長慶金山跡探訪記
秋田県と青森県を隔てる山塊の一角に、かつて長慶金山と称された金山跡があると言う。その名称からも伺えるように、南朝三代長慶天皇に由来すると伝承される。長慶夫皇は後村上天皇の皇子で、在位は1368年(応安元年)から1383年(弘和3年)までの16年にも及びながら、歴史上はその実在が永く不詳とされ、1926年(大正15年)に初めて第98代として皇統入りが認められた謎の多い天皇である。
一方、長慶金山はというと、江戸時代には佐竹家(秋田藩)の隠し金山として何人かの山師に請け負わせていたが、中でも伊多波 武助なる人物が最も著名であり財もなしている。ところがこの伊多波 武助、日常の行動に忌諱に触れるところがあり、隠し金山の存在が幕府に発覚することを恐れた佐竹家によって、突如として請山の返還を命ぜられた。
豊富な鉱脈になお末練が残る失意の武助、いつか許される日のために金山の存在を秘匿しようと考え、数十人とも二百人ともいわれる坑夫を坑内に残したまま、坑口を閉ざして後で目印となるよう、桐の木を植えて山を下りたと伝わる。
時代は下り、多くの山師がこの坑口を探して深い山塊に踏み入った。そして決まって山中での露営中、夢の中で武助の非道を訴える大勢の坑夫の怨嗟の声を聞き、うなされて目を覚ましたと聞く。戦後も昭和の30年代後半から、多くの人々がこの山塊で実際に金山跡を探している。地元自治体でも何度か調査隊を送っており、いくつか坑道らしきものや、鉱石を砕くために使用されたと見られる石臼などが発見されたものの、残念ながら決めてとなる手掛がりは得られていない。
入山が困難だったこの山塊にも、昭和52年に、7年の歳月をかけてようやく林道が完成した。秋田県と青森県とが結ばれ、車で山塊を越えることが可能になったのである。長慶金山跡と見られる場所には、この林道から2.5キロほど山中に踏み入れば良いと知り、私の心はときめいた。
この山塊付近には金山跡だけではなく、長慶天皇に関わる地名や伝承がやたらと多い。山中には長慶森や長慶峠、長慶沢、長慶平、秋田県側の麓には長慶寺という古い寺、山塊を越えた青森県側の麓には、実に長慶天皇の墓と伝わる塚や、長慶天皇を祀った上皇宮まで存在する。私はこの種の伝承に何故か惹かれる。若い時分に山岳部に所属し、百名山のような人気スポットだけではなく、こうしたマイナーでも奥が深く、自然が手つかずで残っている山塊にも出かけたことが多く、おのずとその土地の伝承に触れる機会に恵まれたことも影響しているかも知れない。その伝承が事実かどうかよりも、なぜその土地にそんな伝承が残っているのか、そうした歴史的背景に興味が尽きないのだ。
30代半ばの頃、ようやくこの伝承地や史跡を訪れる機会に恵まれた。まずは秋田県側から探訪することとし、最初に気になっていた長慶寺に立ち寄った。非礼にも何の前触れもなく突然訪ねたのであるが、長慶寺のご住職からは、寺の歴史や伝承を詳しく聞かせていただいた。
曰く、寺伝によると開創は862年(貞観4年)、天台宗の僧が田代岳に十一面観音を納めて草庵を結んだことに始まると言う。退位して上皇となっていた長慶上皇が、1383年(弘和3年)陸奥に下り、いわゆる長慶金山を開発したことに伴い栄えたが、やがて金山が衰退するに及んで廃寺になった。金山はこの後、佐竹氏が秋田に入部する江戸時代までその詳細は明らかではない。
寺はその後、1457~1460年(長禄年間)に長慶庵として再建され、1555年~1558年(弘治年間)には万年山長慶寺として曹洞宗に改められた。なお、この間何度か移転や火災に見舞われたものの、慈覚大師作と伝えられ、本尊の胎内に納められている胎内仏十一面観音像はその都度運び出されて、現在も寺宝として保存されていると言う。
想定を超えた話しの展開に、つい予定していた時間を大幅にオーバーしてしまったことを気にしつつ、いよいよ本命の長慶金山跡を目指して山塊の林道に車を乗り入れた。田代岳の下を流れる渓流に沿う原生林の景観に目を奪われつつも、要所要所でポイントとなる景観のデジカメでの撮影と、2万5千分の1の地図による位置確認を怠らなかった。何せ、カーナビもスマホも無い時代のことである。しばらくそうした作業を繰り返し、やがて金山跡があるとされる長慶森と思しき山容が目に付いた。迷わず車を止め、デジカメでの撮影を試みたが、何故かシャッターが切れない。それどころか、突然あらぬ所に向かって勝手にシャッターが下りるという事態が生じた。
実は私は、以前青森県下北半島の恐山でも同様の現象に遭遇したことがある。恐山のあるスポットを撮影しようとしたところ、突如デジカメが暴走したのだ。慌てふためいていたところ、偶然通りかかった若い寺僧が声をかけてくれた。一笑に付されるだろうと覚悟しつつ訳を話すと、その僧は笑うどころか真摯に頷きながら、以下の話しを聞かせてくれた。
