山水郷チャンネル #05 ゲスト:萩野紀一郎さん(建築家/能登半島まるやま組)[前編]
山水郷チャンネル、第5回目のゲストは、萩野紀一郎さんです。
Profile: 萩野紀一郎 建築家/能登半島まるやま組
1964年東京生まれ。東京大学、ペンシルバニア大学、香山アトリエ、サントス・レヴィ・アソシエイツなどを経て1998年萩野アトリエ設立。東京、フィラデルフィアで、設計および教育活動後、2004年能登に移住。住宅やインテリアの設計から、土蔵や古民家の保存・改修・ワークショップを行いながら、「里山のくらしのデザイン」を実践。金沢美術工芸大学、ナンシー建築大学ほか多くの大学で非常勤講師を歴任。2016年より富山大学芸術文化学部で建築デザイン・建築再生・インテリアを教え、「手で考えて身体でつくる」デザイン/ビルド建築教育について国内外を調査研究中。
萩野さんは能登を拠点にされながら、設計や学生への教育、地域での取り組みなど精力的に活動されています。前編では、能登へ移住するまでのお話を主にうかがっていきます。
建築との出会い
私自身は東京の郊外で生まれ育って、もし留学などをしていなければ、恐らくずっと東京に居たのではないかと思います。
父、祖父が金属関係の町工場をやっていて、親からは機械とか金属を勉強して、会社を継げと言われていました。
大学時代はアメリカンフットボールをやっていたのですが、その同級生が不器用で図面が書けなくて。僕の製図のクラスは機械製図、その友達のクラスは建築製図で、彼が本当に不器用で全く図面が書けないので、僕が図面を書くアルバイトをしてあげたんですね。そこで建築の図面っていうのは面白いなあと思って。全く白い紙に、何か図面を描いたらそこに空間とか宇宙が広がるっていうことに感動して。それで少し親とは喧嘩しましたが建築の道に進む事になりました。
建築のことを何も知らないで建築学科に入ったのですが、恩師となった香山壽夫先生をはじめ多くの先生方、先輩方や友達と、本当に素晴らしい出会いがありました。恩師の香山先生はじめ、多くの先輩や友達とは今でも深くお付き合いさせていただいてます。
親への反発もあって建築を始めたので頑張ろうと思ったこともありましたが、とにかく建築が楽しくてしょうがない感じでした。
学生時代、アメフトをやっていたこともありアメリカへ憧れていましたし、留学生もたくさん来ていたので、留学したいと考えるようになりました。香山先生に留学したいと相談したところ、留学するには若いうちに行くのもいい、あるいは、ある程度経験を積んで目的をはっきりしてから行くのもいい、しかし君はもう若い方には遅いから、私の事務所で働いてから行きたまえって。ということで大学院を出てから香山先生の事務所で設計実務を勉強させてもらいました。当時は騙されたのかなと思ったけれど、結果的には先生の言う通りで、いろいろ学ぶべきことは多くありました。
留学先、フィラデルフィアで受けた歴史とコミュニティの洗礼
事務所で働き、大学の助手をしたあと、ようやく奨学金をいただくことができ、アメリカに行く事になりました。もう27歳で結婚もしていました。
留学したのは恩師と同じペンシルバニア大学で、フィラデルフィアにあります。アメリカは日本と比べると新しい国というイメージがあったんですが、実際に行ってみると日常生活の中に古い建物がたくさんあり、生き生きと使われていました。住んでいる人達も歴史的な建物や文化を非常に大事にしていることに感動しました。
90年代の写真。フィラデルフィア・センターシティには、100年以上前に建てられた5~10階建の古い建物が生き生きと使われていることに感動した。
あとは地域のこと。当時フィラデルフィアの郊外に住んでいたのですが、コミュニティの意識がとても強く、特に子供を通じた友人との出会いがあり、多くの友人とは今でも家族ぐるみで仲良くしています。
建築教育については、日本では明治時代からモダニズム、西洋的な建築教育がスタートしてから、それまでの大工とか職人の世界と西洋的な建築教育の二重構造という感じがあるんですが、アメリカでは歴史的なものがそのまま残っていると感じました。
右上の写真は、いまでも古典建築をそのまま踏襲して銀行や公共建築を設計している先生の水彩ドローイングの授業。そのほか、ノミで石を掘ってローマ時代のローマ字をレタリングする授業など、日本ではない授業をとりました。歴史を大切にする姿勢とコミュニティーの強さについては本当に興奮して、日本のことを忘れて勉強や暮らしを楽しんでいました。
ペンシルバニア大学はルイスカーンが教鞭を取っていた大学で、カーンの弟子だった先生も多くいました。カーンは建築の根元や理念を問いながら、空間の原点に帰り、何が本質かを問いかけるところからデザインする、というスタンスでした。ペンシルベニア大学にはカーンの教えが、引き継がれていました。
