私説-新ベトナム史解説『秦・始皇帝の南越始末』
以前、「中国〈広東・広西〉とベトナム〈広南〉について」で、ベトナム古代史を取り挙げました。⇩
「『甌駱(オウ・ラック)国』は、『百粤征服令』を出した秦の始皇帝に降伏します(BC214)。このとき「百粤・甌駱」は、「南海(広東)、桂林(広西)、象郡(北越)」に分割され秦の支配下に入った。」
チャン・チョン・キム氏編『越南史略』より
百粤(ひゃくえつ)地方とは、現在の中国湖広地方(中国湖南省、広東省と広西省)辺りのことです。
元々この地に在った文郎(ぶんろう)国を、BC257年に蜀王伴という人物が滅ぼしました。自ら安陽王(アン・ズオン・ブオン、An Dương Vương)を名乗り統治した国が『甌駱(オウ・ラック、Âu Lạc)国』。
しかし、蜀王(=安陽王)はBC214年秦に降伏した為、上述の如く此の辺りは始皇帝によって3分割されました。
BC210年に始皇帝が死去すると、秦本国から南海郡(広東)に派遣されていた官尉壬囂(じん・きょう)が周辺地域を占領し、独立国家建設を試みますが、道半ばで病に倒れます。官尉職を引き継いだ部下の趙陀(ちょう・だ)が後に兵を起こして安陽王を追放し甌駱国を接収、再度一つに纏めて『南越国』を建てたのです。
これがBC208年、始皇帝の死去2年後の出来事でした。
結局、この南越趙王も5代目の時に秦の次の漢にBC111に滅ぼされて、南越国は漢によって9つに細かく分割されたのでした。
と、、、ここまでが中国に伝わる数々の歴史書からベトナム人歴史家陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏が纏めたベトナム正史なのですが。。。
私は以前この『秦~漢時代の南越支配時期』を読んで何か違和感がありました。話が出来過ぎている。。。🙄🙄
時代は変遷しても人間の感情や心理、行動はそんなに変化するものではないでしょう…とアレコレ考えて、閃きました。
”これは、もしかして始皇帝のヤラセか??” と。。。😅
3年前位に、高校歴史教師の友人に電話で私の『始皇帝の南越始末』を披露すると、友人は「あっはっはーー!!!」と大爆笑。「いやーー、主婦の妄想は凄いね~、暇なんだね~。」と冷やかされて以来封印してましたが、よく考えたら自分の意見発表は自由、なのでここnoteに書いてみます。
先ず『正史』を、ベトナム歴史家陳仲淦氏編『越南史略』から簡略に抜き出します。
「1、趙武王(紀元前207-137年)
癸巳年(紀元前207年)、安陽王を滅ぼし甌駱国を接収した趙佗はこれを南海郡に編入し、国号を「南越」、自ら「武王」を名乗る。
首都は現在の広州城の側、「番禺(バン・グ)」。
2、武王、漢氏の冊封を受ける
この頃支那大陸では、劉邦が秦を退け楚を攻め滅ぼして天下統一、皇帝となった劉邦は「漢高祖」を名乗る。漢高祖は、乙巳年(紀元前196年)に使者を派遣して南越国に冊を封じる。
3、武王、武帝を名乗る
戌午年(紀元前183年)漢高祖が世を去り、皇后呂后が朝廷の実権を握り、実子の惠帝と争った。この機に南越武王は武皇帝を名乗る。
呂后の死後、帝位を継いだ漢文帝は南越の趙武帝へ仁慈礼儀に適った書面を送り服従を促す。武帝もこれに応えて帝号を捨て、南北の往来は昔通り友好な関係を続けた。甲辰年(紀元前137年)趙武王は世を去る。史書に武王は享年121歳、在位期間は70年間とある。
5、趙文王(紀元前137‐125年)
趙武王の嫡孫胡(こ)が王位を継ぐ、これが趙文王、在位期間は12年間。才乏しく弱々しい質で先王に遠く及ばず、在位2年目に閩越王(現中国福建省)が南越国境付近へ進軍した際には漢に出兵を要請した。
漢の大軍を見た閩越軍は、閩越王の首を撥ねて差し出し降伏。これで漢王は使者を立て趙文王に宮廷参内を要求したが、文王は自分の見代わりに皇太子・嬰齋(えい・さい)を送り出した。
