見出し画像

書類整理が終わらない

 現実逃避の代名詞、プリントの片付け。生産的といえるかは怪しいけど、しても悪くないことだから罪悪感が生まれにくい。Google ドライブのスキャン機能を使って学年通信や授業プリントをデジタル化する作業をずっとしている。

 懐かしいものを見つけてはならない。あの日の記憶が蘇り、目の前に想い出の人物が現れるからだ。ケンカしたことや、笑ったこと。感情まで支配されると、その人にしばらく操られて作業を再開できない。

 したがって、心は常に自分の中に留めておくようみずからに言いつける。だいたい、書類は最新のものから処理すべきだ。古いものを漁ったらいくらでも出てくる。だから、今日配られた紙からアーカイブしていき、時間に余裕があれば過去のに手を付ける。

 勉強。ちゃんと向き合ったことはない。いつもやろうと思ってそのまま眠りに落ちてしまう。どうにかして、フォールアスリープする前に紙とペンを目の前に配置できないものか。

 勉強が嫌になったのは僕が高校 1 年生のときだ。中学校時代のやり方だと上手くいかない。ただの応用なのに、新シリーズが開始したようなスタートダッシュ。点数はいいわけがない。なんて俺はバカなんだと、一年で三百回くらいは死にたい消えたいと思っている。それだけじゃないのにね。

 某所から送られてきた一人暮らしの部屋のパンフレットに、社会人生活は 60 年以上ある!と書かれていた。大学卒業から 100 歳までの期間を指すようだ。少し盛っているなと思いながら、人生は長いのだと 18 歳は思う。

 狭い空間だ。学校といっても、ほとんどの時間を 100 立方メートルもないような敷地内で過ごす。毎日同じ人が同じ席に座って、同じ人と話している。話している内容は違っても、いつも同じ人の話題である。こいつバカだよね、と「インフルエンサー」が言うと、同情して「それな」「それな」と続く。ヘイトを権力に変えられる能力は、持っていても楽しい気分にはならないしなんだか残念だ。

 言葉は賞味期限が短いからすぐになくなる。けど、文章はしぶとく生きる。洞窟の壁画も真実を知らずに感銘したり、古い紙に書かれた陳腐な文が歴史的価値のあるものだったり。残しておくと、そのうち誰かが見てくれるかもしれない。そのまま捨てられて、灰になるかもしれない。しかし、現在時点ではこの地球上から消滅することはない。僕が生きた証として、これからも数多くの傷を残していくのだ。