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(目標)note記事100件
noteをはじめた目的は、「note記事を100件書く」こと。翻訳業に興味を持ってから、「ブログ100記事書くと人生が変わる」というお話をお聞きして、私もはじめてみることにした。
実のところ、誰に向けて書いているのか分からないまま、100記事地点を目指してふらふらと進んでいる。日記を書いたり、書評を書いたり、短歌を詠んだり。定まらないまま。
本当は自分なりの一貫したテーマや読み手を定めた方が良いとは思うが、それでも「100」という数字の力を借りて、とりあえず始めることができたのは一歩前進だ。具体的な目標がなかったら、今もきっと何も書きはじめることはなかったと思う。
皆さんはどんな理由でnoteをはじめたのだろう。
言葉の力で問題を解決したい。それとは裏腹に、文章力が無さすぎる。やりたいこととできること、理想の自分と現状がバラバラになっている。
書くこと。人生の後半戦、私は教養と表現する力が欲しい。
あぁ。こうしてハッキリ文字にすると、「私!私!私を見て!やりたいこと、私の!」という自己中心的な私欲であることがハッキリとしてしまった。見たくない部分が見えちゃって、少し落ち込む。文章だって、誰かのために思いを込めたものの方がずっと価値があると思うのに。40にもなってまだ鏡ばかり見ている。
今、「好きなことで生きようぜ」や「やりたいことが見つからない病」はすっかり流行病になっていて、「全体の部分である自分」の視点が虐げられているんじゃないかと思う。だからこそ、企業は一生懸命「ミッション」や「パーパス」を語りだしているし、コーチングやコミュティビジネスが求められている。そういう私こそ、どっぷりその病にかかっている。
私の自己実現とやらが家族にどう影響するか、注意深くいなくてはならない。怖いのはむしろ大成功した場合のようだ。繋がった一つの塊としての家族。どこかが膨らむと、どこか別の所が引っ張られる。「成功」や「賞賛」を目的にしてはダメだ。測定したり比較したりできない、もっとのびのびとしたその日その日の態度のようなものを求めるのだ。
例えるなら、「好きだねぇ…。それさぁ、一体何が面白いの」と言う評価が一番の到達点のような気がする。息子くん達のお母さんと言う、素晴らしい役目が私に与えられたという幸運を、いまリアルタイムで見つめていないといけない。それは決して、「家族のため」とか「子どもたちのために○○を諦める」ということでは最早ない。私自身が求める家族のあり方や家族への向き合い方、自分から湧き上がる望みであり理想なんだ。
すぐに直線的に頑張ろうとする自分。一生懸命なのは私の良いところだ、間違いない。でもほんの少し視野を広く、心を広く持とう。大丈夫きっと大丈夫。
やる気のあるヤツっつうのは物事の中心しか見ないんですよ。面白いことってのはその周辺にあるでしょ。ちょっと外れてたり、ズレてたりそういうところにある。それに気づかないんですよ、やる気のあるヤツは。