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コンプライアンスの存在意義

「コンプラそのものに価値は無い」

私が社会人として生きてきてわかった事のひとつがこれである。
昨今コンプライアンス(以下コンプラ)が社会的に認知され、実施してきているのは事実だ。
だが考えてみよう。
例えばコンプラが周知される以前と、以後で働く自分にとってプラスになった面はあったのか?

・・・おそらくNOだろう。

知らぬ間に我々の生活に取り入れられ、実践を迫られているこのコンプラという存在。
実は結果が求められないのが実態である。

一般論として、手段と目的が逆転してしまう物事、方策があるのは有名な話だ。
これは例えて言うなら、会社はお金を稼ぎに行くのが目的であり、仕事をこなすのはその手段でしかない。
しかし日本の企業の悪い面を見ると、なぜか知らないうちに賃金では無く、会社を盛り立てる為が目的になってしまっている所が多々ある。

確かに会社を盛り上げるのは大切だが、それは経営者が考える事であり、一般社員が考える範疇では無い。
あくまでも社員は真面目に働き、それに見合った対価を給料として貰うのが目的だ。
その結果として会社が盛り上がるだけに過ぎない。
社員の目的であるお金を稼ぐ事と、会社の黒字、赤字などは別問題なのだ。

さて、これをコンプラに当てはめてみよう。

コンプラとはいわゆるルールである。
ルールを守る事で物事が円滑に働くと考えられている。
しかし果たしてそうなのか?
本当にコンプラのお陰で働きやすくなったと感じる会社員がどれほどいるか?
管理職はともかく、現場単位の社員にはむしろ邪魔な存在に映るのがほとんどではないか?

それは実は正解だと思われる。

また例にしてしまい恐縮だが、信号機の横断に例えてみよう。
自分が歩行者として見た時の場面である。
歩行者信号は赤だ。
しかし車は何も通っていない。
そのとき、車も何もいないからと横断歩道を渡ったりはしていないだろうか?
(ここでは法律の観点は考えない事とする)
もし横断歩道の途中で転んで、そこに車が来て事故に遭ったとしよう。
この場合、赤信号にもかかわらず横断していた自分にも過失割合がかかる。
だが、車がいなくても信号が青になるまで待って渡っている最中に事故に遭ったなら、歩行者の自分に過失はほぼ無いはずだ。

さて、コンプラに戻るが、要はそう言う事なのである。

コンプラと言うのはルールであり、ルールを守った上で何かトラブルがあっても責任を回避できる可能性が大きいのだ。

しかしこの責任回避というのは社員の事では無い。
コンプラを作るのは会社であり、コンプラと言うルールもまた、会社の規則である。
そしてトラブルがあったときは、コンプラを順守していたか否かで会社の責任度合いが全然違ってくる。

つまり、コンプラを社員に守らせる目的は、社員に何かあった場合、会社が責任を取らなくてもいい逃げ道を作る為であるのが実態なのだ。
もちろん、優良な会社ならコンプラを守れば社員の安全や責任問題からも守られるであろう。
だが、これは本当に意味のあるコンプラな場合だ。
何かのトラブルで裁判沙汰になったケースを考えて、コンプラさえ用意しておけば会社は安泰だと考える経営者はいるだろう。
ましてや、コンプラを作る人間が、立場は管理者だが頭が働かず、知恵の効かない学歴だけの上層部などの場合、まずもって社員の為のルールとは考えにくい。
その場合はコンプラの存在自体が害悪となる。
そういういわゆるブラック企業体質の会社は、社員の安全よりも会社の安泰を最重要とするからである。

この様に、少なくとも日本ではコンプラを順守するのは、仕事をしやすくするうえでの手段では無く、目的として形骸化しているのが見えてくる。

ついでに言えば、コンプラを順守しなければならないと思い込んでいる人間ほど、精神的に追い詰められる可能性が高い。
簡単に言えば、真面目に仕事をしていればコンプラなんて、勝手に守っている事にもなり得るのだ。

精神的に大変な人にはぜひ参考にしてもらいたい。
コンプラを守る為に仕事をするのは愚の骨頂。
コンプラ順守を目的として、仕事に勤しむのでは無く、
「真面目に働いてお金を貰う。その上で結果としてコンプラが守れていればOK」という発想も生きる上で大切ではないかということを。
いくら会社の上層部が現場社員に意思疎通の統率を強制しようとも、それが間違っているなら同調してはダメだ。
管理者が間違えていたとしても、現場社員は
「手段と目的を間違えない」
強き意志を持っていたいものだ。

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