前からの3Dゼルダファンには、ある程度理解されうる感情ではないかと思う。それもそのはず、BotWはそれまでの「ゼルダのアタリマエ」を、いうなれば、私のような旧来のゼルダファンが愛していたはずのアタリマエすらも、見直して変化させてしまったタイトルだからだ。
ここではまず私の専門領域でもある音楽を比べてみよう。当時、私が絶賛したBotWの音楽分析において、このフィールド曲が固定のループではなく、「動的に生成」されている様子を解説した。
これはもちろん、技術的に高度で素晴らしいだけではなく、この世界、この空気感にぴったり合っているという意味で、正しい選択だったと思える。
しかし、旧来の3Dゼルダファンが「期待していた音楽&世界」というのは、例えばトワイライトプリンセスのように、常にプレイヤーの気持ちを鼓舞してくれて、簡単なアクションでも何かすごくカッコいい事をやっているように感じさせてくれる、勇壮なBGMではないだろうか(しかも、この音楽性を保った上で戦闘・探索や昼夜によって動的に変化しているのだ)。
残念ながら、トワプリの音楽だけをBotWの世界に持ち込んで作品が良くなるかというとそうではない。これは作品全体のディレクションの変化なのだ。
BotWではゼルダのアタリマエを見直した結果、その世界は主人公リンクがカッコよく気持ちよくなるための装置ではなく、ハイラルという世界こそがプレイヤーを驚かせ好奇心を生み出す主体となった。
以前であればプレイヤーは「解かれるために用意されたパズル」と「倒されるために用意された敵」を美しく解き、倒していくだけで良かった。BotWでは周囲を観察し、無数に用意されたインタラクションの中からその時に合った賢い方法を見つけ出すといった、新しい体験が提案された。音楽もリンク自身の勇気を表すものではなく、ハイラルの美しさを静かに伝えるものにすることが作品のためだ。
(私がこの文章で、絶妙に両者の違いを否定しないように対比しつつ、心の奥底で「でも私はカッコいいリンクが見たい」という気持ちを抑えられてない感じがにじみ出ているように受け止められたら幸いだ)
つまり、そうだ。
私はカッコいいリンクが見たくてゼルダをやっている
もう我慢ならないのでこれだけは言わせてもらう。BotW/TotKのリンクに対して、3Dゼルダファンとして、一つだけ重大な指摘をしなければならない。
それは、剣の振り方だ。
「……往復ビンタか?(絶望)」
BotWでリンクの剣技を見た際こう思ってしまった。これまでの3Dゼルダをやってきた自分からすると、この落胆は計り知れないものだった。
何?これまでのゼルダの剣の振り方を知らない?では教えて進ぜよう。
※百も承知のゼルダ制作者にではなく、ご存知でない方のために。
リンクの剣技というのは、
剣は構えているだけで時折クルっと回して歴戦の勇者感を出す。
コンボは上下左右と突きを組み合わせて外連味を出す。
ダウンした敵には突き刺しのフィニッシュムーブで美しく止めを刺す。
全ての敵を倒したら、マスターソードをヒュンヒュン回しながら鞘に戻す。
ここまでカッコよさに振り切ってくれたのは歴代ゼルダシリーズを振り返ってもトワプリくらいだが、いずれしてもリンクの剣技は繰り返し感がなく飽きさせない作りになっていた。しかしBotWは、剣技という点では非常にシンプルなものに立ち返ってしまった(その代わりに槍や大剣など扱えるものが増えた)。
そんなわけで、ゼルダの新作が「BotWの続編」と発表された段階から、私の期待は低空飛行を続けていた。もちろん、それが「ゼルダ」のメインシリーズである限り買わないという選択肢は私には無かったが、BotWが自由度を高める方向で変化を遂げていて、世界もそれを求めていて、それに応える新作となると、やはり自分の欲しいものとは少しズレてくるんだろう、という気持ちで期待しすぎないように待っていた。
TotKのファイナルトレイラーに触れられた3Dゼルダファンの琴線
TotKの詳細が始めて明らかになったのは、青沼さんが遊びながら「ウルトラハンド」を解説されたこちらの動画が出た時だろう。
