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絵の魅力とその価値のあり方

 シンプルな部屋に絵を飾ると嬉しい気分になる。人が時間をかけて描いたものはそのかけた時間以上見つめていられる気がする。ただし実際は一瞬目を向けるだけのほうが多いので、とてももったいない気もしてくる。

 絵を描いたのがたったの 1 時間で落書きに相当するとしても、その作者はこの絵だけ絵を描いているわけではない。子供のころか学生のころかはわからないがそれからの小さな積み重ねが今の絵にひっそりと隠れている。だから人によって系統は似ていても同じものは一つもないし、その人自身の分身ではないかと思うことがある。そして、絵を描いたときの心理状態もそれに現れているとしたら、それは写真や動画よりもリアルで、情報量が非常に多い媒体になり得るのではないか。鶏が日々卵を産むように、人も絵を描き残していったらいいと思う。

 文字もその人の個性が現れるが、それはあくまで癖の問題だ。日本語なら漢字・ひらがな・カタカナを使うのは共通だから、その時点で各人が表現したいことがある程度丸まってしまう。そして「言葉」という抽象的で具体的なものに無理矢理にでも当てはめる必要があるから、もうこれで自分の言いたいことは腐って風化してしまっているのだ。だからこうやって長文を書き様々な語彙を使うことである程度ロスを軽減することができる。文章の上手い人は共感できる内容どうこうよりも、このロスが少ないから臨場感が湧き、いわばライブ会場でノリノリな気分にさせるのが得意なのだと思う。

 絵を描くにはまずアタリを描いて、次は顔のパーツを……としがちだが、あくまでこれは顔を書きやすくするための一つの方法論に過ぎない。へのへのもへじを描くにあたってアタリを取る人は見たことがないし、それだって「文字」を絵に使っているのに結果として僕たちはそれを「絵」と捉えている。このことから、絵は文字を内包していて、普段は隠れているということもできるだろう。美しく見えるカーブも実は文字や記号の一部や正葉曲線などの関数のグラフを切り取った形が、そう綺麗に見えているだけだ。

 ただし、絵は線だけではなく当然色もある。実は、この世には色というものがない可能性があるという。生物という教科をとっているわけではないのだが、僕たちは可視光線、人間の網膜で読み取ることが出来る光の波長の範囲をふだんからキャッチしていて、そのキャッチする細胞が 3 つほどありそれらがそれぞれ別の範囲の光を脳に色として変換している仕組みだそうだ。人間側、クライアントで各自読み取っているわけでから個体差が出てくる。その変数は光から細胞、細胞から脳、脳から手(目)と複数経由して出力されるため色使いが人によって異なるのだ。それを個性と呼び、絵の評価にもかなりの影響を及ぼす。光は重ねていくと白くなるが、色は重ねていくと黒くなる。人が描いた、つまりバイアスがかかっている絵を好きになり、それと似たような絵を描いてそれまた世が評価すると、いったいこれは白に近づくのか、それとも黒に近づくのか。

 幸い、地球にはイラストレーターなり画家なる人は溢れるほど存在するからそんな極端な結果を及ぼすことはない。ただし、商業が絡んでくると別だ。少し前にフリー素材提供サイト「いらすとや」の絵が各地で過剰に使われていて、絵を本職とする人が苦しい状況に追い込まれたというニュースを見た。これはアダム・スミスの提言した需要と供給の考えに基づくと「市場の失敗」にあたる。これまで描き手と業者がある量と金額で均衡していたのが、突然無料でしかも膨大な量の素材が市場に投入された。おかげで利潤を追求する会社は絵さえあればよいので、わざわざお金を払って絵を購入する必要が消えたのである。寡占は必ずしも良いとは思えない。

 すべてを自分のものに染め上げたい野望をもっていても簡単にいかないのが普通だ。だが、かのサイトはそれを簡単に成し遂げた。どこ行ってもいらすとや。商品に注目は集まるのかもしれないが、自分の周りが支配者に占領されているような気分になる。僕はその絵が嫌いなわけではないが、今の絵市場の現状に納得がいかない。絵はその人の半生そのものであり、誰か一人の伝記だけをずっと読みたくはないからだ。どんな偉人でもテイストが微妙に違っているから読み比べ、比較が面白い。寡占と言ったってソニーと任天堂(とマイクロソフト)の強豪が競合しあってより良いものを生み出しているから、絵にもそのような健全化をしてほしいのだ。

 ただ競争させるならより高品質な素材を大量投下すればよいが、それは絵の有料化の終焉を意味する。人の労働力がお金になるならこれまで歩んできた人生もそれなりの価値があるはずだから、全てを無料にするのは今の社会ではおかしいと思う。お金ではなくても良い。身の回りのデザインも、誰かの人生の鑑だ。だれかが頭をひねってくれて僕たちの生活が豊かになっているのだから、せめてみな、このことに気づくべきだ。そして、次は僕たちが人を豊かにさせていく番なのだ。