何者であるか
こんにちは。北海道を戦略的に笑顔にしていくクリエイティブ会社を経営しているTHE DISCOVERY COMPANY GEARの勝浦悠太です。
色々な記事をこれからみていただく前に、私はだあれ?
みたことあるシーンのようにこの記事を開いていると思われます。
閲覧いただきありがとうございます。
記事を始める前に、僕の紹介をさせてください。
以後投稿する記事は、父は経営者だけど波瀾万丈な家庭で育ち、現在家族を持ち人生を楽しむ経営者、ビジネスや人生を経営をしていく上で使える知識やメソッドなどを書いていこうと思います。
実は私、大学中退、職歴がないんです。
当時変化なんて起こしたもんなら白目で見られる時代に学歴を終了させました。
世間から見たら底辺かもしれないが、18年間自分で経営してきてます。学歴や職歴にコンプレックスのある方にも参考になればいいです。
どんどん秘訣なども書いていけたらと思います。
私の背景
小中学生
僕の小学の思い出は野球ばかり。2年生から野球を始めました。キッカケはサッカー少年団に入部したかったけど、3年生にならないと入部できなかったので、今すぐ何かスポーツをやりたかった自分は、今すぐ入部できる野球の道を選択しました。
当時、学校の図書室でもドカベンを読んでいたので野球に興味があったんだと思います。野球に熱中しすぎて帰ってきては、キャッチボールの相手でもある壁が友達でした。
しかし朝練が主流の時代。朝起きるのが苦手で朝練が嫌いでしたが、毎日6年生のお兄さんが迎えに来てくれているので行けてました。
多分辞めないようにもあったのかもです、、、、、、
なぜなら低学年では僕一人だったので。
このままでは試合も出れないので、クラス中の友達に声がけして、低学年の試合へ出場できる人数を集めたのを今でも覚えています。
自分は、クラスの中心人物にいるのが好きじゃない。中心でもなかったけど、好きなコトやモノに熱中すると積極的に動く少年でした。
多分人数を集められたのは、友達がガキ大将にいじめられているのを見てられずに止めに入りケンカして仲良くなったことが、野球仲間を増やせたのかもしれないです。
また今でも記憶に残っっているのが、6年生の試合で、3年生の自分が代打で出場して打った瞬間ホームランかと思うくらい大きい放物線を描いた走者一掃のヒットを打ったこと。
その時に自分の感動体験、みんなが喜んでくれた体験、自分もできるんだという体験が自分を成長させてくれたことを今でも思います。
その後中学生になってももちろん野球部へ。実は、ここで事件が起きました。なんと小学校卒業式の日に、家へ帰ったらもぬけの殻になって電話機のみ今の真ん中に置いてあったのでした。
家に帰ると電話がなり出てみるとお母さんからの電話で、実は卒業式の3日前ぐらいに、会社経営していた父が家を担保にしていたらしく家が売られていたとのこと。急遽実家がなくなる騒動が勃発していたのでした。
まさしく「ガーーーン」でした。
大泣きしたのを今でも覚えています。(漫画で見たことあるシーンが起きた)
実家が急になくなり、学校が急に変わりましたが、野球をやっていたことが違う学校へ行っても友達ができて、寂しくさせてなかったのかもしれません。
しかしまたまた出ました。
この中学の野球部は、野球部坊主文化。
野球をやることと坊主にしないといけない接点が理解できずでした。
思ったら行動。
それを先輩へ伝えたら、練習に参加させてもらえない日々が始まりました。僕だけずっとグランド外を走っていました。
野球が楽しくなくなり、悪い先輩たちとつるむ様になりました。(そりゃグレるわ。)
この時から自分の意見を伝える姿勢は、今とそんな変わらないんだと感じます。
時代的に変化をしたいやつは、輪に入れない時代だったのでこうなるのも自然な形だったんですね。
野球に戻れるキッカケは、ある日大きな事件がキッカケでした。
大きな事件により野球部の顧問が真剣に怒ってくれて僕も意見を言い、野球部に戻りました。
ちょうど嫌いな先輩が膝を痛めて2年生から背番号を貰えることになり野球は辞めずに続けていきました。
高校進学も、野球好きな自分からしたらもちろん甲子園目指すのが当たり前だと思い、野球がありきで高校を選択する一択でした。
姉の影響もあり、高校推薦もいただいたのですが、甲子園が約束された高校で野球をやってもレギュラーなれないならつまらない。それよりも全然無名だけどそこから甲子園を目指すという物語にワクワクを感じて推薦高を選ばずに自身で選んだ高校へ進学することへ。
めちゃくちゃ冒険が好きなんだと書いていて気づきますね。
高校生へ
甲子園目指してやる!みたいな意気込みを持って入学したけど、そんな意識の高い人が入る高校じゃないことから入学早々地獄。
先輩からのイジメ、士気の低い練習、こんなので甲子園行けるのか?って感じです。まさしくルーキーズの漫画みたいな感じです。笑
中学から変わってない自分。またまた出ました。
先輩の道具を洗っておけ文化に楯突く自分。「小学校の時に、自分の練習道具は自分で大事にすると教わっているのでやりません。」
部室でボコボコにされ、円形脱毛症になりひとまず先輩達が引退するまで休部。なぜ俺が?
