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テコンドー韓国代表に背中蹴られたアゼルバイジャン人(ガシム・マゴメドフ)の話

 パリ五輪が終わりました。
 男子-58kg級では韓国代表のパク・テジュンが優勝して金メダルを獲得するのですが、残念ながら決勝戦でアゼルバイジャンのガシム・マゴメドフ選手との試合が物議を醸すような試合となってしまいました。

マゴメドフが背中を蹴られた話

 曰く「パクテジュンは故意にマゴメドフの足を蹴って負傷させた卑怯者」

 これについては、最初の負傷シーンをスローで見ると分かるように、パク・テジュンがマゴメドフの足を蹴ってしまったのは偶発的なバッティング(現行のルールではお互いに蹴りのタイミングが重なって足がぶつかった場合は下段蹴りとはみなされずに反則ではない)だったりします。
 なので、審判はぶつかった後に転倒したマゴメドフに対して「カムチョン(減点)」を出しています。

 曰く「負傷したマゴメドフの背中を蹴るのは死体蹴りであり無礼である」

 最後のシーンもスローで見ると、パクの中段横蹴りに対してマゴメドフが足を上げながら距離をつぶした事で序盤に負傷した左脚に当たっており、これについても審判が反則の判定を出していない通り、現行のルールでは偶発的なバッティングとみなされます。
 そのため、バッティング後に後ろを向いて逃げたマゴメドフに対して審判は「カリョ(別れ)」を掛けて試合を止めて「カムチョン(減点)」を出せば、2ラウンド目に累積5減点でマゴメドフの敗退となった筈だったのですが、パクテジュンは「カリョ(別れ)」を出す前にマゴメドフに対して横蹴りを蹴ってマゴメドフをコートから追い出してしまいます。

 WTテコンドーはルール上、コートの外に出るか転倒すると「カムチョン(減点)」になる為、相手がバランスを崩したら横蹴りで相手をコート外に出したり転倒させたりする事が多くあります。
 パク・テジュンも相手が4減点なので、もう1つ減点を取れば2ラウンド目が取れる(=2ラウンド先取なので金メダル獲得)という事は頭の中に入っていて試合をしていたと思います。恐らく、そういった状況下に咄嗟の判断で、横蹴りを蹴ってしまったものと思われます。
 胴防具は背面まで覆っている事から、背面を蹴ってはいけないというルールは無く、「カリョ(別れ)」が掛かる前の蹴りである事から、当該行為はパク・テジュンの反則にはならないのですが、マナー的にどうなのか? 礼儀知らずでは無いのか? と、主にアゼルバイジャンと日本(の嫌韓界隈)で炎上してしまった訳です。

 これについての個人的な意見は「イデフンだったら蹴らなかった」です。

 イデフンはアジア王者に5度、世界王者に3度輝きながら最後の最後まで五輪金メダルには手が届かなかった韓国テコンドー史にその名を遺す偉大な名選手です。多分、若い頃のイデフンなら今回のパクテジュン同様に蹴っていたと思いますが、キャリア晩年の彼だったら相手が背を向けた段階で攻撃を止めていたと思います。
 ベテランならば蹴らなくても審判が「カリョ(別れ)」を掛けて、相手に場外の反則を取れば其の段階で勝ちになるのだから不要な蹴りは蹴らないという判断が出来たでしょう。
 ただし、その判断を二十歳でオリンピック初出場の若者に要求するのは酷だと思います(逆に言うと、イデフンはこういう場面で詰め切らない紳士だったから遂に五輪で金メダルが取れず仕舞だったとも言えますし、こういう勝負に対する冷酷さや非情さが無ければパク・テジュンはジャン・ジュンやベ・ジュンソと言った世界王者経験者を複数抱えた韓国の代表にはなれなかったでしょう)。

マゴメドフがマジでヤバい

 今回のノートで言いたいのはそんな話では無くて、ガシム・マゴメドフが滅茶苦茶良い選手だったという事です。
 個人的には準決勝でイタリア代表のヴィト・デラキーラを変則中段回し蹴りの連打で屠ったシーンが今回のオリンピックのハイライトでした。デラキーラは東京五輪の金メダリストで優勝候補の一人でしたから、彼を破って銀メダルを獲得したガシム・マゴメドフの強さが光ります。

 手元にデータが無いので正式な数値は不明ですが、恐らくガシム・マゴメドフの身長は175㎝前後です(唯一見つかった2016年の世界ジュニアのデータでは165㎝となっていました)。-58kg級で175㎝というと決して大きい方ではありません。

 電子防具化により長身選手が有利とされてきた近代テコンドーにおいて長さの優位を完全に克服した選手がガシム・マゴメドフなのです。

あのダゲスタン共和国出身

ロシア連邦の南西部で最南端、カスピ海西岸に位置するダゲスタンは多数の民族で構成され、周辺の侵略に多くさらされた戦いの歴史を持ち、『格闘が全てを決する』という言葉があるなど格闘技が盛んな土地だ。

ほぼ“身内だけ”で世界の格闘界を席巻 ダゲスタン共和国出身の選手が「強すぎる」

 アゼルバイジャン出身のガシム・マゴメドフですが、生まれはロシア連邦ダゲスタン共和国でした。多民族国家のダゲスタンにおいてアヴァール人テコンドー家の父親に3歳からテコンドーを仕込まれたマゴメドフは、13歳の時にカデットのロシア代表キャプテンとして国際大会にデビューすると、2015年にアゼルバイジャンに移住するまではロシア代表として活躍しました。2016年に世界ジュニアで銀メダルを取得。
 シニア転向後は世界選手権やグランプリなどの大きな大会では中々勝ち切れないもののオランダオープン優勝など国際オープンを中心に優勝を重ねてキャリアを積み重ね、グランドスラム優勝によってパリ五輪出場権を獲得。そして、パリ五輪での銀メダル獲得によってアゼルバイジャンから勲章が授与されました。

 ちなみに、リオ五輪で女子-49㎏級で銅メダルを獲得したパティマット・アバカロワもダゲスタン出身のアゼルバイジャン人です。

マゴメドフのヤバい試合

 マゴメドフの武器は高い身体能力から繰り出される多彩な蹴りと、試合の終盤でもペースが落ちない心肺能力です。かつてオールドスタイルと呼ばれた後ろ足主体のテコンドーにも似ていますが、僕個人としてはガシム・マゴメドフのテコンドーは俗にいうオールドスタイルとは似て非なるスタイルだと思っています。
 オールドスタイルと呼ばれたテコンドーは高い瞬発力から繰り出される素早い蹴りを持っていましたが、2分3ラウンド同じペースで蹴り続ける事が出来ないという弱点を持っており、試合時間の内の大半の時間をステップと駆け引きに費やしていました。その為、前足主体で省エネしながら2分3ラウンド絶えず前足で蹴りを出し続けるカットスタイルが登場すると、電子防具化や上段3点化(中段は僅か1点!)の向かい風もあって、オールドスタイルは淘汰されていきました。
 一方、ガシム・マゴメドフはオールドスタイルの選手の様な蹴り技の多彩さを持ちながら、カットスタイルの選手の様な持久力を併せ持った全く新しい世代の選手なのです(同じ系統に後期型のイデフンやべ・ジュンソが居る)。そして、そこにダゲスタン人特有の圧倒的な強さを持ったフィジカルと闘争心を兼ね備えたテコンドー界最高のファイター。それが、ガシム・マゴメドフなのです。