27年前のコン・ダオ島旅行の思い出~私のベトナム備忘録😅~

サイゴンの思い出|何祐子|note

 「南の岸辺から2百余海里の沖に島がある。崑崙(コン・ロン)島という。面積わずかに方百余里。60年前までは無人島であった。岩層連なり続き、そこは海禽魚卵に満ちていた。嗣徳(トゥ・ドック)年間にフランス人は、この島を流刑の地と定め、重犯を送って苦役させたのである。」
     ファン・ボイ・チャウ著『越南義烈史』より

 私の≪note≫ではもうお馴染み😅、仏印時代のベトナムで、フランス植民地政府に対する反逆罪で流刑に処された義民達の流刑島としてその名を轟かせていた崑崙(コン・ロン)島
 現在は、≪Con Đảo(コン・ダオ)島≫と名前を変え、近年の急激な外資系投資の投下によって華麗なる一大お洒落リゾート・アイランドに見事に変身しました。。ふふふのふ。。😅😅😅

 私のマガジンベトナム志士義人伝シリーズに頻繁に登場する崑崙(コン・ロン)島ですが、抗仏闘争時代ベトナム国内で活動していたファン・ボイ・チャウの同志達、阮誠(グエン・タイン=小羅)氏朱書同(チュ・トゥ・ドン)氏など沢山の同志達がこの島へ流され、そのままこの地で絶命しました。

 そういえば昔、この崑崙島-現在のコン・ダオ島へ旅行したなぁ。。とふいに思い出し、かれこれ27年位前ですが、やっぱり一風変わった経験だったので、個人的な想い出ですけど備忘録にします。。。

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 あの当時のベトナムでは、未だに”リゾート”という概念が一般的に薄く、サイゴン人の”海辺の避暑地”として唯一無二の存在を誇っていたのが『ブン・タウ』でした。。。(笑)
 しかし、、はっきり言って当時のブン・タウは狭い町で娯楽は無いし、ホテルは寂れて砂浜も海水もちょっと茶色く、海鮮料理も日本の方が断然清潔で美味しいんですよね、、😅😅、そんな諸々の理由で、当時のベトナム在住日本人なら一度行けば飽きてしまうような場所でしたが、それでもその当時、社員旅行はいつも≪ブン・タウ≫、家族旅行もいつも≪ブン・タウ≫、ベトナム人の友人が集まると何故か≪ブン・タウ≫≪ブン・タウ≫。。。だったんです。
 そんな背景の中、或る年の、もうそろそろ旧正月休みだよという時期に、今度の旧正月休み(=長期休み)は日本へ帰らないでベトナムで過ごすという『居残り組』(=その頃の日本人駐在員さんとご家族は、殆ど日本へ帰省)で集まり、”日本人が殆ど行かない場所で過ごす企画”『コン・ダオ島旅行』を決行することになりました。(全員、元流刑地に対する知識はほぼゼロでした。。😅)
 
 早速ホーチミン市一区のベトナム航空で尋ねると、HCM- コン・ダオ島チケットはタン・ソン・ニャット空港近くの事務所でしか販売しないと言うことで、直ぐに愛車のホンダ・カブで向かい、、教えられた住所を頼りに着いてみると、そこはベトナム空軍の建物でした。😅
 一瞬怯みましたが…ドアを入っていって交渉を経て、無事3人分のチケットをゲットできました。

 当日。なんと、同行の友人がパスポート携帯を忘れ、😂😂 もう取りに帰る時間が無いので必死で空軍の事務の方々を説得すると、意外な事になんとOKが。。。
 やったー!と、意気揚々向かった飛行場には、『真っ黒い軍用ヘリ』が我らを待ってました。
 多分、我が人生最初で最期の軍用ヘリコプター搭乗。大きなヘッド・フォンを渡されて子供の様に喜んでしまいましたね。嗚呼、真っ黒な特大サングラス持って来れば良かった、、、それだけは今でも悔やんでます。🤣

 景色見えず音も聞こえずで2時間位飛行したでしょうか、コン・ダオ島に到着。さあ、いざ降りる準備、で、開いたヘリコプターの扉の向こうに見えたのは、海🌊でした。。
 前日の台風のせいで飛行場に着陸できず、遠浅の砂浜に近い海上に着陸してたんですけど、それならそれと一言くらい事前にアナウンスして欲しいところですが、そんなのは期待しても無駄ですよねぇぇ。。。(ベトナム在住の長い人なら解ってもらえますよね~😂)。

 同乗の西洋人と越僑旅行者10名位も皆全員ズボンの裾を捲し上げ、自分の荷物を頭に載せ、靴をぶら下げ、ヘリコプターからえいやっと飛び込んでそのまま数十メートル砂浜目指して歩く我らは、どっからどう見ても、在りし日のベトナム戦争映画中でヘリコプターから降ろされた外国人捕虜の一団だ。。。(笑)

