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ベトナム独立運動家 ファン・ボイ・チャウは妻帯者だった??。。。の話

 以前読んだ本に、、、
 何年か前、日本とベトナム共同調査で『ファン・ボイ・チャウには2人も妻が居た、貴重な新事実の発見!』という文章を読みました。

 ワタシの記憶では、日本側ではベトナム研究の大御所某大教授が家系図が何かを確認し、一人子だったファン・ボイ・チャウがお家断絶を防ぐため、革命活動に身を投じる前に2人妻を娶って居たことを確認した、という主旨だったと思います。

 😅😅😅😅😅😅😅😅😅。。。

 これは。。。か、かなり苦しい、苦しい、苦し過ぎる。。
 何故ならば。。。

 ”ファン・ボイ・チャウの自伝を読めば、これは有り得ないなぁ。。。”(←ワタシの心の声。。😅😅😅)

 ということで、、ご当人のファン・ボイ・チャウ自伝『自判』から、百年以上を経て現代に出て来たこの珍説に関して、その成否を探ってみたいと思います。⇩

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 ファン・ボイ・チャウ自伝に依れば、彼の両親の名は、⇩

 父 :潘文譜(ファン・バン・フォ)氏、
 母 :阮氏嫻(グエン・ティ・ニャン)女史

 そして、潘(ファン)家の当時の家庭事情ですが、⇩

 先祖代々の書読み家だった我が家は、グエン朝に入ってから清寒の暮らしを続け、祖父を亡くして後は更に衰微したが、私の父親が儒語の才に恵まれたお蔭で、≪筆耕硯田 (=文筆で生計を立てること)≫、何とか日々の生活には事欠くことは無かった。
 (中略)
 本は、読み終えてから直ぐに写本し、一篇毎に10頁を書かねばならないが、家が貧しく紙を沢山買えないからいつもバナナの葉を紙代わりに書写して音読し、全て暗記するとこれを燃やした。
 (中略)
 …郷里の近隣には大きな学校が無く、尚且つ貧乏で遠方の学校へ通うことも出来なかった… 

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』③『年表・第一期(1867年~) ・幼少期と我が家族』 |何祐子

 こんな⇧感じでかなり貧乏で細々した生活で、そしてファン・ボイ・チャウ18歳の時(1884年)に母親が他界しますが、その時の記述がこちらです。⇩ 

「私は喪に服して試験に行けず、母の居ない家は更に寂しくなった。幼い義妹2人の養育を兼業せねばならない老父に代わって、私が文筆業で生計を立て始めたのはこの頃からだ。」

 生活に余裕が無い潘家が幼い養女2人を引き取って育てていたとは奇妙に感じますが、その理由が解かる箇所が自伝に書いて有ります。⇩

母は本当に仁慈深く、善行を好む女性だった。家は貧しかったが、村の友人が困っているのを見れば、力及ぶかどうかなど関係なく一文一粒を分け与えて必ずこれを助けた。」

 

 ここから考えると、慈悲深いファン・ボイ・チャウの母は多分、あの当時抗仏蜂起で戦死や逮捕・流刑・死刑などで両親・親戚を亡くした孤児を引き取って養育してたのかと思います。
 日本も、戦前戦後通して戦争孤児が各地に沢山いました。。。😢😢

 そしてその後、21歳~30歳位迄の頃を述懐してこの様にも書いてます。⇩

草莽崛起の同志を探す

 21歳から31歳の10年間は、事実、唯ひたすら息を潜め身を隠していた時期である。大きく分けてその原因は2つある。 家族の困窮状態に縛られたこと。我が家は、高祖の代から4代に亘り一人子が続き、跡取り断絶の惧れがあった。私も兄弟無しの孤独の身、貧乏続きで病身だった老父は、生活の糧を我が子に頼らねばならぬ状態になった。
 元来生まれつき親孝行の質だった私は、 父に嫌疑の連累を及ぼすような事は遠巻きにして一切関らず、売筆業を以て教師職に専念したお陰でかなり収入が増え、早晩老父を養う金は足りるようになった。
 (中略)
 34歳の時。庚子(1900)年は成泰(タイン・タイ)年号12年、私は郷試に合格し、これで漸く天下の傘なる仮面を得た。その年9月に父が70歳で他界したことで両肩の重責が少し軽くなり、これからは革命活動の計画に着手することにした。

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』④『年表・第一期(1867年~) ・草莽崛起の同志を探す』|何祐子

