トラウママジョリティー(ショートショート)
想像を絶するほど怖い。教卓の前に立つ僕は、あまりの恐怖に泣き出してしまい、クラスにいる全生徒に醜態を晒す事となってしまった。僕は僕で自分を疑いながら、同時にここで勇気を持ち、胸を張ることが出来ない自分に情けなさと恥ずかしさを自覚して、左側の方とわき腹のあいだ辺りが、急激に収縮していくような痛みと苦みに襲われていた。
たった45分の授業の中で、これだけ面食らうことになるとは。僕は今まで、こうした身体の変化にはある仮説を持っていた。あるいくつかの条件が揃った時点で、急激に襲ってくるものだと考えていた。股下が急にヒュ~となり、いつ地面に着地できるかもわからないような空間を、足からずっと落ちていくような感覚を、0.5秒から1秒くらいの感覚で、一気に味わってしまう。頭の中でそんな風に考えてみると、その感覚を想像するのはとても難しいという事が分かり、ということは、僕の中にそんなイメージがあったとしても、それは絶対に再現されることのない、アニメーションの中でしか観ることが出来ない表現の1つくらいのものだと勝手に思い込んでいた。
だが、今僕が立たされている状況は、ずっと僕の中にあった想像そのもので、しかもそれは、僕が立てた仮説とは全く違う形で姿を現したのだ。
一気に襲ってくると思い込んでいたその衝撃は、実はじわじわと身体を侵食していくようなもので、降りきってしまえば確実に燃やされ、姿形が跡形もなく消えてしまうであろう高温のマグマがあることが分かっている。そんな階段であることを誰よりも認識しながら、1歩ずつ着実に、その階段を下っているようなものだ。分かっているのに足を止めることは許されず、視界には少しずつ、そのマグマが大きくなり、皮膚は熱さに怯えている。
僕は冷たい視線と嘲笑の中にいた。たかが授業だ。ここで失敗しても、ここで笑い者にされたとしても、その後の僕の人生において何も損することはない。でも、小学2年生の小さな頭に、そんな先の事を考える余裕は無いし、そういう経験を持ち合わせていないから、仮説の中の恐怖しか知らないわけだ。周囲の人間が共通で持っていた認識・それを確かめ合う作業的時間・違う事をしてしまった焦り、それらを処理するだけの能力は無くて、僕の頭には、ただひたすら「あれ?なんか違う?」という顔をしたクラスメイトが浮かんでいる。
それは国語の授業だった。その日は「物語を書こう」という内容だった。ウサギとカメを登場人物にし、友情をテーマにオリジナルの物語を作る。文字数は300字程度だった。
この時先生は、どんな形でも良いと言ったし、生徒が物語を書きやすいようにいくつかの例題を出してくれた。その例題の形は短編で、300字の中で2つか3つの別の物語が集約されたものになっていた。
僕はなんの疑いもなく、この例題のテイストをまねした。そうすることがすべてだと思っていたし、一切疑う理由が無かった。100文字程度の短編を3つ、友情をテーマにして構成すれば、それですべてが終わると信じていた。
発表が始まった。物語を書き終えたら、クラスメイト全員が、自分の書いた物語を発表することになっていた。名前の順でクラスメイトが、自分が書いた物語を発表していった。
するとどうだろう?
クラスメイトは、300文字で1つの物語を作っていた。最初の1人が発表した時、そこに小さな焦りはあれど、そういう人もいるよね程度の気持ちでいた。が、1人、また1人と、その形式での物語が続いていった。僕は怖くなった。このクラスで僕だけが、この形式とは違う方法で物語を創造してしまったのだ。
先生に怒られるかもしれない。休み時間にクスクス笑われるかもしれない。友人にバカにされるかもしれない。もしかしたら、僕だけもう1度やり直しをしないといけないかもしれない。
発表が進むにつれて、そんな思いが沸き上がっていき、僕は自分の考えの足りなさに絶望し、自分の適当な答えを信じることが出来ないくらい追い込まれた。それは、これからこの物語をキッカケにして、新たないじめが始まるかもしれないという思いに似ていた。
僕の順番がやってきた。先生が「さぁ、発表してください」と言った。その言葉がトリガーだった。僕はどうしても、口を開くことが出来なかった。そして、その場に立ち尽くしてしまった。混乱という初めての経験を前に、怖くて怖くて仕方がなかった。そして、その重みに耐えられなくなってしまった僕は、とうとうその場で泣き出してしまったのだった。
先生は厳しい女性だった。絶対に発表するまで、席に帰る事を許してくれなかった。でも、僕が泣き出してしまうと、観念したかのように、ひとまず自分の座席に帰るよう命じた。
僕は見えない力に屈した。頭の中で作り出してしまった虚ろな恐怖を、勝手に肥大化させて、それに勝手に打ち負けたのだ。僕は自分が恥ずかしかった。発表をこなすことが出来なかった自分は、周囲の人間に比べて劣っている、それどころか、彼らが当たり前に出した答えさえ出すことが出来ない。そんな思いが頭の中をよぎり、どうしようもないくらいにしょうもない生き物であるような気がして、この場から消えてしまいたいという言葉が頭の中に浮かんできた。
生徒たちの底知れぬ目と口が、ニヒルな笑顔で勝ち誇ったような様子を露わにしていた。僕はその顔が忘れられない。でも本当に忘れられないのは、卑怯なような気がする彼らの態度に反発出来ない自分だった。小さくて弱々しいこの時の僕は、この一連の体験を胸に刻みこみ、そう、いくつかの時間が経過しても、これを原動力として動くくらいにはしっかりそこに縛られているのである。
・・・目覚まし時計が鳴った。
久しぶりに汗びっしょりの中で目を覚ました。外は雨のため、部屋の中はいつもよりもどんよりとして、思っていた薄暗かった。
今日は締切だ。最後の短編を書かなくちゃ。僕は今一度気を引き締めて、自分の個性と思想に向き合うため、今日も机にへばりつくのである。