見出し画像

「集団就職で採用された従業員が住み込みで働いていた」──八木さんの発表

昭和の世田谷を写した8ミリフィルムの映像を手がかりに、“わたしたちの現在地” をさぐるロスジェネ世代の余暇活動「サンデー・インタビュアーズ」。月に1度オンラインで集い〈みる、はなす、きく〉の3ステップに取り組みます。ライターの橋本倫史さんによる記録です。

連載最終回(全17回)

サンデー・インタビュアーズは、「私たちは、どんな時代を生きているのか?」という問いを追求するべく、立ち上げられたプロジェクトだ。そこで課題となる映像は、『世田谷クロニクル1936-83』としてアーカイブされている8ミリフィルムだった。その中で一番あたらしい映像は、昭和58(1983)年1月に撮影されたものだ。その映像が撮影されて、もう40年が経とうとしている。そのフィルムが撮影された時代は、どんどん過去の歴史となり、当時を知る世代も少なくなりつつある。リアルタイムで経験したことがない時代に、わたしたちはどんなふうに手を伸ばすことができるのだろう?

「私が選んだのは、No.56の『改正商店街』と、No.66の『理容店2』の映像です」。10月の中間報告会で、八木寛之さんはそう語っていた。「この『改正商店街』のほうは、近代的な鉄筋コンクリートに作り替えた商店街を視察に行くという形で、記録映像的に撮ってはる映像なんですね。『理容店2』は、社員旅行で海に行く映像があるんですけど、その中に中卒の見習い理容師がいると書かれていたかと思います。私自身、商店街のことを調べている人間で、1950年代から70年代、いわゆる高度経済成長期前後の商店街の近代化ということに興味があるんです」

『改正商店街』と題した8ミリフィルムは、昭和40(1965)年の初夏に撮影されたものだ。この時期というのは、八木さんによれば、全国で商店街が組織化された時代でもあったのだという。昭和37(1962)年には商店街振興組合法という法律がつくられたことを契機にして、商店街が組織化されて銀行から融資を受けやすくなったり、商店街による共同事業としてアーケードやビルが整備されたのだそうだ。

「なかでも、世田谷区の桜新町というところがあって──佐伯さんの発表の中で用賀の話が出てきましたけど、桜新町は用賀の隣ですね──この桜新町のあたりでは昭和26(1951)年に商店会が組織化されています。その目的というのは、商店街の組織の強化や、宣伝活動に力を入れるといったことに加えて、商店の就業規則の確立があったそうです。当時は住み込みや通いで働かれてる店員さんが多かったそうなんですけど、商店街として就業規則をつくることで、過重労働の問題を解消しよう、と」

桜新町で商店会が組織化された時代は、日本が戦後の復興期に移り、人手が求められていた時代でもあった。働く側からすれば引く手あまたで、よりよい条件で働ける職場に労働力は流れてゆく。大きな資本に対抗できるようにと、桜新町でも商店会が組織化されたのではないかと、八木さんは語る。

「私はまだ、皆さんほど調べられていない段階ではあるんですけど、桜新町の商店街の方と知り合うご縁がありまして、今ちょっと、取材の申し込みをしているところです。桜新町の商店街が近代化されてゆく過程をご存知の方にどれだけアプローチできるかは未知数なところなんですけど、事務局の方がおっしゃるには、今も桜新町でお店をやってはる方の中には、集団就職を受け入れて、お店に住み込みで働いてもらっていた方もいらっしゃるそうなんですね。神戸からはちょっと遠いんですけども、来月あたりに取材に行けたらなと思っています」

八木さんは社会学者として、商店街に関する調査・研究をおこなってきた。「商店街」という言葉には、全国各地にスーパーマーケットやショッピングモールが普及した今となっては、どこか懐かしい響きがある。商店街と聞けば、どこか下町の情緒が残る風景を想像しがちだ。ただ、商店街は当然ながら下町にだけあったものではなく、山手や新興住宅地にも形成されてゆく。世間的にイメージされるものとは別の「商店街」──ホワイトカラー層が多く居住した地域の「商店街」の実相を、八木さんは掘り起こそうとする。