またアメリカでは、一般の人々も歴史的な建築や街並みにかなり強く関心を持っていました。
東京は、戦災があって戦前と戦後がはっきり分かれていますが、フィラデルフィアでは昔の伝統がそのまま今の生活に続いている、という感覚がありました。
帰国後に受けた逆カルチャーショック
本当はそのまま永住したいと思っていたんですけど、フルブライト奨学金は学位を取った後、トレーニングとして一定期間は仕事できるのですが、それが終わったら自分の国に戻り2年間以上は自分の国に住まないといけないというルールがあります。それを覆せないかいろいろ努力したのですが、強制送還されるように日本に帰ってきました。
帰ってきた時は本当に暗くて…特に12月だったので。電車に乗ってもみんな黒い服着て黙ってるし、ひとりで話しかけて変な人と思われたりもしましたね。物理的にも窮屈で狭かったし。香山先生から事務所に戻るように誘われたのですけど、私は住宅とか手づくりの小さなプロジェクトをやりたいと考えていたので、お断りしたり…一時期は先生との関係も悪化してしまいました。精神的にも物理的にも窮屈で、まさに逆カルチャーショックのどん底でした。
日本の伝統欲が芽生え、初めて能登へ
帰国後約1年くらい悶々としていましたが、建築の仕事を通じてさまざまな職人さんたちと出会うことでだんだんと変わってきました。日本の職人さんたちは、アメリカの職人さんとは雲泥の違いで、自分の技に対する誇りを持っていて、コストが厳しくてもなんとかみんなで協力してやろうとか、伝統的な職人さんのプライドや技など、その素晴らしさに気が付かされました。そして、いかに自分が日本のことを知らなかったのかというのを恥ずかしく思うようになりました。
例えば、ペンシルバニア大学でも教えられててお世話になった丸山欣也先生を通じて、のちに土蔵修復でお世話になることになった左官職人・久住章さんはじめ、いろいろな方をご紹介いただきました。
妻のゆきは、大学で建築を勉強したあと、神保町で西洋の伝統的な製本技術を勉強し、結婚してアメリカに行ってから日本の紙漉きを現地のアメリカ人から習ったんです。日本へ帰ってきてから、狭いアパートのバルコニーで和紙を漉いて、東京麻布にあるアメリカ人のエイミー加藤さんがやっている工芸品店で売ったりしていました。
妻も逆カルチャーショックから徐々に日本の伝統欲が強くなってきて。妻が、日本で紙漉き経験をしてみたいとエイミーさんに相談したところ、その場で能登の紙漉き場に電話していただき、夏休みにちょっと行ってきなさいということになりました。
そこで多くの方々にお世話になり、「不便を楽しむ」というをテーマを掲げ、2000年の夏に初めて能登に行くことになりました。
僕も妻も東京で生まれ育ったのですが、能登で見た田園風景を懐かしいと思ったのは、先祖代々から身体に染みついてる"日本のふるさと"みたいなのが残ってたのかなって。地域のみなさんにほんとうに良くしていただいて、そのあと毎年夏休みは能登で過ごすようになりました。
滞在する為に初めて借りた空き家。掃除をしたらカメムシの死骸がスーパーの袋2、3個いっぱいになるくらいあったとか。
再度のアメリカ生活を経て、ついに能登に居を構える
その当時、東京をベースに住宅の設計をやっていたのですが、住宅というのは買うものではなくつくるものだと強く思うようになりました。アメリカで知り合った人たちの多くは、ホームセンターで建材を買って自分でつくっていました。能登でも村のお年寄りはみなさん何でも自分でやっています。そこで僕も自分でつくることに目覚めたという感じです。明治大学で非常勤講師をしていたのですが、知り合いの工務店から廃材をもらい、OBの材木屋をやっている方から材木を安く供給していただいて、小さな小屋を実際に作る授業をやったりしました。
そのころ、東京での仕事がなくなり、たまたまアメリカの知り合いの事務所から仕事のオファーがあったので、前に住んでいたフィラデルフィアの郊外に戻りました。二回目のアメリカ生活では、日本人として日本の良さをアメリカの方達に伝えるということと、アメリカの良さを見ること、両方をイーブンに楽しみながら暮らしました。
2001年に二回目のアメリカ生活を始めて三年ほど経ち、そろそろどこかに拠点を構えて落ち着いて活動していかなければと思うようになりました。自分に問い直した結果、日本の左官とか木造に一番関心があるので、それなら毎年夏休みに遊びに行ってる能登に、日本やアメリカ、世界の学生を集めて何か活動できないかなと考えました。ちょうど40歳の誕生日を迎えた日に、能登に引っ越すことを決めたのを今でも覚えています。
