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仏印”平和”進駐の『第2次近衛文麿内閣』外務大臣松岡洋右のこと その(1)

 本当は、『本の登場人物と時代背景に関する補足説明(19)』にしようと思っていたのですが、調べ物をした自分のノートを見返していましたら、この部分を結構詳しく調べてあったみたい(←加齢でボケてます。。)ですので、一つ単独記事にして見たいと思います。

 松岡洋右氏というのは、正直言って外交官としての資質が、当時の日本のレベルにあっては桁違い過ぎたのか、というのが仏印史を調べて見た私の持つ印象です。ですから、逆に当時の敵国側(勿論今では友好国です、念のため。)から見れば、『あいつだけは、相当ヤバいよ』とマークされてしまった筈で、戦後は『満州国不承認をした国連に啖呵を切って、勝手に国連を脱退して日本を戦禍に引きずり込んだ大悪党』だとレッテルを張られてしまったのかと思います。又、松岡洋右氏と言いますと、ついその外交手腕にばかり目がいき、それ以外を話題に出す人が少ないのですが、外務大臣に就任する少し前の国内での政治運動はかなり過激なものです。それは、『政党解消運動』と言いました。読んで字の如く、『何の役にも立たない政治家の為の政党を無くせ』、というような内容です。例えばですが、⇩
 「御承知の通り、私は昨年の十二月八日以来、政党解消を唱えております。ところで、今の日本の、否、もはや長年の間の日本の弊の一つは、人間が小利口になったということであります。私が政党解消論を提げて起つや、ことに東京邊の小ざかしい人たちの多くの、「途方図もない脱線としたものだ、左様なことが出来るものか。」などと云って嗤っていそうであります。」
 「実に人間というものは、ことに今日の日本のインテリ階級の大部分は、あさましいまでに浅虚であります。帝国議会で泥仕合が始まろうが始まるまいが、そんなことは問題じゃない、あんなことは、知りたければ幾らでもある。私は四年間政党におって、夙くの昔から大体を承知しているが、あれはただ一部分が出ただけのことだ。(拍手)あの全部が真実であるかどうか、それを一々立証することは私の責任でもなければ、またそんな面倒な責任は、今日この忙しい私に、とれるものでもない。けれども、凡そものというものは、見れば判る。見てどの程度まで既成政党が堕落しているか判らぬ人は、その方がどうかしている。それはただ個人個人が腐敗し、堕落したというだけではない。既成政党そのもの、その組織自体からして悪いのだ。仮に私が明日、政友会の領袖の一人になるとか、または総裁になれば、恐らく終にはあの通りやりましょう。当然やらざるを得ないのであろう。
 まず一文無しでは選挙が出来ぬ。それは普選以来、更に甚だしくなって、今日の政党では、莫大な軍用金の要ることは、あなた方も夙に御承知である。そうして清浄な金を持って来る人ばかりなら洵に結構だが、そうは行かぬ。動もすると利権と交換するとか何とかして、因縁でとる。したがって今日の既成政党は、如何にも詐欺師や泥棒の集まりであるかの感を抱かしめるのであります。しかし政党人といえども、皆が皆、詐欺師や泥棒ではありませぬ。否、個人個人についてみれば、まことに情の厚い人もあり、立派な人物もあって、強いて悪いことをしようという人は少ないと思う。が、如何にせん彼らも人間である。道心の堅固なものも薄弱なものも、すでに戦いに臨む以上はは、政戦であろうが、実戦であろうが同じこと、負けようと思って戦いに臨む莫馬鹿は一人もいない。それが人間本来の心理である。
 それから、今日の政党というものは、畢竟するに源平の戦いをして居るのであります。政党ではなくして、私党、朋党、更に云えば、泥棒の集団である。松岡はひどいことをいうと仰る方があるかも知れませぬが、説明します。泥棒とは、ただ金を盗ることだけが泥棒ではない。泥棒の中の泥棒は、理由なくして、またその資格なくして、政権をとるものである!この意味において政党とは泥棒の集団なりというのは、敢えて私の創設ではない。政友会総裁としての故犬養毅氏が、たしか政友会内閣の出来る二カ月くらい前であったと記憶しておりますが、今日の日本の政党は政権争奪団体であると、明白に云っておられる。もし此処に政友会会員が居られて、これに対して不平があるなら、その不平があるなら、その不平は、犬養さんのお墓へ行って仰しゃい(拍手)。政権を争奪するということに、政権を泥棒するという以外の意義がありますか。私は、犬養さんという人は洵に好きな人だった、時々真実のことを仰しゃる方だった。(笑声)」