嬰齋は、その後10年間漢朝廷で暮らし、丙辰年(紀元前125年)趙文帝死去の為に国へ帰り王位を継いだ。
6、趙明王(紀元前125‐113年)
嬰齋が即位して趙明王となる。在位期間は12年。既に漢で妾を取り男子を儲けていた。この妾樛氏を王后、子の興を皇太子とした。
7、趙哀王(紀元前113年)
趙明王が死去し、皇太子の興が王位を継ぐ。趙哀王、在位はたった1年。
時の漢王が南越国に遣わした使者安国少季は元々樛氏の愛人だったため、南越で再会して旧情を結んだ2人が結託し、南越を漢へ献上するようにと哀王を惑わす。2人の企みに気が付いた丞相官・呂嘉は、各地へ檄を飛ばして漢の使者と樛氏、哀王をも打たせ、王位は趙明王の長男建徳が継いだ。建徳の母は南越国の出身。
8、趙陽王
建徳が即位し趙陽王となってから約1年程後、漢武帝が南越討伐を命じ5軍団が南越に攻め入る。呂嘉は陽王を連れて逃げ落ちるが、途中臣下共々殺されてしまった。この時、庚午年(紀元前111年)。漢は南越国を占領し、交趾部に改称、9つの郡に分けた。支那大陸の他郡州と同じように統治官が置かれた。」
以上です。
それで。。。、これは少し話が出来すぎじゃないのかな~、と素朴な疑問を持ちました。何故なら、
⑴いくら始皇帝が死んで秦が衰退だと言っても、それまで海外赴任のような立場だった人間が、独立して国を建てようと思うだろうか?
⑵ 趙陀も秦の官吏。結局独立後の『南越国』に秦の律を導入した。あたかも単に本店(秦)をたたんで南方に小規模の秦が誕生したよう。
⑶ 漢文帝の時、皇太子を友好国の漢へ送り、皇太子は何故10年間も南越国に戻れない?
⑷ 漢人の妾と子供を祖国南越に連れ帰り、正式な王后と皇太子に?
⑸ 漢の使者が王后の元の愛人で悪いのは愛人と王后の2人なのに、何故に哀王もついでに一緒に殺された?
などなど…、不自然な点があまりに多い。
最も不自然なのは、友好国の漢へ行った皇太子嬰齋が10年間も漢宮廷に滞在し、漢人と結婚し嫡男の興をもうけたこと。どう考えても計画的な長期遊学じゃないでしょうか。😅
10年間も漢で生活した嬰齋は確実に”親漢派”で漢人妻と子供を祖国へ連れ帰って王后と皇太子に据えますが、この2人はその後の南越滅亡前に仲良く消えて(=殺されて?)いるのです。。。
これはどう考えても迎えに来た漢の使者(=愛人役)と、南越の閉国騒動前に3人で一緒に漢に戻ったとしか思えない、だって元々漢人だもの。😅
その後即位した趙陽王(母が南越人)は、またまた臣下と共に消え(殺され?)、ではここで『趙家』の血筋は絶えたのか?といえば、私はこれも怪しいと思います。。。
趙陀には元々仲始(ちゅうし)という嫡男がいて、『安陽王の金亀神伝説』によれば螺城内の井戸で投身自殺したので孫の胡(ホ)が即位したことになっています。この胡=趙文王が、何故か皇太子を漢へ送った張本人。ですのでこれはもう、趙本家の仲始は早々フェードアウトし、別の血筋が入れ替わったような気がします。そうでなければ、趙武王死後のいかにも漢頼みの国家運営は不自然だと思うからです。
結局、趙陽王の時BC111年に漢に占領され南越国は見事滅亡し、今度は『交趾部』と改称されて9つの郡に分けられた訳です。。。
纏めますと、
蜀王伴が文郎国を亡ぼして安陽王に即位し『甌駱(オウ・ラック、Âu Lạc)国』を建国したのがBC257年。
秦始皇帝死去(BC210)後に、配下の趙陀(ちょう・だ)が南越国を建国したのがBC208年。
漢が大軍を送り、南越国が滅亡したのがBC111年。
BC257~111⇒約146年。この間に、
秦の臣下2人が協力して『南越』建国、政治体制は『秦律』⇒ 南越趙王2代目は3代目(皇太子)を漢へ長期遊学へ ⇒ 妻も漢人で漢宮廷生活の長かった親漢派の3代目 ⇒ 4代目は迎えに来た漢使者と母と共に騒動前に何処へ消え ⇒ 最後の5代目だけ母が南越人、漢の軍隊に追われ都落ち途上臣下と消え ⇒ 漢が南越占領、『交趾部』へ改称の上9つの郡に分割。