恐山は夏場こそ大勢の観光客で賑わうものの、冬場は麓の街からも隔絶され、寺を守るために何人かの僧が寺で越冬する。すると、理屈では説明できないような現象に遭遇することも珍しくはなく、自分たちは素直にそれを受け入れている。この世の中には不可思議な出来事が間違いなくあることを、自分たちは体験として知っている。また、人は誰でも縁のある人知を超えた存在によって守られており、そうした存在は凶事に合わないよう様々な形でそれを人に伝えてくれる。今回の現象はそれ自体が不吉なことではなく、そのような示唆であると自分は思う。信じて従った方が良いと…。
往時の出来事を思い出したことと、麓の長慶寺で予定時間を大幅に超過してしまい、これから山中に踏み入るには時間が押し過ぎていたこともあって、初めての長慶金山跡探訪は断念する破目となった。なお、麓に降りてから試しにデジカメのシャッターを押してみると、やはりと言うか、何の支障もなく撮影できたことを一応記して置く。
それでも長慶金山跡の探訪を諦め切れなかった私が、2度目にそれを決行したのは翌年の同じ季節である。前回のトラブルを考慮し、今度は青森県側から探訪することにした。
まずは、長慶寺同様気になっていた長慶天皇の墓と伝わる塚と、その御霊を祀った上皇宮、並びに后である菊理姫の墳墓であるとされる白山堂を訪れた。この塚は、旧宮内省により1888年(明治21年)に御陵墓伝説参考地、1908年(明治41年)には御陵墓参考地に指定されている。伝承によると、長慶上皇がこの地に潜幸し崩御され、供奉の人々も多く移ってきて子孫が定住した。その人々の姓氏は今も津軽地域に遺る地名につながっていると言う。
なお、皇胤の子孫は代々、大峰派修験として堂宇を守り、明治初年に神官となって石田氏と称した。その石田家には、俗に石田家文書と呼ばれる古文書が伝わっており、それによると退位後の長慶上皇の足跡は以下となる。
・1373年(文中2年)8月・・・吉野を出て紀伊玉川の宮に潜幸
・1376年(天授2年)4月・・・伊勢気多郡に遷幸
・1381年(弘和元年)・・・海路常陸に上陸後、伊達白河を通って南部糠部郡に遷幸
・1385年(元中2年)11月・・・津軽紙漉城に移り、紙漉御所と称す
・1403年(応永10年)6月・・・膝の傷を病んで崩御、六十歳、上皇廟堂を建立して祀る
また、津軽藩三代藩主の側室は、長慶上皇七代の裔にあたる常照院盛養の娘であると伝わる。
長慶上皇の墓と伝わる塚については、昭和10年6月、旧宮内省次官を委員長とする臨時調査委員会が設置され、他の御陵墓参考地と共に調査が進められたが、特定には困難を極めた。最終的に昭和19年2月1日、京都嵯峨野の元慶寿院址が長慶天皇御陵に勅定されたが、それとて明確な根拠に基づくものではないと聞く。南北朝統一後に南朝の皇族が京都へ戻っていること、長慶天皇の皇子である海門承朝が慶寿院に住んでいたことからの推測に過ぎず、長慶天皇陵とされる嵯峨東陵に至っては、勅定後に新たに造営されたものと言う。
その塚を前にした時、恐れ多い話しではあるが何故か怨念のような禍々しい気配に襲われ、不本意ながらも早々に立ち去った。上皇堂や白山堂には特にそうした気配はなく、津軽地域で良く見られる素朴なお社といった趣だった。そして気持ちを新たに、長慶金山跡探訪のリベンジを果たすべく、山塊の青森県側麓に位置する西目屋村へと車を走らせた。前回の探訪では入山前に想定以上に時間を取られ、肝心の山中探索の時間が危ぶまれた事態を考慮し、今回は麓の温泉で一泊し、万全を期した次第である。
翌早朝、再度金山跡を目指していよいよ本命の山塊へと車を乗り入れた。長慶金山跡があるとされる山域は秋田県に属し、事実、江戸時代は秋田藩の手によって運営されていた。しかし、かつては寧ろ青森県側のルートがメーンとも言え、山師も坑夫も多くは津軽人だったと言う。前回同様ポイントとなる地点での撮影と地図上での位置確認を怠らず、しばらく走行するとやがて県境の道標が目に付いた。金山跡があるとされる長慶森へと向かう林道は、県境より大分秋田県側から分岐しており、その前にトラブルに遭遇したため、前回はこの地点までは到達できなかった。記念に車を止めて撮影する。やがて長慶峠に到達。今回は時間に余裕があることもあり、ここでも長慶峠と刻まれた碑を撮影。デジカメにも以上は無い。良し、今回こそはと私の心は期待に躍る。