松岡洋右述『何が危機か?青年を祖国を見直せ』(昭和9年)より

 ちょっと長いですが、引用しました。何か、全然古くないものに思えますので。。(笑)
 しかし、これを読んで私がしみじみと感じたのは、もし自分が松岡洋右のような明晰な頭脳とアメリカ仕込みの鉄壁のディベート力(彼はアメリカオレゴン大学卒業です。)を以て、批判される既存政党政治家の側だとすれば、絶対に『これは、ヤバい。。。』とびくびくすると思うんですよね。。敵国側でも、国内でも、『あいつ、相当ヤバい、、」となんとなく意気投合してしまう環境のように感じるのは、私だけでしょうか。。
 脱線してしまいますので、話を仏領インドシナに戻します。また、何時か松岡洋右の国会議員時代の『政党解消運動』に関しては、別途詳細記事に纏めたいと思います。
 
 日本軍の『仏印平和進駐』を成功させた政権は、『第2次近衛文麿内閣』です。この時、松岡洋右は外務大臣に抜擢されました。この近衛文麿氏は、最近何故か急に悪玉説が飛び交ってますね。しかし、ベトナム抗仏史だけ見れば、クオン・デ殿下とファン・ボイ・チャウの起こした東遊運動の留学生を全部引き受けてくれたのが、近衛文麿氏の御父上、近衛篤麿侯爵らの設立した『東亜同文書院』の東京目白『東京同文書院』(=旧制目白中学)でした。近衛篤麿侯爵は、公武合体方針を取り、安政の大獄に連座して左大臣を辞した近衛忠煕公の孫です。維新後、貴族院議長、枢密院顧問官を歴任し、日露戦争後は、日清同盟論を唱えて明治31年東亜同文会を組織されたということです。あの当時、どんどんと日本へ渡航してくるベトナム革命党の若者や私費留学生を、全部受け入れて面倒をみてくれたのですから、当時のベトナム人達にとってはどんなに嬉しく、有難かったことかと思います。
 近衛文麿氏に就いては、何時か別途まとめてみたいと思います。

 さて、1940年7月16日に外務大臣に就任した松岡洋右下の、仏印平和進駐周辺の動きを、時系列に拾ってみます。⇩

7月23日 ベルリン大使館杉原千畝らへ「ヨーロッパ方面から日本経由でアメリカ渡航するユダヤ人のビザ発給に関して」通達電報にて指示を開始。
8月22日 在外大公使含む外交官40人へ帰朝命令。日本外交を、それまでの「専門的な学術的特権技術」という秘密主義外交からの大刷新を敢行する。
8月27日 小林一三商工大臣の蘭印派遣決定(オランダ本国の対ドイツ敗北後の日蘭貿易増進基本条約協議の為)
8月30日 松岡・アンリー協定議決(日仏協調の友好条約=仏印の南方共栄圏入り)
9月22日 松岡・アンリー間で、日本軍の平和進駐決定(西原・マルタン協定) 
9月27日 日独伊三国同盟締結(モンロー主義を掲げる米国の欧州戦参加を抑制)        
1941年
1月24日 泰仏印国境紛争への日本調停受理(間接的に、英米支援の反ピブン派による国境線錯乱行動を抑制)
3月11日 日本の調停で、泰仏印両国が国境紛争調停に調印
3月12日 渡欧
4月13日 松岡‐スターリン会談 日ソ中立条約調印
5月 6日 日仏印経済協定調印(仏印経済の南方共栄圏入り)
7月16日 第2次近衛内閣総辞職で、外務大臣の任を解かれる

⇧ここで、興味深いのは、松岡洋右が外務大臣に就任して、まず一番初めにやったことは、当時ベルリン大使館にいた『杉原千畝氏』への指示だったことですね。何故なんだろうか、、、と疑問に思いましたので、あの有名な『命のビザ』の杉原千畝外交官の職歴を見て見ました。⇩

