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くも膜下出血体験記

発病までの素行

発病は52歳。タバコは二十歳から一日30本程度。
飲酒については仕事柄外で飲むことが非常に多かった。とことん飲む方だった。どんな種類でも飲める体質だ。会社では責任のある立場で常にストレスを抱えて仕事をしていた。それまで大きな病気はなかったが、人間ドックの結果はいつも問題あり。高血圧とメタボ、肝臓の数値が悪かった。生活習慣は最悪の部類かもしれない。

発症、昏睡

6年前のあの時だ。何の前兆もなく、仕事中に突然耳が聞こえ難くなり、頭から大量の汗が噴き出てた。直感でヤバいことになったと思った。自席に戻り深呼吸してが、やはり体がアラートを出している。煙草を一服でもすれば落ち着くんじゃないか?と喫煙室に行き煙草に火を付けた瞬間に吐き気がした。この煙草が人生の最後の一服になるかも。激しい頭痛が始まり、同僚に救急車の手配をお願いして自力でエレベーターで社外へ出て救急車を待った。程なく救急車が到着し車内で隊員に名前や住所、症状など聞かれたがそこから先は覚えていない。

覚醒

どのくらいの時間が経ったのか?意識が戻ったようだ、きっと病院だ。とにかく頭が痛い。体が動かない。状況が把握できない。頭が痛い。看護師さんが必死に話しかけている。「聞こえますか?」「うん」「動かないで下さい」「体を拘束しました、絶対動かないで」「うん、頭が痛いです」「助けて、頭が痛い」ただひたすら頭が痛い。こんなことなら目が覚めないほうが良かったかも。嘘みたいに頭が痛い。無理だ、耐えられない。家族は知っているのか?あれから何日経った?

ICUから個室へ

 相変わらず激しい頭痛だが、ICUから個室に移動になった。この時に初めて看護師さんから「くも膜下出血」だった事を教えてもらった。救急搬送された夜にカテーテル手術をして命が助かったようだ。あれからもう3日経っていた事も判明。面会謝絶は変わらないが、明日には短時間だが家族に会えるらしい。看護師さんとの会話が出来る位に回復していた。僕はまったく覚えていないが結構会話していた事も判明した。一体何を話していたのだろう?気になって聞いてみたら、「ウサギ、ウサギ」とか言っていましたよ。

三途の川?

昏睡状態のときに夢を見ていた。河原を川に沿って歩いていた。俗に言う三途の川なのか?対岸にかつて飼っていた犬(カナ)とウサギ(チョコ)が並んでこちらを見てる。そうか、お前たちが来たのか。僕の両親は既にあちら側にいるはずだが、両親ではなくお前たち(動物たち)なのか?何か可笑しくなってしまった。お陰様で川を渡らずに済んだ。看護師さんに「ウサギ」と言っていたのはこのときだろうか?それにしても頭が痛い。耐えられずにナースコールを何度も押す。「頭が痛い」「痛みは10の内どのくらいですか?」「10です」この繰り返し。痛み止めなどまったく効かない。

状況把握

妻と娘、妹が個室に移動した日に来てくれた。搬送されて現在までのことを教えてもらった。救急車には部下が一緒に乗ってくれたようだ。彼が連絡をしてくれて妻と妹が駆けつけたが、危険な状況だったので手術が終わるまで控え室で待つように指示された。高いリスクを伴う手術だという説明を受けて妻は合意書に泣きながらサインをしたそうだ。手術は開頭(クリッピング)とカテーテル(コイル塞栓術)どちらかを選択するように迫られた。悩んでいる時間がないので開頭でいいです、と答えた。しかし医師から術後の回復はカテーテルの方が良いと言われ、では、カテーテルでお願いします。この時の医師からは①死亡、②要介護、③社会復帰の可能性は各々3分の1だと説明を受けたという。
 それで今、僕は信じられないほどの頭痛に耐えて体を拘束されベッドに寝ているわけだ。なるほど①死亡を回避できたのか。

脳梗塞を併発、半身麻痺、失語症

置かれている状況は何となく分かった。痛み止めのリクエスを繰り返すが緩和できない。とにかくこの頭痛を何とかしてもらいたい。また、脳に溜まる血液と液体を取り除くため?背中に管を刺す手術をした。少しは頭の痛みが減るかも知れないと言われたがあまり変わらない。ナースコールを押して「痛み止め薬が欲しい」と言おうとした時に「・・・・く・く・・?』あれ?言葉が話せない?「どうしました?」「あれ?・・・言葉が・・・」「大変だ。すぐ先生を呼びますね。」先生が飛んできて「まずいなぁ」と言いながら血液をサラサラにする点滴を打ってくれた。脳梗塞が起こったらしい。「手を動かして下さい」左手は全く動かない。他人の手のようだ。「左足も動かして」ピクリともしない。左半身が麻痺してしまった。言葉も上手く話せない。
絶望だ。終わった。今後は寝たきりなのか?