意見をいうと嫌われる時代だったんですね。
今となればウケますよね。
その後、肩の故障もあり(諸事情あり)レギュラーを獲得はできなかったですが(たぶん2年生ぐらいだったですかと記憶してます)甲子園常連出身校からきたコーチとの出会いが僕の思考を成長させてくれました。
「同じ練習しかやってないのに、なぜそんな差が出るのよ?」
「なんとなくでやっているかないかだろ。」
「変えることはただ一つだ。向き合い方だよ。」
「お前の言っていることは案外間違ってないよ。自信持って言っていいし、やっていいぞ。しかし謙虚さも表面上だけでもいいから忘れるなよ。」
色々な言葉がささりました。僕の行動を認めてくれる大人との出会いでした。
自己肯定感を上げてくれ、良い言葉をコーチの経験から伝えてくれる出会いは、大人になった今でも活かされている。
野球の為に学校に行っているぐらい野球の記憶しかない高校生活でした。
その後、野球部は負けると早めの引退をします。進学するのか就職するのか迷いながら、電車で毎日通っていた時、ふと周りを見渡すと疲れて座っていた大人をみて大人になりたくないと感じました。
「就職って何?大人って楽しいくないの?」
しかしドラマが起こす親を見て育つ自分。
家を勝手に担保に入れる経営者でもあり父でもあった身近な大人は、仕事自体は楽しそうにしていました。
工学系の発明者である父は、いつも会えば夢を語り、「将来間違いなく車は空を飛べるよ」などを言う父でした。
電車の中の大人よりも、身近な大人から、経営者になりたいという夢は持つようになっていました。
また小さい時に体験したあの日実家が急になくなり大泣きした経験から「将来俺が、経営者になって家族を助けられる」とフツフツと心に思っていたのもありました。
しかしまだ早い。まだ遊びたい、まだ好きなことをやりたいと思った自分は、ちゃんと経営を勉強した方がいいだろうと、いう理由を作り大学へ行くという選択をしていました。
大学進学へ
まだ何で経営をしようか見えてない自分には、体育が好きなので体育系の大学を選択。勉強が嫌いだった自分には、面接だけで入学できるAO入試を活用して無事合格。
しかしここでまた事件が勃発。
入学式に入学金が入金されてない事実を知る。
入学の日に卒業することになりました。
4人兄弟の末っ子であり、母子家庭のうちには、大学へ行く財力がないのはわかっていたけど働きながら通うことを決めていた。まさかでした。
その後、どうしても大学へ行くことが諦めきれずに、自分でお金を貯めて一年浪人してまたAO入試で大学へ無事合格して入学へ。
体育の道は諦めて、経営を勉強するにフォーカスして経営学部の大学へ入学。しかし思ったより大学の授業がつまらない。このままではお金をドブに捨てているようなモノだと日々感じてました。
なぜつまらなくなってしまったのか?それは大学入学する行く前にバイトしていた会社がたまたま色々な経営者が来るお店でした。
たくさんの経営者の話を聞きすぎたゆえに大学で語る教授の話が、リアルに聞こえずにこのまま何にお金を払っているのか見えずだったのでした。
そう思ったらすぐ行動。
大卒チケット取得の為に400万より今すぐ独立しようと決めて半年で中退。
白目で見られてしまうこの時代ですが、僕にはそういったことは気にしないやりたいことへ一直線で決断しました。
大学中退は学歴のないと判断されてしまうことを選択した人生へ突入!
