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本編とは全く関係ない話

もし過去に戻ってやり直せるのなら
いつに戻りたいか?

個人的には、というかこれから個人的な話しかしないが、
何度でもやり直せるのなら全ての選択肢を試したいという気持ちと、もう一度やるなんて面倒くさいという気持ちがアンビバレンスする。

…使い方は合ってる?


とはいえ、戻ってやり直したい過去もこれといってない。しかし、試しに一度くらいはやり直してみるかな。その程度の感覚。
お気楽な人生です。


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大学院に進学してから5年間、面白いほど何一つ上手く行かなかった。これまでの研究生活を振り返ると「もしあの時、別の選択をしていたら」とつい考えてしまう。


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私の思う、院進学に向いている人の特徴五選は、

  1. 天才

  2. 豪運

  3. メンタルが強い

  4. 従順

  5. デリカシーが無い

である。以上のいずれか一つでも当てはまる人はぜひ院進学を検討すると良い。楽しい院生活が待っていることだろう。しかし、「やや当てはまる」程度の人にはお勧めしない。たとえ複数の項目に対してでもだ。

まず「天才」についてだが、やや当てはまる、と思っている時点で天才ではない。また、中には「やや当てはまる」という心の裏に確信を秘めている人もいるだろう。しかし、本当の天才は自身の力量を見誤ったり、正確に押しはかる事ができないなんて事はない。自分を冷静に客観視し、自分に足りない事、今やるべき事、やりたい事を泰然とこなすことができる。そこに余計な思考回路はない。実際に本当の天才に会えば分かる。私は一人だけにしか会ったことがない。学部時代の恩師だ。

次に「豪運」だが、これは実際にそうである場合でも、そうだと思っているだけでも構わない。大学院、特に博士課程では、ある程度研究者扱いをされることになる。大学や研究所という組織に属しているとはいえ、学校や企業のようにタスクが用意される訳ではない。大袈裟な言い方をすれば、誰も通ったことのない道を通ることが当たり前となり、誰も正道を知らない。そこでは一つの失敗で大きな方向転換を余儀なくされることがある。そしてそれは決して稀ではない。「今まではトラブルが起こってもなんとかなった」という程度の運では足りない。そもそも「トラブルがほぼ起こらない」レベルの運の良さが必要である。トラブルを事前に察知する高い知能を持ち合わせていない場合、全ては運頼みだ。もしくは、そもそもトラブルに気付かないこと。鈍感さも時には重要である。

次に「メンタルが強い」についてだが、基準は「人間関係で悩んだことがない」だ。前述したように、誰も通ったことのない道を通るには、一人ではほぼ確実に失敗する。誰かの助けが必ず必要となる。それと同時に、周りの人間もまた同様に助けを求めている。そこでは互いに助け合いながら共に歩むことができる高いコミュニケーション能力が必要となる。しかし、この業界でコミュニケーション能力が高い人間やデリカシーがある人間は非常に稀である。そんな彼らと協力したり、渡り合うためには圧倒的に強いメンタルが必要だ。また、失敗に対してすぐ立ち直る技術という意味でも強いメンタルは重要である。たとえ高い知性を持っていなくとも、たとえ運が悪くとも、周りに助け合える仲間がいれば多くのことは解決する。また、日々の活力にもなるだろう。身近に「この人のために」と思える人がいる事は想像以上に力になる。

次に「従順」について。特に拘りがなく、指導教員にトコトン従順であれる事はとても大事だ。アイデアもタスクも全て経験豊富な研究者から言われたままにやっていれば、失敗すれば指導教員の責任、成功すればチームの手柄となる。これにはある程度のコミュニケーション能力と、経験豊富で優秀な研究者の指導を受けられる運も必要だ。拘りがないのであれば、他力本願でスイスイ進める事に越した事はない。