想像の斜め上を全速力で飛び抜ける仰天の仕様だった。面白いかどうかこの時点ではわからなかったが、プログラマが大変ということだけはわかった。
内心、この時点でも不安は拭えなかった。潮目を変えたのは、ファイナルトレイラーだ。
なんだこの、音楽は。
このスペクタクルは。
二胡やサクソフォンを大胆に取り入れながらまとまっているオーケストラ。その力強いメロディとともに「縦に」飛び上がるゾナウギアの数々により、前作BotWの映像が「横に」広がる世界だったのに対して、文字通り次元を上げてきたという事が伝わってきた。
だが、厄介な3Dゼルダファンである私はこの時点でも疑い半分で見ていた。任天堂、さすがトレイラーを作るのも上手いなぁ。まだ騙されないぞ、くらいのつもりでいた。
そうした私の不安を、結果的に、TotKは吹き飛ばしてくれた。
さて、なぜ私の不安が吹き飛んだのかを語るにはどうしてもネタバレを避けられないので、別記事を用意した。ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダムをクリアした人はこちらから、私がなぜ本作を傑作と呼ぶに至ったのかを確かめてほしい。
【ネタバレ全開】の記事はこちらのリンクから
さて、絶賛部分はクリアした人だけにお楽しみ頂くとして、本稿では引き続き「アタリマエ」だったゼルダの魅力のうちTotKが失ったもの、取り戻したもの、それぞれに焦点を当てる。
そして最後に、TotKにおける私の心の葛藤から、ひいてはゲーム作品を巡る言論空間においてゲームを批評するということが突き当たっている「カテゴリーの選択可能性問題」に目を向けていく。
「not for me」なのか「not for us」なのか
ゼルダTotKの具体的な批評に入る前に、一つ問いを立てておきたい。
いつからか、ゲームを批判する時はあれこれ具体的な指摘をするのではなく「not for me」と表現するのが好ましい、とされる風潮が出てきた。
これ自体はゲーム業界でもある種のマナーとして浸透していることからも、いくつかの利点がある。よほどの失敗でない限り、ゲームの仕様、デザインは、誰かを楽しませるためにそうなっている。その「誰か」に当てはまらなかっただけで、別に悪いってわけじゃない、これは「私に向けたものではなかった(not for me)」と表現することで、その「誰か」を傷つけることなく、穏便に言及することができる。
その仕様を私向けに修正したところで、一方でまた他の誰かが「私向けじゃなくなった」と悲しむ。そうしたトレードオフは非常に多い。たとえ誰にとってもそうしたほうが良いという指摘であっても(例えばフレームレートだったりバグだったり)、多くは制作コストやエンバグのリスクに直結することになり、それを血眼で解決することが「商売として」良いかどうかは最終的にディレクターやプロデューサーレベルでしか判断できない。
ゆえにそうした野暮な指摘はやめて、悪い部分はnot for me、良い部分を称賛する、というスタンスが好まれるのは仕方がない。文句があるなら「お前が作ってみろ」というわけだ。ゲーム開発者はその大変さをよく理解しているからこそ、これがマナーとして通用する。
だが、この言葉はまやかしの一種である。なぜなら、その言葉を使うのが本当に自分一人であればnot for meという言葉どおり、他の人は気にかける必要はないのだが、結局のところ、ある作品について少なくない人が同じような欠点を感じている場合、その作品は、そのカテゴリーの人達をうまく楽しませることができていない。つまりnot for usまたはnot for themといった表現が真に当てはまることになる。
このus/themといった人たちが、「お前は客じゃない」「俺が客だ」などと、客という権利を奪い合っているのがこの「not for me」の押し付け合いだ。この論争に答えがあるとしたらそれは、制作者がその作品を「誰に向ける意図をもって作っていたのか」という話になるのだが、ではここで究極の問いを発しよう。ゼルダの伝説 Tears of the Kingdomは、誰に向ける意図をもって作られたのだろうか?