 やっとの思いで砂浜に上陸、ボロジープでホテル(民宿)の前で降ろされ、早速ホテルで、”パスポートを。”と聞かれました。当然です…。

 ”空軍がパスポート無しでOKだって行ったんだ!”と強弁すれば何とかなるとタカを括ってましたが、横の連携の薄いベトナムでこの言い訳は全然通用せず、夜7時ぐらいにコン・ダオ公安から出頭要請があり、公安の詰め所で延々と交渉するも、全く解決しそうな糸口が見えません。結局夜11時頃にお互いヘロヘロに疲れて来て、とうとうパスポートにドル札を挟みこんでそっと渡すと、公安のお兄さんは、”やっと気が付いてくれたか。。”と言いたげな表情で、やっと解放されました。。😑😑😑
 記念すべきコン・ダオ島の第一日目

 嗚呼、何故あの時HCM市のベトナム空軍の皆様は、”パスポート無しでは絶対に搭乗させない!!”とはっきり言ってくれなかったのか。。緩すぎる。(笑)

 翌朝、民宿のレストランでメニューを見ながら朝食を注文すると、返事は、『無い。』
 『じゃあ、これ。』
 『無い。』
 『これは??』
 『無い。』
 『????』

 結局、『旧正月で市場も皆閉まっていて何も無い』。😂そ、そういえば、そうだったんですよね。(笑)
 確か朝から前の晩とほぼ同じメニューの『イカ野菜炒め&白ご飯』を食べた記憶有り。

 ところで、この当時コン・ダオ島には土産物屋、娯楽施設、小奇麗なホテルなどは皆無で、又、自由に行動出来ない『立ち入り禁止エリア』が多くありました。観光と言えば、元流刑地らしい牢屋や罪人の蝋人形などが展示された歴史博物館のような小さな建物を見学する以外、後はもう本当に何もない。
 前日までの台風の影響で大荒れの浜辺には、流れ着いた流木や海藻の塊りだらけで、大人一人が余裕で乗っかれる超特大サイズのウミガメの死体が打ち上げられてました。
 ”うーん、浦島太郎が乘ったウミガメはこれだな…。”と妙に納得したのを覚えてます。

 2日目の夕飯も、勿論『イカ野菜炒め&白ご飯』。(←最後までずっとこのメニューだけ。笑)

 さて、3日目はとうとう何でもいいからアクティビティをしたいと島民に頼みこみ、『釣りスポットで魚釣り』が出来ることに。
 こちらに走り来る迎えの小型ジープに妙な違和感を感じつつ、乗り込んでみて、”わっー”とびっくり。
 なんと窓ガラスが一枚も入ってなかった。😂

 あの当時は、ホーチミン市でも旧ソ連製のオレンジ色の中古バスが未だ市内を走っており、所々窓ガラスが無かったりはあったけど、見事に全ての窓ガラスが無い車はコン・ダオ島で初めて見たせいか、強烈に覚えてます。
 そしてですね、乾季ベトナム南部の孤島で、舗装されて居ない乾き切った大地を全窓無しジープで一時間も走ると、、、本当に、”志村けんと加藤茶の爆発コント”、爆発後の真っ白な煙の中で、”駄目だ、こりゃ。” の姿になります。。🤣🤣🤣🤣

 釣りスポットの埠頭に到着したジープから、ヨレヨレしながら降りて来た友人達の真っ白な髪の毛と、サングラスの所だけ丸く肌色が見えたあの顔、あの姿を思い出す度に、今でも噴き出して大笑いが止まりません。😂😂

 あの頃は、1996,7年頃か。。。
 ホーチミン市とその近郊は徐々に外国投資が増え初め、外資誘致の為の工業団地の開発・建設が進み、日本企業の駐在員さんの数もうなぎ上りに増えていた頃です。そして、それと併行して、『戦争の爪痕』は一つまた一つと姿を消して行きました。

 現在ベトナムのあちこちの海岸線には、『リゾート・ホテル銀座』とでも形容できそうな位、外資系&国内系(?)の所謂『オシャレなリゾート・ホテル』が乱立してます。
 解放感があり高級感で満たされたロビーとエントランス。椰子材や棕櫚材で出来たおシャレなコロニアル朝の家具。英語ペラペラの教育を施された柔順な現地人従業員達。白い雲、蒼い海、眩しい砂浜を眺めながらのプール・サイドに置かれたカクテル・メニュー。夜は生バンドの演奏を聞きながら、西洋風に味付けされた海鮮料理に、ワインで乾杯。。。

 あーあ。
 本当に、つまんない文化ですよね。。。やっぱり西洋人ってどっかオカシイ。。。(笑)😂😂

 。。。27年前の珍道中。。。
 私の必死の説得に、”OK!”を出したベトナム空軍のゆるーい皆さまのあの笑顔。。。
 ヘリの扉を開けたらそこは『海』。。。
 気が利かない外国人に夜の11時頃まで付き合ってヘロヘロになってた公安のお兄さん。。
 幾ら金を積まれようが『無い物は無い!』頑固一徹、朝昼晩同メニュー”イカ野菜炒め&白ご飯”。。。。
 全窓無しジープでドリフの爆発コント。。。”駄目だ、こりゃ…。” 
 。。。コン・ダオ島での懐かしい想い出です。


 今のコン・ダオ島に行きたいと思う気持ちはもう無いですけど、もしあの頃のコン・ダオ島へなら、 ”ああーー!!もう一度行きたいなぁ!” と無性に思うんですよね、何故か。😊😊😊 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 
 

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