次に「デリカシーが無い」について。これさえ有れば上記の全ては無くてもいい。「無い」のに「有れば」とはおかしな文だが。失敗し続けることで周りに迷惑をかけていることや、心無い発言で周囲のやる気を削いでいること、自分勝手な行動でプロジェクトの進行に遅れが出ていることなどに意を介さない。この能力は非常に強い。これに加えて自身の将来に対しても無頓着であればなお良い。良く言えば、気にしない心である。「能力が低くても気にしない」。「運がなくても気にしない」。「人間関係が上手くいっていなくても気にしない」。「このままでは何も得られないまま人生が終わるかも知れないけれど気にしない。だって今、ここ、自分が楽しいから!」こう思える事が一番である。

私は残念ながら、頭脳は並(なんだったら平均以下)で、運の良いも悪いもなく(なんだったら院進学してから悪くなった)、悩みと言えば人間関係くらいしかなく、他人に理解できない拘りがいくつもあり、多少なりとも人の気持ちを慮るようにしている、凡の中の凡である。運悪くおかしな方向に回り出してしまった車輪を止めるには、私はあまりに非力で、あまりに孤独だった。踏み潰されてペシャンコになればまだマシだが、振り回された挙句、よく分からないところに行き着いてしまった。あまりに調子良く回るものだから、止まらない車輪の中でのんびりする癖までついてしまった。


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もちろん、日常の小さな幸せや感謝、笑いはたくさんあった。それだけは忘れちゃいけない。姉が結婚し、姪が二人も生まれたことは決して小さな幸せなんかじゃない。とっても可愛いんだ、二人とも。

院進学の数ヶ月前にCOVID-19が大流行。人との関わり合いは極端に減った。しかし、元々一人が好きということもあり、特にめげることもなかった。有り余った時間で物理以外の分野にも手を伸ばした。趣味に毛が生えた程度だが、心理学から哲学、神経科学から人工知能など。それなりに充実した日々だったと思う。

ところで、心理学と言うと眉を顰められることが多い。科学とは認めないだとか、胡散臭い印象があるようだ。確かに、因果関係の調査の詰めが甘い分野だなとは思う。しかし、相関関係はあるので、自分で色々工夫して試してみて、成立したら嬉しい、成立しなかったら間違っていたと解釈して楽しめばいいものだと思う。しかし、某メンタリストのせいもあるだろ。いや、彼は彼で面白いと思うのだが。すぐ「〜するやつはバカ」と言うのがいけない。

閑話休題。


知見を広げた大学院一年目だったが、思えばこれが終わりの始まりだったのではないか。


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人工知能について勉強していくうち、研究に使えるのではないか、と考えるようになった。実際、趣味の勉強は研究活動へとつながった。

と、ここまでなら就活で使えそうな良さげなエピソードではある。実際、重宝した。が、この研究を選んでからというもの、何一つうまくいかなかった。ありとあらゆるアイデアは没になり、ありとあらゆる作戦は失敗した。

そもそも、私の当初の最終目標は「理論研究への人工知能技術応用について、多くの研究・助言ができる素粒子研究者」になることだった。かなり抽象的かつ、思い上がった分不相応な目標だ。まずは本道を目指すべきところを、生意気にも何が人工知能だ。洒落つきやがって。

しかし、時代の流れに柔軟に対応できる研究者像としてはこれがベストだと考えていた。これが失敗だった。

これを為すには素粒子物理の理論と人工知能技術の両面に通じていなければならない。かなりタフなことだが、飽き性の私にとって多くのことを勉強できることはとても楽しい。しかし、私の時間的・体力的限界もあるので勉強の分量を大幅に増やすわけにはいかない。学部時代のように全てを勉強にあてがうわけにもいかない。アウトプットとしての研究はもちろん、将来のことを踏まえた経験の蓄積も行わないといけない。なんてご立派なことを言いつつも、やっていた事といえば研究者とのコミュニケーション、社会経験としてのバイト、英語、投資etc.のお遊び程度の勉強くらいなモノだ。

