江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)王朝頃のベトナム その③「南瓢記(なんぴょうき)」
その③は、『南瓢記』です。
まず、現在日本に於ける『南瓢記』の位置付けをネットで調べて見ます。検索すると、国会図書館や大学図書館などで所蔵されており、こんな紹介文がついています。
「寛政10年(1798)に出版。寛政12年に絶版。売買停止、在庫本の没収、回収措置が取られた。」
「枝芳軒は出版者の銭屋長兵衛と同一人物」
「寛政6年(1794)に奥州の大乗丸が江戸に航行中、安房沖で漂流、安南(ベトナム)に漂着。安南で6人が病死、廣東で一人が病死、残りの9人が2隻の清国船に乗り、寛政7年(1795)11月22日と12月14日に長崎に帰った。」
大体本の概要が判りますね。千葉沖で暴風雨に遭ったのが1794年(8月)、安南海岸漂着が11月、そして長崎に帰還したのが翌年12月です。
私の手元の本は、明治33年7月発行、石井研堂校訂、『校訂漂流奇談全集』、発行元は東京日本橋の『博文館』です。
「南漂記」の一番初めのページは、こんな文章で始まっています。
「寛政六甲寅年八月、奥州名取郡閖上村彦十郎船25反帆大乗丸へ、船頭清藏、楫取松平、水主清藏、忠吉、幸太郎、平五郎、巳之松、源三郎、周藏、門次郎、清之丞、惣八、藤吉、久之丞、与五郎、炊兵吉の16人乗り、9月房州沖にて難風に逢い、漂流して11月21日安南国に着す。同7乙卯年四月、安南より阿媽(=マカオ)港に送られ、7月広東に送られ、江西をへて乍浦に着し、11月乍浦より長崎に送られ12月14日帰朝す。南瓢記は、この事実により、一飄(つむじかぜ)云々を仮作して夢中の言に擬して記述せるものにて、原名を南瓢記と題し、柳枝軒静之の著、寛政丁卯中野煥の序文あり、思うに、事外国の記述に渡れば、有司の咎を恐れて、故に小説の如く見せかけたるものなるべし、今その首尾一葉づつ、仮托の辞を削りてここに収む。此の漂談の口書には、近藤守重の註書せるものあり、重複の嫌あれば止むを得ず省く。(研堂識)」
要するに、原本の柳枝軒静之著『南瓢記』は、江戸幕府の鎖国政策に配慮をして、仮作して夢中の言に擬して小説風にしたものだったから、それらを省いて校訂したものを『南漂記』として収録した、ということでしょう。
この『近藤守重』は、近藤重蔵だと思いますが、この方です。
「近藤重蔵(1771-1829)は、『外蕃通書』(全30冊)というものを書いた御書物奉行(いまの国会図書館館長のような職)。」
『日本の中のベトナム』より
更に、「18世紀の末、エトロフ島を探検したり、それに関連する記録を残したことで知られているが、彼の仕事は、北方領土関係だけではない。有能な外国通の官僚で、数多くの著書のひとつに『安南記略藁』がある。日本で最初の『ベトナム通史』である。」
という、パイオニア中のパイオニアと言えるベトナム通。。私の大大先輩でした。😅
明治維新後の1872年(明治5年)に、陸軍の命を受けてベトナム史を編纂した長州藩の引田利章(ひきた としあき、後に陸軍大学校教官)も、よりどころにしたのが近藤重蔵の『安南記略藁』だったそうです。
『南漂記』には目録⇩が付いています。
「発端、西山小村、風土、安南王都、詞解、旅宿、永長寺、女商人、貸物、深節、禽獣虫、強勢、時放飼、服、男女座、關帝、夫婦別、花街、木竹、和漢節用、暇乞、西山話、賀出帆、可馬港、同詞、見附、盆、廣東州、城下、花嫁、野辺営、祭禮、可有物、船路、乍浦、芝居」
全5巻から成る、かなりページ数も内容も濃い通向けの読み物です。。。
と言いますのは、もしベトナム史好きな方がこの目録⇧をざっと見ると、『西山小村』と『西山話』があることに気が付かれるかと思うからです。南北朝期終わり頃の『西山(タイ・ソン)』に関しては、『ベトナム史略』(こちら→陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏『越南史略(Việt Nam Sử Lược)』の序文をご紹介します。|何祐子|note )にも、このように書かれています。⇩
「第4時代は、「南北紛争時代」、莫氏から西山氏までを言う。前期は、南部黎氏と北部莫氏。後期は南部阮氏と北部鄭氏に分かれ争った。南北間の諍いは日に日に大きくなるばかりで、お互いの憎しみも激しさを増すばかり。三綱は薄っぺら、五常は上辺だけになってしまった。国に皇帝はいるが、領主もいる。南も北も、お互いバラバラの祖国山河を持ち、その土地の話はその土地だけのもの。しかし、そのような時でありながらも、北部の外敵防衛策の改善があり、南部も着実に発展した。だが、不幸とはいつどんな時に襲ってくるものか本当に判らないもので、それは突として、一陣の風塵のように西山方向から吹きつけて来たのだ。」
