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目上を疑い、自分を信じよう

 「勉強」というものに気づくともう怖いものはない。まず、勝手にこれは難問だとか、そんな難易度なんてあまり気にしなくてよいと思う。全ては教科書に書かれている基礎で、そこからタワーをつくるようなことだからだ。ある程度のひらめきも大事だが、発想も全てベースがないと始まらない。

 「もう時間がないから基礎はできないけれど」と言った先生がいる。これはどういったものか。いきなり小学生には微分積分を教えない。極端かもしれないが、実は勉強のできない生徒はこのように「高嶺の花」現象が起きていることがある。できる人とできない人とで、同じ「悩む」でも、解法を考えるのでも段階が変わってくるのだ。

 実際、その分からないことは調べればすぐに出てくることばかりだからわざわざ先生は解説しないし、だいいち、そんなところでつまずかまいと確信さえしていそうだ。これが生徒と先生の意識の違いにも関わってくる。そもそもの話をするときりがない(まず、授業の一コマが 45 分だから)ので、いわゆる断捨離をする気持ちもわかるが、それが新分野の入り口だったらどうだろう。重要な考え方も理解できず、何をどうしたいのか、クーロンは何者なのかさえ意味不明となり得る。これは普段勉強をせず、授業だけで乗り越えてきた真面目な人たちに散見される。結果論、先生に幽閉されて洗脳教育を受けていることになるのだ。

 そんなときに頼りになるのが外部の講師だ。家庭教師でも塾の先生でもいい。学校という団体に属していない人なら誰でもよくて、物事を再度理解できる環境が出来上がるからだ。

 この前、「船を編む」( 2013 )  という三浦しをん原作の映画を見た。辞書作りの話なのだが、劇中で「右」の定義は?という質問を投げかけられる。あなたならどう答えるだろうか。ちょっと考えてみてほしい。


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 まじめに考えると難しいが、簡単に考えてみるとよい。広辞苑には「南を向いた時、西にあたる方。」と書いてある。また主人公のある仲間は「数字の 10 を書いたとき、ゼロがある方向」とこたえた。余談ですが、「舟を編む」はこういった興味深い内容の映画です、旧作なので皆さんもぜひ借りてみてください。面白いです。

 いろいろな考え・教訓があると思うが、僕は「物事の考え方は複数ある」というのを大切にしたいと考えている。同じ数学を学ぶとしてもアプローチはたくさんあるし、関数の類はほんとうにシンプルに問題解決する手段の一つだと思う。だから、もちろん他の技術を行使して解くこともできるはず。

 いまこそ、先生の発言をちょっと疑ってみたい。経験則(自己啓発)よりまず自分で考えてみるべきだ。