それと、旅行も少し。お金がないので年に1〜3回程度であった。それでもかなりの出費で、学費が払えないかもしれない事態になったこともあった。家計簿をつけるようになったきっかけだ。いや、本当は最近つけていないです。

閑話休題。


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目標達成の為、名古屋大学から高エネルギー加速器研究機構に委託を要請し、つくば市に移り住むことになった。コロナ禍で私は、興味の幅と行動力を強化し、多くのことに時間と体力とお金を注いでいた。

もちろん、これらはいい経験だった。しかし、修士二年目が終わる頃にようやく気付く。どう考えても研究の進捗が遅すぎる。コードを書いてはデータを解析し、解析してはなんとも言えない結果を取得し、なんとも言えない結果から効果があるかも分からない矮小な改善案を試し、改善結果を調べるためにコードを書き…、の繰り返し。雑誌への投稿はおろか、論文すら書いていない。大学院生としての本分である研究が進まないとは、由々しき事態である。

そもそも、研究の落とし所が設定されていないのだ。ゴールのないマラソンを延々と続けている状態になっていた。いつ終わるかも分からないマラソンは配分を間違える。私は、研究が終わらない原因を「時間・体力の過剰分散」であると半ば誤解し、それまで行っていた多くのことを打ち切り、研究に集中させてしまった。しかし、そもそもゴールが設定されていないのだから、変わることなどない。ただ前述のサイクルが速く空回るだけだった。虚しい空回りはさらなる焦燥感を生んだ。

修士二年目が終わる頃に気付いたことがもう一つある。私は何も研究に貢献できていないのだ。興味の湧いた論文を報告をしても「それはこういう理由で意味がない・つまらない研究だ」と諭され、大きな改善案を提案しても「それは時間的コストが大きいから実行できない」などと却下され続けていた。また、知識を物理と人工知能で分散しているがために、他の研究者との議論がまともにできない。多くの同業者にとって当たり前のことを知らない。全てが中途半端な状態。どれも私の不徳の致すところである。それまでは反骨精神でなんとかやってきたが、徐々にモチベーションは沈んでいく。

当時の日記が残っていた。当時私は、考案・実践した工夫・アイデアを、小さい事から大きい事まで、その内容と数を全て記録していた。それまでの経験上、170個を超えると何か良い変化が起こっていた。しかし、院進学してからの通算1000個を超えたあたりで数えるのをやめていた。何も変わらないことに気付いたからだ。通算1000なんて言葉、安打数くらいでしか聞いたことがない。これが安打数だったらな。スポーツやらないけど。


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……ここまでくると流石に誰も読んでいないことと思う。少しだけタガを緩めようかな。


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トドメを差す劇的な出来事は、多分ない。強いて言うなら、リジェクトされた大きな改善案や懸念点が、半年〜1年越しに重要であったことが判明し、それにより大幅な方針展開を要したこと。そのアイデアがまともに議題にすら挙げられず却下されていたこと。それが有耶無耶になったこと。それが一度や二度じゃなかったこと。強いて言うならこれがトドメだった。強いて言うなら、だ。まったく、強いて言わせないでいただきたい。

今になって振り返ると、私の説明に説得力がなかったことが問題であったと感じる。何をやっても上手くいかず、何を言っても同意どころか共感すら得られない。挙句、周りの視線が暗く冷たく感じるようになった。人を信じることが出来ず、コミュニケーションを取ることもできなくなっていき、私は次第に病んでいった。

一年目は勉強に割き、二年目の終わりに危機感を抱き、三年目では力を集中させた。焦りから行動パターンは縮小し、それに伴い視野は狭くなり、さらに焦りを生む。結果、築いたもの、残ったものは何もなかった。実績はもちろん、幅広い知識も、研究者との繋がりも、気の置けない仲間も作る事はできなかった。