社会人へ
先ほども書きましたが、この時代に、大学を卒業しないことがどんなに白目で見られていたことか、色んな人に心配されました。独立して飯食っていけるの?大学でなくて大丈夫?こんな若造が何やるにも、やらせてもらえずでした。
決断している自分には、じゃどうしなきゃ行けないのか?の選択が一気に東京に行くことでした。中退してその後バイトしていた大手アパレル会社でしばらく働き続けたあと東京へ。
東京で会社を経営する父さんへ「東京へ行かせてくれ」でした。
東京生活
父の社宅に住みながら東京生活がスタート。
どうやって稼ごう。自分のできることで探すなら趣味でやっていたDJで稼ぐことでした。
チャンスを見つければアポイントを取り、回させてもらう
集客は、当時のSNS「mixi」で声をかけて集客。
初めてのイベントは、表参道の一般入場禁止の高級クラブでのDJでした。
いきなりハイレベルな会場でした。
今でも恥ずかしいぐらい覚えてますが、クソ下手なDJでした。
よく出るなんて言ったな?って感じです。
しかし「mixi」で出会った方が!50人以上の方を呼んでくれて集客を成功させることに成功。
その後色んなイベントに声をかけていただくキッカケになったことから、自分でなんでもできるようにならなくなり、広告物制作にクリエイティブ、グラフィック技術を独学で学び、イベント企画・運営をすることになりました。
また若い自分ができることでもあり、大人が喜ぶことそれは「集客」なのでは?と感じていた自分は、本格的に集客を極めたくなり何を学んだら良いのだろうと行き着いたのが「マーケティング」という学問でした。
現在
ここには全てを書ききれないほどの様々な経験から、現在は挑戦したい変化に対応していき出口を一緒に見つけたい!に伴走する会社としてGEARを起業しました。
0→1「発見」フェーズ
1→10「生産」フェーズの伴走
広告の代理業務、効果を最大化できる広告物制作、ブランド設計、グラフィックデザイン、スナップ撮影、ロゴ制作、コピーライティング、マーケティング、調査、事業構築、商品作りなどのtoC向けのデザイン制作を行なっております。
「強い表現デザインでビジネスに貢献が社会へ貢献へ」
以下からは、もう少し詳しく書きますね。
現在社会を生き抜く「仕事や人生への方法」
基本は、【人生も経営も与えられた資源(カネ、モノ、ヒト、時間、情報、知財)でどうやって生きるのか?】自分がどうなりたいのか?どうやって目指しているVISONへ到達させるのか?なぜそれをやるのか?生き抜くためには、資源をどこに選択集中をして到達するのか?それらをどういった表現したデザインで伝えるのか。の工程だと感じています。
若い時は、儲かるビジネスに飛び乗ってはそれらを繰り返していく中で、時代変化のスピード感に追いつかずこの方法で経営していくのは、効率が良くないと実感しました。
マーケティングを勉強していく過程の中でも、【売れる必然を作り出すこと】にフォーカスしていきたいと思ったら、資源の中でも知的財産(ブランド)を強くすることが強い質のある売上を作ることに気づきました。
また育ってきた環境から技術のある父が、技術があるだけでは売れないことを体験してました。それらの売り方を知らないと売れないことを学び、技術があるだけではモノが売れないことを小さい頃に体験していました。
「経営するとは別の話だ。」
社会とは、時代変化や社会変化があり、それを読み、どういった仮説を立てて、どんなアイデアが刺さるのか、現在何をしないといけないのか。思考が巡るめぐる状況になる外的要因との戦いです。
なのでまずは、
上流の構築(MVV、コンセプト。これを思想や概念創りと表現する方もいます)をして自分軸(ブランド設計)を構築すること。
「自分はこっちの方向に行く」っていう旗を立てること。
その後それをどういった表現デザイン(グラフィック、コピー、情報)に落とし込みして伝えて使っていくのかです。(集客するという言葉は、使いたくない)設計してないでいきなりチラシや広告物に入っても効果的な結果は得られないでしょう。
ただでさえ広告物は見られないのに
もう少し深くなぜを話す(仕事と実績)
デザイナーやクリエイターの方なら感じたことあるかもしれない
自分のつくったデザインが、無くなってしまうこと。
僕も経験しました。その経験からもっと自分ができることはなかったのだろうか?より結果にもコミットできるデザインでありたい。表現デザインには深さが必要だと気づきました。