2週間が鍵

耐えられない頭痛が続き何もかも嫌になった。医師に緩和できないものか?と尋ねたが「それは痛いだろう、人間が体験できる最大の痛みだから無理もない。しかし手術から2週間が経てば痛みは無くなるはずだ。」と言った。それを信じて耐え忍ぶことにするよ。きっと頭の形が変わっているに違いない。北斗の拳で秘孔を突かれた雑魚キャラみたいになっているだろう。背中と尿道に管が刺さっているからベットから離れることもできないが、この状況でも大便が出るのが悔しい。ナースコールを押して塵取りみたいなものを尻に差し込んでもらって寝たまま用をたす。辛い行為だ。背中の管は脳から出てくる体液が透明になった取り除いてくれるらしい。自力でトイレに行くことが最大の望みだ。2週間、2週間、2週間早く来ないか。こんなに痛いのに本当に痛みが消えるのか?
ついにその日が来た。ジャスト2週間たった。突然「あれ?痛くない?」なんてあるわけ無いが、その日を境に痛みが減っていった。医師の言葉は本当だった。

PTSD

背中と尿道の管は抜けたが半身麻痺は残ったままだった。個室にはトイレが完備されていた。ベッド脇に車椅子を置いてナーズコールで看護師さんに来てもらい車椅子で室内のトイレへ行き用をたす事が出来るようになった。絶対に一人では行かないように釘を刺されたので、申し訳ないが、その都度手伝ってもらった。食事もできるようになった。頭痛はあるが耐えられないほどのあの痛みは少なくなったが、痛みが強くなってくると恐怖だった。フラッシュバックする痛みへの恐怖。眠剤をもらって眠るがすぐに起きてしまう。医師からはPTSDと診断された。少し強い眠剤をもらって睡眠時間を増やしていった。

リハビリ開始

言葉は上手く話せないが、意思疎通はできる状態だった。車椅子に乗ってリハビリ病棟へ行く。勝手なイメージでドラマにあるような歩行練習をするのか思っていた。最初は図形を真似して書くことから始めた。それから簡単な知能テストのようなものをやることに。なんで体を動かさない?「あなたの体はどこも悪くありません。損傷したのは脳です。脳から指令でないので動かないんです。脳のリハビリがメインです。」なるほど。「壊死してしまった脳は回復しないので別の部分で指令を出せれば動くようになります。」納得です。頑張ります。頭痛はまだあるが、全力で取り組むことにした。そうだ、体の機能がなくなった訳ではない。脳みそを鍛えるぞ!図形認識能力が完全に衰えている。小学校でやったような知能テストをひたすらやる。運動のトレーナーから少しずつ手足を動かすリハビリも同時進行で始めた。次は言葉のリハビリだ。絵のカードを見て単語を答えるから始めた。発音しにくい言葉は一定ではなかった。認識できないものはなかったが、瞬時に見たものを言語に変換して発音するという行為がうまく出来なくなっていた。思ったことと違う音を発音してしまう。文字を読むことは全く問題ない。
リハビリの先生と共に絶対に社会復帰するという目標掲げてリハビリに臨んだ。

クララが歩いた

先生の指導と必死のリハビリにより左半身は動くようにった。ただ動くだけではなく歩いたり掴んだりする基本的な機能が復活した。初めて歩いた時は頭の中で「クララが歩いた」がリフレインした。これで自力でトイレに行ける。最大の望みが叶う。はしゃいで動き回らないように釘を刺されたが、病室の外にある自販機まではOKをもらった。嬉しくて何度も水を買いに行った。言葉のトレーニングはカードを繋いで文章を作るを繰り返し、時にはカードを英語で答え、簡単な暗算をするなどをした。普通に会話できるようになったが、言い間違いや発音ミスは続いた。この時に医師から「あなたは左利きですか?」と妙なことを言われた。今は右利きだが幼少の時に左から右に矯正した。と答えると、「なるほど、だからなのか、分かった」損傷した部分によって麻痺や障害が出る場所が概ね決まっているが、医師は言語障害の症状が出たのが不思議だったらしい。生まれつき左利きの脳だったんですね。生きていくには支障がない程度まで話せるようになった。