日本の田舎に住むことを実践する。その暮らしをどのようにデザインするかを自分の一生のテーマにしようと思い立ったんですね。妻は、子供の教育とか病院を心配して大反対でした。
能登は、半島なのでメインの街道から外れてることもあり、古いものが多く残っているし、変に俗化されてない素晴らしいところです。僕たちが引っ越した時には、まだ水道がなくて、井戸か山水で生活してました。私たちの仮住まいの横には、裏山から泉が湧き出ていて、山椒魚が棲んでいました。その山椒魚が棲むほどきれいな水を家に引き込んで生活しました。
引っ越す前までは夏だけ遊びに行ってましたが、引っ越してはじめて能登の山間部の冬も体験しました。湿気のある寒さのため腰が痛くなったり、雪囲いで家の前を全部トタンやポリカで覆ってしまうので、家の中も真っ暗だし。仮住まいは日当たりも悪くて湿気が多く、土間でマムシに噛まれるという洗礼も受けました。
最初は古い民家を買って改修したいと考えていました。しかし、日本中どこでも共通なことだと思いますが、空き家でも仏壇が残っていてお盆と正月に一族が戻ってきたり、能登の場合は敷地の中にお墓がある家も多く、先祖から受け継いだ土地と家を売るという感覚はなく、いい民家はありませんでした。それなら里山に土地を買って住まいを作ることにし、結果的に集落から1kmほど離れた日当たりのいい山林を買いました。集落の方々に手伝ってもらって木を切るところからはじめて、設計の仕事をしながら計画を進め、地元の大工さんにも手伝ってもらい、大学の先生をやっている友達が夏休みに学生を送り込んでくれたり、時間はかかりましたが、みんなで作りながら楽しく工事を進めていました。
能登半島地震発災、土蔵修復のボランティアに奔走
2007年3月15日朝、能登半島地震に襲われました。私は設備屋さんと新しい家の設備工事をやっていたのですが、最初は山鳴りがして、爆発が起こったのかと思いました。震度6強、約6000人が亡くなった阪神淡路大震災と同じくらいの規模でした。幸か不幸か能登の人口は神戸の6000分の1程度で、亡くなったのはひとりだけでした。
数日間は自分の仮住まいやアトリエの片付けに追われましたが、輪島や門前のまちなかの建物の被害の大きさを知り、これは大変だと、仕事を放り投げてボランティア活動に奔走しはじめました。
写真上段は被災時のアトリエの様子。下左は仕事でお付き合いしていた建材屋さん。右下は門前の道下地区の被災地。
土蔵の修復は、以前から知り合いだった左官職人の久住章さんが音頭を取ってくれてました。久住さんの仕事を見てみたいという左官職人さんが全国から来てくれ、アメリカ、東京、大阪、金沢、富山、いろいろなところから学生さんも泊まり込みで来てくれました。ワークショップをやりたいと思って能登に引っ越してきたのですが、まだ全然準備もできていない状態で始まってしまい、きちんとオーガナイズできませんでした。ただ、本当に貴重な経験をさせてもらいました。
輪島のまちなかの多くの土蔵は輪島の伝統的な産業である輪島塗の塗師屋の土蔵で、敷地の奥、住宅の後ろに建っている。土蔵の手間には下地作業場、土蔵の一階は倉庫、温度湿度の変化が緩やかな二階が上塗り場です。そのような塗師蔵を修復することは、左官技術の伝承、塗師文化の再興にも繋がります。漆器職人、左官職人、学生、市民のボランティアで一緒に猛烈に活動しました。
この土蔵は昭和33年と34年に水害に遭ったためと思われますが、今回の地震で足元部分の土だけが壊れ落ちました。久住章さんの指導のもと、伝統的なやり方とは違いますが、乾くのが早い日干しレンガを積み上げる方法で修復しました。みんなで日干しレンガ2000個以上作って、乾かして、間に竹やネットを入れ漆喰で抑えて崩れない工夫などが施されてます。
この一年間は、わたしとのアトリエのスタッフ二人は、仕事をほとんどすることができず、毎日ボランティアをやっていましたね。
土でできている住宅は中東やアフリカなど、世界中にありますが、土でつくるということは自分たちで作るということにつながります。土蔵をつくる工程でも、最初の段階の土をつけ作業は素人でもできます。茅葺もコミニティでつくられていたといわれてますが、土蔵ももともとは集落の人たちが集まって協力してつくっていたとのこと。鏝で抑えるなど仕上げ作業はプロの職人でないとできなそうな仕事ですが、素人でも運んだり混ぜたり、できることはたくさんあります。土や自然素材を用いた構法は、それぞれの地域で材料や労力が調達できるすばらしい伝統だと思います。
今回は能登へ至るまでと、能登へ引っ越しされてから被災を経て自宅ができるまでのお話を伺いました。
動画では土蔵造りなどの話も詳しくお話しされています。
ぜひYouTubeでご覧ください。
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