  この文章からファン・ボイ・チャウの言いたいことを読み取れば、⇩

・代々男子に恵まれない家系で、
・自分一人しか年父の面倒を見る人間が居ないこと。
・老父の存命中は、自分の革命活動で連累の迷惑を掛けたくない。
・父親の他界で心置きなく『反政府軍』に身を投じる決意をした。

 多分養女2人は既に20歳前後位に成長してた筈で、既に他家へ嫁いだか? 兎に角、やっと念願の革命活動スタートです。。。と、こんな時に、家名断絶を防ぐため?、妻を2人も娶って行く?? って、、、
 奇妙過ぎますよね。。😑😑😑 

 ここで、ファン・ボイ・チャウ自身たびたび自著でも取り上げていたベトナムの有名な憂国志士、潘廷逢(ファン・ディン・フン)の史実を見てみます。

 …フランス人が、われわれベトナム人を縛り付けるのに用いるやり方というのは、他でもありません。一族皆殺しです。墓あばきです。

 進士潘廷逢(ファン・ディン・フン)のごときは、山に入って、義士を集めること11年、彼の父であった潘廷選(ファン・ディン・ティェン)、伯父潘廷通(ファン・ディン・トン)および彼の母の墓はすべてあばかれ、かれの子潘廷迎(ファン・ディン・ギン)は晒し首になったのです。

ファン・ボイ・チャウ著『ベトナム亡国史』より

 。。。。。お、恐ろしすぎる、、、フランス様に逆らえば、両親の墓も伯父の墓も荒され、息子は晒し首と。。。😨😨😨

 それでも、ベトナム王国の皇子クオン・デ候は革命活動=反フランス活動に身を投じたファン・ボイ・チャウのことを自伝中でこう表現していまして、、、⇩

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏は、乂安(ゲ・アン)省南檀(ナム・ダン)県出身。その頃既に文士、愛国者として名高い人物でした。科挙試験に合格しますが宮廷仕官は望まず、 当時の官界で、決起運動に身を投じる者を揶揄する呼び名『賊』となるに微塵の迷いもない人でした。

『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第2章 潘佩珠(ファン・ボイ・チヤウ)と光復会 ~ |何祐子

 『反フランス活動』は『お上=政府』に逆らうことであり、政府に逆らえば、即時に『賊』のレッテルを張られて警察のお尋ね者です。先祖・両親の墓は暴かれ、妻子は八つ裂き・晒し首になっても文句も言えない。
 
 ファン・ボイ・チャウが自身で、
 「元来生まれつき親孝行の質だった私は、 父に嫌疑の連累を及ぼすような事は遠巻きにして一切関らず、」 
 と言ってる様に、1900年34歳の時に父親の他界によって家名が断絶し、漸く後顧の憂が無くなって本格的に革命活動に着手した、そんな時に、、、お家断絶防止で??妻2人??
 全然整合性が無いように思いませんか。。

 ファン・ボイ・チャウは、潘廷逢(ファン・ディン・フン)以外にも抗仏活動で殉難した祖国の志士義人達のことを沢山書き遺してますが、特に自伝中には、日本密航時の道先案内者で抗仏救国運動の先輩だった曾抜虎(タン・バッ・ホー)の印象をこう説明してます。⇩
 

…それから間もなく、北圻からやって来たタン・バッ・ホー氏がテウ・ラ先生邸に到着した。 私と彼の一番最初の面会だった。バッ・ホー氏は年齢40歳過ぎ位で髭の剃跡蒼々と、全身から漲る英気は一瞥して勇猛歴戦の志士だと判った。
 お互い座して話を始めると、彼は外国情勢を詳細に語り、話は現在の支那政界要人にまで及び、筋道を立てて説明し、明朗に話を進め、語り聞かせる。ここで彼に出会えたのは天恵だった。

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑦『年表・第二期(1900年~)・曾抜虎(タン・バッ・ホー) |何祐子

 そして、彼の訃報に接した時は、⇩

 曾抜虎(タン・バッ・ホー)死す

 日本へ到着した矢先に、タン・バッ・ホー氏の訃報が届いた。私が出洋して以来の最大且つ最悪の悲報だった。
  (中略)
 丙午・丁未(1906‐1907)年間、我が党の海外出国組の旅費、学費、活動費等の各諸経費が取敢えず一息つけたのは、中北折の仲間の功労に拠るところが大だったが、彼等との間に入り、先頭に立って運動を牽引した最大の功労者がタン・バッ・ホー氏だった。
 丙午(1906)年北折に潜入したホー氏は、(中略) 予期せずに閻魔大王の憎悪嫉妬に呪われた。(中略)発病からたった3週間、川に浮かんだ舟の中でバッ・ホー氏は帰らぬ人となった。 
 私の出洋は、真にホー氏のお蔭に尽きる。それなのに、私はまだ彼に何の恩返しもしていなかった。(中略)後日に記した『越南義烈史』第一篇をタン・バッ・ホー氏としたのは、私個人の考えからではない。

