「わからない」を楽しみたい
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最近、ふと思うことがある。
夜のコンビニからの帰り道とか。大学に通うバスを待つ時間とか。
「わかりやすいことが好まれる時代なのかなと」
わかる。
とってもわかる。
自分も含めてみんなわかりやすいものが好きなのだと思う。
わかりやすいも作品が好まれていると。
これまでだってそうだった。
わかりやすいことは価値のあることだと散々言われてきた。
例えば生活の身近なものもそう。
駅に貼ってある地図。レトルトカレーの成分表もそう。コピー機の取扱い説明書も。
いかにわかりやすいかが1つの尺度になってるのかなと。
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なんでこんなことを考えていたのか。
それはたぶん、「わかりやすい」ということに疲れてしまったからだと思う。
もちろん、人が簡単に分かり合えるなんて思っていない。
むしろ「人は絶対に違うからこそ、分かり合えなくて当たり前」と思ってきた。
これまでだって、何回「人は分かり合える」と思い、「わかり合えなかったか」わからない。
じゃあ、それほど「わかりあうのが難しい」ことなのかと言うと、
そんなことはない。
最近だって、これまで通りの自分の生活だった。
2ヶ月弱の単位で取り組む大学の設計課題に必死に取り組んで、6月から始まった就活において毎日のようにエントリーシートを書いて。
それだけじゃない。とても苦手で距離を取ってた人からも毎日のように詰められたり。
自分にとっては特別、環境が変わるなどの大きな変化があったとかではなかった。
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それでも。
とにかく「わかりやすいこと」を求められる中で、
自分の中で何かがひっかかったのだと思う。
もちろん伝えたいことは、僕の中にはある。
でもどこかで捻くれてしまっている自分がいて。
「わかりやすいことって正しいのか」
「そもそも、わかりやすくないといけないのか」
でも相手に伝わらないこと、わかってもらえないことで
自分が自分を信じてあげられなくなるのが怖いのだと思う。
無闇に「わかりやすさ」を追求することは
相手を迎合して自らが本当に作りたいものが見失ってくように感じた。
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じゃあ「わからないもの」を一生作り続けるのか。
そんなことは出来ない。
やっぱり見つけて欲しいし、わかって欲しいのが本音だ。
「わかる」のがどんなに難しいとわかっていても
それでも「わかってくれる人」を求めるのが人間だと思う。
いつだって逃げれる中でどれだけ自分と向き合えるのかが問われていると思っている。
自分がちゃんと作りたいものを。自分にしかない言語で。
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いつまでも悩んでいても仕方がない。
だから僕は「わからない」を全力で楽しもうと思った。
誰にも縛られず、僕の世界観で評価するものを。
究極、自分にしかわからなくてもいい。
そう思いながら毎晩のように「abstract painting」(抽象画)を描いた。
スケッチみたいに実物にいかに似せるかではなくて。
「わかりやすさ」が求められないところで表現をしたかった。
建築でも写真でも言葉でも表現できない「何か」を求めて。
毎日、やることが終わった夜中の1時から3時まで小学生のお絵かきのように段ボールを敷いて、絵の具を出してきて描いた。
幸いなことに建築学生だからいろんな道具は揃っていた。
スチレンボード、タコ糸、段ボールなど身の回りのものを使いながら描いた。
気づいたら数日でスケッチブックが一冊なくっていた。
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何枚も毎晩のように描いている中で改めて、気づいたことがあった。
分かり合えないことの方が多いからこそ
僕はいくら報われなくても、「わかる」を目指したいと。
いつだって向き合うのをやめたくなるとは思う。
「それでも伝えたい相手に伝えられるように。」
「見つけてくれる人に伝わるように。」
だから僕はもう少し「わかりやすさ」に抗っていこうと思う。
その時には「わからない」ことを楽しむことで
また「わかる」がわかるのかもしれない。
これまで以上に作ることで向き合うことを通して。
まだまだ「僕はわからない」を楽しみたい。