顧客視点は「なんとなく」で見られても創り手の私たちは、なんとなくで制作しても感動や感情を動かすことはできない。
接点を持ってくれた方へ感情や感動を生む人生の楽しさや幸せを感じれる時を生む為にも、当社では、上流の構築に重きを置いて仕事をしています。
それが現在の変化の時代の突破口にもなる
思いの汲み取り→アイデア→設計→制作→運用→分析まで一貫して行なっています。
「明日には数字を見たい」とにかく目先の結果を求められる時代。求められる環境で育つがゆえにですが、明らかに社会は誰でも情報を扱える時代になったのに、こんな情報ありふれる中に自ら飛び込み「面白いことやって集客をしようとする」は出口の見えない洞窟に自ら入るようなモノです。
さらにVUCAの時代とも言われていて、将来どうなるかが予測できない時代になった現在。
何度も言いますが、そんな荒波の中航海してる時代に自分がどこを目指しているのかどうしたいのか?を持たないと難破してしまいます。
なので上流の構築をした上で表現デザインのお仕事をさせていただいてます。
経営者が成し遂げたいこと(思い)、それを求める顧客(WHO)、提供できる価値(WHAT)、提供する市場(WHERE)それを形にするコトやモノ(プロダクト)、市場調査から企画、設計とデザインまでをお手伝いさせていただいてます。(実際はもっと複雑です)
設計したものを運用、実行までお手伝いしていることもあります。
お仕事の詳細
・社内ベンチャー立ち上げ
・パーパス設計支援
・デザイン経営導入支援
・新しい価値創造伴走支援
・セミナーの企画・運営
・イベント集客運用
・社内クリエイティブ業務支援
・プロダクト開発
・アイデア伴走支援
・グラフィック制作(ポスター、名刺、チラシ)
・ブランドロゴ制作
・スナップ撮影
・ライティングページ制作
・WEB制作
・販促物制作
・画期的なアイデアによる認知獲得支援
・オンライン媒体運用支援
起業、開業、中小起業、個人の方の支援を行なっています。
実績
・催事イベント等の企画・運営 200回以上
・大手観光ホテルマーケ運用企画・運用
・市内事業のブランドロゴ制作多数
・パーソナルトレーニングジムの戦略構築・クリエイティブ・事業拡大
・司法書士事務所の戦略・クリエイティブ・事業立ち上げ
・社内セミナー実績100回以上
・コミュニティ運営
・外部役員
など
他にも携わった業種や業態がありますがここでは割愛させていただきます。
大切にしていること
様々な視点
私自身は、就職してきた実績がないが為に、社会で実戦で培った力になりますが、マーケティングのフレームワークもアイデア発想も正解しか発言できない社会で育つ視点では、そもそもハマってない可能性がある。
質は数からしか生まれないと言われた私の恩師でもある福田先生(元博報堂、現在777代表取締役)
様々な視点から観察できないとインサイトが出てこない。より正解に近いであろう究極のインサイトを見つけること。3CもSWOTも思いがけない視点から分析してみれないとそもそもがズレてより正確なインサイトが出てこない。社会は、感覚で生きる社会。どう社会を観察してセンシングすることができるか。どう社会変化や時代変化を読み取ることができるか。なぜを持てるか。大切にしていることその①です。私自身今もまだまだ強化し続けています。
スーパーフラット
自分の見てきたモノが正解になってしまうゆえに職歴や学歴で上下の関係を作ってしまいそこには尊敬がなく、根本からかけ離れた方向に行ってしまう。新しいアイデアや新しい市場や価値、概念が生み出せるようになるにはスーパーフラットそういった視点を大切にしています。
私自身も若い人から教わることを恐れないを教訓にしてます。
失われた30年という言葉で片付けてはいけない
僕は、運とタイミングによりタイミングを外すことはあっても自ら読めたのであればそのタイミングをつかめれば失うを回避できるのではと考えている。ミスで持って失うほど悔しい気持ちはない。次の世代へどういったタスキで渡せるか、いい形で渡してあげたい。
noteを通じて伝えたいこと
ビジネスや人生を経営をしていく上で使える知識やメソッド、アイデアのつくりかた、上流マーケ、その他自分の体験を通じて、見てくださった方々に、少しでも新しい気付きを提供できたらと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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