区切りのあとも、淡々と。
実は、この記事が100本目の記事です!
…と、書いてはみたものの、別に何があるわけでもなく、しかもnoteを始めたのが約2年前なので大体週に1本くらいのスローペースで更新している(上に途中だいぶご無沙汰していた期間もある)ので、あんまり特別なことでもないのかなあとか。
ただ、別に生活が懸かっているわけでもなく、熱烈に要望されて書いているわけでもない、内容も生活感が溢れすぎているものを100本も淡々と書きつづけた自分に「すごいな」「何をしているんだろう」という気持ちは湧く。
このnoteを始めた頃と、自分の環境も気持ちも大きく変わった部分がたくさんあって。掃除や自炊を今まで以上にせざるを得なくなり、物を処分せざるを得なくなり、働き方が変わり、貯金ができるようになり、電子書籍も利用するようになっている。全部、受動的な選択ではあるけれど。
けれど、生活への向き合い方は、あんまり変わっていない。私の基本は面倒くささだ。どうすれば面倒じゃなくなるか。いかに自分の体や心を使わずに、快適な暮らしをしていくか。その快適な暮らしも、あくまで私の基準の快適が守られればいいや、という感じ。丁寧な暮らしとは程遠いけれど、まあぼちぼち楽しく暮らしています、母さん。
面倒くささの基準で行くと、文章を書いて写真を選んで更新するなんてことは、面倒くささの極みだと思う。実際にやる気力が起きなくて更新していない時期もあったわけで。
けれど、なぜだか、書くことからは離れられない。
書いて気持ちの整理をつけているのは昔からだ。書いて初めて自分の心が可視化される感じ。悔しいことも悲しいことも、書くことで少し落ち着いたり、やっぱり怒りや悲しみは変わらなかったり。書くことは、自分を知ること。そんな気がする。
仕事も書く仕事を選んでいるし、仕事じゃなくても書いているし、愚痴や不満を口に出すのが苦手な私にとってはそれらを吐き出すためにも書いている。もうここまで来ると、才能の有無に関係なく、息をするとか心臓が動く、みたいな自我とは別のものが動かしていることのようにすら感じてしまう。そんなことは全然ないのだけれど。
そんなものだから、これからも私は書き続けるのだと思います。
推しの引退を聞き放心状態のまま気持ちをTwitterで吐露しnoteで書き綴ったのだから、どうやったって書くのだろう。1年が終わってもまた次の1年がはじまり淡々と生活が続いていくように、100という区切りのあとも淡々と続いていくのだ。
決して、これからも見てください!と自信を持って言えるものではないけれど、「ああ、自分よりも怠惰で、それでも生活をしている奴がいるなあ」と思いたい時はまた読みに来てもらえるとうれしいです。多分、これからもずっと、面倒くさがりな書きたがりなので。