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ダンテスダイジの説法感想文
岩満陽平
動画感想文
俺も10代くらいまでは愛や感謝のただひたすらの純真さみたいなところで生きてたね、親の優しい笑みとかが、そこに100%の信頼みたいなのがあって、親の正しい言葉はまるで神の言葉と等しいくらい絶対的なものだと思ってた。
愛に清らかに生きれば、必ず現れる敵や醜悪な存在への敵視が非常に強いものになって、その敵のヤバいところを直視することができなかったんだね。
相手が100%間違っている、悪だと決めつけたりして、だが、その悪だと決めつけてる方が正しい扱いされたりとかして、愛に生きることに疑問をけっこう長いこと抱いてた。
そして、このダンテス・ダイジの、自由の側面は、どこまでも応用の利く世界だったんだね。強い奴には媚びればいい、見下してもいい、嫌なら逃げればいい、勝てそうならやっつければいい、
またそれだけでもなく、自由なら、どこまでも恐ろしいおぞましいものを直視できるんだ、恐ろしいものへの耐性は自由であればあるほど強い。
だが自由には一つ欠点があり、綺麗事が大嫌いなんだね、愛、感謝、みたいなのを受け付けないんや、それは自由の恐ろしさ、自由の世界にはいらないものなんだ。
そこが愛から見た神と、自由から見た神の違いなんだね。
涅槃入る前、愛がこみあげてくる、すげえななったわ。
けっきょく、その愛を知るという過程もまた一つの自分の悟りみたいなとこあるな。
実在なってもうた人にはなるな、そういうとなんか言い方気に入らんが、ようは夢想三昧入ってもうたら終わりやど、ってことやな。
俺は仏教はあんま好きじゃないんだが、悟りとはこみあげてくる愛を押しのけた先にある、99%の人には、俺には関係ない話だ。神は戯れるのが好きなんだ、そうだね。
あとがき
けっきょく人間なんて、ほとんどの人が純粋な悟りのみを得ようなんて思ってないんやね、瞑想して経済的に良くなりたい、何かを得たい、から修行する。お釈迦様は逆だ、悟りを得る為に、全てを捨てたんだ。
現代社会で、悟りなんて、到底ムリな話だね。またムリな話でけっこうさ。
おわり