1920-1923 朝鮮籠山歩兵79連隊12中隊入隊
1924 任外務書記生として満州里、ハルビン勤務
1932 満州国外交部特派員公署事務官
1937 ヘルシンキ公使館勤務
1939 リトアニア カウナス領事官開設拝命
1940/7より ユダヤ難民への日本通過ビザ発給開始
1940/11 ルーマニア ブカレスト公使館勤務拝命
『杉原千畝記念館 杉原千畝関連年表』より

 杉原氏は、陸軍軍人がキャリアスタートですね。。。そして、満州国の事務次官ですので、この頃に松岡洋右とも懇意の間柄になったのかと考えられます。そして、ユダヤ難民へビザを発給開始した時期が、松岡洋右外務大臣就任直後から外務大臣解任までとぴったりとリンクしているのも、ちょっと興味あります。。。。
 一応、上記太字の補足説明です⇩

『在外大公使含む外交官40人へ帰朝命令』
 → 「外交を技術的なものにせず、国家の全力をもって外国とわたりあって行こうという松岡の主張」で、この大整理の実務を行ったのは、外務省の大橋次官だった。」『包囲された日本』より

『オランダ本国の対ドイツ敗北後』
 → ドイツ軍は、1940年5月にオランダも占領します。オランダは、ド・ゴール将軍の自由フランスと同じく、亡命政府をロンドンに置き、そこから命令を発していました。ですから、この時のこの英領蘭印の現地政府との交渉は、極めて難しい仕事でした筈でしょう。しかし、結局訪蘭印すれど殆ど成果をあげられずに帰国した当時の小林商工大臣を、非難する声は日本国内でも多かったそうです。

『松岡・アンリ―協定議決』
  → 「「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」において仏印に対する日本軍の軍事的要求を仏印に容認せしめる(中略)為の外交交渉は、東京において松岡外相とヴィシー政府により任命せられていたアンリー仏国大使との間に進められ、8月30日原則的諒解が成立し、両者の間に公文が交換せられた。」『大東亜戦争全史 服部卓四郎大佐編- 鎮南関をめざして』より   
  → 「「仏印静謐保持」という思想は、仏印におけるフランスの主権維持と仏印領土保全という原則を謳った「松岡・アンリー協定」を期限とする。」『ベトナムの国家と民族』立川京一氏論文より

『西原・マルタン協定』
  → 仏印側マルタン大将、日本側西原一策陸軍少将。ハイフォンのホテル・クメルクにおいて:
1、トンキン州に於ける数個飛行場の使用
2、日本軍若干兵力の駐屯
3、場合に依る日本軍のトンキン州の通過
4、日本戦闘部隊の入国          『鎮南関をめざして』より

『泰仏印国境紛争への日本調停受理』
  → 「同日バンコックにおいて、首相官邸の盛大な祝賀会が催され、ピブン首相は演説して曰く「我らは日本の誠意と友情に感謝する。今回満足すべき条約を成立し得たのは、一に我らの実力と日本の後援によるものである。我らは日本と提携し、あくまで東洋平和のため邁進せんとするものである。」」
『包囲された日本』より

『松岡‐スターリン会談』
  → 「同年12月24日には、日本国泰国間友好関係の存続及び相互尊重に関する条約を締結、本年に入っては、3月11日、仏印・泰国国境紛争調停に成功、その翌3月12日には早くも独伊枢軸国を訪問の旅に上り、ベルリン、ローマに於いてヒットラー総統、ムッソリーニ首相と親しく膝を交えて、世界新秩序の建設に就いて隔意なき懇談を遂げ、その帰途モスコーに於いて、スターリン党書記長と会談、真に電撃的に日蘇中立条約を締結したのである。」日本国際協会発行『松岡外相演説集』(昭和16年)

『第2次近衛内閣総辞職で、外務大臣の任を解かれる。』               
  → この経緯については、第二次近衛内閣の時の外務省顧問で、ご自身を当時の松岡洋右にとっての『最高補助者』と呼ばれた、旧会津潘出身の斎藤良衛博士のご著書『欺かれた歴史』(2012年)に詳しいです。

仏印”平和”進駐の『第2次近衛文麿内閣』外務大臣松岡洋右のこと その(2)|何祐子|note
 
 
 


 
 


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