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ベトナム志士義人伝シリーズ⑮ ~『ベトナム光復軍方略』を起草 黄仲茂(ホアン・チョン・マウ、Hoàng Trọng Mậu)~

 ベトナム志士義人伝シリーズ|何祐子|note
 
 
去年この記事(→ベトナム国旗の“風変りな”話)で、”ベトナム国旗の謎”を取り挙げました。
 1912年頃、中華民国総統の袁世凱(えん・せいがい)が広東・広西駐留軍を解散させるという噂を聞いた潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)らベトナム革命党は、彼等を傭兵軍として雇い入れ、ベトナムへ攻め込む計画を立てました。
 その様な状況や当時の世情変化もあり、それまでの『ベトナム光復会』をより”共和主義”に近い思想へ改組すると同時に、”ベトナム軍旗とベトナム国旗”の図案も決定しました。(宜しければご一読お願いします。😌)

 この光復会改組会議について、ベトナム国皇子クオン・デ候は、自伝『クオン・デ 革命の生涯』の第7章でこう語っています。⇩

 「壬子(1912)5月、ベトナム光復会の改組をしたいので、広州に来てほしいと潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)から連絡が入りました。けれど、私は病気の床にあったので、彼を議事進行の全権に委任しました。(中略)この時、黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)が書記に選出されました。そしてこの時黄仲茂が『光復軍方略』を起草して、ベトナム光復軍を組織したのです。」
 
 
中国各地から党幹部が集結したこの広州会議で、クオン・デ候に代わり委任全権を務めた潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)を補佐した重要人物の一人が黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)氏です。彼は、当時日本政府のベトナム東遊(ドン・ズー)留学生解散令を受けた後に中国大陸へ渡り、現地入隊して軍事を学びました。
 この頃、他の多くの元東遊留学生も、其々中国各地で軍事を学んでいます。⇩
 

北京士官学校梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)、藍広忠(ラム・クアン・チュン)、胡馨山(ホ・シン・ソン)、何当仁(ハ・ドゥン・ニャン)
北京軍需学校:劉啓鴻(ル・ハイ・ホン)、阮燕昭(グエン・イエン・チウ)
広西(陸軍)幹部学校:陳有力(チャン・フゥ・ルック)、阮焦斗(グエン・ティェン・ダウ)、阮泰抜(グエン・タイ・バッ=阮超)等々

 「皆が既に長く兵営にあって実地に軍事訓練を受けていたので、我らの軍隊を編成するに軍官の人材には事欠かない。さて、軍が編成されれば、軍旗が必要だ。軍旗があるなら、国旗が必要だ、ということになった。」
            潘佩珠著『自判』より

 黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)氏は、
潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と同じ乂安(ゲ・アン)省出身、本名を阮徳功(グエン・ドック・コン)。漢文に精通した優秀な文科の挙人(=科挙試験受験者)でした。

 広州ベトナム光復会改組会議では、広東・広西駐留軍の解散後、傭兵軍を率いる先鋒軍隊となる『ベトナム光復軍』を組織し、『ベトナム光復軍方略』全100頁を作成しました。約半分以上を黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)氏が起草し、またこの会議で、『光復軍軍旗とベトナム国旗』の徽式も決定。この徽式を『光復軍方略』の表紙とした、とファン・ボイ・チャウが自伝『自判』に書いています。

 黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)氏は、タイへ移動中に香港で捕縛され、ハノイへ強制送還されました。
 法廷は無期流刑、同国人密偵から寝返りを誘惑されるも、きっぱりとこれを拒否、自ら死刑を求め、後、白梅(バック・マイ)山麓の刑場に引き出されて同志陳有力(チャン・フゥ・ルック)氏と共に銃殺刑に処されました。

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 乂安(ゲ・アン)省真禄(チャン・ロック)県、魚島(グ・ダオ)の西、鴻嶺(ホン・リン)の東に奇男子が生まれた。
 性は阮(グエン)、名は徳功(ドック・コン)。天性霊奇の君は、習えば直ぐ読め、直ぐ覚える、作文も優れ、試験はいつでも首席のおそるべき秀才だった。

