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何もしない時間をつくる

 半熟卵はおいしいが、半熟な考えは多くの人に受け入れられるだろうか。大半の人は結論か、それに至った過程を求めている。結論が出ないとその過程は存在しないから、結論に至っていない考えは過程でもなんでもないのだ。ただの独り言だとしか、意味上ではそう捉えるしかない。

 僕は声や文字にしながらあれこれ整理したり工夫することしかできないから、いわばパソコンや紙に外部領域を割り当ててこの文章も作っている。外付けに頼ってしまうのもこの半熟が原因と思われる。だから、何もしない。何もしない時間をつくるのだ。

 瞑想といったら宗教くさいだろうか。無宗教の僕ですら、一人で無を感じる時間が欲しい。五感を忘れさり、自分の奥底にいる自分と対話するイメージ。福永武彦の「鏡の中の少女」でも似たような自分同士の会話のシーンがある。天使の自分と、悪魔の自分か。僕の両肩に乗っかってきて、たわいないことをああでもないこうでもないと戦わせる。もちろんその間僕は気が抜けたようにぼーっとしている。整理の時間だ。

 自分の場合、一時間もあれば八割はすっきりする。残りは迷宮入りや難問の類だ。人はなぜ生きているのか?どうせ死ぬなら、苦しい今死んじゃえばいいんじゃないか?よけいに病みそうだから、あまり考えたくないという理由もある。

 外部との接続を遮断すると、やることが少なくなるから整理できるんだと思う。ここにご飯があって、その手前に箸があって、と位置情報もいらないし、早くお風呂入れともせかされないし、騒がしい兄弟のことも気にせずに済む。自分だけの世界。どんな場面でも一瞬にしてつくりだして、すぐ将棋盤をひっくり返せる。選択を誤ったらセーブポイントからやり直す。ぜんぶ、ぜんぶ都合の良いように……。

 整理と逃避は同じものだろうか。「今」を受け入れていない点では同じだが、整理はまず誰でも必要で、欠かしてはならないことだ。やはり、やるべきことをきちんとやっている分には逃避とは言えなさそうだ。これで安心安心。

 そう、こうやって黙りこくっていると昔の嫌な記憶もよみがえってくる。抜いても抜いても生えてくる雑草のように、除草剤をいくら吹きかけても耐性をつけてまたにょきにょき生えてくるのだ。いじめられたこともあるしいじめたこともある人にとってはひどいネガティブな感情だ。黒歴史も全部溺死すればいいのに。

 殺虫剤も高級品を使ったほうがいいだろうか。今後百年、自分が死ぬまでに成長しないようにしてやればいいのか。なんだかいら立ってきて、隣に人がいたら迷惑をかけてしまいそうになってきた。やはり、こういうめんどうな物事を考えるときにはひとりでいたほうがよさそうだ。