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑬『年表・第三期(1905年~)・曾抜虎(タン・バッ・ホー)死す/留学生の入学斡旋を頼む|何祐子

 抗仏同志で頼れる兄貴だったタン・バッ・ホー氏の死。
 その彼の死を悼んで、後日『越南義烈史』にはどのようなことを書いていたかというと、、、

  我が党の同志の中でも、誠に新潮を澎湃とおこす先河(先導者)であり、新気運が爆発の導火線であった。

 字は師召(ス・チウ)、平定(ビン・ディン)省出身。天性豪邁で識見は卓越し、気魄は剛毅なれど、その一挙一動に風雅の和気をそなえ、人に親しみ人も親しむ人だった。

 その人と為りを見込んで、郷のさる富豪が、私の娘をぜひ嫁にと申し込んだが、彼は天を仰いで「国は多難、壮士身を忘るるの今日、なんで娶る気になりましょう」と断った。そして、生涯妻を迎えなかった。

ベトナム志士義人伝シリーズ① ~曾抜虎(タン・バッ・ホー,Tăng Bạt Hổ)|何祐子

  そ、、、そうなんですよね。。ファン・ボイ・チャウが最も頼りにし、尊敬していたタン・バッ・ホー氏の、史実を書き留めた哀悼と称賛の文章冒頭が、これ。。。

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 ファン・ボイ・チャウ自伝『自判』の出版社アイン・ミン書館の序文にはこう書いてあります。⇩

 サオ・ナム氏は、私史を1929年頃から漢語で書き始めた。そして、自ら国文(=現代のアルファベット化文字)へ翻訳をし、その手書き原稿をミン・ビエン(=フイン・トゥック・カインの筆名・号)氏が自らの手で製本をした。後の1938年、私達はサオ・ナム氏からの指示で国文タイプをして国文版4部を完成させ、この内の2部はサオ・ナム氏、残りの2部はミン・ビエン氏が所有した。
 (中略)
 1946年頃、ファン・ギ・デ氏(1947年フエで死去)が中部広義(クアン・ガイ)の仲間と共にサオ・ナム氏の遺稿の印刷計画を立てた時、私達へも協力要請があった。けれども、 その時は田舎へ疎開しなければならず、無念ではあったが、彼等へ原稿と資料を提供しただけだった。彼らは、私達が提供した原稿を元に、苦労してサオ・ナム氏の『自判』初版 (上下2巻組)を印刷し、製本まで終えた。そして、さあこれから民間へ流通するぞ、という段階で、検閲を称した越盟(ベト・ミン)に全部を押収された上、更に手元にあった原稿と資料まで全て廃棄させられたのだった。

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』①目次、 英明(アイン・ミン)書館 出版挨拶文|何祐子

 アイン・ミン書館に依ると、この⇧「ファン・ギ・デ氏」が『サオ・ナム(=ファン・ボイ・チャウ)の息子』です。なので、ここからワタシの推察です。⇩

 多分、1925年に上海で逮捕されハノイへ強制送還された後、恩赦でフエ自宅軟禁となったファン・ボイ・チャウは、故郷に居た義妹2人とその家族と再会したでしょう。一人子だった彼には、血は繋がってなくても残された唯一の『家族』です。
 それでこの「ファン・ギ・デ氏」とは、多分2人の養女の内のどちらかの息子さんで、夫に先立たれ寡婦になった義妹から頼まれ、ファン・ボイ・チャウが自分の養子に迎えたとかそんな経緯じゃなかったかな、と思います。それなら、自伝から知る彼の性格や考え方、行動と符合する。

 えーと、あくまで一主婦の推論ですが。😅😅😅
 しかし、もう既に死後80年以上も嘘や捏造、作り話を流布され続けて来た彼にとってみれば、草葉の蔭で恥ずかしさと不名誉で身もだえし髪の毛掻きむしってるんじゃないかな。
 自伝の翻訳者としてヒシヒシとそう感じます。。😑😑😑

 

 
 


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