なんかおかしいと感じる感覚
最近、天才数学者「岡潔(おかきよし)」の「春宵十話(しゅんじょうじゅうわ」を読んでいるのですが、これがとても面白いです。
特に「無差別智」についての話に惹かれるものを感じました。
岡さんは言います。
わたしがnoteを書き始めた動機のひとつとして、ワプニック博士の解説やJACIMのあり方について、拭い去れない違和感をずっと感じ続けていたからということがあります。
「なんかおかしい。
これが本当にイエスの教えなのだろうか」
博士の解説を学びながら、
そんなことをたびたび感じていました。
それで、JACIMを追い出されたことをきっかけに、
コースを学びながら、
自分が感じてきたこと、考えてきたことを書くことにしたのでした。
とはいえ、
これは、わたしとしては、結構、勇気がいることでした。
これまで、ワプニック博士の解説に異を唱えている人は、
ほとんどみたことありませんでしたから、
そんなことやってもよいのかって、思いました。
しかも、
わたしはワークブックを1度も終わらせたことがない、
末端学習者です。
まったくの説得力ゼロです。
誰にも見向きもされず、
ただ恥をかいて終わる可能性も高いと思っていました。
でも、
何か導かれているような感覚を感じてました。
それが本当に導きなのかどうかは、
書いてみないと分からないと思いました。
それで思い切って、
これまでコースを学習してきた中で、
感じてきたこと、考えてきたことを書くことにしたのですが、
それからというもの、たくさんの奇跡に支えられてきたように感じます。
最初の奇跡は、
わたしと同じように、
ワプニック博士の解説やJACIMのあり方に違和感を感じていた、
ふうさんとの出会いです。
ふうさんのことは、
以前から、知っていたのですが、
コースの内容に関して、本格的にやり取りをするのは初めてでした。
ふうさんとのやり取りは、とにかく面白かった。
わたしは、ふうさんの膨大な知識量や、
言葉の微妙なニュアンスをおろさかにしない緻密な思考に圧倒されました。
コースの世界を独力で切り開いているかのようなすさまじさを
ふうさんに感じ、しばしば深い感動を覚えました。
「春宵十話」には、
無差別智の特徴とそれを無視するとどうなるかについて、
以下のように書かれています。
『これ(無差別智)を無視した知能の強さというのは正しくいえば「ものまね指数」にすぎない。だからこの力が弱いと何を言わせてもオウムのようなことしかいえないし、自分自身の自明の上に立てないから独自の見解などまったく持てないことになる。そうなると限りなく心細くて、必死に他の自明にすがりつき、ただ追随して雷同するばかりである』
というのは、JACIMフォーラムで行われていることのように感じました。
ふうさんとやり取りを始めた最初の頃から、
ふうさんは「テキストは素直に読めばよいように書かれているんです」と言ってました。
そして、「日本のコース学習環境はおかしくなっている」とも。
岡潔の「春宵十話」を読んで、
ふうさんは、ふうさんの中にある無差別智から語っていて、
わたしがふうさんの言っていることに強く惹かれたのも、
ふうさんの中にある無差別智に対してだったんだなと思いました。
そして、岡潔が言うには、
疑問に思うことも無差別智の働きなのだそうです。
わたしが、ワプニック博士の解説を学んでいるとき、博士の解説に疑問を感じることは自我の抵抗だとたびたび言われました。でも、「なんかおかしい」と感じることは、もしかしたら、聖霊の働きである場合も大いにあるような気がしてきました。もしかしたら、わたしたちコース学習者は、ワプニック博士の解説を学ぶことによって、聖霊の声を自我の声だと退け、封じ込め、無効化してきてしまったのではないでしょうか。