自由の代償としての台無しリスク
私自身はゼルダをアクションアドベンチャーとして期待して購入したので、自由な冒険はそこそこに、基本的にはメインチャレンジのマーカーを追うプレイをしていた(はずなのに寄り道が楽しくて、クリアした時には100時間が経っていた)。ネタバレ部分の記事で十分に語ったように、私はアクションアドベンチャーとしてのTotKには非常に満足している。
一方でこのゲームでは前作BotWに続き、「本当にどこからでも攻略できてしまう圧倒的な自由度」が売りになっている。私のようにストーリーの流れに縛られず、自分の行きたい所にいきなり行ってみたい!という好奇心の高いプレイヤーに応えるための懐の広い設計だ。
しかし、TotKで驚くべきなのは、そうした自由なフィールドにいくつもの「順番に見る・攻略することで一番楽しめるようにデザインされた物語・ダンジョン」が散りばめられていることだ。メインチャレンジ「龍の泪」や「四地方の異変」の攻略順もしかり、ラストダンジョンへの行き方もしかり。私自身はかなり忖度してマーカーを追ったにも関わらず、実はそれでもうっかりクエストを飛ばしてしまい、一番良いと思われる順番にはならなかった。
私以上に好奇心を持って本作をプレイしている人からは、たびたびこうした「好奇心で行ってみて、気がついたらストーリーや攻略の体験が台無しにされていた」ことに気がつくという例がぽつぽつ聞こえていた。
ニカイドウレンジ氏が指摘しているとおり、プレイヤーが狙って自由を行使できる場合であれば(例:このダンジョンを自作のゾナウギアでショートカットできたら凄いな。本当にできた!)楽しいはずだが、そうした狙いを持たずに「何か気になったから行ってみた」「気づいたら先にゴールにたどり着いており、何をショートカットしたのかわからなかった」というのは端的に損をした気分になってしまう。
こうした点は、自由を捨てきらずとも誘導の工夫で改善はできたかもしれないが、それによってプレイヤーの好奇心を制限することにも繋がりかねない。また「運」によっても体験が変わってしまう問題も孕んでいる。運良く好奇心に従って楽しめた人もいれば、運悪く楽しめない順番になってしまう人もいる。つまり、リスクがあるわけだ。
ではこうしたリスクを、開発者は意図していたのだろうか?ここでは、現状で唯一の「開発者の声」である公式インタビューの最後にある、プロデューサーの青沼氏の言葉を引用しよう。ここにはハッキリと書かれている。
「ぜひ、まっすぐゴールを目指さないで!(笑)」と。
自由に寄り道をすることは、私のような「一番美味しい順番で楽しみたい」という人にとってはリスクとなる一方で、「自分なりの遊び方がしたい」人にとっては大切な要素であり、開発者がそれを勧めているのであれば、マーカーを追う私のプレイスタイルは間違っていたのだろうか。
ウルトラハンドが楽しめる人とそうでない人の絶望的な差
本作の自由を語る上でルート選択以上に注目に値するのが「ウルトラハンド」だろう。
発売直後から今になっても(そしてこれからも)世界中から自慢の巨大ロボやら自動XX機やら水陸空を駆け巡る乗り物やらが生み出されては「俺の知ってるゼルダと違う」などとプレイヤーがプレイヤーを驚かせており、間違いなく本作の売上や認知に大きく貢献している。
一方で、こうした物理挙動を用いるシステムに馴染めない人もいて、私自身も何度かギャグのような空中崩壊&転落をしたが、ジスロマック氏の以下の記事では常人のそれを遥かに超えた悪戦苦闘が記されており、この方面でも大変に面白いゲームだと言うこともできる(ここまで来ると逆に才能なんじゃないかと思う)。
ウルトラハンドがもたらすシュールさには好ましくない面もあった。世界各地のNPCが頼んでくるクエストでは、「看板を一時的に固定する」とか「屋根の板を持ち上げてはめる」とか、(ひょうきんなキャラクター描写で違和感がないようにしてあるとはいえ)「……お前が「手」でやれば?」というセリフが喉から出そうになるものが見受けられた。
思うに、「バクダンを使う」とか「魔物と戦う」などの危険が伴う任務であれば主人公の能力が必要だから仕方ない、と納得できたことに対して、ウルトラハンドはあまりに身近な「手」の自由度を実現したがゆえに、コントローラーでウルトラハンドを操作するプレイヤーよりも、実際にゲーム世界で「手」を持っているNPCのほうが適任に思えてしまうのだ。
ウルトラハンドという面白物理要素は私には不要だった。いや、ここはあえて主語を大きくして言うならば、私のように「これまでの3Dゼルダのパズルが好きだった人達」からは必ずしも歓迎されていなかったのではないか。むしろ、見直された「アタリマエ」に含まれていた、誰がやっても正解が一つに定まる「パズル」の要素こそ、私が愛していたものだったのではないか。TotKがその良い面と悪い面を同時に見せてくれたことで、その魅力をはっきりと言語化する手がかりを得ることができた。
