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迷子とアーカイブ──地域の記憶を育てる(丸山達也)
東京・世田谷の各戸から提供された8ミリフィルム。そこに写っていたのは、家族の団らん、レジャー、社員旅行といった昭和のホームムービーでした。かつて誰かが残した記録を、現代を生きる私たちが分かち合う意味とは。5人のサンデー・インタビュアーズが「アーカイブ」という営みについて考えました。
迷子とアーカイブ
世田谷クロニクル編集部で月に一度開催した読書会に参加した。第2回目の会で何かの拍子に耳にした「迷子」という言葉がしばらく頭の中にあった。というのも、アーカイブは常に迷子だなと感じるからだ。
私は現在、石川県加賀市で地域おこし協力隊として市内の図書館や公民館・ご家庭など、地域に眠る古い資料を収集し整理している。資料は8ミリ・16ミリフィルムやVHS、写真アルバムや市史編纂に関するカセットテープなど視聴覚資料が中心で、古いものでは90年前に地域で起きた大火の記録映像まで遡る。お宝探しのように誰も手をつけていないような資料を探していることもあるが、出会う資料の一つひとつに目録があることはあまりなく、「いつ」「どこで」「なにを」「どんな目的で」記録したものかわからないことがほとんどだ。資料に写り込んだものや、筆跡などを頼りに推測し、資料のことが分かりそうな方からお話を聞いたりしながら、ようやく資料が収まるべき場所がわかってくる。こうした作業がまるで迷子になった幼子の世話をしているような感覚があるのだ。
実際に地域に眠る資料の一つひとつは、誰かが手をかけて世話をしてあげないと経年劣化が進み、破棄されてしまうような弱々しい存在だ。幼子のように他者の助けを必要としながら、存在が知られず忘れ去られてしまう資料も数多くある。しかし、そんな資料の中に、地域の出来事を辿るための重要な手がかりが眠っているのではないだろうか。地域全体で地域資料の世話ができるように、アーカイブを共同で編集できるプラットフォーム「かがが」を開発中だ。
私事ではあるが、2024年2月に子供が産まれた。生後2ヶ月にも満たない赤ちゃんは、親や親戚だけでなく、幅広い関係の人をにこやかにしてくれているように感じる。誰かが支えてあげないと生きていけないような弱々しい存在。そうした「放っておけなさ」が、人と人とを繋げてくれているような気がする。今や地域で子供を育てるということも難しい世の中になっているが、地域で子供を育てるように地域の記憶も地域で育てていけないだろうか。そんなことを思うこの春。
2024年4月6日
まるやまたつや 1988年生まれ。映像制作が専門。石川県の加賀市で郷土資料のデジタル化とその利活用に取り組む。自分たちの住む街に関わっている人が「どのような経験や想いをもって生きてきたのか」を感じられるようにしたいと考えている。2019年から2021年まで東京に住んでいた経験がある。
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このエッセイは、居住地も職業もさまざまな5人のサンデー・インタビュアーズが「アーカイブにまつわるエッセイ」をテーマに執筆した文章です。2023年4月からの約1年間、映像を見て、本を読み、それぞれの地域で取り組んでいる活動や関心事をシェアしながら、「アーカイブはだれのもの?」という問いをめぐって、意見を交わしました。
アーカイブはたしかに「みんなのもの」です。では、それが「自分だけのもの」になるとき、いったい何が起きているのでしょうか。それは、どのようにして可能なのでしょうか。日々の生活の現場から“アーカイブ”を考える営みは、これからも続きます。(編集部)
サンデー・インタビュアーズのエッセイ
ずれてかさなる──懐かしさはなぜ感じるのか(アキ)
PERFECT DAYSの記録──過去の映像に現代を観る(佐伯研)
迷子とアーカイブ──地域の記憶を育てる(丸山達也)
集団就職の時代──海水浴の映像から見えるもの(八木寛之)
アーカイブされる奇跡──記憶を分かち合う(やながわかなこ)