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1926年設立 ベトナムの新宗-高臺(カオ・ダイ) その(2)

 その(1)「高臺(カオ・ダイ)教の成立過程」からの続き、その(2)「高臺(カオ・ダイ)教の教義」です。😊

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 1926年、黎文忠(レ・バン・チュン)を教主に戴いて西寧(タイ・ニン)の慈林(トゥ・ラム)寺に新教団として成立し、暫くの間にその教勢は伸張した。最近の現地報告によると、教徒の現在数は約2百万人にも達しているという。
 この驚くべき教勢の伸張力、(中略)…今までベトナム人が信奉して来た宗教に対して何の抵抗も摩擦も生じない方式を採ったことである。 

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 大岩誠先生がここで⇧言う『最近』とは、冊子が刊行された昭和16年2月です。1926年の設立から約15年間で信徒2百万人はやはり凄い数です。
 実際は判りませんが、やはり、他宗攻撃をしないとか、改宗を強制しない等々も背景にあったのかも知れないな、と想像します。
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 教理の点では、一般民衆の信奉する仏教、道教及び儒教の統合した教説を骨子とし、これに対して現在の支配勢力たるフランス人の宗教天主公教(ロマン・カトリック)の教旨と礼式とを取り入れ、
 (中略)…ベトナム人の精霊崇拝はあらゆる人間的な思考の胚種として存在し、全ての知性活動は、此の天地自然の精気に対する信仰を根として枝を張っている。
 この儒仏両道による信仰のほかに一般民衆のなかに牢固たる地盤をもつものがあり、それが民族固有の信仰と道教との混成物であって、女神たる柳杏に仕える種々の迷える霊魂すなわち『諸位』に対する信仰、この諸位の祭祀を司る女巫、婆童(バ・ドン)、またベトナムの
民族英雄たる陳興道(チャン・フン・ダオ)に仕える諸将軍を祭る男巫、翁童(オン・ドン)などが依然として社会生活に重きをなしている。(中略)…巫覡道を基礎に上述三教と最近の外来宗教たる天主公教の教理を適当に混合して、新しい教理を構成した、

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 「ベトナム人の精霊崇拝」の例の一つかと思うのですが、独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の自伝『自判』の中で、こんな記述を見つけたことがあります。
 「…幼少の頃の私は、母が諭す言葉を例え半句であっても軽んじることはしなかった。母の傍に居た16年間に、私は唯の一度たりとも母の怒鳴り声や誰かを罵る声を聞いたことが無い。横車を押されても、只一声軽く笑って返すだけだった。母の口癖は、『お天道様が見てるわよ!』だった。」
                      『自判』より

 ファン・ボイ・チャウが、幼少期の頃の実母の想い出を綴った部分に、この『お天道様が見てるわよ!』の言葉を見た時、私は正直びっくりしました。。。今の若い方はどうか判りませんが、私の子供の頃、両親の決め台詞は正にこれだったからです。。😌
 この、『お天道様に恥ずかしくない様に生きる』という躾は日本だけかと思ってましたが、ベトナムも元々全く同じ信仰が生活基盤にあったのではないかな、と印象を持ちます。
 それとちょっと脱線しますが、『霊媒』巫覡道』についても、私の小中学生時代は学校の教室で友達と一緒に『こっくりさん』で霊を呼び出してましたから、何故かとても親近感があります。😅😅😅 中学生の頃(1980年代)学校で禁止されましたが。
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 …この託宣は1927年1月に数人のフランス人が列なる席上、霊媒を通じて行われた。
 至上神の侍臣のうち最上位を与えられている李太白は、…ここで列席のフランス人に向って話しかけて詳しく新宗教の精神を説いた。
 『…今や世の秩序と平和とは崩壊した。人類の道徳律は破棄されている。反省の心無く、懐疑の底に沈む者どもにとって、神は単に名のみの存在に過ぎなくなっている。この神を恐れざるものどもは、…盲目的に罪業の道を歩み、業報の恐るべきことについては考えても見ないのである。
 親愛なる兄弟よ。大慈悲のクリストは諸君のなかに現れ、善への道を支持した。(中略)諸君よ。団結し、相互に愛し、扶助せよ。これ即ち神の掟である。ただ自己の利益のみに没頭するもの、到る所に困窮の種を蒔くものは煉獄の苦を受くべき必定であり、遂には彼の悪人どもが自己の生命を絶ち、魂を汚れしめる地獄の濁流に身を投ずるにいたるものである。』

 …フランス共和国の建国精神たる
フランス大革命の原理すなわち自由、平等、博愛の三大原則の実践を、主として支配者たるフランス人に対して強調しているところと考え合わせると、高台教がフランスの支配の下に生きる異人種の宗教であるだけに頗る興味のある示唆を感じるのである。

