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模試とユーモア

 受験生となるとこの時期には模試が恒例行事のように毎週開催される。成績が思うように伸びずにいる学生を支援してあげるためだと思うが、完全にインプットできていない状況で挑むと悲惨な結果になる。自己採点をして今回もここが駄目だった、とその時は反省して、次の模試でまた失敗を起こす。模試はいい商売だとまでは言わないけれど、上手く作られているなあと感心する。

 模試が憎いわけではなく、ただ受験生は職業:学生として紙と向き合うということを示唆してくれる優しい教材だ。源氏物語などの古文は原本が残っておらず、いくつかの写本によって現代に伝えられているが、模試はセンターや大学試験問題の写本で、そのままだと勉強にならないと少し装飾を変えたり、表現方法を裏返して書き写したものと言えるだろう。古文は忠実に「模擬」するとよいとされて、入試問題は「模倣」される運命にある。どんな問いにも素早く応答できるように、確率をわざわざ列記していると思わせる手段で迷える子羊のお尻をぽんと押してやっている。

 準線と焦点の話の如く、物事は三位一体なようであらゆる角度から覗き込むことができてそこから切り裂いて中身を見ることすら可能だ。真実はいつも一つだが、真実の前には経緯がある。加法定理があって三角関数の合成があるのと同じで、どのようなルートで通っていっても結局終点にたどり着いた、それが「一つ」の結論といえるのが面白い。「ベクトルは遊び」と言っていた先生もいたが、始めと終わりさえ一致していればいくら寄り道してもよいのだ。「終わりよければ全てよし」はこれを示している。例えば、先生に勉強を教えてもらっても独学で学んでも得るのはどちらも数学なり物理なりの知識と経験値だ。

 模試は高校生が作っているわけでも、大学生が作っているわけでもない。河合塾や進研・駿台の先生の頭脳を経て作成された傑作といえる。だから一度読んで満足するモノとして認知するのはよろしくない。ご丁寧にも解説書まで付属することがほとんどで、内容も教科書に勝る部分もあるから読まなければ損だ。まだ高校生の頭ならスポンジのようにどんどん知識を吸収できるだろう、どうせ使わないと思っている教科は一種のゲームと思えばいい。短時間でどれだけ覚えられるか、などつまらない遊びをしているだけで立派な受験勉強になるのだ。真面目にやっている方には申し訳ないが、少しぐらい学びにユーモアがあってもよいと思っている。