見出し画像

扉開けると

 学校にいる人の数が減ってきた。講習において空席は目立ち、それに忙しい先生たち。いつでも俺たちは畜生なんだって感じで働いている。最近結婚したという男の先生も、英語の時間は真剣にそれを語っていた。

 ときどき、自分を俯瞰している感覚になる。天井に張り付く蜘蛛のように、少し自分より後ろから、生徒と教師と机と椅子とが規則正しく配置されていて、ペンやチョークを持っている。窓にはカーテンがかかっていて、その隙間からは雪がかぶった弓道場が見える。お昼どきになると部の子がよく雪かきをしている場所だ。

 90 分は、英語の筆記半分とリスニングをしたらちょうどよい時間である。ゆえに、快適な講習と思っている。逆に快適でないのは何だというと、まず役に立ちそうにない問題を解く時間だ。先生の昔話ならまだよい。自分がとっくに習得している分野や、レベルが適応していない応用問題を解かされると頭がおかしくなるからだ。時々おでこを触り、熱が出てないかを確認する。

 下校の時間になる。本番はここからだ。

 床がマリカ 64 のシャーベットランドみたいに滑るので、ゆっくり早くてくてくと歩く。バスは一日一度来る……ほどシビアではないが、今数秒のロスをすれば 30 分ほど家の帰りに遅延が出るからだ。体を寄せ合うカップルを通り抜けて、向かってくるおばさんを避け、横目で来ていないか確かめながら冬道を歩く、講習。

 バスはおじおばで溢れそうだ。乗り降りに一手間、座るのに一手間でバスの運転手は大変だ。ターミナルに行けば外国人が必死に英語でコンタクトをする。中年の案内人がバスを指し「プリーズ、プリーズ」と言っているのが記憶に残っている。

 最寄りのバス停で降り、家までの百メートル。信号機が一個ある。黄色い箱の丸印を押すと、車は止まってくれたり、無茶に通ろうとしたり。渡って申し訳ない気持ちになって、下を向きつつ前方へ進む。

 お家、は温かい。おかえりと言ってくれる妹がいて、おやつをつまみ食いしても何も言わない母がいる。みんな「個」だけど、血が同じだけで「集」している。見えない赤い糸。

 クリスマスだが、誰にも「メリクリ~」とは話さなかった。このようなものを俗にクリぼっちと言うらしい。他の人達は食べに行ったり誰かの家に泊まったりするそうだ。キリストがどんな顔をしてこの不思議な現代を眺めているか知りたい。

 特別な日は、日常が異常になって、当たり前が驚きと喜びの感情に変換される。一つ一つの行動に興味を持てるのは、今を生きる自分が多少なりとも好きだからだと思う。