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  再び脱線しますが😅、私は「数人のフランス人が列なる席上、霊媒を通じて行われた」の部分と似た想い出があります。
 ベトナムに住み始めて5,6年位経過した頃、独りで中国国境に近い北部サパに旅行に行きました。現地で少数民族の村を訪ねるツアー(といってもバイクの後ろに乗せてもらうだけ)に申し込み、その日尋ねた村の一つで、ハノイ政府の文科省か何かの撮影団が少数民族の長老が亡くなる前に祭禮の記録フィルムを撮るということで、偶然観光で訪問した私と西洋人数人も一緒に見学させて貰えました。
 一番初めに、沢山の針を刺した豆腐が祭壇へ。そして奥から人形が出て来て、祭壇の祠に入りました。少しして、手前に寝転がっていた若い男の人に霊が降りたようで、動き出して起ち上がり、激しく動き回ります。来賓として手前に座っていた私と数人の西洋人は既に腰が引けてます。。😅 そうしたら、生きた鶏が差し出され、いきなり首をスパっと切り落として、なんと振り廻し、鶏の首がぐるぐる回るたびに、私達の顔や服に鶏の生血が「ビビビッ!」、ついでにもう一回!「ビビビ!」…😅😅 だ、だから『前の席をどうぞ。』だったのか。。(笑)
 針を刺した豆腐は、日本の「針供養」にも似てますよね。
 あの時、私の前に寝転がっていた若者が所謂『翁童(オン・ドン)』だったのでしょうか。かれこれもう20年以上前の出来事ですので、現在ではもう少数民族の間でも、この祭禮の存在を知る人は少ないかも知れません。
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 …神は様々な時代に、「大道」の五分派を創立したのであった。その一は、「仁道」すなわち儒教、その二は「神道」すなわち「姜太公」の教で、これは精霊信仰である。その三は「聖道」すなわちキリスト様、その四は「仙道」すなわち道教、その五は「仏教」である。
 今日においては、…(中略)…このままでは決して人類は相互に調和し存立することができない。…諸宗教の存在そのものが人類を分裂させているばかりでなく、その諸宗教を交通せしめる役を引き受けたものどもが堕落し、益々「大道」の真義は世人の眼から隠されてしまった。ゆえに高台は親しく現れて「大道」を指し諭す決意を固めた、というのである。

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 世界的に見ると、我々日本の神道は『世界五大道』の第2分派に分類されてます。
 20世紀は、交通手段が発達して『距離』の問題は解決しますが、伝達の最大の壁『言語』の問題は残ります。思い出すのは、私の高校生の頃までは『エスペラント』なる世界語を学ぶ人が周囲に結構いました。関連性は判りませんが、世界の宗教が統一されたら、確かに当然統一言語も必要になりますよね。
 『交通せしめる役を引き受けたもの』とは、所謂『伝道師』や『宣教師』等々のこと? そうすると、諸先生方はかなり以前から堕落済み。。😅😅
 
 この上⇧の『…今や世の秩序と平和とは崩壊した…』の部分などは、昔読んだトルストイ『光あるうち光の中を歩め』をちょっと思い出しました。
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 第一回、第二回に見られたように、神はキリスト、仏陀、老子、孔子のごとき人間の形を以て現世に現れず、(中略)今日、霊媒を通じて自己の本体を明らかにした、
 …実際、あらゆる宗教は、人間たる創始者の権威に支配せられ、そのために宗教のもつべき世界性を失ってしまっている。…その宗教創始者の個人性に圧倒されてしまい、宗教的な形で示された真理を信奉する気持ちを失って他の宗教に対して浩歎すべき偏狭さを示して、惨澹たる宗教闘争すら敢えてするにいたったのである。
 …この新しい宗教が宗教上の大同団結を目的とするがため…、新しい宗教は此の変質と歪曲とを匡正し立てなおすことをその任務としているのである。
 人間が自己自身に対し、自己の家族、家族の拡大された形態たる社会に対し、さらに進んで家族の最も大きな形である世界に対する義務に目覚めることを要求する。つまり、家族を基礎とする世界家族主義を理想とするのであって、個人を基本とする世界同胞主義を主張するのではない。

