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神は「整備された道」を販売している

 自分を劣等感の塊に感じることがよくある。何も出来ない。勉強、絵、そしてこの日記。後から見返すと痛くて辛いものばかりだ。けれど、今のところやめるつもりはない。劣等感から脱出したいのだ。

 人間は克服して成長する。だから、上達を目指すなら自分の嫌いなものばかりを行わなくてはならない。何だか、経済の授業で習った需要と供給のようだ。難しいことほど、乗り越えられる人数は少ない。このたとえだと、人間は無限にお金を持っているにも関わらず、難しいことに力を使わない状態となり、一見おかしく見える。本当は、人は無限にお金(のようなもの)を無尽蔵にあるわけではないのだ。

 今の医療技術だと、人間は生きてせいぜい 100 年だろう。生まれてからは一定制限下の自由の行使ができる。空を自由に飛びたいな、と思えば何か発明をする。お金持ちになりたいならそれなりに勉強をする。いずれも必ず叶うことはない。惜しい所まで来たのに他人に足を引っ掛けられたり、綱渡りをしているときにゴミを投げつけてくるのだ。自分が嫉妬しているから、自分は何かできないかな?そうだアイツを引き下ろそうと考えてくる。阿呆だ。

 また、解ける保証がない難題に挑戦するには自分の心を削るのがまず条件だ。商売に例えると面白くて、神などの第三者が難しいことを集めた本を売っている。暇な連中、もしくは異常な興味を示す者は喜んで自分の命の何十分の 1 と引き換えに本をもらう。最後まで読みきれずにまた新たな本を買いに行く。これは人によってよしあしが分かれると思うが、僕はどちらかというと一つの道を進んでいきたい。例え一本道だとしても、脇道を詮索したり、自分で道を切り開いていけばつまらなくないと思うからだ。可能性は無限大に広がり、人生に充実感が生まれる。

 こう考えると、神は「整備された道」を販売していると捉えられる。いわば面倒くさい人、そういうのに時間を書けたくない人のためにあるのだ。ではなぜ、人ははてなき道を歩きたがるのだろうか。それは、人の原動力が好奇心であるからだ。

 テレビで残酷なニュース――例えば、連続殺人鬼――を見ると、監視カメラの映像とか、目撃者のインタビューを見たがる人が多いと思う。そもそも、テレビ局も好奇心で番組を制作していると思うし、殺人犯も好奇心で殺してしまったかもしれない。皆の安全を守るためなど建前に過ぎない。もしくは、お金が欲しい、視聴率をとりたいという好奇心である可能性もある。元放送局の自分でも、最近のテレビ番組にはあまり関心できない。下心が見え過ぎなのだ。

 もう、自然のために生きるのは疲れた。ゴミを分別するのも億劫に思える。周りのことが考えられなくて、自分が生きている間だけ平和ならいいのかな、とすら思ってしまう。これは一般には危険思想なのだろうか。マナーってなんだろう。何のために物事を追求するのだろう。僕たちは電子で、強い静電気力に引き寄せられているのかもしれない。実は誰かの操り人形で、見えない糸で遊ばれているのかもしれない。全て、自主性のない僕が悪いのは確かだ。