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ゲイと「おじさん的」コミュニケーションの話

現代ビジネスの記事で、「きのう何食べた?」に触れているものを見かけた。

映画も大ヒット『きのう何食べた?』が教えてくれた、男性が「おじさんをこじらせない」方法
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/90032

まあ、言いたいことはなんとなくわかる。
シロさんとケンジのコミュニケーションから、中年男性(おじさん)の社会における他者との関係性の構築についての変化に言及している内容。


でも自分には、このゲイカップルの物語を引き合いに、世間のおじさん全体に言及するというのは、ちょっと違うのでは、と感じた。


だって、シロさんとケンジは、ノンケ社会から見たらおじさん2人なのかもしれないが、この2人や2人を知っている人にとっては、カップルであり家族なのだから。


ノンケ夫婦の日常を描くドラマや映画や漫画はごまんとあるが、そのコミュニケーションのあり方を、なんの特別な関係性もない一般男女のコミュニケーションに当てはめるなんてこと、しないと思うのだ。


なんか、そこが見誤っている気がするし、記事の後半で従来の男性間の関係性の描かれ方が権力関係、仲間関係だったとしているのは、この2人の物語の根本的な部分って...となった。


ノンケからしたら、同性2人でいることは、友達か同僚かなんかの関係で、家族だなんてにわかには受け止められないということなのか?


記事の中ではいわゆる「おじさん的」な特徴をあげているけれど、「何食べ」の中で一番「おじさん的」なのは、佳代子と、シロさんの母だ。2人とも女性。


佳代子は、シロさんと小日向が会うきっかけになった、「ゲイ同士仲良くなれるかと思って」という発想や、家族にもシロさんがゲイであることを勝手に言う(場合によっちゃアウティング)ことをしている。


シロさんの母は、シロさんがゲイであることを受け止め切れない振る舞いが、結局は自分中心の行動になってしまっている。
なお、シロさんの父も考え方は同じなのだろうが、暴走度合いは母の方が圧倒的なので、影が薄くなる。


ということを考えると、「おじさん的」と括るのではなく、単に「前時代的な利己的なコミュニケーションしか取れない性」ということになると思うのだが、「おじさん」にしておいた方が、体のいい男性サゲになってウケが狙えるのだろう。


じゃあ、なぜ、シロさんとケンジは、「おじさん」にならずに細やかなコミュニケーションが取れるのかというと、単に「ゲイだから」ということになるのではないか。


前のnoteに書いた、映画「彼女が好きなものは」の話を再度することになってしまうのだが、この中で、主人公がゲイを自覚しつつもノンケ高校生活で生きていく姿を、物理の授業などでよく使う言葉に擬えて、「ただし摩擦は0とする」という生き方だと言う場面がある。


ゲイとしてノンケ高校生活に適応するために、会話や仕草をノンケのように擬態するということである。


そこで交わされる、恋愛やセックスの話。
その全てを誤魔化して生きることにゲイは慣れすぎている。
常にその場の摩擦を0にしているのだ。


ケンジは今や職場にもカミングアウトしているが、そんな人でもゲイと自覚した瞬間から誰にでも言えました、なんて人はいるわけがない。


ゲイが、他者とのコミュニケーションにおいて、相手のリクエストに的確に答えられたり、距離感の取り方が上手いのは、そんな技術を培わなければ、生きてこれなかったからである。


だから、決して、おじさんのコミュニケーションの取り方が変わったわけではなく、ゲイのおじさんが一般社会のコンテンツになっただけ、なのだ。


シロさんの振る舞いを見ていると、社会との摩擦を0にすることに、如何に労力を割いているかがわかるだろう。


これも「彼女が好きなものは」に出てくるが、摩擦を0にしているのは、ゲイの主人公が自分を守っているわけではなく、自分以外を守るため、なのである。


彼らが所与のものとして信じてやまない関係性を180度ひっくり返して混乱させないために、摩擦を0にしているのだ。


まあ、ゲイ全員がそういうコミュニケーションが出来るわけではないのは当たり前なのは、おじさんだって全員が「おじさん的」ではないのと一緒である。


この記事がおじさん特有の問題ではないのにおじさんサゲをしているのは、社会でデカい顔をしているのがおじさんだから、攻撃しやすいのだろう。


今後、女性がもっと、社会のいわゆる偉い地位に進出していけば、こんなに簡単におじさんをスケープゴートにしておけば済む話ではなくなる。


その時には、現時点では、悪意があるわけじゃないから、と流されている、佳代子やシロさんの母の言動だって、立派な問題行動だとなるはずだ。


「おじさん的」であるのと、「おばさん的」であるのはほぼ同じだと思うのだが、「おばさん的」にだけ、甘いのはなぜだろう。


結局は、コミュニケーション能力を高めましょう、という就活生的な締め方になるんだろう...。
自分達が出来てもいないことを就活生に求めてるのって、ほんとうんざりするなぁ。

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