ゼルダの「パズルアクション」としての魅力
ゼルダの伝説は「アクションアドベンチャーゲーム」と銘打たれているが、BotW以前の3Dゼルダは「パズルアクション」というジャンル名を与えることもできると思われる。
ここで言う「パズル」とは、解法があって、「解けていない」状態から条件を満たした瞬間に「解けた」という状況へ明確に変化するもの、と想定している(そうではないパズルも考えられるが、ゼルダに期待しているパズルという意味で)。これの何が良いかというと、「解けた瞬間」を盛大に演出することでプレイヤーの努力が報われる瞬間を生み出せるという性質だ。
おなじみの「謎解きジングル」は言うに及ばず、壮大な3Dのカラクリが動作してステージ構造が大きく変化したり、それに合わせて音楽も一気に盛り上がったりと、歴代の3Dゼルダではとにかくプレイヤーを褒め称えることに余念が無い。
TotKでもそうした「パズル的な、正解した瞬間の喜び」はしっかり作られている。可能なかぎりネタバレにならないようにブロックゴーレム戦の映像を用意したが、もしこれも見たことが無いという人はご注意を。
このように、ゼルダのボス戦では、
正解するまでダメージを与えられない「パズルの時間」と、
正解して一気にダメージを叩き込める「チャンスタイム」が交互に訪れる。
これはTotKの他のボス戦においてもおおよそ同じ作りになっており、重要なのはそこで音楽が「チャンスタイム曲」に変化することだ。これによってプレイヤーは「よっしゃ来たこれで倒せる!」という興奮を、音楽によってさらに後押しされて最高のヒーロー気分を味わうことができる。パズルアクションは解き方・倒し方を限定してしまうデメリットもあるが、それによって明確にコントラストを作り出すことができるというメリットも大きい。
前作BotWのボス戦(各種カースガノン戦)ではこうしたパズル的なコントラストは無く、アクションゲームとしては楽しめるものの、音楽的には盛り上がりに欠けるものになってしまっていた。
今作TotKにおいては、こうしたボス戦のパズル的なコントラストとそれに伴うインタラクティブミュージックが復活した。
これは私にとって非常に嬉しいことだったし、改めて私がゼルダの何に魅力を感じていたのかを思い出させてくれた。パズルで「解法を絞る」ことによって、その「解法を導いた瞬間」に目一杯プレイヤーを褒めてくれることが好きだったのだ。
この観点からすると、ウルトラハンドによる謎解きは、祠や神殿ではおよそ正解がはっきりしていて楽しめる部分も多かった。一方で、コログを運んだり祠の石を運んだりするような物理的に「ちょうどいい」速さ・強さの感覚を要求されるものは、何をどこまで積めば正解なのかはっきりせず、達成するのも「なんとなく近づいてきた、良かった~」という感じで連続的であり、パズル的なコントラストが無い。
「なんだか疲れちゃってェ~」はもはや新たなインターネットミームの一つとなったが、そんなコログたちを拷問器具のようなゾナウギアで痛めつける動画が稀によく流れてきて人々を楽しませているのは、そうした「スッキリさせてくれないやつら」へのストレスがにじみ出ているのではないか。
ゼルダTotKを「アクションアドベンチャー」として批評することは正しいのか?
ここまででおおよそ私のTotKに対する批評をまとめた。絶賛部分をネタバレ防止のために別記事にしたので、この記事を読んでいる人にとっては私の態度は是々非々か、むしろ否定よりに取られた部分もあっただろうが、最終的に「人生において大切に留めておきたい記憶の一つ」と言い切るくらいには感動したタイトルであることは改めて申し添えておく。
肯定的な理由としては、ネタバレ部分で書いた「アクションアドベンチャー」としての圧倒的な魅力。そして、本稿で解説した「パズルアクション」としての魅力がボス戦を中心に完成度高く楽しめたこと。
一方で、どこでも行けてしまう「オープンワールド」はアドベンチャーを台無しにするリスクを与え、何でも作れてしまう「ウルトラハンド」はパズルからコントラストを失わせる欠点として否定的に扱った。
前作BotWが好きだったというプレイヤーが私と真逆の感想を持つことは想像に難くない。プロデューサーの青沼さんが「ぜひ、まっすぐゴールを目指さないで!」とオススメしていた事を鑑みると、私のほうがゼルダTotKの楽しみ方として「間違って」いて、私の批判はすべて「not for me」で片付けるべき、余計な行為だったのだろうか?
あるいは、私とは反対に、クリアを目指さずに自由に遊び、そのやり甲斐について批判をしたとして、作品をクリアせずに行われたその批評は間違っており、その人は自ら「not for me」と認めるべきなのだろうか?