「桜新町商店街は、昭和30(1955)年、全国に先駆けて『集団就職』の受け入れを開始したそうなんです。『集団就職』というのは現象を指す言葉で、制度的には『集団求人制度』という言葉になるんですけど、需要サイドの商店街や事業者団体が集団で求人をする、と。そういう制度が1950年代ぐらいに出来上がったと言われています。桜新町商店街では、新潟や千葉から店員を募集した、と。当時は就職で東京に出てきても、仕事がしんどかったり、ホームシックにかかったりして離職率が高かったそうで、その対策として同じ地域から一括で採用することになったようです」

桜新町商店街での「集団就職」の記憶を掘り起こすべく、八木さんは2022年12月に桜新町を訪れ、聞き取り調査をおこなった。話を聞かせてもらったのは、薬局の店主と家具屋の店主だ。ふたりとも、両親が経営していたお店を引き継ぎ、お店を切り盛りされている方だ。

「薬局店の方に話を伺ったところ、『昔は集団就職で採用された従業員がいて、住み込みで働いていた』という話になりました。『自分の親は青森出身だったから、青森のほうから集団雇用を受け入れていた』と。家具屋さんのほうは、集団雇用制度は利用されなかったそうなんですけど、ツテを頼って従業員を雇われていたそうです。だから、商店街のすべてのお店が集団雇用制度を利用していたわけではなくて、それぞれのお店でリクルートの方法はあったんじゃないかと思っています」

今回、八木さんが聞き取り調査をおこなった相手は、「集団就職」の時代をリアルタイムで知る世代だ。ただ、当時はまだこどもだったから、「集団就職」で働いていた人たちの労働環境まで記憶に残っているわけではなかった。「集団就職」の時代から、70年近くが経過している。当時のことを語れる人たちは、少なくなりつつあるのが現状だ。しかも、「集団就職」によって桜新町商店街で働き始めた人たちも、ずっとひとつのお店で働き続けるわけではなく、やがて「暖簾分け」という形で独立し、自分のお店を構えた人もいる。ただ、同じ商店街の中だと競合してしまうから、どこか別の街でお店を構えるケースがほとんどだ。そうすると、「集団就職」で上京した人たちは、その街から姿を消してしまう。

「集団就職で上京された方達の離職率って、やっぱり高かったんですかね?」八木さんの発表を受けて、やながわさんが尋ねる。

「離職率に関しては、データとしてはっきりしたものはないんですけども、語りや証言から推測すると、かなり高かっただろうなと考えられます。桜新町の場合も、何度も地元に帰って桜新町に出てきなおした人もいれば、地元に帰ったきり行方不明になってしまう人もいたそうです。その離職率の高さが社会問題になっていたからこそ、労働条件を改善するために商店街で一定のルールづくりをしたんだろうな、と」

八木さんの発表を聞きながら、ふたりの「青年」が思い出された。そのうちのひとりの「青年」は、菊池史彦『「若者」の時代』にこう描写されている。

彼は、大阪市・十三駅前の寿司屋「一花」へ就職した。住み込み食事付きで給与は一万二〇〇〇円。一人前の寿司職人になりたいと思っていたが、一カ月で店を去った。
鹿児島へ帰って、大衆食堂の皿洗い、キャバレーのバンドボーイなどをやってみるが、続かない。また大阪へ戻って、鉄工所、大衆食堂。次は東京へ出て、中華そば屋、和風食堂、塗装看板屋、お茶漬け屋。また、大阪へ戻ってフランス料理屋、運送屋、バー。再び東京へ出て、家具屋、外人バー、大衆食堂……。ここまでで転職は十七回を数えていた。長くても三カ月、最短はたった一日。転がる石のように転々と職を変えた。
後年、彼はその頃のようすを次のように語った。

日曜日にね、集団就職の仲間に会うんです。励ましたり慰めたり? とんでもない、情報交換ですよ。
“どうだ、給料はいいか?”
“仕事、きつくないか?”
で、よし、となったら、タクシーにフトンのっけて、サッとずらかって、ちがう店へいっちまうんです。みんな、そうなんですよ。──『女性自身』1968年6月17日号)

