満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』⑤ ~フランスのインドシナ征略(2)~
フランスが安南王国南部即ち現コーチシナに着々その勢力を扶植していた時、カンボジアに於いては国王ノロドムがタイに操られた王弟シ・ヴォタのため王位を簒奪され、王位回復の機を狙っていた。機を見るに敏なラグランディエールはこの好機を見逃さず、巧言を以て王位回復を条件とし王と保護条約を締結した。一方タイと交渉し、遂に1847年タイがカンボジアより割譲されたバッタムバン及びアンコールに於ける宗主権を認めることを条件とし、之が保護権を承認せしめた。1867年7月15日の仏暹条約がこれである。
カンボジア、コーチシナを確保したフランスは、2邦を以て南支進出の根拠地となさんとし、その航路を求むべく1866ー68年の3年間を費やしメコン河の探検を試みた。その結果メコン河の遡航は非常に困難で、南支方面への進出路は寧ろ紅河であるとの結論に達し、フランスの眼ははじめて東京(トンキン)に注がれるに至ったのである。
当時に於けるトンキンの情勢は、阮王朝の衰微により国内大いに乱れ、政略には絶好の機会であったが、フランスは普仏戦争(1870-71)の直後でもあり、又共和制(1870年9月4日)が布かれて日がなお浅かったため遠征を避けんとする傾向が強かった。
しかしここに一事件が勃発し、フランスにこれが政略を敢行する決意と口実とを与えしめたのである。即ちこの頃雲南に回教徒の反乱が有り、フランス商人ジャン・ドピュイは雲南政府に武器、弾薬を輸送すべく紅河を利用せんとし、紅河遡航の許可を安南人官吏に求めた。安南人官吏は之を順化(ユエ)に報告したが、容易に許可が下りぬので業を煮やした彼は、無断で紅河遡航を敢行し輸送を行った。ジャンは莫大な錫を満載して帰り、再び塩を積んで雲南に再航する準備を行った。然し塩は安南政府の専売であったため、官吏は彼の出発を禁止した。ジャンは之を不法としコーチシナ知事デュプレにその応援を要請、一方同時に安南政府は知事に対しジャンの不法を詰問し且つ彼の即時撤去を求めたので、知事は現地に於いて之を解決すべく、1873年海軍大尉フランシス・ガルニエをハノイに派遣した。…ガルニエは安南政府に対しジャンの即時出発を要求する旨の最後通牒を発し、期限切れるやその薄弱の兵力にも拘らず、敢然総攻撃を開始、11月19日ハノイを占領、続いて疾風迅雷の如くトンキンの主要都市を手中に収めた。驚愕せる嗣徳(トゥ・ドック)王は直ちに和平に乗り出す一方、清朝のその保護を要請した。
遠く秦の始皇帝の南越征略(BC214年)以来、安南に宗主権を主張する支那はこの請を入れフランスの勢力を駆逐せんがため、「黒旗軍(太平党)暴動の残留分子」に命じ之を討たしめた。意外の応援軍の奇襲に遭ったフランス軍は、総崩れをなし、指揮官フランシス・ガルニエは1873年12月21日乱戦の裡に戦死を遂げた。…1874年3月15日に平和条約が調印された。
…安南は、自国の力では危険と考え、清朝に援助を求めた。コーチシナ知事は、…海軍大尉アンリ・リビエールを同地に急遽派遣した。僅か2中隊を引率せるリビエールは同地到着後、安南の依頼で出動せる清軍の即時撤退を要求したが容れられず、遂に清・安連合軍を向かうに廻し戦火を交えるに至ったが、衆寡敵せずフランス軍は破れ、彼は戦死を遂げた。恰もフランス本国に於いてはトンキンを放棄するか、又は兵力を以て之に保護権を確立するかの両派に分かれ、互いに自説を持して相譲らず容易に事決するに至らなかったのであるが、「リビエール戦死」の報飛ぶや、与論が政府に決意を求め、遂にここに於いてフランスは断乎トンキン征略の決意を固めた。
インドシナ駐屯軍は、遠征軍の応援を得て再び勢力を盛り返し、清・安連合軍と戦い非常な苦戦を続けたが、なお好く之を破り、遂に首都順化(ユエ)を占領するに及び、安南王も遂に屈服を呼びなくされ、1883年8月25日、平和条約の調印を行った。…この条約により安南は全くその独立性を喪失してフランスの保護国たるを余儀なくされ、フランスの野望は一応達成せられた。…