カテゴリーすらプレイヤーが選択できるゼルダTotK
私には、2種類の楽しみ方のどちらが正しいとは言い切れない。開発者はどちらも想定済みで、そのどちらも「選択できるように」意図して制作されたのがゼルダの伝説 Tears of the Kingdomではないだろうか。
ここに来て、ゲーム批評というものは新たな次元の困難に突き当たっていることがわかる。すなわち、TotKのようなAAAタイトルにおいては作品の批評における論拠の根幹をなす「カテゴリー」そのものをプレイヤーが選択できてしまうということだ。
書籍「批評について 芸術批評の哲学」において、現代芸術哲学の第一人者とされる著者ノエル・キャロルは、作品を正しくカテゴライズすることは批評家の重要な仕事の一つであるとしている。
ゲーム批評の有料マガジンで1000人規模の会員を持つJiniさんによるBotWの批評も、「オープンワールド」「イマーシブシム」というカテゴリーをその歴史から整理し、そこで目指されていた芸術的な意図を明らかにし、その上でBotWの達成を論じるという、大変貴重な仕事になっている。
つまり、「カテゴライズする」という仕事は、作品を雑に切り分ける行為ではなく、その時々で人々がどのような期待を抱いていたのかを広い視野で把握し、制作者が受けたであろう影響を様々な証拠から裏付けたうえで、そのカテゴリーへの期待にどれだけ応えられているのかを論じるための立脚点を形作る、非常に重要かつ専門的な仕事なのだ。
カテゴライズに失敗すると、批評も失敗する。例えば、一本道のアドベンチャーを意図して制作されたゲームに対して自由度が足りないなどと言うのはまさにそうした失敗であり、それを「not for me」という言葉で退けてきたのだろう。
しかしながら、ゲームの大規模化、技術の進化、そしてゼルダの伝説TotKで成し遂げられたことを思えば、相反するコンセプトすらもプレイヤーが選択でき、そのどちらからも評価されるということは、不可能ではない。最先端のゲームは既に、ノエル・キャロルが想定していた「作家の意図と、それを達成するための作品」という1対1の関係を大きく超えるものになっている。
この新しい困難に対する私の考えはこうだ。
もはや「ゲームソフト」という単位で批評を行うことが必ずしも適していないのではないか。私達はゲームソフトを買った後でも、それをどのようなゲームとして遊ぶかを選択できる。そうした懐の広さによって、ゲームという娯楽は世界中に様々な垣根を超えたファンを獲得している。ゲームはやはりプレイヤーあってこその芸術、「ゲームとプレイスタイル」を合わせて初めて作品になる、と考えるしかない。
例えば、同じSplatoonというゲームを遊んでいる中でも、短射程ブキばかり使う人と、私みたいにバレルスピナーリミックスしか使わないという人で体験が違うのは当たり前だ。ナワバリバトルだけ遊ぶ人と、ガチマッチばかり遊ぶ人ではまったく別のゲームと言っても良い。
そうした時に、片方の人のために用意された工夫を、もう一方の人が好ましく思わずに批判するということは起こりうる。その両者の選択がいずれも開発者に想定されているものであり、それぞれが選択したスタイルを明示して批評を行う限り、どちら間違っているわけじゃない。
自分の主張に自信が無くて「not for meだった」と謙遜するのはいいとしても、相手の主張を「not for meと言えば良い」と断ずるのは、相手のプレイスタイルを見た上で慎重になったほうがいいのではないか。
TotKから考える、憧れるほどのゲーム批評とは
発売当初からゼルダの伝説TotKに対するSNS上の批評空間には歪なところがあった。既に世界的な評価を確立したBotWの続編として、天下の任天堂も相当の気合を入れて作り上げたであろうTotKは、それを称賛する事はある意味で容易く(あまりに褒めるべき所が多い)、一方で批判的な意見はスレッドを読まれもせずに炎上する様子が見て取れた。
しかし批評の価値とは、作品を単に良い・悪いと断ずることではない。美点も欠点も、その「理由を説得的に構成する」ことが出来て初めて、読者に「なるほど、自分の好きだった・嫌いだった部分は、こうしたら理解できるのか」という発見を与えられる。
優れた批評家は、読者に「ここまで美点を理解できてると、感動もひとしおだろうな」とか「ここまで欠点を分解できると、怒りではなく冷静に自分と作品の距離を相対化できるんだな」と感じさせる、作品受容の憧れの形態である、と、この本を読んだ上で考え至った。私が批評を読むためにゲームを頑張ってクリアしたり、自分でも批評を書こうとする理由はここにある。