「周りの人間はすでに論文を何本も出している」、
「同期は学会の発表で表彰されている」、
「後輩は学振を獲得している」。
「自分は?」。
劣等感も増していく。

ついこの間ノーベル物理学賞が発表され、人工知能分野への功績として(物理なのに?)ホップフィールド氏らが受賞した。劣等感の行きすぎで、何故かそのニュースにまで心臓がキュッとなった。ノーベル賞受賞者に劣等感を抱くなんて、最早どうかしている。繋がりのない他人な上、レベルが全く違うだろうに。私が赤ん坊の頃、ミルクしか飲めない時分で家族が食べているカレーライスを垂涎して眺めていたそうだ。それを思い出した。

閑話休題。


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手遅れであることに気付いてからは、淡々と仕事こなすだけの無気力な日々を送った。

二年目の終わりに研究を切り上げていればよかったのだろうか。そもそも博士課程に進学したことが間違いだったのだろうか。研究所に移籍をしたことがダメだったのだろうか。そもそも研究に人工知能を加えたことが過ちだったのだろうか。趣味で勉強していた事を研究に応用するなんて、迂闊な事をしてしまった。そのせいで何をすべきかが明確化できなかった。研究だけに集中せず、コミュニケーションをもっととっていれば日々の活力も得られただろうに。反省する日々である。


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最近、二つの言葉を思い出す。

「本当にやりたいことは勉強であって、研究でないのではないのか?」
「素朴なアイデアはすでにやり尽くされている。」

前者は学部時代の同期が彼の親から言われたことで、後者は私が学部時代の恩師から言われた言葉である。院進学を検討するに当たって多くの人の話を聞いた際に、これらの言葉をかけられた。

自分の価値観をよく見つめ直せば、研究職への拘りなんてない事は分かったはずだった。自分の能力をよく見つめ直せば、素朴なアイデアがやり尽くされた焼け野原で、新たなアイデアを生む才能なんてない事は分かったはずだった。

そもそも大学院に進学したことが間違いだったのだろうか。実際、大学院で本来培うはずの多くのことは培えなかったと思う。
しかし、人工知能技術は現代の最重要事項の一つである。就職にはそこそこ役に立ったと思う。
しかし、研究実績がないので就職が順風満帆だったとは言えなかったかな。
しかし、素粒子物理なんて基礎科学の中の基礎科学を研究するという貴重な経験ができた。
しかし、結局得た知識は趣味で勉強して得る程度の知識だったろう。
しかし、多くの知見を得て、視野が広がったのは間違いないかな。
しかし、もし、素粒子だけに集中していたら?何か違っていたんじゃないのかな?
しかし、それでは人工知能の知見は得られない。それでは就活が(上に戻る)…


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たとえ過去に戻って違う選択をしたとして、果たして上手くいくだろうか。今の世界線で本当にやりたかったことは何一つできなかったが、予期せぬ贈り物もたくさんあったと思う。無理矢理良い面に目を向けているわけではないが、一応今は、それらを惜しんでいる。実際問題として、もう戻れないのだから、それらを大切にするしかないということでもある。これを言っちゃおしまいか。


しかし、まあ、
まだ人生は、多分、それなりに、長く続く。
これからまたのんびり、楽しんで勉強しようと思う。
やっと何の憂いも気負いもなく、昔のように学問を楽しめる。
そう思うと少し晴れ晴れとした気分にもなる。

やっぱり、戻ってやり直したいというほどのことでもないのかな。
その都度、自分ができる最大限で、自分に合った幸せの選択をしてきたつもりだ。
今は、この先に大きな期待もなければ、特に大きな不安もない。
最近はこのバランスが丁度良いのではないかと感じている。

平和に穏やかに生きたい。
植物や動物のように、ただそこにいるだけの美しさを纏って生きられるようになりたい。

つくづくそう思う、お気楽な人生です。



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しかし…


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