その後も順調に車を走らせ、いよいよ念願の長慶林道が分岐する地点に到達し、撮影後、遂に車を乗り入れた。ところが長慶林道を数分程走った辺りで、突如バーンという大きな音がして、車のハンドルを取られた。慌てて車を止め、車を降りて何事かと確かめると、右側の後輪がパンクしていたのである。通常タイヤは、例えパンクしてもすぐさま空気が抜けることはなく、慎重に運転すればある程度の距離は走れるように作られている。ところがものの見事にぺちゃんこになっており、パンクと言うよりはまるで切り裂かれたようにも見えた。
もちろんスペアのタイヤは積んでおり、すぐさま履き替えはしたものの、あくまでそれは応急処置に過ぎない。当時乗っていた車のスペアタイヤは、その幅が通常のタイヤの半分強しかなく、これではとても峻厳な山の林道を走り続けるには危険が伴う。
失意のまま、距離が短い秋田県側の麓の街まで慎重に車を走らせ、地元の方に教えていただき、最も近い修理工場を訪れた。工場の方からは、どうすればこんなふうにタイヤが避けたような状態になるのか良くわからないが、これでは修繕は不可能と告げられた。それでも親切な方で、たまたま工場にあるからと同型の中古のタイヤを無料で提供して下さり、工賃しか受け取らなかった。かくして私は、2度目の挑戦でもリベンジを果たすことはできなかったのである。
こうした事態に遭遇しても、なお私の長慶金山跡探訪への情熱は醒めなかった。どうしても諦めきれず、さらに翌年のやはり同じ頃、3度目の挑戦を決行したのである。もしも前回、前々回入山した時のトラブルが、いつか恐山の寺僧が語ったように、人知を超えた存在からの何らかの示唆であったとしたならば、ここまでそのご意向に逆らったらさすがにもう見捨てられるに違いないと、半ば自分でも苦笑しつつ…。
3度目は初心に返って、距離の短い秋田県側から入山した。地理感も距離感も未だ残っており、今回は順調に車を走らせる。やがて前々回にデジカメが異常をきたした地点に到達した。異常は無い、時間も十分。そしていよいよ長慶林道が分岐する地点に到達…、した途端、唖然としてしばらくそのまま呆けてしまった。何と、長慶林道への取り付き口が大掛かりな工事中で通行が遮断されており、車を乗り入れることが叶わなかったのである。
私の車には、雨露を凌げるツェルトを始めとしたビバークに必用な最低限の用具は積んである。こうなったら車はこの地点に留め、工事現場を沢を登って巻いて、ビバークを前提に徒歩での探索も辞さない覚悟で必用な装備をザックに詰めていると、私の様子を眺めていたらしい作業員の一人が声をかけてきた。
何をするつもりなのかと問われ簡単に事情を話すと、怪訝な表情で忠告された。作業員たちは工事に当たり、当初は工期を短縮するため、山中で寝泊まりできるように飯場を設けて作業していたのだと言う。ところが、何故か悪夢にうなされる作業員が少なくなく、これでは作業に支障が出かねないと、工期には目を瞑って今は麓の街に分宿して作業を進めているのだ言う。私が独りで山中に入り、キャンプでもするつもりかと案じて、念の為に耳に入れてくれたのだそうだ。
彼らは山麓の住人ではなく、長慶金山伝承を承知している訳ではなさそうだった。であるが故に余計に始末が悪い。これではまるで、かつて多くの山師が幻の金山の坑口を探してこの山塊に踏み入り、夢の中で生き埋めにされた大勢の坑夫の怨嗟の声を聞き、うなされて目を覚ましたと言う冒頭に記した話しを彷彿させるではないか。あの話しは現実で、且つ、現在もなお続いていると言うことか…。
縁も所縁もない私にここまで忠告してくれるということは、彼らの戸惑いは相当なものだったのだろう。さすがに私の情熱も失せてしまった。忠告してくれた作業員に心から礼を言い、心残りながらも私は来たルートを引き返した。こうして3度目の探訪もやはり叶うことはなかったのだ。
結局私は、長慶金山跡の探訪に三度挑戦し、三度共撃退されたことになる。それが現代までなお残る、生き埋めにされたという坑夫達の怨念のなせる業か、それとも単なる偶然に過ぎないのかは、正直なところ断言はできない。ただ、何らかの計り知れない力が作用した結果であろうと、心のどこかで感じていることも否定はできない。いわゆる超常現象や、地方の片隅に伝わる伝承など、端から信じるに値しないと言う方にとっては戯言に過ぎないだろう。だが事実は小説よりも奇なりという諺もある。どこかでそれを信じる、いや信じたい自分がいる。
長慶金山跡には、以降一度も訪れてはいない。ただ、ほとぼりが冷めた頃、果たしてそれがいつなのかは知る由も無いが、もしも機会があったなら、今でも再度訪れてみたい場所の一つではある。
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