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ある程度に色眼鏡

ある程度 ってどんな感じで決めているか説明できますか?

誰かから指示を出された時や、自分で何かを判断するときに、ある程度って言葉、頭に浮かびません?

今日、ふと思ったんですけど、毎日のルーチン、ある程度の連続でした。魚の餌やりや、生簀掃除、生き物を相手にしていると、ほとんど最適解がないので、自分の経験則や、周りの状況に合わして、判断していることが多いんです。で、この判断の基準になるのが、自分の思うある程度なんです。

私の研究室の教授はよくこんなことを言います。「何でそれしてるの?」って。要は、私が取った行動に対して、事細かく理由を聞いてきてるってことなんです。意地悪とか、そう言った問題ではなくて、教授からすれば、それが普通のことであって、常に考える習慣がついているんです。

もちろん、教授も生き物相手に、餌やりとか、生簀掃除をするので、ある程度を判断基準にしていると思います。でも、そのある程度を割り出すために、深く思考していて、経験を自分の知識に変えていて、割り出したある程度は限りなく最適解に近いところにあると自信持っているんですね。もちろん、説明することもできると思います。

要するに、知恵がある程度になっているわけです。知識をなん度も積み重ねて、思考することと同様の信頼性を持ったある程度が浮き上がってくるのです。

これ、教授とは少し違いますが、技術職の人とか、職人とかもそうだと思います。自分の行っている判断を言葉に変換することは難しくて、擬音語とか、突発的に出てきた言葉になっちゃう人です。

で、私の話に戻します。お察しの通り、私、超凡脳です。凡脳の最高峰に君臨しています。しかし、私が割り出したある程度も間違っているわけではありません。だけど、説明もできないし、信頼することもできない。

ただ、脳味噌が処理機能を休ませるためだけに出した答えで、知識の重なりや、信念なんてものの微塵もありません。脳味噌に支配された奴隷なんです。

こんなんじゃ、毎日やってるルーチンで得られることなんて、何にもなさそうです。ただの時間の浪費、貴重な時間の無駄使いになってしまいます。

ただ、思考を続けることって、現実的に不可能だということも事実です。そこは、良い塩梅を見つけなければなりません。

自分の成長を考えた時の最適解は、このある程度にこだわることなのかもしれません。

いつもの、無意識的な判断に目を向けてみることも、新たな刺激になるかもしれません。人生も筋肉と同じで、昨日より強い刺激を与えてやらないと成長しません。

明日は、今日より意識的に。

20218011

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