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アーカイブされる奇跡──記憶を分かち合う(やながわかなこ)
東京・世田谷の各戸から提供された8ミリフィルム。そこに写っていたのは、家族の団らん、レジャー、社員旅行といった昭和のホームムービーでした。かつて誰かが残した記録を、現代を生きる私たちが分かち合う意味とは。5人のサンデー・インタビュアーズが「アーカイブ」という営みについて考えました。
アーカイブされる奇跡
世間はアーカイブする(保存する、保管する)こととは真逆の流れにある。断捨離、ミニマリスト、終活、実家じまい。取っておくことより捨てること、モノをあまり所有しないことが「美学」とされている。確かにそうだ。いま必要のないものは処分して、限られたスペースを有意義に使う暮らしは理想的だ。後ろは振り返らず前だけ見て生きていくのも潔くてかっこいい。
一方で、わたしはサンデー・インタビューアーズの活動を通して実感してしまった。今はあたり前に存在しているものでも何十年もしたら貴重な資料になること。それは個人の所有する日用品や日記、スナップ写真までもが、価値のあるものに化けるということ。そして、それらをアーカイブすること、いやアーカイブできることは「未来」にとって重要になる可能性があるということを。
そうはいっても、何でもかんでも残しておくことはではない。この1年、アーカイブについて考える中で、常に気持ちはアンビバレンスに揺れていた。
そんな中、アーカイブについて考えるヒントとなる本として、高野文子と昭和のくらし博物館著『いずみさん、とっておいてはどうですか』(平凡社、2022)を話題にしたときのことだ。この本は、昭和30年代に少女期を過ごした姉妹、山口いずみ、わかばさんの子ども時代の日記や人形、おもちゃが昭和のくらし博物館へ寄贈されたことから始まるドキュメントである。
本の中に出てくるいずみさんの子ども時代に作った工作が残っていることについて「じぶんの子どもの作品をとっておいていない」という話が出た。そのときわたしは、取捨選択の中で偶然にも残っていったモノたちというのは奇跡でしかないことに気づいて、目から鱗が落ちた。たとえ意図的に次世代に残そうとしたアーカイブだとしても、災害や戦争などで簡単に失われることもある。アーカイブがアーカイブされ続けることは大げさではなくやはり奇跡と言っていい。
そして、この「奇跡」を共有できるとしたらどうだろうか。たとえば、じぶんのこどもが作った工作は残っていなくても、誰かのこどもが作った作品が残っていたことによって、じぶんのこどもの作品の記憶を引き出してもらう。人間の想像力はたくましい。アーカイブから発せられる数々のトリガーは、今を生きるわたしたちの温故知新な装置にもなりそうだ。
そんな「奇跡」の応用編こそが、これまでインタビューの活動で行っていた「世田谷クロニクル」の鑑賞の楽しみ方であった気がしてならない。
2024年4月6日
やながわかなこ 1970年生まれ。2020年から茨城県・水戸に在住。世田谷の小学校でゲストティーチャーを務めたり、東京・九段下の「昭和館」で次世代の語り部事業に携わったりする経験をもつ。家族間での記憶の継承やオーラルヒストリーに関心があり、2019年からサンデー・インタビュアーズに参加している。
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このエッセイは、居住地も職業もさまざまな5人のサンデー・インタビュアーズが「アーカイブにまつわるエッセイ」をテーマに執筆した文章です。2023年4月からの約1年間、映像を見て、本を読み、それぞれの地域で取り組んでいる活動や関心事をシェアしながら、「アーカイブはだれのもの?」という問いをめぐって、意見を交わしました。
アーカイブはたしかに「みんなのもの」です。では、それが「自分だけのもの」になるとき、いったい何が起きているのでしょうか。それは、どのようにして可能なのでしょうか。日々の生活の現場から“アーカイブ”を考える営みは、これからも続きます。(編集部)
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