1883年、仏・安間に保護条約が締結されたことを知った清国政府は、大いに驚き李鴻章(り・こうしょう)をしてフランスに抗議せしめた。駐清仏国公使トリクーとの折衡を命ぜられた李鴻章は、その責任を駐仏清国公使曾紀澤に転嫁すべく、突如上海を去って天津に帰った。その間曾紀澤は東西奔走しアメリカ合衆国をして之に介入せしめ事を解決せんとしたが、この計画はフランスの拒絶により実現されなかった。…。同時にフランスは外交手段を以て清国政府に己が主張を力説し、1884年5月11日終に仏清条約の締結に成功した。所謂「フルニエ」条約がそれである。
…1885年6月9日に天津条約が締結され、清国政府は安南及びトンキンに対するフランスの保護権を承認したのである。
斯くてコーチシナを手始めに、カンボジア、安南及びトンキンの征略に成功したフランスは、その征略にピリオドを打つべく目を注いだのがラオスである。ラオスに対しては、「民族史略」の項で述べた如く、タイが安南王国との争奪戦の後に之を破り、宗主権を確保したのであるが、ラオスを中心とするタイと安南との国境は確定するに至らず、両国間に於ける種々の紛議の原因となっていた。
フランスはこの絶好な口実を看過することなく、先ずルアンプラバンに領事を駐在せしめ、1886ー91年の6年間に亘る綿密なる調査の結果、その有望なるを確むるや、1893年タイに爆弾的決議を投じた。即ち「国境確定の為、フランスはメコン河左岸の地を領有するに非ざれば満足する能わず」と。
「メコン河左岸の地を領有する」とは、結局ラオスに対するタイの宗主権を剥奪することを意味する。勿論タイ政府はこのフランスの不法極まりなき要求を拒絶したのであるが、偶々フランス人官吏がタイ領内に於いて虐殺され、フランスに横車を通す理由と口実とを与えしめた。…この機逸すべらからずとフランスは、バンコク駐在領事に訓電を発し、厳重に之を抗議せしめる一方、砲艦3隻をメナム河に派遣してその強硬なる決意を示した。
「無理が通れば道理が引っ込む」という俗諺があるが、タイ政府は遂にフランスの主張を入れて1893年10月3日バンコクに於いて、国境に関する条約を締結するを余儀なくされ、同条約に依りタイはメコン河左岸より撤去即ちラオスに於ける宗主権をフランスに抛棄するに至った。
先に1887年11月11日大統領令により、従来の個別的統治を廃し、連邦制度を施行したフランスは、タイより奪取せるラオスを1899年4月15日大統領令を以て連邦内に編入し、ここに現在の仏領インドシナ連邦が成立したのである。
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「周知の如く、貪婪飽くなきフランス帝国主義は、1867年より1907年に至る間前後5回に亘り、タイ国の弱勢に乗じ、武力と恫喝とによって、総計46萬7千5百平方㎞、即ち現有タイ国全領土の9割一部強にあたる広大なる地域を、極めて容易に僅か半世紀に略取したのである。」
『新亜細亜』昭和16年
これ⇧は、満鉄東亜経済調査局発行『新亜細亜◎月号』の「泰・仏印紛争調停と第3国の策謀」記事からの文章です。
こちら→「満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』① ~民族略史~」に書いて置きました様に、
「南海のわが友邦、新興タイ国に、近年澎湃として昂まりつつあったナショナリズムの波が、失地恢復運動に於いて愈愈高潮に達し、初志貫徹のための実力行使に至って、その集中的表現を見せたことは極めて自然であった。」
「こうして、1932年の(タイの立憲)革命以来、タイ新政権は鋭意国力の充実をはかって、これが恢復是正を期しつつあった時、当面の相手方たるフランスが、脆くもドイツの軍門に降って、その植民地帝国が土崩瓦解の危機に晒されつつあるを見て、タイ国内における失地恢復の国民的要望が熾烈化したのは当然であった。」
こうして、結局タイと仏印で国境紛争が勃発しましたが、、、この2国間の調停に入って見事紛争解決をしたのが、我が日本政府、時の総理大臣は近衛文麿(このえ ふみまろ)。我が日本外務省、時の外務大臣は松岡洋右(まつおか ようすけ)だったんですね~。
ファシスト軍国主義・日本にはこんな手柄は不要だとばかり、戦前の華々しい日本平和外交成果は、何故か!戦後日本外務省からガン無視されてしまうので悔しいです。(笑)😅😅😅😅なので、この『泰・仏印紛争調停』は、後日改めて詳しく取り上げたいと思います!😌😌😌😌😌