私は、多くの人が憧れるレベルでゼルダの伝説の音楽を深く楽しんでいると思っているからこそ、その価値を自分の中に留めずに皆に知って憧れてもらえると嬉しいし、読んだ人はさらに深く作品を楽しめるようになる。
あるいは、私自身は面白かったけど理解しきれなかったFE風花雪月のような作品を、歴史やアルカナ、タロットといった専門的な知見から解説されて「こんなにも考え抜かれて世界全体が緻密に構成されてたのか!?」という事に衝撃を受け、その批評に憧れて自分でもタロットやアルカナの本を読み始めるなど影響を受けたりだとか、
Outer Wildsのような他に類を見ないゲームならではの感動を前に、ひたすらOuter Wildsの感想を探し求める通称「Outer Wildsゾンビ」に向けて自分の感動を言語化したところ「栄養価が高い」などと評されたり、
批評とは、その理由を説得的に示すことにより、それ自体が非常に面白いものだ。
美点もそのまま食べるだけでなく分解することでさらに栄養素が取れるし、欠点だって分解してしまうことで飲み込むことができるようになる。理由は必ずしも論理的に正解が定まるわけではないが、最良の理由づけを提供しようとする思考と反省を止めない限りにおいて、批評は価値あるものとなる。
私のTotK批評も、そうした価値が宿っていることを祈りたい。
批評を楽しむには、理由を添えて。
本稿ではTotKの美点の解説だけではなく欠点の分解も行ったが、そうした批判をすべて「not for me」に矮小化することは、同じような不満やモヤモヤを抱えたすべてのプレイヤーに対して、お前たちはメインのお客じゃないんだ、お前たちは相手にされていないんだ、という否定を含んでしまう。
もちろんまともにプレイする気がない人間に対しては「お前は客じゃない」と言い切ることも必要だ。しかし、真面目にゼルダを楽しみたくてプレイしながらも、ルート選びを失敗したりウルトラハンドで失敗したりして悲しんだ気持ちを持つ人がそれを表明することに対してまで「お前は客じゃない」と言うことが果たして健全だろうか?
否定的な意見を表明することは、勇気がいることだ。しかし(Twitterのような短文SNSでは難しくとも、ブログなどで)十分な理由を提示することができれば、TotKのような巨大な作品に対して複雑な心境を持つプレイヤーにも「あなたが感じた不満も感動も、両方持つことはお客として間違ってなんかいない」という根拠を与えることができる。または、作品が好きになれなかった人に対しても、その人を疎外しない根拠を与えることになる。大事なのは、そこで「楽しめる方・楽しめない方が、ゲーマーとして、受容者として劣っている」というような意味をできるだけ含めないことだと思う。
私は本稿において、自分が感じたTotKの欠点(自由の代償としての台無しリスクと、ウルトラハンドによるパズル的魅力の減退)は、私より好奇心やクリエイティビティが高いプレイスタイルの人にとっては価値があり、トレードオフの関係になっている、という理由づけを与えた。私が感じた美点は、アクションアドベンチャーとしてリンクという勇者に没入しようとするプレイスタイルによるものだ。それらをいずれも排除せずに楽しませようという巨大な意図を包摂しているのが、ゼルダの伝説 Tears of the Kingdomだったのではないだろうか。
おわりに
最後はTotKを離れて大きな話になってしまったが、こうした価値観の浸透によって、単なる良し悪しではなく、その理由を巡る建設的な議論に少しでも多くの方が(クリエイターも含めて)関わってくれると、批評そのものの楽しみと、ゲームプレイの楽しみが深められるのではないだろうか。
(唐突に)コーヒーに付与される情報にも批評的価値がある。ただの「おいしいコーヒー」よりも、「コロンビアの、ロドリゴ・サンチェスさんの農園で採れた特別な豆から厳選して抽出された、グレープフルーツやレモングラスの香りが感じられる、アロマが高い一品」と言われて飲むほうがめっちゃ美味しい。
私が浅煎り派だからといって、深煎り派はコーヒーの酸味を何も理解してないなんて罵倒をしてはいけない(思ってないよそんなこと)。しかも最新のゲームは注文してからも好みによって味を選択できるというではないか。では遠慮なく選ばせていただこう。「ゼルダ1つください、アクションアドベンチャー濃いめ、ウルトラハンドは薄めで」