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寛大な心

 今日、夕飯を食べている最中に「今年流行った曲ってないよねー」という話があった。確かに、去年の「Lemon」や「U.S.A.」(カバー曲だが) のような誰でも知っているようなタイトルは見当たらない。

 何度も話していることだが、最近は個性の時代だから、皆が皆で楽しむコンテンツを自ら破壊しているようにも思える。家族団らんどころではなく、父母どちらも遅くまで働き、子どもは寂しそうに冷たいご飯を食べる。努力も報われず、貧困家庭が増えてきていて、悲しいエネルギーしか循環していない。そんなもの、廻らなくてもよいのに。

 学校の廊下に座ったことはあるだろうか。皆が楽しそうにお喋りをしながら僕の前を通り過ぎていく。高らかな女子の笑い声。明らかな視線の低さからも、悲しみが心の奥から滲み出てくるのだ。

 男だろうが女だろうが、悲しいときは悲しい。サラリーマンだって泣いてもいいじゃないか。今日は上司に怒られてしまった、チクショー!と、声に出してもよいと思うのだが。

 悲しみは、ある時怒りへと変貌する。心に余裕を持てない、そもそも余裕という言葉を知らない人が目立つ傾向にある。過激なものに敏感になるのは人間の特性上仕方のないことかもしれないが、第一に他人に迷惑をかけてはいけない。

 あの人達は、大声を出すと気分がスカッとすることを知っている。だから、一度定めたターゲットに対してずっと、粘り強く執着する。自分が嫌いだと「思いこんでいる」人のメンタルが破壊するまで、機械のように死の暴言を吐き続ける。「倍返し」という言葉が昔流行したが、今回の場合容疑者は「社会」なのでどうも引っかかってしまう。

 しかし、悲しみを「癒やし」に変換することも出来る。僕の友だちに、いつも机の上にパンダのぬいぐるみを置いている男子がいる。円柱のような形をしていて、いつでもどこでももふもふできる仕様らしい。彼は受験勉強の疲労対策というが、日頃の疲れにも使えると思う。

 愛情を込めて育てないと、赤ちゃんは死ぬ――学校の教師になる者は、この残酷な実験の話をしばしばされるようだ。例えどんなに科学が発展して、デザイナーベイビー、いや人工人間が開発されても、「愛する」ことは人間なら誰でも抱く共通の感情だと思う。事情がある引きこもりでも、話を聞いてくれる人がいると安心するだろうし、僕だって誰かに愛されたいし、愛したい。このとき、愛イコール低俗とするのは良くない。マズローに言わせればの話で、いきなり崖を登れる坊やはいない。階段を 1 段ずつのぼっていっていけばよい。受け皿を広く構えた方が生きていきやすいと思う。自分で難易度をハードモードに設定する義務はないのだ。