イタくて、強い -『老ナルキソス』-
ミニシアターで映画を観る時に困るのは、タイトルの読みが分からない時。
窓口でチケットを購入する時に、タイトルを言わなければいけない。読みや、イントネーションなど。
これは、「ろうなるきそす」と読むのだそうだ。
上映後、脚本・監督の方のトークショーがあった。
司会の方の感想の中で、主人公の年寄ゲイ・山さんのイタさが言及されていたのだけど、僕は、山さんはイタいけど、強いなぁと思って観ていた。
山さんの性癖は強めだが、言うてそこまで超特殊ではない。むしろ、その性癖解消のために、自分のお金で売り専を買っているんだから、自己完結出来ていて素晴らしい。
売り専のレオにちゃんとお金も渡すし、養子縁組を求める時だって、版権だの印税だの、ちゃんとレオの利益を提示する。
年寄ゲイのお昼持ち寄り会で、高級なお酒を持って行っても駄目ではないし、料理の骨にはあたるけど、料理そのものには文句言ってないから、まあギリオッケー?
イタいし、ズレてるし、偏屈だし、近くにいたらやべー奴になっちゃうと思うけど、根本から悪人ではないんよな。
結局レオには断られて絶望しちゃうけど、立ち直って本職頑張って、また自信取り戻しちゃう。そういう強さ。
わがままでも、白い目で見られてもいいじゃん。誰かに迷惑かけてなければ。
イタさは、ある種の強さ。
ゲイがゲイであることがままならなかった頃の救いを、山さんは今の生き方に求めているのかもしれない。
ストーリーのもう一つの軸は、レオのパートナーシップの話。
レオの彼氏は家族仲の良い隼人。パートナーシップどころか、養育里親制度にまで関心があるのだけど、父親不在だったレオは家族というものが分からず踏ん切りがつかない。
どこの家族も仲が良いわけじゃない、というレオの台詞は、家族仲が良くない家庭に育った人間が言いたいことナンバーワンだと思う。
レオが不安なのは、隼人と上手くやっていけるかとか、パートナーが要らないってことじゃない。
家族ってものが分からない人間は、家族になることによって相手がどういう期待をしているのか、相手の期待を実現してあげられるのかが分からないから不安なんだと思う。
家族って皆んなの共通概念じゃなくて、人それぞれの概念で、うちは皆んなとは違うんだよって思ってる人間からすると、得体の知れない存在だってこと。
レオは隼人が大切にしている家族観を壊したくなくて、自分がそこに相応しい人間なのかが分からなくて不安なのかな。
レオが山さんからの養子縁組を断って、隼人とパートナーシップを結ぶまでの心の変遷はよく分からないままだった。
一つだけ思ったのは、こういうこと。
海に入っていった山さんをレオが助けられたことが、ある種の逆転したナルキソスだったのかなと。
幼い時に絵本を通じて自分を救ってくれた山さんに対して、レオは父親の反映とともに、自分の過去の反映も見ていたのではないか。
山さんを助けたことが、自分の過去への救いとともに、ゲイが向かう孤独な将来への救いにもなったのかな。
どちらかと言わなくても僕は山さんよりの偏屈な人間だから、なかなか身につまされる映画だった。
映画とは関係ないけれど、映画を観た次の日にリアルした相手から、クールだけどニヒリズム過ぎるよねと言われた。
言い得て妙だなぁ。
クールもニヒリズムも、イタさの真逆。
もっとイタくて、強い人間になりたいものだ。