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腑に落ちなかった「断琴」の交わりが、一応の決着を見た日

「断琴の交わり」と聞いて、思い浮かぶのが

● ハリー・ポッター
● 漢文の教科書に載ってたやつ?

のどっちになるか。そんな世代チェックも今はできるらしいです。

中国故事由来の「固い友情」を表現することばとしては、管鮑(かんぽう)の交わり、断金の交わり、刎頸(ふんけい)の交わり、金石の交わり、水魚の交わり ⋯⋯ と、「~の交わり」系だけでもいろいろあります。

そんな中で、ハリポタであえて「断琴の交わり」を使っているのには、それなりに意味がありそうです。(ハリポタは名前しか知らないので、これ以上の言及は避けます ^^; )

それはともかくとして。

「断琴の交わり」ってどんな話でしたっけ?

中国の春秋時代( 前8C - 前5C )のこと。

琴を弾く伯牙(姓が伯、名が牙)には、彼が琴の音色で表現していることを「以心伝心で」理解してくれる、鍾子期(姓が鍾、子期は字)という親友がいた。しかし、鍾子期が先に亡くなってしまう。

「私が琴を弾く相手はいなくなった」と、伯牙は琴を壊し、生涯二度と琴を弾くことは無かった。

大体このような形で高校の教科書には載っていて、タイトルが「知音【ちいん】」( この故事から「親友」の意味になっていることば)となっていることが多いです。

とかく学校というところは、パフォーマー(=ここでは伯牙)の方に焦点が当たる世界ですから、「聴き手の鍾子期さんの方に焦点が当たってるよね、これ」と感じ、珍しいなと思いました。(高校生だった当時)

でも、そこがちょっと斬新かなと思っただけで、「友情のお話」としてはどうなんだろう、とあまり腑に落ちなかった記憶もあります。だって ⋯⋯

「琴を弾く」伯牙の親友、鍾子期としては

自分が死んでも琴、弾き続けてほしくない?
「お前にとって、琴とはその程度のものなのかっ !!!!!」
⋯⋯ ってスポ根ものじゃないけれど。

「科学的な説明ができないエピソード」盛りだくさん時代のあるあるで、

・一度、伯牙は琴をやめたけど
・ある日、鍾子期さんが夢枕に立ち
・「私は、お前の琴の音の聴こえる所にいつもいる」的なことを言い
・「私が間違っていた!」と、再び伯牙琴を弾く

そんな「鍾子期死後話」を期待していたんだろうな、と。(当時はそこまでつっこんでは考えませんでしたが ^^; )

まあ、どうなんでしょう。そこで「断琴」するから友情なんだというのが本文の示すところですし、そちらに納得のいく方もいるはずです。でも、私は

「不断琴の交わり」だった方がよかった派

です。みなさんは、どうでしょうか?

そもそもこのお話、同じ話を取り上げている『呂氏春秋』(孝行賢第 2・本味)と『列子』(湯問第 5・12 )とで、「鍾子期が死んだ」以降の有る無しが違うんです。

『列子』には「鍾子期が死んだ」以降の話はなく、伯牙と鍾子期の以心伝心の様をより丁寧に描いているだけです。

どちらの本が先に書かれたのかは微妙な状態らしく、「鍾子期が死んだ」以降の話が「付け足し」なのか、はたまた「削られた部分」なのか判断がつきかねます。

まあ、そういうことなのであれば、「その後のお話」は好きに想像してもいい! ということでしょうか ^^♪ チャンチャン


▶▶▶▶▶ 以下、ここまでの話の流れ的には蛇足です ^^;

なぜ今「断琴の交わり」なのか

思い出してみたら、結末がスッキリしていなかったことまで思い出してしまい、主題がそっちに移ってしまいましたが。

今なんでこのことばを思い出したかというと、この頃すごく note を「読む」ことが楽しくなっているから、です。

「読む」ことで、自分の頭の中だけでは出てこない発想・着眼点が得られる。それによって、以前よりも柔軟に考えられるようになり、「書く」ことに変化が出てきたように思うのです。

note を始めてまもない頃にも「読む」ことに意識は向いていたけれど、多分に「自分の書いたものを読んでもらうために」読んでいる感じでした。

確かに「ここで」書くのは、誰かに読んでもらいたいからということには、変わりはないです。でも、読んでもらえるようなものを書いていなければ、読まれることはないわけで。

「読む」方が充実すると「書く」方も充実する、ということを実感しているんです。というか、私は「読む方に長けている」人間なんだって。そんなふうに思って、このお話を思い出したのです。

受け手がいるから演者がいる

『呂氏春秋』ではこのお話、「そもそも、優れた者が優れた者たる所以は、彼を理解する者があるからだ」ということばに続いて語られます。

本当に「受け手の方に焦点が当たった」話だったんだなあ、とじ~んとしました。

演者と受け手、両方必要。
で、自分は「受け手」能力の方が高い。

だから、「読む」ことにもしっかりと焦点を当てようと思いました。

冒頭の、ハリー・ポッターとのつながりも驚きでしたが、ネットで「高山流水」と検索しますと、何やら動画が出てくるんです!

なんとこれは、伯牙作と伝わる曲なんですって 🌟

ほらほら、伯牙さん、「受け手」は鍾子期だけじゃなかったんだよ!

こんなふうに何かを語り継いでいくそのひとりとして、「読む」そして「書く」をしていくということなんだな、と思いました ^^

およそ賢人の徳は、以て之を知るもの有ればなり。
―― 凡賢人之徳、有以知之也。

≫ ≫ ≫ ≫ ≫ ≫ ≫ ≫ ≫ ≫ 『呂氏春秋』孝行賢第二・本味 より


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【参考サイト・文献】
● 『国訳漢文大成. 経子史部第20巻』国立国会図書館ウェブサイト
 コマ番号 126, 347
● 小林勝人 訳註『列子』下 岩波文庫, 1987 年, p. 45 - 46