自動車免許

退院も見えてきたが、医師からこの病気を発病したら自動車免許が無効になる場合があると言われた。この病院には運転のトレーニングマシーンがあり、検定もできる。医師から検定合格の診断書を書いてもらえば失効しない。なるほど。リハビリ病棟で高齢の男性が医師に喧嘩腰で「免許がなくなったら仕事できねぇ!」怒鳴っていたのがこれかぁ。僕は職業運転手の経験がありあらゆる免許証を持っているので、失効するのは勿体無い。早速トレーニングの予約を入れてもらった。画面越しで運転するのは実際の運転と随分勝手が違う。反応速度と正確性を判断するようなプラグラムになっていた。割り切って臨めばクリアも難しくないが、運転とは違うとイチャモン付けていた例の爺さんの言い分も分かるような気がする。規定の時間のトレーニングを受けて検定合格。退院時に診断書がもらえるのでそれを免許センターへ提出すればそのまま運転できるらしい。
僕の場合は更新したばかりなので有効期限が4年残っている。黙って車に乗っていても誰も分からないだろう。警察に止められても失効しているわけでもない。自己申告しない限り有効期限まで問題なく運転できるだろうと思ってしまう。既往歴が免許更新に影響するとも思えない。視力検査に合格すれば更新も出来てしまうだろう。曖昧な制度だ。僕は検定に合格して診断書を免許センターへ持っていったが、特に何も言われなかった。「わかりました」程度だった。

高次脳機能障害

免許センターに持っていった診断書には「高次脳機能障害」なる言葉が書いてあった。これは一体どういった障害なのか?退院時に医師から入院中には目立たなかったが退院後に以前はできていたことができなくて困ることもある。周囲から判り難い障害がある場合がある。などというフワッとした感じで説明されたが、脳のダメージは広範囲にあるってことだろう、僕は劣化して生まれ変わったとでも理解しておこう。当時よく分からなかったが、6年たった現在ではこの高次脳機能障害というものが少し理解できたかもしれない。間違いなくスペックが落ちている。職場に復帰したが、事情を話し理解をもらって役職をダウンしてもらった。以前のようなパフォーマンスができないので辛い日々が続き退職も考えたが理解のある会社に感謝だ。

出来なくなったこと

①人前で話すことが出来ない。
原稿を書いて読むことはできるが原稿なしで話そうとすると真っ白になる。
思っていたことと違うことを言ってしまうことがある。
話そうとしていたことを忘れてしまう。
途中でうまく発音出来ない場面があると以後の言葉が全滅(言い間違い)してしまう。
②歌を歌えなくなった。
ある日、送別会で締めの挨拶を頼まれた時に三本締めをしようと思ったらリズムが分からないことに気づいた。自宅に帰ってからもう一度チャレンジしてみたが全く分からない。もしかしたら唄歌えねんじゃね?とチューリップの歌を歌おうと試みたが全くダメだ。リズムも音程わからない。そもそも、発病後に歌を歌うような気分になれなかったがか気が付かなかったが、ショックだ。
歌が歌えないとは寂しい限りだ。聞く分には問題なしだ。人生には歌は必要だ。

復活したこと

①オートバイ
何か気晴らし出来ることをしたいと考えたら単車に乗りたい。と思い立って近所のバイク屋さんに通っているうちにワクワクしてきた。久しぶりの高揚感だった。発病からちょうど2年目に車を手放して本気度をアピールして中古の大型バイクを購入した。
天気の良い時にのんびり走るのが気持ちいい。

②海外旅行
発病する前までは年に数回海外旅行or出張があった。
訪れた国は23ヵ国ほどだった。ほぼ一人旅だ。
退院後にすぐに近場の台湾旅行に行く計画を立てた。
医師に飛行機は大丈夫か?と聞いてみた。イメージでは脳の血管が破裂してそこにコイルが詰まっていて、飛行機で上空に行ったらバーンと破裂するんじゃない?
医師は笑いながら「みなさんそのようなことを言いますが、飛行は全く大丈夫です。ただし、旅行だと楽しすぎて食べすぎたり飲みすぎたりする方が危険です。」
「せっかく食事制限をしているのに、塩分や糖分を無視して食べてしまうのは危険だ。もうひとつアルコールです。飲むなとは言いませんが、酔っ払うほどはダメです。転んで怪我したら、あなたは血液がサラサラになる薬を服用してるから止血出来なくなるので危険です。」なるほど、アルコールはそういう意味でダメなのか。納得です。
その後、ドイツとベトナムへ主張、シンガポールへ旅行へ行った。
お陰様で今は人生を楽しんでいます。

③飲酒
適度に飲む分には問題なしと医師からOKもらった。泥酔するような飲み方はしないが、楽しく飲みに出ていいる。

現在は毎日一万歩

退院後毎日歩くことにした。
今では目標を1日一万歩だ。だいたいクリアできている。
事情を知らない会う人に「足どうしたの?」と聞かれる。まだ左足を引きずっているようだ。「ちょっとねぇ」と言葉を濁してやり過ごしている。
平日は少し遠い駅まで歩いてバスか電車で出勤、退勤するようにしている。
休日は少し遠いスーパーまで歩いて買い物をする。これだけで毎日一万歩を達成できる。
発病前は近くの買い物でも車に乗っていたが、こうして歩く習慣がついて生きるスピードが変わった。公共交通に長く乗る機会が増えて読書の時間が増えた。
天候が悪くても歩くことが苦にならないようになった。むしろ自然の変化を楽しいとさえ思えるようになった。
歩ける喜びを知ったから歩くことが楽しい。


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