「皇帝も領主も西山兄弟によって壊滅状態にされてしまったが、結局西山兄弟の権勢も20年持たなかった。そしてそこへ、本家阮氏の中興があり、祖国の山河を元の通り統一して、今日のようなベトナム国の景勝を取り戻した。」 『ベトナム史略』より
『ベトナム史略』の各時代区分を調べますと、
*黎(レ)朝時代 :1428~1788年
(黎(レ)皇朝南北朝時代:1533~1802年)
(西山(タイソン)朝時代:1788~1802年)
*阮(グエン)朝時代 :1802~1945年
ちょっとややこしいですが、黎家の黎利(レ・ロイ)が明を打ち破って再び自主を勝ち取った年が1428年。しかし1533年から北は鄭(チン、Trình)氏、南は阮(グエン、Nguyễn) 氏と、其々領主が実質支配をする『南北朝時代』。1788年には西山兄弟によって黎家は潰滅状態となり、その後に西山兄弟を倒した阮福瑛(グエン・フック・アイン=始祖ザー・ロン帝)が阮朝を建てました。
この『西山(タイ・ソン)党』とは、中部クイニョン(Qui Nhơn)西山邑の兄弟を中心に集まった一党でして、兄弟の名は、長男阮岳(グエン・ニャック)、次男阮侶(グエン・ル)、そして三男の阮惠(グエン・フエ)。この三男の名が、現在ホーチミン市1区のど真ん中、人民委員会の真ん前を見下ろす大通りの名前になっていますね。
余談ですが、西山阮兄弟の父方の名字は胡(ホー)です。反旗を挙げての攪乱目的でしょうか、途中で母方の性である『阮(グエン)』を名乗ったそうです。この為ベトナム史は非常にややこしい。。。💦💦 正確には、『グエン・フエ』は『ホー・フエ』でもあります。
要するに、当時安南は内乱があり不安定な情勢でしたから、
「寛政六甲寅(1794)年八月」に暴風に遭い、漂流して「11月21日安南国に漂着」した日本の奥州船乗り16人が、中部の港町クイニョンの「西山小村」の海岸に”偶然にも!?”😅😅 漂着し、見聞録を残した事実は大変に興味深く、きっと沖縄・九州辺の国守藩にとっては貴重かつ有益な情報だった筈です。この頃の日本と中国の状況を比較して考えますと、ついに安南でも絶妙なタイミングでお家滅亡あり、内乱勃発あり。。
ベトナム通史は、またいつか詳しく別の記事にしたいと思います。
以下『南瓢記』の探索を続けます。
その①に書きました通り、元々『南瓢記』を調べて見るきっかけは、クオン・デ候のご子孫からの問い合わせと、そして、今日までこの日本江戸期の書物『南瓢記』が、ベトナム史学界では当時のベトナム王朝・風俗・文化を知る貴重な史料とされていることを知った為です。BEFEO(=フランス領インドシナ時代の1898年に、サイゴンに開設された東洋学研究機関「極東学院(Ecole Francaise d‘Extreme-Orient )」のこと)が1933年「南瓢記(なんぴょうき)」の一部を翻訳、紹介していたことも判りました。
『南瓢記』全篇をご紹介出来ない(長すぎる。。。😅)ので、ベトナム語のネット記事でもよく見かける『安南王都』章の嘉隆(ザー・ロン)帝との謁見場面をご紹介します。
「此の所を過ぎ、内郭へ通れば、向こうに本丸有り、此の間下は切石にて、天井高く、両側にこしかけあり、凡一町計も有べし、天井併に両側とも、朱塗にてあいあいに金銀をちりばめ、結構なること目を驚かせり」
12月15日に西山小村を出発、20日に安南王城川口に到着し、安南王城=嘉定(ザ・ディン)城(現在のホーチミン市内)に入城しました。王城内郭は、豪華絢爛。。
「次第次第に地行たかし、本丸の正面へ近づく所、其間三間ばかりこなたに、官人14人を控えさせ、暫くありて別に一段高き正面に金銀瑪瑙(めのう)をちりばめし朱にて高蘭つきの腰掛けへ、国王出で給う、左右には王子方両人こしかけに寄り給う、国王御年40歳ばかり、装束には黒き紗綾、黒き緞子(どんす)のゴンをはき、重帯をなし、剣は小童後に持ち控へたる、また黒き織物の五尺計も在り、髪先計いづる絹にて頭を包、髪のわげに金のくしをさし給う、両王子も黒装束なり、かしらに銀のくしをさし、左右の官人のこらず絹にて頭をつつみ、青黄赤城白の絹をかしらに巻き、べっ甲水牛一角のくしをさし、ぎぎたうと相詰、ただ黒装束は国王併に王子の外は一人もなし、王子兄弟は20歳ばかり、至って器量人にて、位高いことたとえ難し、帰帆の国々にても、此の王子のごとき器量人は是なし」