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 これまでの既存宗教は結局全て、創設者の個人性や威厳に支配されてしまったから、第三回目は神はもう人間の姿では現れないそうです。個人性や威厳に支配された集団は排他性を帯びて行く。『カリスマ性』を持った人間に率いられた団体は『全体主義化』するということでしょうか。。
 そう考えると、高台教創設者の2人『呉(ゴ、NGÔ)氏』と『黎(レ、LÊ)氏』が、早々に自ら表舞台から消えた理由もここにあるのかも知れませんね。
 世界⇒国⇒県⇒市⇒町内会⇒家族。家族の拡大された形態たる社会」。土台となるのは『家族』。。
 『家族が基礎の世界家族主義』VS 『個人が基本の世界同胞主義』。これもしかして、近年言われる「インターナショナリズム」VS「グローバリズム」の対立の元祖じゃないでしょうか。。😅😅
 何れにせよ、この観点から考えてみると、戦後、特にバブル後の日本政治は完全に「世界同胞主義」に思えますが。。。どうでしょうか?😵‍💫
 
私個人的には、世界同胞主義の対局にあるのが国粋主義ではないと判って新たな発見がありました。戦後メディアの何やらふわっとしたカタカナで胡麻化さず、日本語で明確に表現されているので、私の様に靄かかった頭脳でもちゃんと理解が深まるのが戦前古書の魅力の一つでもあります。😅
 
 
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 ベトナム民族の民間信仰は古えの巫覡道がその中心をなしていると言い得る。…高台教は此の要件を充たしているのである。この新しい宗教は巫覡道を前提要件として成立する。次でこの古来の信仰に論理的扮装を施すために仏儒道の三宗教の教理が援用せられ、さらに西洋の支配力に対する顧慮から、キリスト教更に天主公教が動員せられる。

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 「古えの巫覡道」が当時のベトナム民間信仰の中心だったから、その条件を満たした高台教は怒涛の勢いで大躍進しました。その為、その状況を目の当たりにした当の天主公教(ロマン・カトリック)側は警戒を強め、当時このように世論を喚起したそうです。⇩

 このベトナムの新興宗教は、「外国殊にドイツの心霊主義國体直感説(ノステイク)の信奉者、及び『薔薇騎士団』フランス本国では平和主義並びに革命主義の國体、又は雑誌例えば『人権同盟』とか『サン・ル・ノーブル同胞会』または雑誌≪La Griffe≫ …など」がこれを支持しており、「魔術、呪術などにのみ頼る精神の貧困、漠然たる信仰、狂信が大衆を煽動者の意のままに動かさせる危険性を大きくするもの」で、「どんな機会に如何なる危険な政治家の手足となるかも知れないと警告を発していた。」

 『ノステイク』に『薔薇騎士団』。。。気になりますけど、脱線せずに今日の記事を終わりにします。。
 ちょっと興味深いと思うのは、ロマン・カトリックの西洋列強側は、「魔術、呪術などにのみ頼る精神の貧困、漠然たる信仰、狂信」を信奉する民族に対しては、これを使って「大衆を煽動者の意のままに動か」せると既に意識している事ですね。😵‍💫😵‍💫 (←日本も同じ『世界五大道』第2分派ですけど。。💦😅)

 この後にベトナムで起こった経緯を見てみましょう。

 1955年にベトナムは南北に分断され、南部に『ベトナム共和国』が建国されました。しかし、数年も絶たずにカトリックだった呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)初代大統領がカトリックを優遇、仏教徒を弾圧したとされ、国内仏教徒の焼身自殺による抗議行動が連鎖的に発生します。これは、「アメリカの傀儡政権VS祖国解放を志す民族戦線」という2極対立メッセージに乗って、世界中が注目する大きな反体制運動になりました。
 元々親日派の抗仏志士の一人であり、ベトナム皇子クオン・デ候が最も信頼した同志の1人ゴ・ディン・ジェム氏は、結局1963年に軍事クーデターによって殺されてしまいました。そして案の定、ベトナム戦争は激化して行ったのです。
 1940年以前に西洋列強側は、ベトナムの新興宗教『高台(カオ・ダイ)』の弱点を分析した上で、『煽動者』を使って大衆を「意のままに動かせる」ことを熟知してならば、、、その後に起こった史実は案外整理し易いかも知れません。

 因に『印度支那(インドシナ)』のT.E エンニス氏(=アメリカ人)は、著書の中で『高台(カオ・ダイ)』に触れていて、
 「…輪廻不滅の法を説いて東西両洋の真の「接近」に努め、狭い人種的民族的感情の破壊を念願とする。」
 と書き、「この宗教に関する詳細」の参考先について、「1930年2月21日号ニューヨーク・タイムズ紙」をお勧めしています。。流石、アメリカ・NY。。。いつも仕事が早いです。。。😅😅

その(3)は、「高台(カオ・ダイ)の本山・その他」です!(いつかは未定。。。😅😅)
 
 

 

 

 
 
 
 

 
  

 
 
 


 
 

 

 

 
 

   
 
 

 






 

 

 

 

 

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