 我が国が亡んで咸宜元年(1884)、フランスは乂安城を占拠、父は官を棄てて帰郷、君は、時勢を悲しみ世俗を嫉み、フランスの奴隷と化した官庁を恥じ、科挙受験の気を捨てた。

 戊申(1908)年2月、先に出洋した我等抗仏党の会主クオン・デ候は、魚海(グ・ハイ)君に書を回し、留学生を東(=日本)に送れ、と依嘱した。魚海君から此の書を見せられた君は、狂喜して、これぞ吾が志とて、この年4月、海を渡り日本に。5月、東京同文書院の特別班に入り、学業の徒に着くと、名を黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)と変えた。
 
 この時我が留学生は80余人。君は最年長、他学生に比べて突出して優秀で、軍事修練にも熱心だった。身の丈高く眼は閃々、眉はひいでて鼻高く、練兵場の勇姿は、さながら雄将の如く。君は、習学就って帰国せば、兵を指揮してフランス賊を駆逐し、朋輩に先駆けて戦場で死ぬ、これで満足、との初志であった。

 日本に留学して僅か一年、フランスは日本政府に、在日ベトナム人革命党人を解散させよと詰め寄った。またわが国内では、各州各地のすみずみまで、探偵捕吏を動員して、一大捜索網をかけた。我が党が隠し持つ資金、文書、書簡は没収された。そして、「ベトナム人が外国人と関係することを厳禁する」法刑を敢行した。

 君は、日本を棄てて清国に渡り、身を羊城(=広州)に寄せた。広州で欧州の本を読み、法律政治経済を独学で続け、かたわら北京官話を練習して、中華の陸軍学校の入学に備えた。
 日本留学中に知り合った、広西省桂林軍官学校の蔡松波(さい・しょうは)氏から紹介を得て、楊振鴻(やん・しんこう)営長下で陸軍営に入営、射撃法や進取法術などの軍事法を実地に習得した。

 辛亥(1911)の年、君は出営した。我が国内の革命風潮が日々漲る、危険を冒して出洋するベトナム人の数も増えた。時到る、君は諸同志に連絡し、臨時の軍律徴兵法、兵站局司令部、並びに各種の命令文書を討議して、『光復軍方略』を起草した。
 
 申寅(1904)年の秋に欧州大戦が勃発し、フランスは苦境に立った。今ぞ挙兵の時いたると、つねづね実践家であることを誓い、一理論家であることを嫌っていた君は、滇(=雲南省)に入り、燕(=北京)、そして桂(=広西)を奔走し、同志、兵を募って『中路光復軍』を設立し、軍総司令官となった。

 だが、資金面に成算ありや、連絡杜絶の我が国内に、いま兵站を謀るべくもない。丁度この頃、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏が広州で捕縛、また北部同志による『太原(タイ・グエン)蜂起』の知らせが届いた。
 君は、加勢をしようと、同志30人を連れて鎮南関(ちんなんかん)を越え諒山(ラン・ソンへ潜入。西洋兵屯所を奇襲するも、物凄い猛攻に遭い、堪え切れず、一旦広東まで逃げ、暹羅(シャム)側から中圻地方に潜入するべく暹羅行きを謀ったが、香港まで来たところで、フランス密偵に捕まった。

 乙卯(1915)年4月、東京(トン・キン=ハノイ)へ強制送還された君は、法廷で審訊を受けるが、君の供詞は抗裂を極めた。獄舎の中で、敵側に寝返れば罪を免除すると誘惑されたが、君は、銃刑で死ねるが本望だと言い返した。

 この年の冬、処刑は夜半に執行された。同志阮式唐(グエン・ドック・ドゥン=陳有力)君と共に獄から引きずり出されて、彼に向けられた10挺の銃口が一斉に火を噴くと、彼の身体は崩れ落ちた。享年42歳。

*黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)君の遺した対句* 
 
 愛国何辜惟有精神終不死  
 出師未捷好将心事付来生  
 (国を愛するは何の罪か この精神は永遠に死なず)
 (師を出さんとして成らず 吾が心事を来世に託す)



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