国王=嘉隆(ザー・ロン)帝=阮福瑛(グエン・フック・アイン)は、1762年生まれですから、この時33歳位ですね。左右の王子の一人は皇太子の阮福景(グエン・フック・カイン)英睿景(カイン)皇太子の肖像画|何祐子|note と、多分弟君のどなたかだと思います。宮殿は豪華絢爛で、服装も整い、王子も皆器量よしだと褒めちぎっています。私も嬉しいです。😅
「漂着の日本人御目見えと披露すれば、国王御会釋あり、本国帰帆の願い奏問致候所、程無く日本へ御戻し下さるべく、通詞を持って仰渡され、病人へも今日より典薬を付らるる趣、則御礼申し上げ、官人衆同道にて外郭へ出、14人は籠にのり、午の刻過ぎに宿所へぞ帰りけり」
漂着した日本の漁師に謁見してくれた上、病人には典薬を下さり、送り迎えは籠を出してくれるなんて、、有難や。。。
この謁見時に通訳をしてくれた「通詞官人」は、
「此国儒学専らに行るれど、唐言葉にて通じがたし、此の通詞南京人にて、長崎に久々年を重ね、通詞相勤、帰国の後安南国に住するなり」
というような人ですが、ファン・ボイ・チャウ著『獄中記』の南溟生氏による序文にこんな記述がありました。
「寛永の鎖国令以後も、幕府はアンナン(安南)の来舶に応ぜんがため、明暦中彼地より帰来せる東京久蔵(とんきん きゅうぞう)(魏性)を挙げて東京(トンキン)通事とし、唐通事の班に列して、その職を世々にせしめた。」 『獄中記』序文より
もしかすると、この魏(ぎ)某という支那南京人で、長崎で唐通事班に所属していた通訳者の東京久蔵氏が、サイゴンでの嘉隆帝謁見時の通訳だったかも知れません。。
以上、明治期の博文館版「校訂 漂流記奇談全集」から安南漂流物語3話を簡単にですがご紹介してみました。
纏めますと、、、
その①は『姫宮丸』で、
「明和2年(1765)11月5日に下総銚子浦沖合で遭難、安南着は12月末、ホイアン出航は明和4年6月20日、長崎着は7月」
その②は『住吉丸』で、
「明和2年(1765)11月3日に奥州小名浜出航後夜半に遭難、安南着は明和3年1月、ホイアン出航と長崎着は上に同じ。」
その③が『大乗丸』で、
「寛政6年(1794)8月に房州沖遭難、安南着は11月、ホイアン出航は寛政7年4月、長崎着は12月。」
ここで、暇人主婦の私が😅😅、分かったことがあります。
それは、「千葉沖辺りで強い風に乗れば、1、5カ月位でベトナムに流れ着く!?」んだな、、ということ。ある本にも、
「10月からの北東風、そして6月からは西南風に変わる風。また1月には北から南へ、7月からは南から北へと逆になる潮の流れが彼の地(ベトナム)と日本列島を結び付けていた」 『南洋学院』より
とありますから、昔の漁師さんは日本-ベトナムが容易に往復できること、皆知っていたんじゃないでしょうか。。将来年金が無くなって、飛行機チケットが買えなくなったら試してみたいです。
もう一つは、阮朝の帝衣は、黒装束。なんか意味がありそうです。
もう一つですね、不思議なことは、安南滞在期間と口述書の内容が比例していないこと。姫宮丸と住吉丸の安南滞在は約1年半でした。それに比べて大乗丸の安南滞在はたった半年。当時の反乱軍『西山党』の本拠地・クイニョンの西山小村にピンポイントで漂着して、翌月にはサイゴンへ下り領主に謁見もします。なんとも都合のいいことに、長崎唐通事班所属ベトナム語通訳者の久蔵さんも宮殿で待機してました。。それに!何と言っても、『南瓢記』内容量の多さ(全5巻)…
これはですね、もう何か目的があって、”うまく暴風に乗った”としか考えられませんが、如何でしょうか。。😅
そのため、幕府より「寛政10年(1798)に出版。寛政12年に絶版。売買停止、在庫本の没収、回収措置が取られた」背景があるのかも知れません。
江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)朝頃のベトナム その①「安南国漂流物語」|何祐子|note
江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)朝頃のベトナム その②「安南国漂流物語」と「奥人安南国漂流記」|何祐子|note
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