へそ曲がりの私が『正史』を読むと、どうもこんな解釈になります。😅
それで、この146年間の後でベトナム史がどうなったか、、、
ジャーン!(笑)
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『北属時代(=この後1000年支那大陸征服王朝服属時代)』へ突入
こうなると、どうもこの⇧ための準備期間だったのではと思えます、或いはこれさえももっと別の大きな計画の準備期間とか。。。?😅
ここで落合莞爾先生の『金融ワンワールド』(2012)の記述から引用させて頂きますと、⇩
「秦氏も古イスラエル北王国の十支族の末裔ですが、海部・物部の両氏とは異なり、シルクロードを通って、やや遅れて日本列島に渡来しました。」
「秦氏とは大秦帝国の国名を族称としたもので、本姓は「呂」と考えられ、秦始皇帝の実夫とされる呂不韋一族の末裔です。有名な話なので簡略にしますが、宝石商人だった呂不韋は、たまたま遭った秦の王子政に注目し、「奇貨居くべし」として自分の種を孕んだ姫を与え、生まれた子は秦始皇帝になります。」
こうして、再び南越史⇧に戻って見ると、案の定「呂(りょ)」性を持つキーパーソンの登場が確認できました。
『7、趙哀王(紀元前113年)
…時の漢王が南越国に遣わした使者安国少季は元々樛氏の愛人だったため、…2人の企みに気が付いた「丞相官・呂嘉」は、各地へ檄を飛ばして漢の使者と樛氏、哀王をも打たせ…
8、趙陽王
建徳が即位し趙陽王となってから約1年程後、漢武帝が南越討伐を命じ5軍団が南越に攻め入る。「(大夫官)呂嘉」は陽王を連れて逃げ落ちるが、途中臣下共々殺されてしまった。』
『秦』氏が『大秦帝国』の国名の族称で本姓が『呂(りょ)』とすれば、『呂性』の人物『呂嘉』が、この時南越宮廷の側近として在り、南越王室の逃避行に2度も関わっていたキーパンソンなのは偶然なのか、否特別な意味があるのでは…、と勘繰ったりします。
更に想像を進めると、親漢派『南越国』に居た『呂嘉」も元々漢からの派遣官僚だった可能性を考えると、『漢=秦』とも云えると思います。
そうして纏めると、
始皇帝の百粤・甌駱征服・3分割 ⇒ 秦の衰退で『南越国』建国・独立 ⇒ 秦滅亡・漢建国・漢と南越国は冊封関係 ⇒ 南越は超親漢国、3代目皇太子の時に漢へ10年間長期遊学 ⇒ 南越滅亡前に南越王と王后(漢人)が「呂」性の臣下に追われ消息不明 ⇒ 最期の南越王も「呂」性の臣下と共に消息を絶つ ⇒ 南越国は滅亡、「交趾部」に改称・9つに分割
結果この様になりましたので…、もうこれは初めから全員グルじゃないの…、と私には見えます。(笑)ですので、今回のタイトルを「私説-新ベトナム史解説『秦・始皇帝の南越始末』」としてみました。
更には、始皇帝に降伏したとされる『甌駱(オウ・ラック)国』の安陽王(アン・ズオン・ブオン、An Dương Vương)も、元々は出自不明の蜀王伴という支那人で、
「甲辰年(紀元前257年)、各地を平定した蜀王は、自らを「安陽王」と称して、国号を「甌駱」と定め、「封溪」(現福安省東英県)に都を置いた。その2年後の丙午年(紀元前255年)に、螺城を築城したが、この城は、高さがあり外部から法螺貝の様にしてくるくると中へ入って行く造りになっていたのでこう呼ばれた。現代にも、福安省東英県古螺に史跡が残る。」
『越南史略』より
紅河デルタ(河内(ハノイ、Hà Nội)の直ぐ近く)に、螺旋(らせん)状の城塞(Thành Cổ Loa、古螺、コ―・ロア)を築いた不思議な人物なので、やっぱり何か秘密があると思います。
これはまた後日、暇人主婦の空想😅を書いてみます。。。