彼の最後の転職先は、チャーリー石黒と東京パンチョスというバンドである。石黒は、フジテレビの「リズム歌合戦」で優勝した森内を、内弟子兼バンドボーイとして自宅のガレージに住まわせた。固定給なし、空腹に苛まれながら、青年は、歌を学び直した。
演歌でいくという石黒の強い主張に、所属先の渡辺プロも折れた。デビュー曲は、「女のためいき」(詞:吉川静夫、曲:猪俣公章)。一九六六年六月。森進一の誕生である。大阪十三の寿司屋を辞めてから、三年が経っていた。

菊池史彦『「若者」の時代』

鹿児島から集団就職で大阪に出た青年は、「森進一」という芸名を得て、成功を収めた。そうして成功を掴み取る「青年」がいた一方で、行き場を失った「青年」もいた。そのひとりが永山則夫だ。

昭和24(1959)年、北海道は網走に生まれた永山則夫は、昭和40(1965)年3月、集団就職列車で青森から東京へと上京する。最初の勤め先は渋谷駅前の西村フルーツパーラーだった。最初のうちはうまく仕事をこなしていた永山だったが、人間関係をうまく築くことができず、孤立したはてに身一つで逃げ出す──そんなことを繰り返しているうちに、1968年、ほぼホームレス状態に陥る。青森の郷里でも受け入れてもらえず、東京に暮らす兄たちにも拒絶され、横須賀基地に潜入して拳銃を奪い、殺人事件を起こす。連続して殺人事件を起こしながらも、彼は新宿のジャズ喫茶「ヴィレッジ・ヴァンガード」でボーイとして働いていた。

彼のように事件を起こさないまでも、「集団就職」で上京したものの、都会の喧騒の中で孤独を感じていた若者は数えきれないほどいたはずだ。だからこそ、同時代を生きた書き手たちは永山則夫について書き綴っていたのだろう。

「集団就職先を辞めて──地元に帰れたんですかね?」最終発表会を終えたあと、皆で語り合っているとき、やなわさんはつぶやくように言った。

「違うところに“帰った”人もいたかもしれないですね」と、松本さん。「やっぱり、出ていくときから愛憎まみれた感覚はあったんじゃないですかね。だから、すんなり地元に帰れた人もいただろうけど、新しいところに“帰る”って感覚もあったのかもしれないですね」

集団就職の話は、遠い昔の出来事になりつつある。

でも、同じような出来事は、きっと今もどこかにある。地元を離れて都会に出て、居場所を失い、犯罪に手を染めてしまう人もいる。あるいは、国境を超えて日本にやってきて、厳しい労働環境で働かされ、孤独に打ちひしがれている誰かがいる。数十年前に撮影されたフィルムを見つめているうちに、わたしたちが暮らしている現在の社会の姿や、これから先の未来のことが照射されてゆく。

文=橋本倫史(はしもと・ともふみ)
1982年広島県生まれ。2007年『en-taxi』(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動をはじめる。同年にリトルマガジン『HB』を創刊。以降『hb paper』『SKETCHBOOK』『月刊ドライブイン』『不忍界隈』などいくつものリトルプレスを手がける。近著に『月刊ドライブイン』(筑摩書房、2019)『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社、2019)、『東京の古本屋』(本の雑誌社、2021)、『水納島再訪』(講談社、2022)。

サンデー・インタビュアーズ
昭和の世田谷を写した8ミリフィルムを手がかりに、“わたしたちの現在地” を探求するロスト・ジェネレーション世代による余暇活動。地域映像アーカイブ『世田谷クロニクル1936-83』上に公開されている84の映像を毎月ひとつずつ選んで、公募メンバー自身がメディア(媒介)となって、オンラインとオフラインをゆるやかにつなげていく3つのステップ《みる、はなす、きく》に取り組んでいます。本テキストは、オンライン上で行うワークショップ《STEP-2 みんなで“はなす”》部分で交わされた語りの記録です。サンデーインタビュアーズは「GAYA|移動する中心」*の一環として実施しています。
https://aha.ne.jp/si/

*「GAYA|移動する中心」は、昭和の世田谷をうつした8ミリフィルムのデジタルデータを活用し、映像を介した語りの場を創出するコミュニティ・アーカイブプロジェクト。映像の再生をきっかけに紡がれた個々の語りを拾い上げ、プロジェクトを共に動かす担い手づくりを目指し、東京アートポイント計画の一環として実施しています。

主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、特定非営利活動法人記録と表現とメディアのための組織[remo]